学位論文要旨



No 217741
著者(漢字) 神里,達博
著者(英字)
著者(カナ) カミサト,タツヒロ
標題(和) 近年日本における社会的リスク問題の科学技術社会論的研究
標題(洋)
報告番号 217741
報告番号 乙17741
学位授与日 2012.10.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第17741号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,知
 東京大学 教授 堀井,秀之
 東京大学 准教授 木村,浩
 東京大学 教授 佐倉,統
 東京大学 教授 谷口,武俊
内容要旨 要旨を表示する

1.研究の背景、目的、ならびに方法

1)背景

平成に入ったころから日本社会は、次々と新しい難題に直面した。それは、景気・雇用や福祉・社会保障、制度改革や治安や安全保障などの「政治経済的」な問題のみならず、自然災害、新興・再興感染症、生命倫理や医療問題、原子力施設等の事故、環境や食品の問題など、環境・医療・科学技術といった、いわば「理系の社会問題」も目立っている。両者は、若干性格が異なるものの、広い意味で「リスク」に関わるという点で共通するといえる。このような状況は、日本に限定されたものではなく、グローバル化や情報化等を背景に、世界的な趨勢となってきている。これを社会学者は「リスク社会」と呼び、その性質や問題等についての検討が進んできているが、日本におけるリスク社会的状況の実態や性質を明らかにした研究は、ほとんど進んでいないのが現状である。

2)目的

本研究は、近年の我が国において多発しているリスクに係る社会問題の検討を通して、日本における「リスク社会的状況」の実態と性質を明らかにすることを目的とする。

具体的には、近年、日本社会が見舞われているリスク社会問題群の中から、特に食品・医療・科学技術等に関係する問題を対象に、その背景や性質、原因を明らかにする。そこでは特に、問題の発生や認識において、いかなる科学技術的なあるいは社会的な前提が欠如していたのか、という点に注目する。次に、これらの事例研究で得られた知見を総合することで、日本におけるリスク社会的状況、あるいは日本のリスク社会化の実態が、どのような特徴を持っているかを示す。さらに、その問題の解決に向けて、専門家やメディア、また行政がいかなる役割を果たすべきかを検討する。最後に、それらの研究成果を踏まえた上で、日本社会について総合的な時代認識を示し、リスク社会的状況を迎えた日本における、将来の工学のありようについても、若干の検討を試みる。

3)方法

(1)研究方法の概要

広い意味での科学技術社会論の立場から、当該の社会問題に関するリスクが解釈されるシーンにおいて、どのような科学技術的、あるいは社会的な前提があったのか、あるいは欠如していたのか、という観点を中心に、リスク論や社会学の知見を適宜援用しつつ事例研究を行った。そこでは、公刊された資料や文献を用いながら、主として経時的に分析を進めた。

(2)研究の前提と対象の選定

事例研究を行う前提として、本論文における鍵概念である「リスク」と「リスク社会」について、主として先行研究に基づいて、その意味を吟味した。その際に、日本が90年代中ごろから「リスク社会的状況」に入ったことが示唆された。さらに、社会学的な意味での「社会問題」概念を確認した上で、本研究における「社会問題」の定義を示した。

具体的な事例の選択については、以下の三つの条件を満たすものを対象とした。

(i)近年の日本国内において起こった社会問題であること。

(ii)社会的な影響や市民的な関心が大きいリスク問題として観察されたものであること。

(iii)科学や技術の解釈・理解が、当該問題を議論する上で重要な論点となったもの。

その結果、「2002年・食品パニック」「2005年・耐震偽装事件」「2008年・中国製冷凍餃子事件」が条件を満足するものとして見いだされた。

(3)事例研究の詳細

○事例研究1「2002年・食品パニック」

日本では2002年をピークに、「食」が大きな社会問題となった。当時の報道を表層的に見ていくと、この時期に新たな食のリスクが生じたようにも感じられる。しかし、それぞれの報道内容を少し掘り下げ、背景も含めて検討してみると、牛海綿状脳症の国内発生を契機として、社会的なアジェンダが「食」に設定され、過去の多くの問題が掘り起こされた結果生じた現象であることが明らかになった。このことから、アジェンダ設定が適切になされることの重要性が示唆された。

○事例研究2「2005年・耐震偽装事件」

いわゆる「耐震偽装事件」を題材に、特にメディアの「フレーミング」の機能に注目しつつ、リスクに関する情報の報道のありようや、その際の公共的な言論空間における科学技術的な知識の扱われ方などを検討した。その結果、この事件は、リスクの総量はそれほど大きいものではなく、また特殊な犯罪に起因する希なケースであったにもかかわらず、メディアのフレーミングの不適切さと、科学的・技術的知識の不足によって、社会的な信頼が損なわれたために、巨大な社会問題として構成された事例であったことが示された。さらに、その「解決」のために講じられた対策がいわゆる「官製不況」を作り出す一方、「既存不適格住宅」など重要な問題の対策は、ほとんど進まなかったことが、指摘された。

○事例研究3「2008年・中国製冷凍餃子事件」

2008年、中国製冷凍餃子を食べた人々が食中毒症状を起こし、そこから違法な農薬が検出される事件が発生した。この事件の社会的・歴史的背景を詳細に分析した結果、科学的なリスク以外の要因によって、一種の共同主観的に構成されたリスク認知が拡大し、結果的に大きな社会問題として構成されたケースであったことが明らかになった。この事例は、パーソナルなレベルの心理学では確認されている「リスク認知に対する感情のフレーミング作用」が、集合的なレベルでも起こっていることが実証された例であるとも考えられ、リスクガバナンスにおいて重要な観点を提供するものとなった。

2.事例研究の結果に基づく考察

1)共通する現象としての「アジェンダ爆発」概念の提示

三つの事例研究の結果を総合的に検討したところ、「日本におけるリスク社会的状況においては、なんらかの理由で特定のアジェンダが設定され、その問題に社会的な注目が大いに集まることで、行政や産業界もいわば"視野狭窄"に陥ってしまい、リスクガバナンスの破綻を来たすことがある」という現象が存在する可能性が明らかになった。これを「アジェンダ爆発」と仮説的に名付け、その性質を検討した。

2)「安全安心」についての考察

一方で、日本おいてこの「アジェンダ爆発」が引き起こされると、しばしば、「安全安心」を求める声が社会に広がることが注目される。この問題を検討した結果、日本社会は、リスクに関する問題が社会の中心的な課題として前景化するという点では、欧米と共通するリスク社会的な状況にあるといえるものの、その対応においては、「アジェンダ爆発」に代表されるように、安全安心を他者、とりわけ政府に強く求めるという前近代的な傾向が残っており、その混在状態こそが、日本のリスク社会的状況の重要な特徴である可能性が、指摘された。

3)「アジェンダ爆発」問題の解決方法についての考察

さらに上述の「アジェンダ爆発」を防止、ないし緩和するために、いかなる方法がありうるかを検討した。

まず、「爆発」においてメディアが重要な役割を果たしていると考えられることから、メディアの活動について詳細な検討を行った。しばしば聞かれる、「リスクの絶対量と報道量が比例しない」というメディアへの批判に対しては、メディアは単なる情報伝達装置ではなく、権力への監視機能や、公的な議論の場を構成するという機能があることを確認し、そのような批判は必ずしも妥当でないことを示した。結論として、メディアは社会の鏡であり、単にメディアを批判するだけでは問題は解決しないことが示唆された。

その上で、技術的な問題解決の方策を模索した。まず、専門家が、「爆発」を防ぐために寄与しうる条件について、ある感染症の報道において「アジェンダ爆発的状況」が防止されたケースを例に、詳細な検討を行った。また、行政も、「爆発」時の「燃料」となってしまうような、リスク問題解決についての不作為を、平素から減らしておくことが重要であることを指摘した。また、メディアも、記者クラブに代表される、画一化しがちな業界慣行を改め、多様性の高い調査報道を実現していくことが社会全体にとって重要であることを指摘した。

3.結論

事例研究を通してさまざまな知見が得られたが、特に「アジェンダ爆発」の可能性が見いだされたことが重要である。この現象は「トリガー」「燃料」「消火剤の不在」の三条件がそろった時に起こることも示された。また、この現象は諸外国でもいくつか、報告があるものの、他の先進諸国では比較的希な現象である可能性も示唆された。

一方で、このような現象が起こると、日本社会では主として政府に対して「安全安心」を求める声が高まることが観察される。しかし「安全安心」という思想は、個人が自由意思に基づいて決断することに伴う現象としての「リスク」とは、まったく方向性が逆の、パターナリスティックな態度である。このことから、日本はリスク社会的状況であると同時に、それとは異なる「安全安心社会的状況」でもあり、この混在が現在の日本社会の一つの特徴である可能性が、提示された。

さらに「アジェンダ爆発」を防止、ないし緩和する方策を検討した。この問題の原因は必ずしもメディアだけではなく、社会全体の問題としてとらえるべきことである点が示唆された。これを受け、「アジェンダ爆発」に対する専門家の役割が検討され、さらに行政やメディアが今後とるべき方向性も議論された。

最後に、このような状況が起こっているマクロな原因としての、日本文化の特質や時代認識が考察され、そのような状況を踏まえた、将来の工学に求められる条件が検討された。

審査要旨 要旨を表示する

近年の日本社会は政治経済的な問題のみならず、環境・医療・科学技術分野に関わる問題があり、両者は広い意味で「リスク」に関わる。このような状況を社会学者は「リスク社会」と呼び、その性質や問題等についての検討が進んでいるが、日本におけるリスク社会的状況の実態や性質を明らかにした研究は、ほとんどないと認識している。このような背景のもとに、本論文の目的を、近年の我が国において多発しているリスクに係る社会問題の検討を通して、日本における「リスク社会的状況」の実態と性質を明らかにすることとしている。

本論文は8章で構成されている。第1章では背景と研究目的が示されている。第2-4章は3つの事例研究が示されている。第5章では日本におけるリスク社会的状況の特質について議論されており、第6章では問題解決策がまとめられている。第7章では本研究の工学的意味について記載されており、第8章は結論である。

本研究では、近年、日本社会が見舞われているリスク社会問題群の中から、特に食品・医療・科学技術等に関係する問題を対象に3事例を取り上げ、その背景や性質、原因を明らかにしている。

事例研究1「2002年・食品パニック」(第2章)

このパニックは、特異な疾病であるBSEを契機として大きな社会的な不信感が生まれ、それによって食品についての問題意識が高まり、呼応する形で告発やメディアの報道がなされ、長年存在してきたさまざまな不正や問題が掘り起こされた結果の総体と考えられるとしている。これらの問題は、制度的な不備、輸入食品の増大、食の外部化の進展、企業のコンプライアンス、WTO体制における自由化とハーモナイゼーションの問題など、さまざまな要素が絡み合って構成されていたとしている。すなわち、「食」というアジェンダが社会的に設定された結果、それに関するさまざまな問題が一度に表に出たことによって起きた社会問題であったことを明らかにしている。

事例研究2「2005年・耐震偽装事件」(第3章)

ここでは特に、メディアの「フレーミング」の機能に注目しつつ、リスクに関する情報の報道のありようや、その際の公共的な言論空間における科学技術的な知識の扱われ方などを検討している。事件を事後的に検討した結果、一人の元・建築士の犯罪がトリガーとなって、「建築に対する不信」というアジェンダが作られ、全国のさまざまな建築物の問題が社会的に注目され、「リスクの掘り起こし」が起こったとしている。このような現象が起こった背景には、メディアのフレーミングの不適切さと、科学的・技術的知識の欠如による社会的な誤解が影響していた面が大きいとし、そのような条件のもとで、「信頼のドミノ倒し」とも言うべき事態が起こった結果、巨大な社会問題が構成されたと分析している。

事例研究3「2008年・中国製冷凍餃子事件」(第4章)

現代中国のような急速な近代化の過程にある国はいずれも社会にさまざまな矛盾が蓄積しやすく、その結果、食品不祥事も起こりやすいことを歴史的な比較によって明らかにしている。これらの検討により、我々の社会においては、一種の共同主観的に構成されたリスク認知が、科学的なリスク以外の条件に大きく依存して拡大し、このような大きな社会問題が構成されたと考えている。従ってこの事例は、パーソナルなレベルの心理学では確認されている「リスク認知に対する感情のフレーミング作用」が、集合的なレベルでも起こっていることが実証された例であると考えている。

第5章ではこれらの事例研究を踏まえて日本におけるリスク社会的状況の特質について分析している。まず、共通する現象としての「アジェンダ爆発」概念が提示されている。すなわち、「日本におけるリスク社会的状況においては、なんらかの理由で特定のアジェンダが設定され、その問題に社会的な注目が激しく集まることで、行政や産業界もいわば視野狭窄に陥ってしまい、リスクガバナンスの破綻を来たすことがある」という現象であるとしている。この現象は「トリガー」「燃料」「消火剤の不在」の三条件がそろった時に起こるとしている。次に、日本おいてこの「アジェンダ爆発」が引き起こされると、しばしば、「安全安心」を他者、とりわけ政府に強く求めるという前近代的な傾向が残っておるとしている。このことから、日本はリスク社会的状況であると同時に、それとは異なる「安全安心社会的状況」でもあり、この混在が一つの特徴であるとしている。

第6章では「アジェンダ爆発」を緩和するための方法が検討されている。まず、メディアは単なる情報伝達装置ではなく、権力への監視機能や、公的な議論の場を構成するという機能があることを確認して、専門家がメディア空間において適切に寄与するための条件を考察している。また、メディアのアジェンダ設定のあり方が依然として重要であることを示し、画一化しがちな業界慣行を改め、多様性の高い調査報道を実現していくことが社会全体にとって重要であることが述べられている。また、行政にあっても、「爆発」時の「燃料」となる、リスク問題解決についての不作為を、平素から減らしておくことが重要であることを指摘している。

第7章ではマクロな原因としての日本文化の特質や時代認識が考察され、それを踏まえた、将来の工学に求められる性格が示されている。すなわち、「問題解決のみならず、問題発見・問題定式化のための工学」、および「モノ作りのみならず、モノやリスクを処理するための工学」、「社会のための工学」、「工学倫理」、「学問分野を越境し、知を総合する工学」の重要性が述べられている。

第8章は結語である。

以上要するに本論文は近年日本におけるリスク社会的状況について科学技術社会論的な研究を行ったものである。そこでは問題の本質を分析するとともに問題の解決に向けての検討を行い、新しい工学の姿を示しており、リスクと社会に関する工学への貢献が大きい。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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