学位論文要旨



No 217720
著者(漢字) 金澤,雄記
著者(英字)
著者(カナ) カナザワ,ユウキ
標題(和) 近世から近代への農村民家の変容に関する研究 : 養蚕業下の飯田市域を事例として
標題(洋)
報告番号 217720
報告番号 乙17720
学位授与日 2012.09.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第17720号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤井,恵介
 東京大学 名誉教授 吉田,伸之
 東京大学 准教授 大月,敏雄
 東京大学 准教授 藤田,香織
内容要旨 要旨を表示する

本論文は長野県飯田市域をフィールドとし、近世中期から近代まで建築された本棟造民家と、近代以降の養蚕建築を研究対象として、近世から近代に至る農村民家の建築的な特徴と変容を明らかにすることを目的とする。

第1章では、民家史研究の概要を整理し、問題意識、分析対象、研究視角、および調査概要を説明する。

第二次大戦後各地で行われた「緊急民家調査」を含むこれまでの民家調査により、民家調査法が確立され、全国の民家の分布・系譜・変遷等が明らかにされてきた。しかし研究のベクトルが過去に向く傾向にあったため、近代以降の農村民家の調査研究が希薄で、近世から近代への移行部分の視角が欠如していた。そこで本論文は一農村地域において近世から近代までの民家を悉皆調査し、養蚕業の影響という視点で農村民家の近代化を考察する。

本論文は大きく2つの部に分かれ、第2・3章では本棟造、第4章では養蚕建築を扱い、これに事例研究を加える。

第1部では本棟造を扱う。本棟造は長野県中南部に分布する、切妻造妻入、もと緩勾配の石置板屋根で、2列3室の間取りを基本とする大型の民家形式である。飯田市域において本棟造の悉皆調査を行い、平成22年12月現在、272棟(現存209棟、取壊63棟)の所在確認と、198件の聞取調査、うち85棟の実測調査を行った。

第2章では、これらの調査に基づき、飯田市域における本棟造の実態の把握を行うため、平面規模や間取り、床・大黒柱・土間位置や、廊下・格子窓・式台の有無等、各項目を設けて分析し、特徴を明らかにし、基本形の定義を行う。

第3章では、第2章の分析を受け、飯田市域の本棟造を時代により「初期型」・「過渡型」・「量産型」・「養蚕型」・「現代型」の5期に分類し、それぞれ特徴を述べ、社会背景を考察し、飯田市域の本棟造の成立から終焉までを概観する。そして本棟造の近世における変遷と、養蚕業の影響による近代への移行過程を実証する。

冒頭部分では当地域の本棟造を室空間の変化から「前期型」と「後期型」に分類し、それぞれの特徴を説明し定義する。また大雑把な建築年代の指標を示す。

初期型の項では、17世紀末から18世紀前期の本棟造の本来の形式を考察し、本棟造という一民家形式の成立過程の1つの実証を試みる。

過渡型の項では、18世紀後期から19世紀前期に地場産業や中馬の発展により、有力な百姓が台頭し始め、量産に向けて規模が縮小され間取りが整形されつつあることを示す。

量産型の項では、19世紀前期から中期にかけて本棟造が主屋の新築における1つのプロトタイプとして量産されるようになったことを示す。

養蚕型の項では、19世紀後期の養蚕業に影響を受けた本棟造の考察を行う。通常、民家建築では一階間取りの変遷を考察することが多いが、「養蚕」をキーワードとして、本棟造の二階の変遷を考察し、江戸末期から明治期にかけての本棟造の終焉部分を取り扱う。また19世紀中期以降、各戸における本格的な養蚕業の普及とともに、前期型から後期型へ移行するプロセスを詳しく述べる。その後、特に蚕室として利用される二階が発展し、新築では最大限に床面積と二階階高を確保し、改築では半ば強引な改築が施された事例を示す。

現代型の項では、従来の形式とは異なるが、現在でも本棟造が新築されていることを述べる。

次に第2部では養蚕建築を扱う。養蚕建築とは上記本棟造主屋を含まない、養蚕向きの主屋・蚕室長屋と定義する。飯田市座光寺地区において、養蚕建築の悉皆調査を行い、37件47棟の所在確認と、36件の聞取調査、32棟の実測調査を行った。また補足的に座光寺地区以外で、上記本棟造に付属する蚕室長屋も含め、44件49棟の所在調査(飯田市域以外は3件4棟)と、44件の聞取調査、40棟の実測調査を行った。

第4章では、これらの調査に基づき、座光寺地区を主例として、養蚕向きの主屋を「主屋二階蚕室型」と「主屋平屋型」、専用蚕室を「蚕室長屋I型」と「蚕室長屋II型」の4類型に分類、定義する。そして飯田・下伊那地域の養蚕業を概観し、各戸の飼育法と蚕室(飼育室)との関わりを考察する。そのうち蚕室長屋II型の特異性に着目し、建築概念と起源を考察する。さらに当地域の建築が養蚕業により影響を受けた時期等を論じる。

第5章では、以下の通り第2~4章に即した10棟の事例を示し、主に改築の履歴による事例研究を行う。また改築履歴の根拠資料の1つとなる家相図が当地域より多数発見されたため、その考察を行う。

第6章では、当地域の養蚕業と本棟造、加えて養蚕系総二階主屋に関しての一連の変遷の傾向をまとめる。

以下本論文で明らかにした飯田市域における農村民家の近世から近代への変容を要約する。

まず本棟造は少なくとも17世紀末には成立した民家形式と考えられており、飯田市域でも18世紀初期の本棟造がわずかながら残存している。初期の本棟造の特徴は、上層農家の建築であるため大規模であり、表側(1カワ目)は式台を備え、座敷空間が充実していることが特徴である。家屋の中心(2カワ目)には、オエ・ダイドコロと呼ぶ炉(イロリ)のある広い吹き抜けの部屋があり、居間兼簡易接客を行う生活の中心であった。裏手側(3カワ目)には居住空間としての小部屋(寝間等)が位置する。

また同時期に大規模な本棟造と対称的な、土間のない「1列型」の小規模の本棟造や、オエを広く取った間取りの本棟造が共存しており、これらが本棟造の原型とも考えられる。

18世紀後期になると、有力な百姓の台頭により、本棟造が一般化し、中規模の整形された本棟造が量産されるようになった。この背景は一概に説明できないが、家作制限の緩和と、地場産業や中馬による現金収入を得たことが1つの理由と考えられる。その後、19世紀前期に再度何らかの規制がかかったものと思われるが、19世紀中期には量産のピークを迎えた。現存する本棟造の1/3は19世紀中期の建築である。

さらに19世紀中期には養蚕業が本格的に各戸に導入され、本棟造を新築する場合は養蚕スペース確保のため二階が発達し、床面積と二階天井高が拡大した。そのため家屋の中心であるオエには低い位置で天井(二階床)が設けられることとなり、炉が消え、現在では用途不明の暗く閉鎖的な部屋が生まれてしまった。本論文では、この中心の部屋であるオエの炉の有無(二階床・吹抜の有無)によって本棟造を「前期型」と「後期型」に分類する。

また主に既存の前期型の本棟造では、明治期に二階を立ち上げるなどの改築を施し、量産を図った。これら半ば強引な二階の発達は当地域の養蚕業の繁栄を示すものである。しかしながら本棟造で養蚕業を行うには限界があり、明治20年代には、本棟造は最後に総二階となって途絶え、代わって養蚕系の主屋へ移行した。

養蚕業に関しては、特に飯田・下伊那地域では少なくとも統計の残る明治後期以降は1戸当たりの収繭量が約100貫であり、全国的にも最多レベルであった。その理由の1つには、養蚕向きの総二階の主屋に加え、別棟で専用蚕室を備えており、他地域と比べても飼育面積が格段に広いことが挙げられる。

本論文では養蚕向きの総二階の主屋を「主屋二階蚕室型」、平屋の主屋を「主屋平屋型」、さらに主に二階を飼育室とする長屋を「蚕室長屋I型」、飼育に適した広さの飼育室を並べ、外側に廊下を巡らす長屋を「蚕室長屋II型」と定義した。

特に「蚕室長屋II型」は、養蚕向きに特化した平面構成をしており、競進社や西ヶ原蚕室といった模範蚕室に起源があり、養蚕業の専門校や蚕書等を通して当地域に伝達されたとみられる。

これらの養蚕向きの建築は、明治20年代から建て始められ、30~40年代に盛んに建てられた。この間に本棟造から二階建ての総二階の主屋へ移行し、付属して蚕室長屋が建てられた経緯をみることができる。

加えて、産業と社会という2側面から農村民家の近代化を論じる。まず近世から近代への移行に伴う社会の変化としては、市場化により産業が発展したことに加え、領主支配下における身分相応の規制がなくなり、建築や作付けを自由に行うことができるようになったことが挙げられる。

そこで産業といった視点で飯田市域の農村民家を説明すると、上述の通り養蚕業により従来の本棟造から養蚕向きの主屋へ発展・推移した。養蚕業は農村民家の近代化に影響した一大産業であり、大きな現金収入源となったため、主屋の新増改築・蚕室長屋の増築といった建築行為に多大な投資を行った。

さらに近世の本棟造と近代の養蚕建築のそれぞれの展開を比較すると、本棟造は身分的秩序により、約100年の経過の中で上階層から中・下階層へ広がりをみせる、いわば「上から下へ」の縦の伝達がみられる。また本棟造は長野県中南部に分布し、切妻造・妻入・2列3室の間取りという点では相違ないが、それぞれの地域で独自の発展をみせており、他地域との相互関係は希薄で、閉ざされた民家形式であったとの印象を受ける。

対して養蚕建築は前述の通り建築技術や飼育方法を他地域から積極的に導入しており、いわば「外から内へ」の横の伝達がみられる。また収繭量の違いや種屋・個人製糸業という生業の違いで優越はあったものの、蚕を育てて繭を取るといった目的からすると身分による建築的な相違はない。

最後に、民家の現状は取り壊し事例が増加しており、近世・近代の民家を対象とする大規模な悉皆調査を行うには最終時期になってきている。本論文のような民家調査の成果が、民家の保存・利活用に貢献し、最終的には地域住民に還元できるものでありたいと願う。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は長野県飯田市域全体を対象とし、近世中期から近代にいたるまで造り続けられた「本棟造」民家と、近代以降養蚕のために造られた「養蚕建築」の歴史的変遷とその社会的背景について論じたものである。全体は6章から構成され、第1章序と第6章結を除く第2~5章が本論となっており、本論は本棟造を論じた第2・3章と養蚕建築を取り上げた第4章、2~4章に関係しとりわけ史料が残存する事例について分析した第5章からなる。

本研究の特徴は、大きく二つある。第一に本棟造民家の歴史的変遷について、膨大な実測調査・聞き取り調査をもとに実証的跡づけた点にあり、平成23年6月現在、著者の精力的な調査によって272棟の本棟造民家の所在が確認され(現存209棟、取壊63棟)、そのうち198件について聞き取り調査が行われ、うち87棟が実測された。著者は飯田市歴史研究所の研究員としての立場を最大限活かしつつ現地に入り、ほぼ単独で数年の期間を費やして調査を行った。この作業量は驚異的なものであり、そこで得られた知見は地元の建築の文化財所在確認と今後の利活用にとってもっとも基礎的なデータベースになったと評価できる。飯田市の民家調査は昭和46年に部分的の行われたことがあるが、わずか47棟の本棟造しか調査されておらず、しかもその調査内容は簡単な平面図の採取程度のものであったから、著者の今回の成果はひとり学界のみならず、飯田市にとって大きな意味をもつ業績であるといえる。

本研究の第二の特徴は、本棟造民家の研究にとどまらず、ここに養蚕建築を加えた点にある。すなわち近世民家の先行研究はすでに一定の蓄積があるが、それらは基本的に復元的研究であって、民家平面・構造形式の当初の姿へ遡及することに大きな力点があった。それに対して、本研究はむしろ近世民家が一定の社会的条件の推移のなかで変化し、近代化を遂げていく姿を追跡したところに従来の民家史とは逆のベクトルの視点があり、本棟民家が幕末から明治にかけて養蚕のために改造されるプロセス、さらに養蚕専用の建築が敷地内に増設されていく変化について注目されている。この視角は民家の近世から近代にかけての連続的変化と捉える著者独自の切り口であって、既往の民家史研究の蓄積に対して新たな知見を加えるものであると評価できる。

以下、各章の概要とそこで得られた成果について摘記していくことにする。

第1章では、民家史研究の既往研究のレビューが行われ、本研究の問題意識、分析対象、研究視角、および調査概要が述べられる。第二次大戦後各地で行われた「緊急民家調査」を含むこれまでの民家調査により、民家調査法が確立され、全国の民家の分布・系譜・変遷等が明らかにされてきた。しかし研究のベクトルが過去に向く傾向にあったため、近代以降の農村民家の調査研究が希薄で、近世から近代への移行部分の視角が欠如していたことが指摘される。

第2章では、著者のよる当該地域全体を射程に入れた調査にもとづき、飯田市域における本棟造民家の全般的特徴の理解に焦点があてられている。すなわち実測民家の平面規模や間取り、床・大黒柱・土間位置や、廊下・格子窓・式台の有無等、各項目を設けて分析し、特徴を明らかにし、基本形の定義がまずは試みられる。

つづく第3章では、第2章の分析を受け、飯田市域の本棟造を時代により「初期型」「過渡型」「量産型」「養蚕型」「現代型」の5期に分類し、それぞれ特徴を述べ、それぞれの社会背景を念頭におきつつ、飯田市域の本棟造の成立から終焉までを論じ切る。そして本棟造の近世における変遷と、養蚕業の影響による近代への移行過程を精緻に跡づける。すなわち、当地域の本棟造を室空間の変化から「前期型」と「後期型」に分類し、それぞれの特徴を説明し、著者独自の建築年代の指標を提案されている。初期型の項では17世紀末から18世紀前期の本棟造の本来の形式を考察し、本棟造という一民家形式の成立過程の実証が試みられている。この論証過程は実測民家のデータに立脚した緻密なものであり、きわめて説得力のあるかたちで行論されている。

過渡型の項では、18世紀後期から19世紀前期に地場産業や中馬の発展により、有力な百姓が台頭し始め、量産に向けて規模が縮小され間取りが整形されつつあることが示される。量産型の項では、19世紀前期から中期にかけて本棟造が主屋の新築における1つのプロトタイプとして量産されるようになったことが指摘されている。

養蚕型の項では、19世紀後期の養蚕業に影響を受けた本棟造の考察を行う。通常、民家建築では一階間取りの変遷を考察することが多いが、「養蚕」をキーワードとして、本棟造の二階の変遷を考察し、江戸末期から明治期にかけての本棟造の終焉部分を取り扱う。また19世紀中期以降、各戸における本格的な養蚕業の普及とともに、前期型から後期型へ移行するプロセスが詳細に実証されている。その後、とくに蚕室として利用される二階が発展し、新築では最大限に床面積と二階階高を確保し、改築では半ば強引な改築が施された事例が示されている。この部分は本論文のひとつのクライマックスになるところであって、本棟造の近代化をはじめて説得的に描き切ったという点で高い評価が与えられる。

次に第4部では養蚕建築が分析されている。養蚕建築とは上記本棟造主屋を含まない、養蚕向きの主屋・蚕室長屋のことであり、著者は飯田市座光寺地区において、養蚕建築の悉皆調査を行い、37件47棟の所在確認と、36件の聞取調査、32棟の実測調査を行った。また補足的に座光寺地区以外で、上記本棟造に付属する蚕室長屋も含め、44件49棟の所在調査と、44件の聞取調査、40棟の実測調査を行っている。これらの膨大な現地調査にもとづき、座光寺地区を主例として、養蚕向きの主屋を「主屋二階蚕室型」と「主屋平屋型」、専用蚕室を「蚕室長屋I型」と「蚕室長屋II型」の4類型に分類、定義する。そして飯田・下伊那地域の養蚕業を概観し、各戸の飼育法と蚕室(飼育室)との関わりが考察されている。そのうち著者は蚕室長屋II型の特異性に着目し、その起源について仮説的に論じている点が興味深い。さらに当地域の建築が養蚕業により影響を受けた時期等についても言及されている。

第5章は、第2~4章に即した10の事例を示し、主に改築の履歴による事例研究である。改築履歴の根拠資料の1つとなる家相図が当地域より多数発見されたため、その考察もこの章でまとめて行われている。

最後の第6章では、当地域の養蚕業と本棟造、加えて養蚕系総二階主屋に関しての一連の変遷が総括的に論じられ、以下のような結論に達している。すなわち、本棟造は少なくとも17世紀末には成立した民家形式であり、飯田市域でも18世紀初期の本棟造がわずかながら残存している。初期の本棟造の特徴は、上層農家の建築であるため大規模であり、表側(1カワ目)は式台を備え、座敷空間が充実していることが特徴であった。家屋の中心(2カワ目)には、オエ・ダイドコロと呼ぶ炉(イロリ)のある広い吹き抜けの部屋があり、居間兼簡易接客を行う生活の中心であった。裏手側(3カワ目)には居住空間としての小部屋(寝間等)が位置する。

また同時期に大規模な本棟造と対称的な、土間のない「1列型」の小規模の本棟造や、オエを広く取った間取りの本棟造が共存しており、これらが本棟造の原型とも考えられる。

18世紀後期になると、有力な百姓の台頭により、本棟造が一般化し、中規模の整形された本棟造が量産されるようになる。この背景には、家作制限の緩和と、地場産業や中馬による現金収入を得たことが理由と考えられる。その後、19世紀前期に再度何らかの規制がかかったものと思われるが、19世紀中期には量産のピークを迎える。現存する本棟造の3分の1は19世紀中期の建築である。

さらに19世紀中期には養蚕業が本格的に各戸に導入され、本棟造を新築する場合は養蚕スペース確保のため二階が発達し、床面積と二階天井高が拡大した。そのため家屋の中心であるオエには低い位置で天井(二階床)が設けられることとなり、炉が消え、現在では用途不明の暗く閉鎖的な部屋が生まれてしまった。本論文では、この中心の部屋であるオエの炉の有無(二階床・吹抜の有無)によって本棟造を「前期型」と「後期型」に分類している。

また主に既存の前期型の本棟造では、明治期に二階を立ち上げるなどの改築を施し、量産を図った。これら半ば強引な二階の発達は当地域の養蚕業の繁栄を示すものである。しかしながら本棟造で養蚕業を行うには限界があり、明治20年代には、本棟造は最後に総二階となって途絶え、代わって養蚕系の主屋へ移行したとする。

養蚕業に関しては、とくに飯田・下伊那地域では少なくとも統計の残る明治後期以降は1戸当たりの収繭量が約100貫であり、全国的にも最多レベルであった。その理由の1つには、養蚕向きの総二階の主屋に加え、別棟で専用蚕室を備えており、他地域と比べても飼育面積が格段に広いことが挙げられる。

これらの養蚕向きの建築は、明治20年代から建て始められ、30~40年代に盛んに建てられた。この間に本棟造から二階建ての総二階の主屋へ移行し、付属して蚕室長屋が建てられた経緯をみることができるとする。この全体的な見通しはきわめて説得的である。

以上、本論文は長野県飯田市の本棟造民家と養蚕建築の建築史的研究であるが、従来の民家史研究と異なる視点、すなわち近世から近代への変化を本棟造民家の変容と養蚕建築の成立の2軸から実証した労作である。著者は研究を締めくくるにあたって、次のように述べる。「民家の現状は取り壊し事例が増加しており、近世・近代の民家を対象とする大規模な悉皆調査を行うには最終時期になってきている。本論文のような民家調査の成果が、民家の保存・利活用に貢献し、最終的には地域住民に還元できるものでありたいと願う」。

この研究姿勢こそが膨大な民家調査をやり遂げた著者の原点であり、その成果は建築史分野にとって大きな一里塚になりうる貢献と評価することができる。

よって本論文は博士(工学)の博士学位請求論文として十分の内容と有しており、合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク