学位論文要旨



No 217713
著者(漢字) 安藤,宏
著者(英字)
著者(カナ) アンドウ,ヒロシ
標題(和) 近代小説の表現機構
標題(洋)
報告番号 217713
報告番号 乙17713
学位授与日 2012.09.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17713号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長島,弘明
 東京大学 教授 沼野,充義
 東京大学 教授 藤原,克己
 東京大学 教授 渡部,泰明
 東京大学 教授 塚本,昌則
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、日本の近代文学に関して、「小説」というジャンルの特性を個々の表現形態に共通する内的必然性、という観点から考察し、1880年代~1950年代の文学史の包括的な検討を試みたものである。

本論文は第I部と第II部からなる。第I部は一般論として、九つの章構成から、何を以て「小説」と見なすかという、小説の作り手と受け手との間の黙契について検討し、併せてかかるルールの変遷を表現史的な観点から検討している。

第I部第一章においては、小説全体を統括する視点と、場面に密着した当事者の視点とをいかに両立させるか、という課題から、小説の内部機構を考察した。二葉亭四迷の『浮雲』(1887~89)から、大正期の白樺派に至るまでの表現史的な展開が主な考察対象となっている。先の二つの視点を両立させるために、作中の「小説家」が自ら小説自体の成り立ちについて実践報告していく、いわゆる「小説家小説」が独自の機構ととして発達していく必然が考察されている。

第二章においては、小説文体としての「言文一致」の問題点を検討している。特に文末詞「~た」に注目し、第一章で考察した三人称的な視点と一人称的な視点との折衷によって、「話者の顔の見えない話し言葉」という、特異な文体が最大公約数として合意されていく過程が検証されている。

第三章においては、近代になって「人称」という概念が浸透し、誰が、いかなる資格で物語を語るのか、という合意が創作と享受にあたってどのように形作られていくのか、という問題が明らかにされている。特に方法としての「一人称」に着目し、その特質を「当時者性」「対話性」「メタレベルの機能」の三点から考察し、「告白モード」「対話モード」「回想モード」に分類した上で、その歴史的な変遷がたどられている。

第四章においては、「個人主義」をめぐる議論が展開されている。近代小説を特徴付ける指標に「写実主義」と「個人主義」の理念があげられるが、第三章までが「写実主義」をめぐる議論であるのに対し、第四章は、「個人」という、描かれる内容に関わる議論である。夏目漱石の『私の個人主義』(1915)の検討を中心に、この概念が漱石にあっては内なる「空虚」と共に、多分にフィクショナルな形で立ち上がってくる必然を検討し、それが森鴎外ほか、ある時期の小説家に共通して表れる問題であることが明らかにされている。

第五章は、第四章の延長線上に、「個」を照らし出すための機構として、あらたに「自然」の理念が虚構化されていく必然が論じられている。近代小説における「自然」は、nature の訳語と老荘思想的な「自然(じねん)」の落とし子として独自の役割を果たしたのであり、そこには「個」を照らし出すために「自然」が措定され、また、照らし出された「個」が、回帰の対象として「自然」を普遍性の根拠にしていくという往復運動があったものと考えられる。そこから「超越の論理」というべき特異な志向性が育まれていく道筋が明らかにされている。

第六章では、小説の用件である「伝承のよそおい」について論じられている。近代は「伝承」が成り立ちがたい時代であり、こうした状況にあって、「文壇」という概念が表現内部に機構化され、これを代替していく必然について明らかにした。共同の伝承世界を構築するために、近代小説にあって作者と読者の間に立ち上げられていくフィクショナルな"場"としてこれらが機能することになったものと考えられるのである。

第七章は如上の議論を、あらためて日本の近代小説の大きな特色とされる「私小説」に即して検討した。第一章の「小説家小説」、第二章の言文一致体の課題、、第三章の一人称の特質、第四章、第五章の「個」と「自然」のテーマ、第六章の表現機構としての「文壇」の問題ーーこれらはすべて「私小説」が生み出される必然に関わっており、これを表現機構として再評価することによって、それまでの内容が総括されている。

第八章は、主に1920年代以降の表現史的な問題が扱われている。近代小説の表現機構には、表現史的には大きく四つの転換期があり、明治二十年後の言文一致体小説の実験期、明治四十年前後の「描写」概念の模索期、そして大正末期と昭和十年前後の二つの「自己」表象の分裂期がそれである。このうち、後の二つの時期の共通点を、既成の「文壇」の概念が崩壊していく中で、それを補うべく、小説がその内部機構の強度を上げて行くプロセスとして考察した。

第九章は第二次大戦後の文学を扱っている。第六章に取り上げた「超越の論理」と第八章に取り上げた「自意識の系譜」をあらためて近代小説を貫く二つの大きな志向と捉え、近代文学の歴史を俯瞰した。両者の統合がめざされながら、結局は乖離していくその様相に、近代小説のトータルな課題を探り、第I部の総括としている。

第II部は第I部の総論を踏まえた各論で、近代を代表する個別の小説の分析を通してこれを検証していく形がとられている。

第II部第一章は、森鴎外の『舞姫』(1990年)を扱っている。初期の一人称小説固有の特色を具体的に明らかにした上で、「個」と共同体の関係を「重霧」の感覚として、「何が描けないのか」を語ることによって構築しようとする志向を明らかにした。第二章は泉鏡花の『高野聖』(1900年)を扱っている。三つの一人称によって独自の伝承形態が形作られていく様相と、言文一致体によって「伝奇」的な世界を描くことがいかにして可能か、という問題を考察している。

第三章は田山花袋の『蒲団』(1907年)を題材に、客観的な「描写」は、それが原理的に不可能であるから意味がないのではなく、むしろ不可能なことをあえてよそおう言説から、もう一つの物語が浮上してくる過程を具体的に明らかにした。第四章は森鴎外の『雁』(1911~13年)を扱っている。三人称的な語りと一人称の語りとが混交することによって、独自のロマンティシズムが生成されていく点にこの小説の特色があり、「語り得ぬこと」を通して主題が浮き彫りにされていく構造が明らかにされている。

第五章は志賀直哉の『和解』(1917年)を対象に、「私小説」の分析を実践した。個人の平凡な事象を扱いながら、これが普遍的な意味を持つ「小説」として認知されるために、「小説家小説」という機構が独自の発達を遂げた経緯が明らかにされている。第六章は有島武郎の『カインの末裔』(1917年)を扱っている。「個」と「自然」の感応、という近代文学独自のテーマにあって、そこから疎外されるが故に、かえって冷徹な社会のありようが浮き彫りにされてくる過程を明らかにしている。

第七章は芥川龍之介の『舞踏会』(1920年)を素材に、ヒロインとヒーローのまなざしの交錯を通し、はからずも「オリエンタリズムー逆オリエンタリズム」の陥穽から逃れた「美」が浮き彫りにされていく様態が明らかにされている。第八章は牧野信一の『鱗雲』(1927年)を通して、自己対象化につとめる「私」のまなざしが、その過程でみずからをながめ返す他者の視線を要請し始め、そこに独自の幻想が成立する契機が明らかにされている。

第九章は井伏鱒二の初期一人称小説において、自己が自己を問い返す契機が遮断されるために、特異なペーソスが浮かび上がる構造が、方法としての「ナンセンス」の達成と共に明らかにされている。第十章は、小林秀雄の『新人Xへ』(1935年)において、語りが対話性を失い、モノローグ化していくその様相に、批評の論理と小説の論理とが交錯していく様態が確認されている。

第十一章は、太宰治の『人間失格』(1943年)を例に、自己の「正体」を空白として担保し、言葉で他者との関係を取り結んでいかなければならぬ文学の宿命が作中の「小説家」によって見いだされていくプロセスが明らかにされている。第十二章は埴谷雄高の『死霊』(1946~95年)を例に、宇宙と個との感応という、「超越の論理」が、「自意識の系譜」を代償に成り立っていく様態が検討されている。第十三章は、占領期の検閲と、第三の新人の作品を対象に、「戦争」という大状況が卑近な日常感覚をメタファに表現されていく様相がたどられており、いわゆる「私小説」に代表されるように、こうした技術にこそ近代小説に於ける表現機構の本質が求められている。

以上のように、本論文は、「表現機構」という概念に沿って、個々の作品の表現世界(内部機構)と、同時代の読書慣習、出版文化の状況(外部機構)との相関関係から、近代小説のジャンルとしての特性を明らかにしたものである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、明治から昭和に至る近代小説について、「小説」というジャンルの特質を、個々の作品を越えて共通するところの「表現機構」という概念に添って、明らかにしたものである。本書の構成は、「表現機構」を総論的に検討した第I部に、「「小説家」という機構」以下の九章を収め、近代小説の代表作を取り上げつつ各論として「表現機構」を検証する第II部に、「森鷗外『舞姫』―"重霧の間"にあるもの」以下十三章を収める。

第I部は、作品全体を統括する三人称的視点と、場面密着の一人称的視点を両立させるために、作中の小説家が自ら小説の成り立ちについて言及する「小説家小説」が独自の「表現機構」として発達したこと、「言文一致」の文体の文末詞「た」が、三人称的視点と一人称的視点の折衷による「話者の顔の見えない話し言葉」として合意されていったこと、一人称小説の特質に「当事者性(現場のリアリティ)」「対話性(読み手の囲い込み)」「メタ性(物語の成り立ち)」の三つがあること等を詳細に論じて、近代小説において視点の「人称」が持つ重要な機能を明らかにしている。また、近代小説を特徴づける「個」や「個人主義」について、漱石や鷗外の作品に表れる「個人主義」が、自己を確固としたものと信じられず、公私の相対関係の中でフィクショナルに立ち上がってきたものであり、また「個」を照らし出す装置として「自然」の理念が虚構化されていったことを鮮やかに論証している。さらに、「文壇」という概念が作品表現の内部で機構化されていったことを指摘し、「私小説」の成立に「表現機構」としての「文壇」が果たした役割の重要性や、大正末から昭和十年前後の既成の「文壇」概念の崩壊が、小説の表現史の上で大きな転換点をもたらしていることなどを明らかにしている。

第II部は、森鷗外『舞姫』、泉鏡花『高野聖』、田山花袋『蒲団』等の明治期小説から、埴谷雄高『死(し)霊(れい)』、「第三の新人」の諸作等の戦後小説までを幅広く扱い、個別作品に周到な検討を加えながら、一人称小説における共同体と「個」の関係、複数の一人称視点の採用による独特な作品世界の構築、一人称と三人称の混交によるロマンティシズムの生成、卑近な日常感覚のメタファによる「戦争」という大状況の表現等々の、小説の「表現機構」の達成を具体的に検討し、第I部の総論・原論の妥当性を論証している。

従来、近代小説の個別作品の表現に触れた研究は数多くあるが、「小説」ジャンル全体を貫く「表現機構」を考察し明らかにした研究は、本論文を嚆矢とする。しかも本論文は、豊富な資料への目配りと博識に裏打ちされた緻密な分析により、「表現機構」から見た卓抜な近代小説通史ともなっており、近代小説研究に新生面を開くものとして高く評価できる。よって、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当するものと判断した。

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