学位論文要旨



No 217728
著者(漢字) 大坪,玲子
著者(英字)
著者(カナ) オオツボ,レイコ
標題(和) 嗜好品カートと現代イエメンの経済・社会
標題(洋)
報告番号 217728
報告番号 乙17728
学位授与日 2012.09.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17728号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木村,秀雄
 東京大学 教授 川中子,義勝
 東京大学 教授 長澤,栄治
 国立民族学博物館 特任教授 関本,照夫
 成蹊大学 教授 堀内,正樹
内容要旨 要旨を表示する

本論文は嗜好品カートの生産・流通・消費の実態を1970年代と比較しながら明らかにし、カートを通してイエメン社会を描くことと、従来のイスラームと商業とネットワークの関係を問い直すことを目的とする。

イエメン共和国は1990年に南北イエメンが統合して成立した。北イエメンは1962年に革命で共和制になったが、それ以前はシーア派の一派のザイド派イマームが治めていた。第一次世界大戦後にオスマン帝国が撤退し北イエメンは独立したが、当時のイマームは鎖国政策をとったために近代化は大きく遅れ、しかも1962年の革命後に内戦が続いたため、実質的な開国は内戦が終了した1970年を待たねばならなかった。一方19世紀からイギリスの支配下にあった南イエメンは1967年に独立した。アデンの近代化は進められていたが、地方の開発は遅れていた。1970年代に南北イエメン経済を支えていたのは出稼ぎ送金であったが、1980年代に入ると相次いで油田が発見され、経済的に明るい兆しが見えた。政治的には1990年に南北統合が達成された。しかし統合直後から政治的困難が続き、それがイエメン経済を疲弊させた。政府は1990年代半ばから構造調整プログラムを実施しているが、補助金の削減により物価が高騰し、経済的に不安定な状況が続いている。

カートは東アフリカ諸国やイエメンで生息する灌木で、その新鮮な葉を噛むと軽い覚醒作用が引き起こされる。娯楽施設が極端に少ないイエメンでは、昼食後にカートを噛んで過ごすことは男女を問わず人々の楽しみとなっている。

イエメンではカートの輸出入は1970年代以降禁止されているが、エチオピアやケニアではカートは輸出され、カートの消費は世界各地に拡散している。これは内戦によって1990年代以降ソマリア系移民が世界各地へ離散した影響が大きい。現在のところ移民先の国民にカートの消費は広まっていないが、このことはカートが移民の社会問題と関係づけられて非難される要因となっている。欧米諸国やアラブ諸国の中にはカートを違法薬物に認定している国もあるが、イエメン政府はカートを違法薬物と認定していないので、筆者はカートを嗜好品として扱う。

カートが原産地エチオピアからイエメンに伝来したのは14-16世紀の頃であるが、北イエメンで生産と消費が拡大したのは1970年代である。それは男性の多くが産油国に出稼ぎに行ったため農村部は人手不足となり、それまで栽培されていた農作物を凌駕して、手軽なカートが栽培されるようになったからである。増産されたカートを消費するだけの貨幣経済も発達した。また周辺諸国がカートを規制していったため、それまで輸出していたカートも国内消費に回されることになった。

カートの需要はその後も増加し続け、灌漑施設の整備と農薬、化学肥料の使用がそれを補っている。カートは手軽な農作物から、手間のかかる農作物になった。それにもかかわらずカートの利益は他の農作物に比べて大きく、生産者は現金収入の多くの割合をカートに依存している。

カートは国際的な輸出品であるコーヒーを駆逐してきたと非難されるが、実際のところ作付面積と生産量で大きく減少したのは穀物で、カートだけでなくコーヒー、野菜、果物のそれらは増加している。仮に現在のカート畑を全てコーヒー畑にかえたとしても6万トン程度にしかならず、ブラジルやエチオピアのコーヒー生産量には遠く及ばないだけでなく、国際的に価格が大きく変動するコーヒーのリスクはカート以上に大きい。

1970年代のカート消費は、昼食後に「マフラジュ」という小部屋で「カイフ」という陶酔感を満喫し、情報交換や人間関係の構築を行い、「スレイマーニーヤの時」という静寂に包まれたひとときを堪能するものであった。カートは結衆の手段であり、マフラジュは共同体の成員がともにカートを噛むこと、つまりカイフとスレイマーニーヤの時をともに体験することで共同体の紐帯を確認する場であった。共同体の成員はセッションに参加するべきであり、参加しないことは反社会的であると非難された。

2000年代のカート消費は、一言でいえば多様化している。噛む場所が多様化し、1人でカートを噛むことや噛まないという選択も社会的に容認されるようになった。確かに個人の家で他の人々とカートを噛む人が多いので、その意味では1970年代と同様の消費形態といえるが、陶酔感ではなくリラックス感や活力が求められている点で、1970年代とは異なっている。1970年代のセッションでは社会階層が座る位置によって可視化されたが、現在では1970年代に比べれば階層意識が弱まっただけでなく、集まる人々の社会階層は近くなり、セッション自体が横のつながりを重視するようになった。

カートは鮮度が下がると効果も下がるため、早朝収穫されると、その日の昼にサナアの市場で売買され、その日の午後に消費される。収穫から消費まで非常に短時間に行われるだけでなく、その流通経路も短く、生産者と消費者の間にカート商人が1-2人介在する程度である。しかも組織的な流通網は存在せず、カート商人は全くの個人事業主である。

1970年代の流通経路も現在のように短いものであり、流通経路自体に短縮化が起こっているわけではない。しかし道路網の整備とモータリゼーションの普及は、サナアに集まるカートの迅速化と多様化、生産地から離れた地方へのカート輸送を可能にした。

サナア近郊のカート以外の農作物の流通経路も比較的短いが、野菜や果物は中央卸売市場へ、穀物・豆類や香辛料は民間会社へいったん集荷され、そこから消費地市場を経由して消費者の手に届く。このようにカート以外の農作物には近代的な流通管理システムが導入されているが、カートでは零細な生産者が生産したカートを零細な商人が扱うといった伝統的なやり方が続けられている。一見伝統的で非効率的に思える「細くて短い」流通経路が、鮮度が高く多種類あるカートを運ぶのに効率的に生産者と消費者をつないでいる。

カート商人は仕入れる場所(生産地か産地市場か)、仕入れ先の人数(1-2人からか多数からか)、仕入れる人との関係(信頼関係を優先するか否か)、売る場所(店舗かそれ以外か)、売る種類(多種類か1種類か)など様々な選択肢を持つ。彼らが目指すべき最善の方法はなく、自分の持つ局所的知識の中で「より良い」と思う方法を選択しているにすぎない。カートの生産地は閉鎖的な部族領土にあることが多いが、カート商人は知り合いの知り合いをたどるという方法を使って、地縁血縁関係に頼らずにネットワークを築くことができる。カート商人はまた延べ払いによって取引相手との関係を継続させるのではなく、毎日の現金決済によって関係を清算しながら信頼を築き、顧客関係を作っていくが、顧客関係に依存することはカートの性質上リスクが大きいため、顧客関係にない人々との関係にも目を配らねばならず、また顧客関係を築かない選択も可能である。このように地縁血縁関係や顧客関係に依存しないのは生産者や購入者も同様である。流通経路は生産地、産地市場、消費者市場をつなぐ矢印で表わすことができるが、カート商人、生産者、購入者の関係を見ると、その矢印は細い線の集まりにすぎず、しかもしばしば消えたり増えたりしている。

以上のカート経済を通して指摘できるのは、現在のカートの生産、流通、消費では、イエメン社会で想定される地縁血縁関係や、バザール経済で注目される顧客関係はずっと後景に退けられ、選択肢の1つとなっているということである。生産者が誰にどう売るか、商人はどこで誰から仕入れ、誰にどう売るのか、購入者はどこで誰から買うのか、そこに何ら規範はない。関係のあり方を既存の人間関係に還元して説明が終了するのではない。生産者、商人、購入者のそれぞれの局所的知識が毎日突き合わされ、蓄積され、訂正されている。毎日異なるネットワークが生まれ、消えていくといった、非常にゆるやかな関係が見られる。

イスラームもまた地縁血縁関係や顧客関係同様に後景に退けられている。イエメンはイスラーム教徒が100%近くを占める。カート商人の商売方法の中に、クルアーンやハディースで説かれている正しい商売のやり方を見出すのは可能であるが、それだけではイエメンのカート経済は説明できない。

イスラームは商業に寛容な、あるいは商業と深い関係のある宗教であると指摘されてきた。しかし他の宗教と商業観や聖典の語彙などを比較すると、イスラームだけが特に商業と関係が深いわけではないことが指摘できる。またイスラームでは「法あるいは宗教に埋め込まれた経済」あるいは「教経統合論」と呼ばれるほどに、経済的な行為が宗教と表裏一体で語られる傾向にある。しかしこの傾向はイスラーム法との関係において経済行為を見たものであり、イスラーム世界の経済の一面を捉えているにすぎない。イスラーム復興の潮流の中で、前近代では当然のものであったイスラーム世界の多様性が看過され、「よりイスラーム的である」ことだけがイスラーム世界であるかのような、窮屈な状態に陥っているのである。

カート経済にはイスラーム的なるもの以外にイエメン的なるもの、サナア的なるもの、都市的なるもの、部族的なるものなどが重なり合っている。そこにイスラーム的なるものを見出すことは容易であるが、それはイスラーム主義的な態度に他ならない。イスラームという色眼鏡をかけていることがいかに窮屈な状態を作り出しているのか、些細な嗜好品を通して考えると、よくわかるのである。

審査要旨 要旨を表示する

提出者大坪玲子氏の博士論文「嗜好品カートと現代イエメンの経済・社会」は、2003年から2009年にまたがる長期間にわたるフィールドワークをとおして、わが国においてその実情を紹介されることが極めて少ないイエメンの経済・社会を詳細に論じた労作である。

論文は、序論、10章からなる本論、および結論によって構成されている。序論において大坪氏は本論文の目的として、第一に「イエメン社会で大きな役割を果たしている嗜好品カート(ニシキギ科の灌木Catha edulis Forskalの葉で、アンフェタミンに似た成分を含むため、新鮮な葉には興奮作用がある)の生産・流通・消費の実態を明らかにし、カートをとおしてイエメン社会を描くこと」、そして第二に「これまでの学問的議論の中で提示されてきたイスラーム・商業・社会ネットワークの関係を見直し、新たな姿を提示すること」の2点を掲げる。

第1章から第3章までは、理論的検討ならびにカートを取り巻く社会・経済的バックグラウンド情報の提供をめざした部分である。まず第1章「イスラーム経済に関する考察」では、イスラームにおいて経済的な行為が宗教と表裏一体で語られてしまう傾向に疑問を呈し、ヨーロッパなどの他地域やキリスト教などの他宗教について検討することをとおして、経済と宗教の関係について考察する。

第2章「歴史、宗教、政治」は、イエメンの歴史的・宗教的・政治的背景を示す部分である。対外貿易や外部勢力の介入によってイエメンを含む南アラビア地域が外向性を持っていたと同時に、同地を支配した宗教勢力が内向的な性格を持っていたことが明らかにされる。そして、第3章「開発と経済」においては、1960年以降のイエメンの政治経済状況が概観されている。湾岸諸国などへの出稼ぎ、同地域からの援助、石油の発見と開発など、イエメンにおける政治経済史の主要なトピックが扱われると同時に、カートに関しての検討にとって欠かせない農業の状況についても基本的な状況を提示する。

第4章から第10章までが、本論文における理論の中心をなす嗜好品カートに関する部分である。まず第4章「世界の中のカート:薬物か嗜好品か」において、カートの位置づけについて論じた後、第5章「イエメンのカートの歴史と特徴」においてカートの歴史、カートの効果と影響、イエメン産カートの特徴について論じられている。

第6章と第7章は研究が比較的蓄積されたカートの消費について扱う部分である。まず、第6章「カートをめぐるマナー」において、カートと儀礼に関する考察をとおして、カートの文化的側面が明らかにされ、第7章「消費の変化」においては、アンケートをもとに多様化するカート消費の実態が明らかにされている。

第8章「カートと他の農作物」は、生産現場の実地見聞の記録から始まり、カートの生産方法、インタビューに基づいたカート生産者の動向、他の農産物との関係が記述され、イエメンの農業におけるカート生産の位置づけが明らかにされている。第9章「流通経路とその効率化」および第10章「商人、生産者、購入者の関係」は、カートの流通に関する部分である。第9章ではカートの流通経路とその特徴が明らかにされ、第10章ではカート商人一人一人に注目し、カート市場の特徴や、商人・生産者・消費者のカート流通にまつわる知識のあり方が分析されている。そして最後に結論において、ゆるやかな関係としてのネットワークをキーワードに全体が総括され、議論がまとめあげられている。

本論文は、調査が非常に困難な地域における長期間にわたる綿密なフィールドワークによって、イエメン地域における研究の空白を埋め、カートを通してイエメンの変化を描いた質の高い論文であると評価できる。審査委員一致して大坪氏の努力を高く評価するものである。また、イスラームと経済・商業の親和性についての議論が盛んであった学会の趨勢の中で、イスラーム圏における経済活動をイスラームの枠内に閉じ込めず、経済人類学の観点から緻密な議論を展開したことも高く評価することができる。大坪氏が"浮気性"と表現する商人たちの柔軟な取引相手の柔軟な選択方法の解析を通して導き出したネットワークの「柔軟性」と「可塑性」という特徴に関する議論は、バザール経済の実態などを視野に含めることによって、イスラーム圏における市場の制度学を構築する可能性をはらむものであり、研究の発展性の面でも審査員から高い評価を得た。

しかしながら、本論文にも問題点がないわけではない。論文題目にもある"嗜好品"という概念の定義が不十分であるという指摘がなされたほか、本論文の大きなテーマである"イスラーム経済論"とカートに関する議論の関係がまだ十分に整理されていないきらいがあることも、複数の審査員が共通して指摘した点である。

しかしながら、これらの問題点も本論文の価値を大きく損ねるものではなく、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク