学位論文要旨



No 217737
著者(漢字) 山田,忠彰
著者(英字)
著者(カナ) ヤマダ,タダアキ
標題(和) 〈エスト‐エティカ(Est-Etica)〉の展望 : 〈デザイン・ワールド〉と倫理的〈エステティズモ〉
標題(洋)
報告番号 217737
報告番号 乙17737
学位授与日 2012.10.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17737号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 関根,清三
 東京大学 教授 高山,守
 東京大学 教授 小田部,胤久
 日本女子大学 教授 田中,久文
 東京女子大学 教授 森,一郎
内容要旨 要旨を表示する

本稿では、倫理学と美学という、異別の学問領域とみられる二つの学的知見を織り合わせて、人間のあり方(倫理)と美(芸術)を統合する試みが、〈エスト‐エティカ〉という表題のもとで目ざされる。〈エスト‐エティカ〉とは、美学を意味するイタリア語esteticaの中に、存在est(esseの三人称単数現在形)と倫理学eticaという語が含まれていることに着目し、〈存在の美学〉としての倫理学の構築という構想を示すために造りだされた言葉であり、二つの領域間の架橋を象徴する。

本稿は、序章以下十章から構成されている。

序章では、この言葉の重なりの意味するところが概括的に点描される。人間的生の存在論的探究が倫理学の第一の課題であり、その探究のために本稿が注目するのが芸術作品の創造原理としての「デザイン」である。人間のあり方を問う倫理学は、そのデザインの仕方を問うことになる。人間は自然に対して創造的に関り、それを目的に応じて変形し、人工的な、人間化された文化的世界、〈デザイン・ワールド〉を形成している。これは人間の企図・目的を形象化=デザインした世界故に、人間の自己表現でもある。確かに、芸術は「虚構」であるから、人間の「現実」世界とは異なるとみられるが、しかし、両者は同一の形成的構造原理に基づき、同質の存在論的性格(「仮象性」)をもつ。この〈デザイン・ワールド〉を(芸術的に)生きる人間のあり方の把握のために参照される先行的思想が、エステティズモ(唯美主義)であるが、歴史的エステティズモを超える〈ネオ・エステティズモ〉=〈倫理的エステティズモ〉の創設こそが〈存在の美学〉としての倫理学の構築である点が踏まえられ、以下の諸章の展開への出発点が確保される。

第一章、二章、三章は、〈デザイン・ワールド〉の基本的デザインを描出する。

第一章は、世界をデザインしながら生きる人間の生物性の記号論的意味を、バイオセミオティクスの援用によって、解明し、自然と人間文化のインターフェイスという、相互作用の緊張領域における人間の「デザイン・スタンス」を浮き彫りにする。デザインとは、de(下に・外へ)+sign(しるし・記号)という語源的成りたちから、記号の外化・表出・創設、記号の媒介による意味形成といえ、この形成の営為を通して、世界が有意味なものとして確定的にたち現れると同時に、デザイナー(作者)としての人間の姿もその輪郭を明確にされうる。

だが、人間のこの輪郭が十全に明確になるのは、他者とのコミュニケーションにおいてである。これの解明が、第二章でなされる。コミュニケーションこそ、〈デザイン・ワールド〉を現出させる基幹的ダイナミズムであり、このコミュニケーションをデザインすることとして、〈私〉の存在スタイルが浮き彫りになる。人間は、記号機能的な「物語‐テクスト」、その意味が他者によって解釈的に浮き彫りにされ、顕在化される一連の意味的表現体であり、自己完結的存在ではない。他者との相互的・間テクスト的な「演奏」(解釈)関係において、〈私〉の存在スタイルが、〈私〉の「形成の様式」として明らかになる。

こうしたコミュニケーションによって現出する〈デザイン・ワールド〉全体が、記号とその解釈項が連鎖するテクストとみられうる。そこで、次に問われるのが、この連鎖を可能にする社会的デザイン形象(諸規範的秩序・諸制度)の性格である。第三章は、ヘーゲルの主観的精神論(人間学)と客観的精神論(抽象法・市民社会)の再構成を通して、このデザイン的形象の基礎的次元を描出する。デザインすることであると同時にデザインされたものでもあるデザイン的形象の典型である、身体性としてレアール(自然性)でありつつも、同時にそれから解放されたイデアール(人倫性の実現)である習慣と、イデアールな所記としてレアールな能記(物件)に現前し、その能記を布置(交換を可能に)する価値という形象が取り上げられる。

第四章、五章、六章は、こうした基本的デザインによる〈デザイン・ワールド〉の存在性格とそこにおける〈美〉のあり様に関する本稿のスタンスに、思想史的裏打ちを与える。

第四章は、ヘーゲル美学(作品論)の人間存在論化の試みから、人間による、自らも含めての自然的状態への人工的‐文化的な色彩と装いの創設、自然の直接性の「仮象性」への変形に基づく、イデアール‐レアールな二重化的統一の世界の形成論を確保する。芸術作品が、感性的基盤とそれと結合した意味という二重構造的な、記号機能的性格をもつのと同様に、人間的世界も、人間が人間的現実として経験されること・ものを秩序だて、整理し、説明づける、換言すれば、イデアール‐レアールな形式の形成・創造、配置とそれらの評価(価値)としての認識を含む、人間的デザインが生んだ「作品」的世界である。人間は、芸術作品を制作するように世界をデザインする。

第五章は、ニーチェとその思想圏と交差するゲーテを援用して、〈デザイン・ワールド〉論の思想史的権利づけをさらに試みる。人間と世界との「根源的関係」の制作行為としての生の形式(スタイル)化は、意味=価値解釈(投影)的認識操作による、現実のカオスに対抗した芸術的「仮象の世界」の創設(ニーチェ)である。それは、生命有機体の絶え間なく変容する形態を、その生成過程において、芸術的な自己創造活動として把握する形態学(ゲーテ)から理解された、「有機体の芸術衝動」による。こうして創造される芸術的生の形式(生の芸術的形式)こそ、生を「美化」する「祝祭」芸術であるという了解が、〈デザイン・ワールド〉の歴史的先行形態論として捉え直されうる。

第六章は、この〈美〉の性格の討究を行う。フィードラー、ニーチェ、クローチェの議論が参照されつつ、人間の存在様態についての自己了解と現実概念の転換から、〈美〉の存在性格の変容がみ定められる。美の客観主義的規定と主観主義的規定の、各々の前提的な存在・現実了解に基づく一面性を超える、(〈デザイン・ワールド〉の現実性としての)〈仮象的現実性〉において、間‐主観的に存立する〈意味‐スタイル〉(「成功した表現」)としての〈美〉という規定が称揚される。

以上の討究を踏まえて、第七章、八章、九章は、エステティズモとそこから〈ネオ・エステティズモ〉へと移行せざるをえない所以を論究する。

このエステティズモへの注目にこそ、ヨーロッパ古代からの「カロカガティア」の伝統に奥行きを与えつつ、倫理学と美学との架橋を目ざす本稿独自のスタンスがある。第七章では、このスタンスの展開のための前提として、クローチェの、シュライエルマッハー美学との対決が取り上げられ、他の活動と「円環」的にリンクする芸術活動に人間のすべての活動の地平をみる前者と美学の根源を倫理学にみる後者の視点から、美学と倫理学の交叉の可能性が引きだされる。これは、倫理学と美学との「輻輳」を企図する、近時のある傾向の先取りとみなされうるが、依然として、近代的価値‐認識枠組み(自律性、個人主義)を超脱しえない、近時の美的倫理学の批判的検討から、この交叉の可能性と〈私〉の存在スタイル論との統合の必要性が示される。

この統合の方向こそ〈ネオ・エステティズモ〉である。まずは、歴史的エステティズモの特質と問題点、および継承されるべき点の解明が、第八章で行われる。19世紀のエステティズモによる芸術の自律性の追求、芸術至上主義、個的自由への志向は、客観的な社会的基盤、歴史的現実性への侮蔑やそこからの離脱を生じさせ、デカダンスを帰結したが、この志向それ自身の崩壊というアイロニカルな構造の内包という問題があった。現実の生が「芸術(美)のための生」とされたとはいえ、しかし、芸術がすべてその予備行為でしかない「最高の芸術」としての生という見方は継承されるべきである。芸術的存在としての人間ないし〈私〉の芸術美的作品化とも換言されうる、この見方に、本稿がエステティズモに注目する最大の理由がある。

エステティズモが孕む自己喪失のアイロニーからの脱却には、社会的客観性を取り戻させる、〈私〉の存在スタイル論とのリンクが必要である。第九章では、自己と他者との間‐主観性に基づく芸術美的作品化としての〈ネオ・エステティズモ〉の基幹的枠組みが論究される。現代の芸術と社会の状況(ポップ・アート以降における芸術作品と日常的オブジェとの識別不可能性、それと並行する社会的生の唯美主義化現象)認識を背景として、〈デザイン・ワールド〉における人間活動の芸術性が注視され、〈私〉の存在スタイル=芸術作品としての「美しくあること」の存立が、主観主義的にではなく、他者の受容的解釈によることが闡明される。ここに、〈私〉の〈存在美〉の間‐主観的倫理性がみて取られる。〈ネオ・エステティズモ〉が〈存在の美学〉としての倫理学といわれうる所以である。

第十章は、本稿のこれまでの展開を、心理学や脳科学からの知見(アフォーダンス論、ミラーニューロン論等)をも加味しつつ、総括的に再構成し、「美しくあること」の「表現性」の存在論における他者性の契機(他者の促し)へのさらなる注目から、〈存在美〉=〈倫理美〉、したがって、〈ネオ・エステティズモ〉=倫理的〈エステティズモ〉となる所以を、カント、シラーの所説の批判的検討を踏まえて、論究する。

本稿は、筆者の構想する〈エスト‐エティカ〉の体系的構築のための存在論的枠組みの提示である。論文題目を、「〈エスト‐エティカ〉の展望」と名づけた所以であるが、この方向が、現代における倫理学研究の一定位たりうる権利づけは果たされたといえよう。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、倫理学と美学という、異なる学問領域を織り合わせて、人間のあり方としての倫理と、特に芸術に現れた美とを、統合する野心的な試みである。

序章では、倫理学と美学の言葉の重なりの意味するところが、イタリア語のEsteticaの分析に出発して、概括的に点描される。

第一章、二章、三章は、〈デザイン・ワールド〉の基本を描出する。まずデザインとは、記号の外化・表出による意味形成として捉えられる。この形成の営為を通して、世界が有意味なものとして確定的にたち現れると同時に、デザイナー(作者)としての人間の姿も、その輪郭を明確にされうることが論ぜられる。続いて、他者との相互的・間テクスト的な「演奏」(解釈)関係において、〈私〉の存在スタイルが、〈私〉の「形成の様式」として明らかになると言われる。こうした自他のコミュニケーションによって現出する〈デザイン・ワールド〉全体が、記号とその解釈項が連鎖するテクストとみなされる。その際、ヘーゲルの主観的精神論(人間学)と客観的精神論(抽象法・市民社会)の再構成を通して、このデザイン的形象の基礎的次元が描出されるのである。

第四章、五章、六章では、こうした基本的デザインによる〈デザイン・ワールド〉の存在性格とそこにおける〈美〉のあり様に関する本論文のスタンスに、更なる思想史的裏打ちが与えられる。まずヘーゲル美学の人間存在論化の試みから出発し、ニーチェとその思想圏と交差するゲーテを援用して、〈デザイン・ワールド〉論の思想史的権利づけが試みられ、更にフィードラー、ニーチェ、クローチェの議論が参照されつつ、この〈美〉の性格の討究がなされる。

以上の討究を踏まえて、第七章、八章、九章では、エステティズモとそこから〈ネオ・エステティズモ〉へと移行せざるをえない所以が論じられる。まずシュライエルマッハー美学に対するクローチェの批判的対決が取り上げられ、続いて、歴史的エステティズモの特質と問題点、および継承されるべき点の解明がなされる。それらを踏まえて、〈私〉の〈存在美〉の間‐主観的倫理性が論じられるのである。

第十章は、本論文のこれまでの展開を、心理学や脳科学からの知見(アフォーダンス論、ミラーニューロン論等)をも加味しつつ、総括的に再構成し、「美しくあること」の「表現性」の存在論における他者性の契機(他者の促し)への更なる注目から、〈存在美〉=〈倫理美〉となる所以が、更には〈ネオ・エステティズモ〉=倫理的〈エステティズモ〉となる所以が、カント、シラーの所説の批判的検討を踏まえて、考察されるのである。

本論文は、筆者の構想する〈エスト‐エティカ〉の、十全な体系的構築と具体的な展開には、未だ至っていない憾みは残すが、この方向が現代における倫理学研究の一定位たりうる、その権利づけについては、多岐にわたる思想史的な検討を経て周到に論じ尽くしている。

それゆえ本審査委員会は、この論文が博士(文学)の授与に値するとの結論に達した。

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