学位論文要旨



No 217732
著者(漢字) 清水,洋成
著者(英字)
著者(カナ) シミズ,ヒロナリ
標題(和) 回虫成虫ミトコンドリア複合体II(ロドキノール:フマル酸還元酵素)の結晶構造解析
標題(洋)
報告番号 217732
報告番号 乙17732
学位授与日 2012.10.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第17732号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北,潔
 東京大学 教授 井上,将行
 東京大学 教授 嶋田,一夫
 東京大学 教授 新井,洋由
 東京大学 教授 清水,敏之
内容要旨 要旨を表示する

【序論】 マラリアに代表される寄生虫感染症は、開発途上国でいまだ猛威を振るい、大きな社会問題になっている。しかし、感染症の治療薬では強い副作用のために命にかかわるものもあるほか、薬剤耐性も解決すべき大きな問題となっており、寄生虫感染症に対する新規治療薬の開発は緊急の課題である。そこで本研究では、新しい抗寄生虫薬の標的として回虫成虫複合体IIを取り上げた。その理由は以下の通りである。

寄生虫においてフマル酸は虫体内の酸化還元環境の恒常性維持やエネルギー代謝に重要な役割を果たしている。また複合体IIは、宿主小腸内の嫌気的環境下で生息する回虫成虫の嫌気的エネルギー代謝において、NADH-フマル酸還元酵素系(フマル酸呼吸系)の最も重要な末端酸化酵素の役割を担っており、生化学的研究も精力的に進められている。寄生虫のモデル生物としては、虫体が大きくてヒトへの感染の危険が少ないブタ回虫の成虫を取り上げた。回虫は寄生生活環中、成長に伴って複合体IIのサブユニット構成を変化させることから、寄生適応の研究対象としても重要かつ興味深い。即ち、幼虫は宿主外の大気存在下において好気的呼吸を行う一方、低酸素濃度の宿主小腸内に寄生する成虫はエネルギーの産生を嫌気的呼吸で行う。成長する過程で、異なる酸素濃度下での生息に適応するため、回虫は、複合体IIを構成する4つのサブユニットのうち、2つを入れ替える。成虫型の複合体IIは嫌気的呼吸鎖における末端酸化酵素の役割を果たすために、ロドキノール:フマル酸還元酵素(QFR)として働く。一方、幼虫型は卵発生時においては好気的呼吸鎖におけるコハク酸:ユビキノン還元酵素(SQR)として働き、クエン酸回路とミトコンドリア呼吸鎖を繋ぐ機能を担う(図1)。また経口感染直後の小腸内ではQFRとして機能すると考えられている。

さらに、回虫の複合体II には2 種類の阻害剤、アトペニンとフルトラニル(図2)が見出されている点でも興味深い。回虫成虫複合体II に対する最も強い阻害剤であるアトペニンは基質であるキノン類に類似した化学構造を有し、哺乳類の複合体II も強く阻害してしまう。一方、市販の殺菌剤であるフルトラニルは極めて特異的に回虫成虫複合体II を阻害し、複合体II をターゲットにした抗寄生虫薬を開発するための有力なリード化合物になりうる。

本研究では、真核生物におけるロドキノール酸化とフマル酸還元のメカニズムを明らかにするとともに、生理的に異なった環境で機能する幼虫型と成虫型の構造・機能相関について知見を得るため、回虫成虫複合体II(回虫成虫QFR)のX 線結晶解析を行った。さらに、抗寄生虫薬の探索や設計をタンパク質の立体構造に基づいて論理的に行うことを目的に、アトペニンとフルトラニルの2 種類の阻害剤との複合体構造を決定し、その選択性のメカニズムを考察した。これに先立ち、いまだ困難といわれる膜タンパク質の結晶化における問題点を解決するために、大腸菌SQR をモデル膜タンパク質とした膜タンパク質の結晶化研究を行った。

【大腸菌SQR の結晶化研究】 大腸菌SQR をモデル膜タンパク質とした結晶化研究から、膜タンパク質の結晶化に成功するためには、サンプルに含まれるリン脂質を可溶化時にコントロールすることが重要であり、結晶化時に性質の異なる2 種類の界面活性剤を混合して用いることが有効であることが分かった。界面活性剤の種類と濃度を変えて可溶化・精製した大腸菌SQR に含まれるリン脂質数は条件によって大きく異なり、SQR 活性を保ち、かつリン脂質数が最も少なくなる可溶化条件で調製し、弱く結合しているだけで立体構造形成や活性に関わっていないリン脂質を除いたSQR を得ることが重要であった。さらに、タイプの異なる2 種類の混合界面活性剤を用いることで結晶性の改善に成功した(図3)。

【回虫成虫複合体II の結晶化と構造解析】 回虫成虫複合体II のサンプル調製や結晶化条件のスクリーニングでは、大腸菌SQR の結晶化研究で得られた知見を用い、回虫成虫ミトコンドリア由来の貴重なサンプルを有効に利用することができた。回虫成虫複合体II の可溶化と精製にスクロースモノラウレート(SML)を用いて、回虫成虫複合体II に強く結合したリン脂質だけを含む結晶化に適したサンプルが得られた。様々な非イオン性界面活性剤を使って結晶化条件のスクリーニングを行い、ドデシルオクタエチレングリコールモノエーテル(C(12)E8)から微結晶が得られた。さらに別の界面活性剤を添加剤にして結晶化条件の最適化を行い、重量比3:2 でC(12)E8 とドデシルマルトシド(C(12)M)を含む界面活性剤から10 μm 程度の小さな結晶が得られた。さらに微量透析法によって100 μm 以上の結晶(図4)を得てX 線回折実験と構造解析を行った。SPring-8 で分解能2.8Aの回折強度データを測定し、回虫成虫複合体II の結晶構造を決定した。また、ソーキング法で阻害剤との複合体結晶を調製し、PF で測定したX 線回折強度データを使って阻害剤との複合体構造を決定した。

【回虫成虫複合体II の結晶構造】 回虫成虫複合体II は、4 つのサブユニット(Fp、Ip、CybL、CybS)から成る膜タンパク質で、CybL とCybS がミトコンドリア膜を貫通し、全体の分子量は約120kDa である。本構造は、真核生物のフマル酸還元酵素としては初めての結晶構造である。回虫成虫複合体II だけに見られる構造上の特徴として、膜貫通サブユニットであるCybS のN 末端が親水性サブユニットFp とIp まで延びて相互作用することで全体構造を安定化していた(図5)。これまでに構造が知られている呼吸鎖複合体IIと回虫成虫複合体II は、親水性サブユニットFp とIp サブユニットのアミノ酸配列の相同性が70%前後と高く、立体構造はよく一致していた。一方、疎水性サブユニットは種により多様である。ミトコンドリア型ブタ心筋SQR およびトリSQR は、回虫成虫複合体IIと同様2 本のポリペプチド鎖(CybL、CybS)とヘムを1 つ持っている。これらのアミノ酸配列の相同性は互いに低いにもかかわらず、CybL とCybS サブユニットも構造がよく似ていた。このことは回虫成虫複合体II がミトコンドリア型SQR から進化してきたものであることを裏付けるとともに、進化の過程で立体構造は不変であったことを示す。

【成虫複合体II と幼虫複合体II の比較】 回虫複合体II には成虫型と幼虫型の存在が知られており、これらはFp とCybS サブユニットが異なり、成長の過程で周囲の環境に応じてロドキノール:フマル酸還元酵素(QFR)、あるいは、コハク酸:ユビキノン還元酵素(SQR)として機能し、基質に対する親和性や活性酸素発生などの生化学的特徴が変化する。まず、補欠分子族近傍のアミノ酸残基に着目すると、FAD のアデニン周辺のアミノ酸残基に違いが認められた。この違いによってFAD の酸化還元電位が変化している可能性が考えられる。また、フマル酸結合部位を蓋するキャップドメイン(Fpサブユニットの276-385 番目と接触している回虫成虫複合体II のFp-Ser152 とFp-Val165 が幼虫複合体II ではAla とGln に置き換わっていることを見出した。この2 箇所のアミノ酸残基は、回虫成虫型複合体II と幼虫型の複合体II の基質に対する親和性変化の鍵である可能性が考えられる。さらに分子表面に存在するアミノ酸残基を比較すると、一方の面に存在するアミノ酸残基はよく保存されているのに対し、その裏側ではかなり異なっていた(図6(a))。一方、ブタSQR と回虫成虫複合体II を比較した場合、異なるアミノ酸残基は分子表面全体に偏りなく分布していた(図6(b))。従って、回虫成虫複合体II と幼虫複合体II でアミノ酸配列が良く保存されている面は、両者に共通の生理的な役割を果たしている可能性が考えられる。

【フルトラニルとの複合体構造】 複合体II の阻害剤として知られるアトペニンA5 はキノンアナログとして基質結合部位に結合することが知られ、種選択性は低い。一方、フルトラニルは回虫成虫複合体II に対して極めて選択性が高い。この選択性の要因をフルトラニルとの複合体構造から明らかにした(図7)。フルトラニルはキノン類と全く異なる構造をしているにもかかわらず、アトペニンA5と同様、ロドキノール結合部位に結合し、そのイソプロピル基はCybL のTrp69 の芳香環とCH-π相互作用をしていた。このTrp69 は哺乳類由来の複合体II ではメチオニンになっており、この相互作用を形成することができない。従ってこの相互作用がフルトラニルの回虫成虫複合体II に対する選択性にかかわっていると考えられる。

【結論】 本研究で明らかにした回虫成虫複合体II の結晶構造解析は、真核生物の呼吸鎖中で末端酸化酵素として働くフマル酸還元酵素としては初めてのものである。これによってミトコンドリア型複合体II から寄生適応による進化を遂げた回虫複合体II において、周囲の環境に応じて性格の異なる成虫型複合体II と幼虫型複合体II について反応機構に関する知見を得ることができた。また、今後の回虫成虫複合体II の生化学的解析に対して構造生物学的な基盤を与えるものである。また、アトペニンA5 およびフルトラニルと回虫成虫複合体II との複合体構造によって、これらの阻害剤による阻害様式、さらに、宿主である哺乳類複合体II との選択性発現のメカニズムの一端が明らかになった。これらの成果は寄生虫の複合体II に対する阻害剤を設計する上で重要な知見になる。今後、この知見に基づいてフルトラニルをリード化合物とした新たな阻害剤の論理的設計と合成展開により、さらに強力で選択性の高い抗寄生虫薬の開発に繋がるものと考えられる。

図1

図2

図3

図4

図5

図6

図7

審査要旨 要旨を表示する

マラリアに代表される寄生虫感染症は、開発途上国でいまだ猛威を振るい、大きな社会問題になっている。しかし、感染症の治療薬では強い副作用のために命にかかわるものもあるほか、薬剤耐性も解決すべき大きな問題となっており、寄生虫感染症に対する新規治療薬の開発は緊急の課題である。本研究では、新しい抗寄生虫薬の標的と考えられる回虫成虫複合体IIを取り上げた。真核生物におけるロドキノール酸化とフマル酸還元のメカニズムを明らかにするとともに、生理的に異なった環境で機能する幼虫型と成虫型の構造・機能相関について知見を得るため、回虫成虫複合体II(回虫成虫QFR)のX線結晶解析を行った。さらに、抗寄生虫薬の探索や設計をタンパク質の立体構造に基づいて論理的に行うことを目的に、アトペニンとフルトラニルの2種類の阻害剤との複合体構造を決定し、その選択性のメカニズムを考察した。これに先立ち、いまだ困難といわれる膜タンパク質の結晶化における問題点を解決するために、大腸菌SQRをモデル膜タンパク質とした膜タンパク質の結晶化研究を行った。

1、大腸菌SQRの結晶化研究

大腸菌SQRをモデル膜タンパク質とした結晶化研究から、膜タンパク質の結晶化に成功するためには、サンプルに含まれるリン脂質を可溶化時にコントロールすることが重要であり、結晶化時に性質の異なる2種類の界面活性剤を混合して用いることが有効であることが分かった。界面活性剤の種類と濃度を変えて可溶化・精製した大腸菌SQRに含まれるリン脂質数は条件によって大きく異なり、SQR活性を保ち、かつリン脂質数が最も少なくなる可溶化条件で調製し、弱く結合しているだけで立体構造形成や活性に関わっていないリン脂質を除いたSQRを得ることが重要であった。さらに、タイプの異なる2種類の混合界面活性剤を用いることが結晶性の改善に有効であった。

2、回虫成虫複合体IIの結晶化と構造解析

回虫成虫複合体IIのサンプル調製や結晶化条件のスクリーニングでは、大腸菌SQRの結晶化研究で得られた知見を用い、回虫成虫ミトコンドリア由来の貴重なサンプルを有効に利用することができた。回虫成虫複合体IIの可溶化と精製にスクロースモノラウレート(SML)を用いて、回虫成虫複合体IIに強く結合したリン脂質だけを含む結晶化に適したサンプルが得られた。様々な非イオン性界面活性剤を使って結晶化条件のスクリーニングを行い、ドデシルオクタエチレングリコールモノエーテル(C(12)E8)から微結晶が得られた。さらに別の界面活性剤を添加剤にして結晶化条件の最適化を行い、重量比3:2でC12E8とドデシルマルトシド(C(12)M)を含む界面活性剤から10 μm程度の小さな結晶が得られた。さらに微量透析法によって100μm以上の結晶を得てX線回折実験と構造解析を行った。SPring-8で分解能2.8Aの回折強度データを測定し、回虫成虫複合体IIの結晶構造を決定した。また、ソーキング法で阻害剤との複合体結晶を調製し、PFで測定したX線回折強度データを使って阻害剤との複合体構造を決定した。

3、回虫成虫複合体IIの結晶構造

回虫成虫複合体IIは、4つのサブユニット(Fp、Ip、CybL、CybS)から成る膜タンパク質で、CybLとCybSがミトコンドリア膜を貫通し、全体の分子量は約120 kDaである。本構造は、真核生物のフマル酸還元酵素としては初めての結晶構造である。回虫成虫複合体IIだけに見られる構造上の特徴として、膜貫通サブユニットであるCybSのN末端が親水性サブユニットFpとIpまで延びて相互作用することで全体構造を安定化していた。これまでに構造が知られている呼吸鎖複合体IIと回虫成虫複合体IIは、親水性サブユニットFpとIpサブユニットのアミノ酸配列の相同性が70%前後と高く、立体構造はよく一致していた。一方、疎水性サブユニットは種により多様である。ミトコンドリア型ブタ心筋SQRおよびトリSQRは、回虫成虫複合体II と同様2本のポリペプチド鎖(CybL、CybS)とヘムを1つ持っている。これらのアミノ酸配列の相同性は互いに低いにもかかわらず、CybLとCybSサブユニットも構造がよく似ていた。このことは回虫成虫複合体IIがミトコンドリア型SQRから進化してきたものであることを裏付けるとともに、進化の過程で立体構造は不変であったことを示す。

4、成虫複合体IIと幼虫複合体IIの比較

回虫複合体IIには成虫型と幼虫型の存在が知られており、これらはFpとCybSサブユニットが異なり、成長の過程で周囲の環境に応じてロドキノール:フマル酸還元酵素(QFR)、あるいは、コハク酸:ユビキノン還元酵素(SQR)として機能し、基質に対する親和性や活性酸素発生などの生化学的特徴が変化する。まず、補欠分子族近傍のアミノ酸残基に着目すると、FADのアデニン周辺のアミノ酸残基に違いが認められた。この違いによってFADの酸化還元電位が変化している可能性が考えられる。また、フマル酸結合部位を蓋するキャップドメイン(Fpサブユニットの276-385番目と接触している回虫成虫複合体IIのFp-Ser152とFp-Val165が幼虫複合体IIではAlaとGlnに置き換わっていることを見出した。この2箇所のアミノ酸残基は、回虫成虫型複合体IIと幼虫型の複合体IIの基質に対する親和性変化の鍵である可能性が考えられる。さらに分子表面に存在するアミノ酸残基を比較すると、一方の面に存在するアミノ酸残基はよく保存されているのに対し、その裏側ではかなり異なっていた。一方、ブタSQRと回虫成虫複合体IIを比較した場合、異なるアミノ酸残基は分子表面全体に偏りなく分布していた。従って、回虫成虫複合体IIと幼虫複合体IIでアミノ酸配列が良く保存されている面は、両者に共通の生理的な役割を果たしている可能性が考えられる。

5、フルトラニルとの複合体構造

複合体IIの阻害剤として知られるアトペニンA5はキノンアナログとして基質結合部位に結合することが知られ、種選択性は低い。一方、フルトラニルは回虫成虫複合体IIに対して極めて選択性が高い。この選択性の要因をフルトラニルとの複合体構造から明らかにした。フルトラニルはキノン類と全く異なる構造をしているにもかかわらず、アトペニンA5と同様、ロドキノール結合部位に結合し、そのイソプロピル基はCybLのTrp69の芳香環とCH-π相互作用をしていた。このTrp69は哺乳類由来の複合体IIではメチオニンになっており、この相互作用を形成することができない。従ってこの相互作用がフルトラニルの回虫成虫複合体IIに対する選択性にかかわっていると考えられる。

以上、本研究で明らかにした回虫成虫複合体IIの結晶構造解析は、真核生物の呼吸鎖中で末端酸化酵素として働くフマル酸還元酵素としては初めてのものである。これによってミトコンドリア型複合体IIから寄生適応による進化を遂げた回虫複合体IIにおいて、周囲の環境に応じて性格の異なる成虫型複合体IIと幼虫型複合体IIについて反応機構に関する知見を得ることができた。また、今後の回虫成虫複合体IIの生化学的解析に対して構造生物学的な基盤を与えるものである。また、アトペニンA5およびフルトラニルと回虫成虫複合体IIとの複合体構造によって、これらの阻害剤による阻害様式、さらに、宿主である哺乳類複合体IIとの選択性発現のメカニズムの一端が明らかになった。

本研究の成果は寄生虫の複合体IIに対する阻害剤を設計する上で重要な知見になる。今後、この知見に基づいてフルトラニルをリード化合物とした新たな阻害剤の論理的設計と合成展開により、さらに強力で選択性の高い抗寄生虫薬の開発に繋がるものである。これらの業績は博士(薬学)の学位の取得に値する優れた研究と評価された。

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