学位論文要旨



No 217730
著者(漢字) 谷垣,真理子
著者(英字)
著者(カナ) タニガキ,マリコ
標題(和) 英領期香港における選挙と政治エリート形成過程
標題(洋)
報告番号 217730
報告番号 乙17730
学位授与日 2012.09.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17730号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 准教授 小川,浩之
 東京大学 教授 高原,明生
 東京大学 名誉教授 濱下,武志
内容要旨 要旨を表示する

1997年7月1日の香港返還前後、全世界の注目は香港に集まったといってよいだろう。返還前における最大の憂慮は、中国中央政府による内政干渉であった。しかし、返還後の香港が直面したのはアジア通貨危機と、それに続く景気の後退であった。

1997年返還から10数年を経て、香港政治には大きな変化が生まれつつある。分水嶺となったのは、2003年7月1日の50万人デモであった。国家転覆活動を禁じた基本法23条の立法化に反対して、返還記念日(祝日)の7月1日に50万人の市民がデモに参加した。50万人という数字は、1989年に北京の民主化運動の支持デモ以来の規模であり、結果的に草案が白紙撤回されるなど、香港市民は「表現された民意が必ずしも無視されない」ことを経験した。その後、香港では行政長官選挙および立法会選挙への直接選挙の全面的導入の要求が続いた。2007年12月29日、全国人民代表大会常務委員会は、2017年に行政長官を普通選挙で選出し、その後2020年に立法会の議員をすべて普通選挙によって選出する可能性を認めた。

こうした動きは、1980年代から始まった香港の民主化が、25年近くの時間を経て、定着してきたように思われる。一方で、英領植民地としての150年余の歴史と比較すると、返還後10数年の時間はまだまだ短い。しかも、中国が世界経済を牽引するという状況下、中国内地の社会もまた急速に変貌を遂げつつある。いわば流動的な情勢のなかで、行政長官選挙と立法会選挙への普通選挙の全面的な導入という実験が始まった。

本論はこうした状況を踏まえて、選挙を中心に返還前の香港政治のダイナミズムを整理しようとした。本論は、香港で民主化が始まった1980年代に着目し、どのような人々がその過程に参加したのかを見ていった。本論では選挙戦に参加した人々を香港の政治エリートとしてとらえた。

1980年代に住民の政治参加の制限が緩和されるまで、香港政治に参与するためには、伝統的には香港政府もしくはイギリスからの支持を必要とした。これらの支持を背景にして、政府の諮問委員に任命され、政治エリートとして一歩ずつ香港の中央政治へと近づいていったのである。しかし、民主化の始動とともに、政府から認知されなくとも、香港政治にかかわることが可能になった。先行研究ではすでに、馬嶽と蔡子強が、国政レベルに相当する立法評議会選挙でどのような政治勢力が台頭したのかを分析し、香港の政治制度のもつ特徴を明らかにした。これに対して、本論は周建華の研究のように、分析対象に基層のレベルに近い区議会や、香港の公衆衛生に責任を負っていた市政評議会を含め、1980年代からの各種選挙を網羅的に扱った。さらに、本論では、選挙戦の結果のみではなく、各種選挙相互の関係や選挙キャンペーンも扱い、当落にかかわらず、どのような人々が政治エリートとして選挙戦に参加したのかを明らかにしようとした。

時期区分については、本論は英領期の香港を、(1)第2次世界大戦以前の時期、(2)戦後のヤング・プランから香港返還問題の浮上までの時期、(3)返還問題の浮上から1989年の天安門事件までの時期、(4)その後の時期に分けた。この間、香港の政治制度については戦後直後のヤング・プランと1980年代における普通選挙制度の実施が大きな出来事として特筆できる。

戦後期の香港には「民主」と「愛国」という2つのタブーが存在した。「民主」とは政治制度改革や選挙制度改革など、香港における民主化を主張する動きであり、「愛国」とは中国認識の強調から中国中央政府の政策支持にいたるまで、中国大陸もしくは中国国家に自身のアイデンティティを求める動きである。本論では、この2つのタブーがどのように変容していったかを考察した。

論文の構成は以下のとおりである。

本論は大きく3部に分かれる。「はじめに」で問題意識を述べた後、第1章と第2章では本論が主に取り扱う1980年代の民主化に関する前史を整理する。

第1章では英領植民地誕生から説き起こし、返還問題が浮上するまで政治制度にどのような変化があったのかを説明する。香港政治において、民主化は制限されていたが、民間の有力者は積極的に委員会に登用され、政府は間接的に民意を吸収していた。これを行政的民意吸収型政治と言う。第2章では、戦前から戦後の民主化始動以前の段階で、どのような人々が行政的民意吸収の対象となったのかを考察する。

第2部では1980年代に政府主導で始まった民主化にどのように香港の人々が参加したのかを見ていく。第2部で扱うのは1989年の天安門事件以前の段階である。

第3章で民主化の導入の経緯について述べる。その上でこの時期の3回の区議会選挙の概要を比較した。第4章では『七十年代月刊』の特集記事を題材にして、実際の区議会選挙に立候補した人々がどのような特徴を持っているのかを確認する。第5章は第3章を受けて、1980年代に入ってから発足した政治団体に焦点をあて、区議会選挙を分析する。第6章は区議会選挙ではなく、市政評議会選挙と立法評議会の間接選挙に焦点をあてた。ここでは区議会選挙に参加した人々が、他の選挙に関わったかどうかを検討する。

第3部は1989年の天安門事件以降の香港の民主化を扱う。

まず、第7章では天安門事件以降の香港の各政治勢力の状況を説明する。1980年代の民主化の始動のなかで、香港の政治勢力は徐々に民主化を支持する民主派と、中国政府を支持する親中国派、財界寄りの保守派に分類された。さらに第7章では、選挙民登録状況と人口センサスを比較し、1991年立法評議会選挙が行われた時期の香港の各選挙区の状況を概観する。

第8章は1991年立法評議会選挙に焦点をしぼり、民主派がどのように拡大していったのかを整理する。第9章と第10章は1991年立法評議会選挙の影響の分析である。第9章は親中国派の政治参加をとりあげ、第10章では保守派の政治参加をとりあげる。後者については、各種選挙への参加だけではなく、中国中央政府によって任命された諸委員への参加状況も見た。

本論での分析により、選挙を通じてみた政治エリートの形成過程については以下のようなことがわかった。

英領植民地最初の華人エリートは、香港生まれではなくシンガポール生まれの伍廷芳であった。戦前の華人の政治エリートは香港で英語教育を受け、留学経験を持ったことが共通する特徴であった。

第二次世界大戦直後、香港で提起されたヤング・プランをめぐって香港革新会と華人革新協会が発足した。革新会のメンバーには非華人系が多かった。華人革新協会やその後発足した公民協会も、主要構成員には香港生まれでない者が多く見られた。1980年代まで市政評議会選挙は選挙権がかなり限定されていたが、民選議員を選出して民意を表現できる数少ない場のひとつであった。しかし、この時期、もっとも住民の側にたって政府を糾弾したのは、非華人のエルシー・エリオット(後にエルシー・トウ)であった。

1980年代に入って、香港の青写真として「港人治港」が提起されると、政府主導の民主化に、香港生まれの戦後世代が参加するようになった。なかでも民主派の政治団体は発足が早かった。1989年に天安門事件がおきると、香港では民主化のスピードアップを要求する声が高まった。1991年立法評議会選挙では民主派が直接選挙枠で圧勝した。民主派内部では、香港民主同盟への大同団結が起きたが、それとは別個の活動をするグループもあり、多元化の傾向を見せた。民主派の躍進に対して、親中国派は政治団体を組織した。

この間、1990年に返還後の香港の小憲法である基本法が起草され、直接選挙枠の漸進的増加が明記された。1992年に着任したパッテン総督は既存の枠組みのなかで最大限の民主化を行う政治制度改革案を発表した。民主派寄りの最後の総督の登場により、従来委任議員という形で香港政治に参与していた保守派も、政治団体を発足させた。

このような過程は、第二次世界大戦後の香港における2つのタブーの融解過程でもあった。中英双方の事情から抑制された「民主」は1980年代の民主化のなかで徐々に融解していった。「民主」に関わったのは、民主派が一番早く、ついで親中国派、保守派であった。一方、「愛国」は1967年の香港暴動以後、警戒された概念であったが、1990年代に入って親中国派が選挙に挑戦するなかで、「愛国」が香港政治で使用されるようになった。「愛国」に接近したのは、親中国派がもっとも早く、保守派がそれについだ。なお、民主派が「愛国」を使うようになるのは、筆者は返還後の2003年の50万人デモ以降と考えている。

最後の「おわりに」では、冒頭で提起した香港政治のダイナミズムの構成要因について考察した。その際、制度と非制度、「官」と「民」、香港-中国-台湾の地域関係、香港の社会構造について検討した。

香港は英領植民地としての誕生より、中国世界を外部世界とつなぐ橋梁としての役割を期待された。こうした英領植民地としての150年の歴史をふりかえってみたとき、第二次世界大戦がひとつの分水嶺となっているように思われる。第二次世界大戦後の香港はいかに限定的であろうと「民主化」という課題に取り組んできたことがわかる。戦後直後に発表されたヤング・プランが大香港市議会の創設を打ち出したのは、それを象徴している。大英帝国は各地で植民地の独立に直面し、香港もそれとは無関係ではいられなかった。一方、香港-中国-台湾の地域関係は、1980年代まで香港の民主化を抑制した。この間、香港社会では戦後に香港に流入した人々が香港に定住した。1982年からの中英交渉で、中国が香港における民主化を容認すると、香港では民主化を保障する制度が整備されていった。返還前の予想とは対照的な新たな環境のなかで、返還後も香港の民主化は漸進し、香港政治に新たなダイナミズムを生み出しつつある。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、英領期の香港で、それまでの住民の政治参加への制限が緩和され、民主化の動きが拡大していく1980年代に焦点をあて、各種の選挙戦とそこに参加した政治エリートの分析を軸として、中国への返還前の香港政治のダイナミズムを解明したものである。

論文の構成は、問題意識と先行研究を整理した「はじめに」、本論10章、および論文全体をまとめて香港政治のダイナミズムを整理した「おわりにかえて」から構成されている。

本論は大きく3つの部分からなっている。最初の部分は、1980年代の民主化の前史ともいうべき、英領植民地の成立から1970年代までの時期を扱った、第1章と第2章である。

第1章では英領植民地誕生から説き起こし、返還問題が浮上するまで政治制度にどのような変化があったのかを説明している。香港政治において、民主化は制限されていたが、民間の有力者は積極的に委員会に登用され、政府は間接的に民意を吸収していた。これを行政的民意吸収型政治としている。第2章では、戦前から戦後の民主化始動以前の段階で、どのような人々がこの行政的民意吸収の担い手となったのかを考察している。

第2の部分は、1980年代に政府主導で始まった民主化にどのように香港の人々が参加したのかを検討した、第3章から第6章までである。

第3章で民主化の導入の経緯について述べて、この時期の3回の区議会選挙の概要を比較している。第4章では『七十年代月刊』の特集記事を題材にして、実際の区議会選挙に立候補した人々がどのような特徴を持っているのかを検討している。第5章は、1980年代に入ってから発足した政治団体に焦点をあて、区議会選挙を分析している。第6章は、市政評議会選挙と立法評議会の間接選挙に焦点をあて、ここでは区議会選挙に参加した人々が、こうした他の選挙にどのように関わったかも検討している。

第3の部分は1989年の天安門事件以降の香港の民主化を扱った、第7章から第10章までである。まず、第7章では天安門事件以降の香港の各政治勢力の状況を説明している。1980年代の民主化の始動のなかで、香港の政治勢力は徐々に民主化を支持する民主派と、中国政府を支持する親中国派、財界寄りの保守派に分類されるようになった。さらにここでは、選挙民登録状況と人口センサスを比較し、1991年立法評議会選挙が行われた時期の香港の各選挙区の状況を概観している。第8章は1991年立法評議会選挙に焦点をしぼり、民主派がどのように勢力拡大していったのかを整理している。第9章と第10章は1991年立法評議会選挙の影響の分析である。第9章は親中国派の政治参加をとりあげ、第10章では保守派の政治参加をとりあげている。後者については、各種選挙への参加だけではなく、中国側の諸委員への参加状況も見ている。

こうした分析により、選挙を通じてみた政治エリートの形成過程について、本論文は以下のことを明らかにしている。

第二次世界大戦前の華人の政治エリートは香港で英語教育を受け、留学経験を持ったことが共通する特徴であった。大戦直後、香港で提起されたヤング・プランをめぐって香港革新会と華人革新会が発足した。革新会のメンバーには非華人系が多かった。華人系の華人革新会やその後発足した公民協会も、主要構成員には香港生まれでない者が多く見られた。1980年代まで、市政評議会は選挙権がかなり限定的なものであったが、民選議員を選ぶことができ、民意を表現できる数少ない場のひとつであった。

1980年代に入って、香港の青写真として「港人治港」が提起されると、政府主導の民主化に、香港生まれの戦後世代が参加するようになった。なかでも民主派の政治団体は発足が早かった。1989年に天安門事件がおきると、香港では民主化のスピードアップを要求する声が高まった。1991年立法評議会選挙では民主派が直接選挙枠で圧勝したが、民主派内部では、香港民主同盟への大同団結が起きる一方、それとは別個の活動をするグループが現れ、多元化の傾向を見せた。民主派の躍進に対して、親中国派は政治団体を組織して対抗した。

この間、返還後の香港の小憲法である基本法が起草され、直接選挙枠の漸進的増加が明記された。1992年に着任したパッテン総督は既存の枠組みのなかで最大限の民主化を行う政治制度改革案を発表した。民主派寄りの最後の総督の登場により、従来委任議員という形で香港政治に参与していた保守派も、政治団体を発足させた。

このような過程は、第二次世界大戦後の香港における、「民主」と「愛国」という2つのタブーの融解過程でもあった。中英双方の事情から抑制された「民主」は1980年代の民主化のなかで徐々に融解していった。「民主」に関わったのは、民主派が一番早く、ついで親中国派、保守派であった。一方、「愛国」は1967年の香港暴動以後、警戒された概念であったが、1990年代に入って親中国派が選挙に挑戦するなかで、「愛国」が香港政治で使用されるようになった。「愛国」に接近したのは、親中国派がもっとも早く、保守派がそれについだ。

最後の「おわりにかえて」では、香港政治のダイナミズムの構成要因を、「制度」と「非制度」、「官」と「民」、香港-中国-台湾の地域関係、香港の社会構造という4つの角度から検討し、「民主化を保障する制度」が不十分であったため、「非制度」=「制度化されていないが民主化につながる状況」の自己主張が大きな役割を果たし、それが「制度」の拡充をもたらしたこと、1980年代を境に、香港政治に政府からの委任を受けた「官」ではない勢力=「民」が登場し、「民」の勢力拡大が「官」との間に競争関係を生み出し、香港の既存の体制を揺るがしていること、中国-香港-台湾の地域関係は、1980年代の香港返還問題の浮上までは、香港の民主化を抑制する環境になっていたが、返還が決まり、返還後の香港には、中国が台湾を念頭においた「一国二制度」が適用されることになった結果、中国は香港の民主化を全面否定するようなことはできなくなり、この中国の容認が民主化の第一の規定要因になっていること、香港生まれの香港育ちの世代の台頭による香港アイデンティティの形成など、香港の社会構造の変化が、香港政治のダイナミズムを生み出したこと、などが指摘されている。

このような内容をもつ本論文の意義は、次のようにまとめられるだろう。

香港政治に関心が向けられるようになるのは、返還問題の浮上、特に1989年の天安門事件以降のことであり、比較的研究蓄積が少ない分野である。香港政治を、実証的、内在的に理解しようする本格的な研究がまだ少ない中で、選挙とそれに立候補した政治エリートを軸として、英領期の香港政治の動態を記述した本論文の価値は高い。

特にその中でも本論文は、返還後の香港政治の理解のためには、第二次世界大戦以降の香港における政治参加の努力の蓄積、特に制約された条件のもとではあったが実施された選挙の経験の蓄積が重要であることを指摘し、90年代以降の展開を理解する上では、1980年代の区議会選挙、および市政評議会選挙の動向が重要であることを、これら選挙の動向の緻密な分析を通じて明らかにしている。この、香港政治にとっての1991年以前の歴史、特に1980年代のローカルなレベルの選挙の重要性を解明した点に、本論文のオリジナリティと大きな学術的価値がある。また、先行研究が少ない1980年代以前の市政評議会選挙を扱い、第二次世界大戦前のエリート研究と、1980年代以降の民主化研究の橋渡しをした点も、評価できよう。

この香港政治の連続性と、選挙の重要性を解明する方法として、本論文は選挙戦に立候補した人々を政治エリートとして捉え、その代表的人物のプロフィールを明らかにするという手法を採用している。本論文は、これによって香港政治を担った、民主派、親中国派、保守派などの主な政治潮流の歴史と特徴を生き生きと描き出している。これも本論文の成果として評価できる点である。

審査の過程では、いくつかの問題点も指摘された。

第一に、本論文は選挙事情の詳細な記述という性格が強く、「民主化」、「政治エリート」、「参加」などの重要な分析概念の練り上げが不十分である、それとも関連して、香港政治のダイナミックな変化が読者に十分には伝わらない記述になっており、もっとエリートと政治体制のインターアクションに焦点をあてたほうがよかったのではないか、という指摘がなされた。

第二に、本論文は、香港の返還による歴史の断絶ではなく、連続性を解明することを主眼としているが、この趣旨で一貫していない部分もあり、また、「民主」と「愛国」という二つのタブーが「溶解」し、これが党派を超えたスローガンになっていく経過は描かれているが、反面、その意味内容の時期による変化が十分には描かれていないのではないか、という指摘がなされた。

第三に、本論文では、民主化の進展という点では共通性のある台湾との比較、中国人社会の伝統的な社会関係が、選挙にどうかかわっているのかの分析が、もっと行われてもよかったのではないか、という指摘がなされた。

また、これ以外にも、英国の職名の邦訳として不適切な箇所、校正上の問題なども、若干指摘された。

審査委員会としては、こうした問題点あるいは今後への要望は、本論文の学術的意義を否定するようなものではなく、論文提出者が今後の研究の進展で応えてくれるものと判断した。したがって、本審査委員会は全員一致で本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク