学位論文要旨



No 217716
著者(漢字) 井上,雅夫
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,マサオ
標題(和) 日米欧比較に基づく道路橋設計照査制度に関する研究
標題(洋)
報告番号 217716
報告番号 乙17716
学位授与日 2012.09.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第17716号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤野,陽三
 東京大学 教授 家田,仁
 東京大学 教授 前川,宏一
 東京大学 教授 小澤,一雅
 東京大学 教授 野城,智也
 東京大学 教授 石原,孟
 東京大学 講師 長山,智則
内容要旨 要旨を表示する

昨今,公共土木構造物の構造設計において,設計エラーが多発している.公共土木構造物の現行照査制度においては,受注者が自ら照査を行い,その手法は受注者に任されている.近年,計算プログラム使用による設計計算のブラックボックス化,設計計算の複雑化,また,性能設計の増加などの設計技術の変化に加えて,設計の入札契約制度の指名競争入札から一般競争入札等への変化,公共土木事業の減少によるコンサルタント業界の競争激化など建設市場も変化している.国土交通省近畿地方整備局が2005年度に227の設計を調査した結果,合計3,631の設計エラーが発見された.社団法人建設コンサルタンツ協会会員への設計エラーに関するアンケート調査によれば,設計の受注者内で設計エラーが発見される割合は件数で33%であり,他は発注者,施工者が発見している.これらの事実は,受注者内において照査が適切に行われていない場合があることを示している.

多くの種類の公共土木構造物のなかでも,道路橋は国民の身近にあって日常生活を支えており,落橋など重大な事故が発生すれば,国民の生命,財産が失われる可能性が高い.日本においては,設計エラーを原因とする道路橋の重大な事故は幸い発生していないが,海外では,英国のミルフォードヘブン橋落橋事故(1970),米国のI-35Wミシシッピ川橋落橋事故(2007)など重大な事故が発生し,照査制度が改善されてきている歴史がある.

道路橋設計照査制度(以下「照査制度」)のあり方を考えるうえで,欧米諸国の個々の照査制度が理想形として意味をもつものではない.本研究は,日本,米国,英国,ドイツ等において行政が運用する照査制度の比較研究により,日本の照査制度の特徴を明らかにし,その改善の検討において考慮すべき点を抽出することを目的としている.

本論文の内容を説明するにあたり,まず,重要な用語を定義する.「エラー」はNowak, Carrの定義にしたがい許容される慣行(practice)からの逸脱,「照査」は設計者とは異なる者が設計の技術的内容のエラーの有無を調べること,「責任」は法律などの観点から非難されるべき責(せめ),「義務」はなすべき任務,「発注者」は設計業務の発注者(行政),「受注者」は設計業務の受注者,「チェック組織」は発注者,受注者以外で照査を行う組織,「レビュー」は発注者が行う照査,「チェック」は受注者,チェック組織が行う照査,「レビュー者」は発注者内でレビューを行う個人,「チェッカー」は受注者あるいはチェック組織内でチェックを行う個人,「独立計算」は図面と設計条件のみからチェッカーが独自に構造計算を行い,その結果の部材の断面緒元と図面の断面緒元を比較すること,とする.

Northの制度論を参考として,ルール(フォーマルおよびインフォーマル),ルール違反の監視,違反者の処罰,を照査制度の分析における基本的視点とした.

本論文の構成は次の通りである.

照査制度を調査する国を検討し,日本,既往の研究に基づき米国,英国,ドイツ,ベルギー,そして道路橋に建築規則が適用されているオランダとした.日本は国土交通省,米国はカリフォルニア州,ワシントン州,オハイオ州(以下「3州」),英国は英国道路庁,広域ロンドン市,ドイツは国の標準的制度(州レベル)について,レビューおよびチェックの両方について詳細に調査する(以下「詳細調査」)こととし,ベルギー,オランダについては,国の標準的制度のチェックのみについて調査することとした.

そして,保証業務(財務諸表監査および類似の業務を合わせたもの)のルール等を参考に照査制度の比較項目を設定した.比較項目のなかで重要なプレイヤー(個人)の義務と責任については,その内容を具体化した.(第1章)

各国の照査制度および設計(詳細調査を行う国のみ)について,比較項目に関連するルールおよび実態について調査するとともに,管理者,技術者資格など照査制度を取り巻く環境を調査した.詳細調査を行う国では,道路橋の設計体制および照査制度の歴史,についても調査した.(第2章から第5章)

設定した19の比較項目について,各国の照査制度および設計を比較した.(第6章)国土交通省の照査制度の改善の方向性を考える参考とするために,国内の阪神高速道路(株)(以下「阪神高速」),東日本旅客鉄道(株)(以下「JR東日本」)の橋梁設計照査制度を調査し,国土交通省の照査制度と比較した.(第7章)

国外および国内の照査制度の比較結果に基づき,国土交通省の照査制度の特徴を明らかにし,その改善の検討において考慮すべき点を抽出した.そして,制度改善に関連して検討が望まれる点について提案した.(第8章)

本論文の結論は,次のとおりである.

米国の3州,英国道路庁,ドイツの標準では,強制力,もしくは制度遵守のインセンティブ,あるいは制度違反のディスインセンティブ(違反の抑制)をプレイヤー(組織,個人)に働かせることで,照査が行われることを担保している.

これに対し,国土交通省では,レビューの義務を負うことが不明確であるため発注者に対する制度の強制力が弱い.受注者のチェックの義務の内容は明確であるが,施工者の義務の内容は不明確である.そして,発注者が成果品の設計条件への本質的適合性を確認しないため,受注者,施工者のチェックの履行に対する監視が甘い.このため,受注者,施工者に対する制度の強制力が弱い.また,受注者,施工者に制度遵守のインセンティブが働かず,チェッカーに制度違反のディスインセンティブが働かない.国土交通省の照査制度は,プレイヤー(組織,個人)が照査を行うことを担保する制度設計となっていない.

次に,米国の3州,英国道路庁,広域ロンドン市,ヘッセン州のレビューについては,共通して,イ)レビュー者が義務の履行記録となる個人名の文書を作成するルールがある,ロ)レビュー者は実態として構造設計の知識を有している,ハ)レビューを担当する組織は,道路(線形)は担当せず,道路構造物設計を担当する組織であり,組織内に構造設計の知識を有する技術者が複数おり,レビュー者が技術的判断について相談できる,という対策がとられている.国土交通省では,これらの対策がとられていない.

チェックについては,保証業務のルールに適合するルールは,1)チェッカーを受注者内の者としない,2)チェカーの専門能力の保持,3)チェカーが責任を負う,4)独立計算の実施,となる.これらのルールを有するほど,チェックの信頼性が高いと考える.米国の3州,英国の標準,ドイツの標準についてみると,レビュー者の義務の内容が少ないほど,チェックの信頼性が高くなっている.国土交通省と同様に, レビュー者が成果品の設計条件への本質的適合性の確認を行わない,英国の標準,ドイツの標準では,保証業務のルールに適合するルールの数が3以上である.これに対し,国土交通省では,受注者,施工者によるチェックの両方とも,適合するルールの数が1である.チェックの信頼性が低い.

国土交通省の照査制度においては,プレイヤー(組織,個人)が照査(レビュー,チェック)を行うことが担保されておらず,そして,照査が行われてもその信頼性が低い.これは,自治体の照査制度についてもいえることである.

日本では,1970年頃までは,道路橋設計を取り巻く状況が発注者,受注者,施工者に照査を行うインセンティブを働かせていた.そのため,照査制度を必要としなかった.その後,道路橋設計を取り巻く状況が大きく変わったが,発注者など道路橋の関係者の間において,照査制度が重要視されず,適切に制度設計されることなく現在に至ったと考える.

公共事業における入札契約制度の改革等の経済的規制の緩和に対応して,安全確保のために必要な社会的規制として照査制度を位置づけるべきである.

国土交通省,自治体の照査制度の改善において,プレイヤー(組織,個人)が照査を行うことを担保する方策として,以下を検討する必要がある.

・施工者がチェックの義務を負うことの是非

まず,施工者にチェックを義務付けることの是非を検討する必要がある.国際標準においては,施工者にチェックが義務付けられていない.

・発注者がレビューの義務を負うことの明確化

阪神高速は社内規則において,JR東日本は鉄鉄道事業法施行規則において,レビューの義務を負うことが明確にされている.

・受注者,チェック組織,チェッカーがチェックを行うことを担保する方策

発注者の監視の強化による強制力の付与,もしくは制度遵守のインセンティブの付与,もしくはチェッカーへの制度違反のディスインセンティブの付与.

また,レビューおよびチェックの信頼性を確保するために,前述の点の改善が必要である.チェックに関しては,日本の技術者は何をおいても企業への帰属意識が強いため,チェッカーを受注者内の者としないことが特に必要である.

審査要旨 要旨を表示する

公共土木構造物の現行設計照査制度においては,受注者が自ら照査を行い,その手法は受注者に任されている.近年,計算プログラムの使用による設計計算のブラックボックス化,設計計算の複雑化,また,性能設計の増加などの設計技術の変化に加えて,設計業務の調達の指名競争入札から一般競争入札等への変化,公共土木事業の減少によるコンサルタント業界の競争激化など建設市場も変化している.これらの背景の中で、昨今,公共土木構造物の構造設計において,設計エラーが多発している.

本論文は,日本,米国,英国,ドイツ等において行政が運用する道路橋設計照査制度(以下「照査制度」)の比較分析により,日本の照査制度の特徴を明らかにし,その改善の検討において考慮すべき点を抽出することを目的としている.

まず,第1章では,照査制度を調査する国を検討し,日本,既往の研究に基づき米国,英国,ドイツ,ベルギー,そして道路橋に建築規則が適用されているオランダとした.日本は国土交通省,米国はカリフォルニア州,ワシントン州,オハイオ州,英国は英国道路庁,広域ロンドン市,ドイツは国の標準的制度(州レベル)について,レビュー(発注者が行う照査)およびチェック(受注者など発注者以外が行う照査)の両方について詳細に調査する(以下「詳細調査」)こととし,ベルギー,オランダについては,国の標準的制度のチェックのみについて調査することとした.そして,Northの制度論を参考として,ルール(フォーマルおよびインフォーマル),ルール違反の監視,違反者の処罰,を照査制度分析の基本的な視点とし,保証業務(財務諸表監査および類似の業務を合わせたもの)のルールを参考に,チェックの信頼性に関係する項目を設定し,計19の比較項目を設定した.

第2章から第5章では,各国の照査制度および設計(詳細調査を行う国のみ)について,比較項目に関連するルールおよび実態について文献およびインタビューにより調査した.

第6章では,比較項目について,各国の照査制度および設計を比較した.

第7章では,国土交通省の照査制度の改善の方向性を考える参考とするために,国内の阪神高速道路(株),東日本旅客鉄道(株)の橋梁設計照査制度を調査し,国土交通省の照査制度と比較した.

第8章では,まず,国外および国内の照査制度の比較結果に基づき,国土交通省の照査制度の以下の特徴を明らかにした.

国土交通省では,レビューの義務を負うことが不明確であるため発注者に対する制度の強制力が弱い.受注者のチェックの義務の内容は明確であるが,施工者の義務の内容は不明確である.そして,発注者が成果品の設計条件への本質的適合性を確認しないため,受注者,施工者のチェックの履行に対する監視が甘い.このため,受注者,施工者に対する制度の強制力が弱い.また,受注者,施工者に制度遵守のインセンティブが働かず,チェッカーに制度違反のディスインセンティブが働かない.国土交通省の照査制度は,プレイヤー(組織,個人)が照査を行うことを担保する制度設計となっていない.

また,レビューの信頼性を確保するための対策として,イ)レビュー者が義務の履行記録となる個人名の文書を作成するルールがある,ロ)レビュー者は実態として構造設計の知識を有している,ハ)レビューを担当する組織は,道路(線形)は担当せず,道路構造物設計を担当する組織であり,組織内に構造設計の知識を有する技術者が複数おり,レビュー者が技術的判断について相談できる,がとられていない.

チェックについては,保証業務のルールに適合するルールは,1)チェッカー(チェックを行う個人)を受注者内の者としない,2)チェカーの専門能力の保持,3)チェカーが責任を負う,4)独立計算の実施,となる.これらのルールを有するほど,チェックの信頼性が高い.国土交通省と同様に, レビュー者が成果品の設計条件への本質的適合性の確認を行わない,英国の標準,ドイツの標準では,保証業務のルールに適合するルールの数が3以上である.これに対し,国土交通省では,受注者,施工者によるチェックの両方とも,適合するルールの数が1である.チェックの信頼性が低い.

国土交通省の照査制度においては,プレイヤー(組織,個人)が照査(レビュー,チェック)を行うことが担保されておらず,そして,照査が行われてもその信頼性が低い.これは,自治体の照査制度についてもいえることである.

公共事業における入札契約制度の改革等の経済的規制の緩和に対応して,安全確保のために必要な社会的規制として照査制度を位置づけるべきことを提案している.

その改善の検討において考慮すべき点として,プレイヤー(組織,個人)が照査を行うことを担保するために,施工者がチェックの義務を負うことの是非の検討,発注者がレビューの義務を負うことの明確化,また,受注者,チェック組織,チェッカーについては,発注者の監視の強化による強制力の付与,もしくは制度遵守のインセンティブの付与,もしくはチェッカーへの制度違反のディスインセンティブの付与を検討すべきこと,また,レビューおよびチェックの信頼性を確保するために,前述の点の改善を図ることを考慮すべきとしている.

本論文は,日本,米国,英国,ドイツ等の道路橋設計照査制度について,文献,インタビューにより丹念に調査し,制度論,監査論などを参考として分析の視点を設定し,各国の照査制度を比較分析することで,国土交通省の照査制度の特徴を明らかにし,その改善の検討において考慮すべき点を抽出している.現在,エラーが多数発生している現状を改善する有益な知見を呈示している.また,これまで研究の対象とされることの少なかった構造設計照査制度に関する研究の糸口となると判断される.よって,博士(工学)の学位請求論文として合格と認める.

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