学位論文要旨



No 217702
著者(漢字) 吉野,瑞恵
著者(英字)
著者(カナ) ヨシノ,ミズエ
標題(和) 王朝文学の生成 : 『源氏物語』の発想・「日記文学」の形態
標題(洋)
報告番号 217702
報告番号 乙17702
学位授与日 2012.07.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17702号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤原,克己
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 渡部,泰明
 東京大学 教授 安藤,宏
 東京学芸大学 教授 河添,房江
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、『源氏物語』を中心とした物語を分析対象とした第1~3篇と、『蜻蛉日記』を中心とした第4篇からなっている。『源氏物語』をめぐる論考では、物語の深層にあって物語を動かす力となっている発想や和歌のことばが物語を立ち上げていく過程、その「生成」のありようを明らかにした。そのうえで、『源氏物語』の重層的で息の長い散文の先駆けとなった『蜻蛉日記』について、先蹤となる仮名文がなかった時代に、手習文などの流れを継承しつつ、和歌を連ねる文章の中からこの作品が自己を語る散文を「生成」していった過程を検証した。また、漢文日記との関連性を視野に入れたうえで、この作品が日記という枠組みを利用することによって女性が自己を語ることを可能にしたことを論証した。さらに、『蜻蛉日記』の近世から近代に至るまでの享受のありようをたどりながら、この作品の解釈の枠組みがどのように出来上がっていったのかを明らかにし、そのうえであらためて『蜻蛉日記』という作品が生み出された時点における特性に焦点を当てた。そして、この作品が一見すると自己語りに執しているように見えるにもかかわらず、実は自己の世界に閉じた作品ではないことを明らかにした。

第1編は、「心のかたち」と題したが、分析の対象となっているのは『源氏物語』の和歌である。歌ことばが散文とは異なる射程を持つという特質を巧みに利用しながら、物語の中の和歌が登場人物の心を重層的に形づくっている様相を明らかにした。これらの論稿は、これまで積み重ねられてきた物語における和歌の機能に関する研究成果をふまえたうえで、登場人物の心とことばの複雑な関係について、より多角的な視点から考察を試みたものである。

第2編では、『源氏物語』の中で光源氏と天皇の后である藤壺との禁忌の恋を通して実現された、桐壺帝―光源氏―冷泉帝とつながる理想の皇統のありようを問い、物語がその皇統の「継承」の問題をいかに取り扱おうとしているのかを考察した。これらの論考は、物語研究において一時期盛んに行われた王権論の流れを汲むものであるが、そこに「継承」という視点を持ち込むとともに、虚構の中でしか存在しえない歴史的現実を超える皇統が、物語の中でどのように歴史的現実から乖離することなく存在しえたのかを、物語の表現を丹念にたどることによって、明らかにすることを目指した。このような意図のもと、「継承」の問題をあからさまに語ることを避けながら、一方では隠された皇統の「継承」を当然のもののように語っていく『源氏物語』の隠された仕掛けを明らかにした。また、光源氏が実現した理想の皇統は継承を意図されながらもそれがかなわなかったがゆえに、より一層輝くという逆説的なありようにも注目している。

第3編では、『源氏物語』の根幹をなす「禁忌を侵す恋」というテーマが、『伊勢物語』の中で胚胎して『源氏物語』に継承され、『狭衣物語』で変形されながら消滅していく様相をたどりつつ、それぞれの物語における「禁忌を侵す恋」の語られ方の特徴について考察し、特に禁忌とされる女性のありかたに着目した。斎宮となった女性たちや内親王が、王権の超越性を維持するために男性にとって禁忌とされたこと、だからこそ『伊勢物語』や、その影響を強く受けた『源氏物語』においては、禁忌の侵犯が非日常性の輝きを帯び、物語を生み出す原動力となったことに注目した。しかしながら、『狭衣物語』に至ると、禁忌とされる女性の持つ力は低下し、物語の中心となる主人公・狭衣の源氏の宮に対する遂げられない想いにしても、物語を生み出していく原動力というよりは、狭衣の恋を成就させないための便宜的な装置としての意味しか持たなくなっている様相を明らかにした。一方、禁忌を侵す恋によって皇統の乱れを招くという『源氏物語』の「もののまぎれ」がなぜ語られえたのかという問題に関しては、現在でも明らかでない点が多い。王権論においては、禁忌の侵犯を通して権力を獲得したことが、光源氏の古代的な英雄としての側面を保証するという論じられ方がなされてきた。しかし、「もののまぎれ」が当時の現実の倫理とどのように整合性が持たされていたのかについては、正面から論じられてきたとは言い難い。そこで、この「もののまぎれ」が近代以前の『源氏物語』享受史の中でどのように焦点化され、時代の倫理と抵触しないように位置づけられてきたかを確認し、この問題を考える際の一助とした。

第4編では、『源氏物語』の文体へと展開していく新しい仮名散文を生み出した『蜻蛉日記』について、そのような散文を可能にした諸条件に着目して考察した。まず、独詠歌を連ねる手習文が、贈答歌を詠むべき折の制約を超えて、持続的な内面の表現を可能にし、『蜻蛉日記』の散文の先駆けとなったことを明らかにした。また、「日記」という枠組みが、語られることの事実性を保証すると同時に、語られることを参照されるべき先例に転換させる働きを持ち、女性が書くことを容易にしたことを指摘した。さらに、近世から近代に至るまでの『蜻蛉日記』の享受史を確認したうえで、近代以前にはそれほど高く評価されなかった『蜻蛉日記』が、文学史に組み込まれるに至った経緯について考察し、「日記文学」、そして「女流日記文学」というジャンル形成がいかに時代と関わっているのかを論じた。また、日記文学というジャンル形成にともない、私小説の登場と連動しながら『蜻蛉日記』の迫真性に満ちた自己語りが高い評価を得た結果、「私に執し、私を語る」という側面が解釈の枠組みとして強力に作用し、それ以外の要素を不可視化していることを指摘した。これらの論は、結果的に正典形成をめぐる議論と軌を一にすることになった。しかし、欧米での正典形成をめぐる議論の背景には、周縁化された少数民族や女性の文学に光を当て、従来の文学史を刷新するという意図があるのに対して、続々と女性作家が輩出し、その存在を認知されていた日本の平安時代の場合は、おのずから議論の方向性も異なってくるように思われる。これらの論考の目的は、『蜻蛉日記』が書かれた当時にどのような作品として享受されたのかを明らかにすることを意図するものである。さらに、現代の「公」と「私」という二項対立的な図式をこの時代に持ち込むことに対して疑問を示しつつ、平安時代に「私」を語ることが、どのように「公」の世界につながっているのかに着目し、この時代に女性が「書く」ことがもっていた意味をもう一度問い直すことを目指した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は『源氏物語』とその重要な先行作品である『蜻蛉日記』とを中心として平安朝の物語・日記文学の生成過程を考究したもので、構成は4編に分かたれた18章から成る。

第1編「心のかたち」は、たとえば死者の魂が遺された肉親を気遣い続けるという文脈で用いられる「天翔ける」という語に着目し、この仏教的他界観に収まらない言葉の使用が「浄土教的な救済によって閉じられることなく、永遠に人間存在の執着の物語を紡ぎ出し続ける」と論ずるように、物語においては「存在がことばを決定するのではなく、ことばが存在を決定する」という観方を基本に据えて、『源氏物語』が〈ことば〉によって物語を織りなしてゆく様相を分析したものであり、本論文全体の前提的考察となっている。

第2編「理念としての皇統」は、まず前半2章で光源氏と藤壺との密通の結果生まれた冷泉帝が理想的な聖代を現出してゆく過程を分析し、冷泉とは対立する皇統である朱雀帝が秋好への恋慕のゆえに伝来の秘宝を秋好に与えたことが、冷泉朝の文化的権威を高めることになったと指摘する。後半2章では、王権を侵犯する恋が光源氏の超越的な聖性と不可分に結びついていたのに対し、その人柄が「男々し」と評される光源氏の息子夕霧も、また宿木巻で帝に婿取られる薫も光源氏の聖性の継承者ではありえないことを論ずる。

第3編「禁忌という発想」は、『伊勢物語』第69段から在原業平と伊勢の斎宮との不義の子が皇統に介入したという伝承が生まれ、これが光源氏と藤壺との不義の子が冷泉帝として即位するという『源氏物語』の結構に生かされたことを論ずる。ただし『源氏物語』は『伊勢物語』よりもはるかに心理描写がこまやかになっているわけであるが、それに関して、本居宣長よりもむしろ賀茂真淵のほうが藤壺の心内に踏み込んだ注釈を付していることを指摘するとともに、のちの『狭衣物語』では、斎王の性格がただ女君の尊貴さを保証するだけのものになっていて、禁忌侵犯から生まれる聖性という光源氏の属性は継承されていないとする。

第4編「「日記文学」という文学形態」は、『蜻蛉日記』の文学性が高く評価されるようになったのは土居光知・垣内松三・池田亀鑑らの功績によることを明らかにする一方で、「自らと対話する孤独な営み」という近代的な日記の概念が、『蜻蛉日記』上巻序文に「天下の人の品高きやと問はむためしにもせよかし」とあるように、日記を書くことには世の「ためし」とする意味があったことを見失わせたと指摘する。

「深層」や「王権」といった言葉の用法がやや曖昧で再考の余地を残すものの、全体の論旨は明快であり、ことに上述のような内容において研究を深化させた功績は大きい。よって審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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