学位論文要旨



No 217748
著者(漢字) 木村,英樹
著者(英字)
著者(カナ) キムラ,ヒデキ
標題(和) 中国語文法の意味とかたち : 「虚」的意味の形態化と構造化に関する研究
標題(洋)
報告番号 217748
報告番号 乙17748
学位授与日 2012.11.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17748号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 大西,克也
 東京大学 教授 林,徹
 東京大学 教授 西村,義樹
 東京大学 准教授 小野,秀樹
 麗澤大学 教授 井上,優
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、現代中国語の文法的意味をはじめとする種々の「虚」的意味とその形態的な表れおよび構造的な表れの関係を明らかにしようとするものである。

中国語の品詞分類には伝統的に「実詞」対「虚詞」という二分法が用いられてきた。実詞は実質語(content word)に、虚詞は機能語(function word)にほぼ対応する。しかし、「実」と「虚」の対立は品詞のレベルのみに留まるものではない。イントネーションなどの音声形式が担う意味、統語構造が担う文法的意味、構文が担う構文的意味、言語表現と発話環境の相互作用を基盤として成立する語用論的意味等々、語のレベルを超えてさまざまな言語形式が担う意味は、機能的意味も含めて、概ね「虚」なるもの、すなわち実質性に乏しいものである。現実の発話は、実詞が表す諸々の実質的な意味を素材とし、それらに、さまざまな「虚」的意味が有機的かつ複層的に結びつくかたちで形成されている。

典型的な孤立語に属し、形態変化という文法手段をもち合わせず、また純粋に文法形式と呼ぶに相応しい機能語にも乏しい中国語にあっては、文法的意味をはじめとする「虚」的な意味のほとんどが非顕在的(covert)なかたちで形態や構造のなかに組み込まれており、その非顕在性の度合いは、膠着語的な言語や屈折語的な言語に比してより高く、そのことが、従来の中国語文法研究におけるさまざまな「虚」的意味の見落としや、文法記述の不備をもたらす大きな要因となっている。

本論文は、中国語の文法体系の再構築を目指す記述的および理論的研究の一環として、ダイクシスおよびアスペクトに関わる一連の虚詞的な形式と、ヴォイスに関わる構文をはじめとする複数の構文を取り上げ、従来の研究が見落としてきたか、あるいは的確に捉え切れなかった諸々の「虚」的意味を探り出し、それらと形態的もしくは構造的な「かたち」の対応関係を明らかにし、加えて、その対応のあり方を自然言語としての普遍性と個別性という観点から特徴づけ、より一般性の高い、説明力に富む記述を試みるものである。

第I部では、指示詞、三人称代名詞、および不定称形式を対象に、狭義のダイクシス論から待遇論に及んで議論を展開する。まず、第1章(「指示詞の意味機能」)においては、指示詞の範列の基本系列である二系列の形式――"这/那"と"这个/那个"――を取り上げ、前者は事物を指さすだけの「指示機能」を担う指示詞であり、後者は名詞表現の代わりに用いる代用形式、すなわち「代示機能」を担う指示代名詞であるという意味機能上の対立を統語論的、構文論的および語用論的事象に基づき論証する。併せて、指示詞もしくは指示代名詞と呼ばれる語類が言語横断的に担う指示機能と代示機能という二種類の意味機能が、中国語では言語表現の上で差異化され、"这/那"と"这个/那个"という二種類の異なる形式によって分け担われていることを明らかにする。

事物を指さす"这/那"の指示機能を認知言語学におけるグラウンディングの観点から捉え直せば、それは、事物を話し手の立脚するリアルな空間に定位する機能にほかならず、その意味において、第1章で取り上げた"这/那"は<空間性>という意味特性を有する形式であると考えられる。第2章(「指示詞の連接機能」)では、指示と定位という二種の意味機能が<空間性>を介して類縁性を有し、その反映として、"这/那"が相対的空間詞(=「方位詞」)との間に複数の統語機能を共有するという事実を見出す。加えて、二つの名詞表現を繋ぎ合わせる"这/那"の「連接機能」が、方位詞と共有する「トコロ化機能」と「連体機能」の同時発動の産物であることを明らかにする。

第3章(「指示詞のダイクシス」)では、近称と遠称の意味論的な対立の機構を解明すべく、認知言語学における「捉え方」(construal)の観点から、事物が話し手によってどのように捉えられた場合に話し手はそれを<近い>と認識し、あるいは<遠い>と認識するのかを考察し、話し手の<近>か<遠>かの認識の決定に与る意味論的要因と語用論的要因を明らかする。

第1章で取り上げた"这个/那个"は、事物のみを対象として代示機能を担う形式であり、人間を対象に用いることはできない。それに代わって人間を対象に代示機能を担う形式は三人称代名詞の"他"である。ただし、"他"は、対話者の連帯の意識の外に存在する「他」者を指すことから<排他的>なニュアンスを帯び、且つ代用形式であることも相俟って、目上の人物を対象に用いるには一定の待遇論的制約が働く。第4章(「三人称代名詞の敬語制約」)では、"他"による指示と照応の現象を待遇論の観点から捉え、"他"の使用に伴う非礼感の度合いを左右する構文論的、機能論的および語用論的要因を明らかにする。

第5章では、前章までで扱った定称から不定称に目を転じ、{哪-}をはじめとする、〈人〉〈事物〉〈数〉〈量〉の問いに用いられる5種類の不定称形式を取り上げ、それらが疑問詞として用いられる際の意味上および文法機能上の対立に、「属性記述要求機能」と「個体指定要求機能」という二種類の機能の対立が関与的指標として作用しているという事実を種々の意味的および統語的事象に基づいて論証する。

第II部では、従来のアスペクト論を見直し、アスペクトを表す形式と理解されてきた複数の形式について新たな視点からそれらの意味機能を捉え直し、併せて、今後のアスペクト研究に益する新たな方向性の提示を試みる。まず、第6章(「北京官話における「実存相」の意味と形式」)では、北京官話を対象とする事例研究として、北京官話に用いられる4種の形式を取り上げ、従来の記述がそれらすべてを<持続>や<完了>という時間相を表す形式と捉えてきたことの不備を指摘し、動詞接辞の"着"と文末助詞の"呢"については、「事柄または事物に空間的実存性を付与する形式」、動詞接辞の"了"と文末助詞の"了"については、「事柄または事物に時間的実存性を付与する形式」として捉えるべきものであることを種々の意味的および文法的事象に基づいて論証する。

第7章(「動詞接辞"了"の意味と機能論的特性」)では、動詞接辞の"了"を取り上げ、"了"による<完了>アスペクトの表現の成立要件を意味論、統語論および機能論の観点から考察し、中国語話者における<完了>の認識のあり方を明らかにし、併せて、従来見過ごされてきた"了"の機能論的振舞いに着目しつつ"了"の意味機能を明確に特徴づける。

第III部ではヴォイスに関わる意味と構造および形式の関係をカテゴリ化と文法化の観点から論じる。本研究では動詞の形態変化を前提とする伝統的な形態論的ヴォイス論の枠組みを越え、言語類型論的な観点からヴォイスという現象をより広く捉え直し、屈折語としての中国語におけるヴォイス的現象のあり方とその特質を意味と構造の両面から捉える。まず第8章(「ヴォイスの意味と構造」)では、<受身>と各種の<使役>を表す一連の有標ヴォイス構文について、構文間の意味および構造の対立と相関の関係を有機的に特徴づけ、カテゴリ化の観点から各構文間の対立を動機づける意味的指標を明らかにする。次に第9章(「北京官話授与動詞"给"の文法化」)では、授与動詞がヴォイス標識の機能を獲得するという方言横断的な現象を取り上げる。中国語では、多数の方言において、授与動詞が文法化により、ヴォイス構文における二種類の関与者――すなわち、受身構文における<動作者>と、結果構文をベースとするタイプの使役構文における<被使役者>――をマークするヴォイス標識機能を獲得している。本章では、北京官話の授与動詞を対象に、この種の文法化のプロセスを明らかにし、併せて、<受動>と<使役>が結果構文の有する<結果性>を介して<授与>との間に構文ネットワークを形成するという意味的連携の構図を提示する。

第IV部では三種類の構文を対象に構文論を展開する。まず、第10章(「"的"構文の意味と構造」)では、典型的な虚詞に属する"的"が述語動詞に後接するかたちの「"的"構文」を取り上げ、従来説得力のある説明が得られていない本構文の"的"の役割について、これを「動作に対する区分機能を担う接辞」と特徴づけ、その妥当性を種々の意味的および文法的事象によって裏づける。さらに、"的"の動作区分機能は、連体構造助詞の"的"の事物区分機能から拡張的に生じたものであり、接辞としての文法機能はこの機能拡張に伴うカテゴリ・シフトの結果であるとの解釈を示す。第11章(「二重主語文の意味と構造」)では、従来「題述文」と「主述文」の区別が曖昧であったことに起因して、その規定が明確ではなかった二重主語文について、その範囲を構文論的根拠に基づいて明確にし、その上で、「経験的事態を表すタイプ」と「属性的事態を表すタイプ」という、意味構造の異なる二つのタイプの二重主語文の存在を指摘し、各々の意味と構造を特徴づけ、中国語の二重主語文の特質を明らかにする。第12章(「"有"構文における「時空間存在文」の特性」)では、まず、広義に<所有>を表すいわゆる"有"構文の意味特徴を明らかにし、次に、"有"構文と同様に"有"を述語動詞とし、従来一括りに「存在文」と呼ばれてきたタイプの構文について、これを、知覚的な存在事象を述べるタイプと概念的な存在事象を述べるタイプとに二分し、それぞれの意味と構造を"有"構文との関連において特徴づけ、両者の対立を明確にする。併せて、知覚的な存在事象を述べる存在文のみが目的語の不定性(indefiniteness)と数量詞付加に関わる制約を受けるという事実を明らかにし、その理由を機能論的な観点から説明する。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、現代中国語文法の再構築を目的として、ダイクシス・アスペクト・ヴォイスという三つの文法範疇、及び複数の基本的構文を取り上げ、それぞれの現象に対してより一般性の高い記述を試みる作業を通じて、孤立語としての中国語文法のあり方の特質を解明したものである。

第I部では、指示詞、三人称代名詞等を題材に、ダイクシス論が展開される。まず指示詞「这(コレ)」「那(ソレ)」の基本的性質として、それ自身が事物を表示する機能はなく、事物を「指さす」だけの指示機能を担う指示詞であるという注目すべき解釈が示される。それ故に事物を話し手が立脚する空間に定位する機能を持ち、同じく空間性を体現する方位詞との間に、二つの名詞句の連接機能他様々な用法が共有されていることを見出すなど、従来の研究に比べて格段に広がりと奥行きのあるダイクシス論となっている。

第II部は、一般にアスペクト表示形式と見なされている4つの形式を取り上げ、事物や事柄を空間的に定位する動詞接辞「着」・文末助詞「呢」と、事柄や動作行為を時間的に定位する動詞接辞「了」・文末助詞「了」の二系統から成り立っていることを論証した。とりわけ「着」「呢」が空間系実存相を担うとする分析は、従来のアスペクト論に根本的な転換を迫るもので、理論的に極めて高い価値を持つ。

第III部は、中国語文法研究ではとかく等閑にされがちなヴォイスを正面から論じたものである。受身構文と各種の使役構文とのプロトタイプ的な意味および構造の対立を有機的に関連付け、構文の文法化を視野に入れつつ整然と示されたその体系は、歴史的にも方言的にも極めて豊富かつ複雑な現象を持つ中国語のヴォイス研究において、高い応用価値があると評価される。

第IV部では、これまで明解の得られなかった三つの構文を対象に、構文の意味と構造の解明が行われている。まず動詞に後接する"的"構文に関して、既然の動作行為の属性を措定する機能を持つとした上で、名詞を分類する作用を持つ構造助詞"的"からの拡張によって生じたと説明する。次に二重主語構文については、「経験的事態を表すタイプ」と「属性的事態を表すタイプ」という意味構造の異なる二つのタイプがあることを明らかにした。三つめとして、従来曖昧なままに存在文と一括りにされてきた"有"構文には、知覚的な存在を述べるタイプと概念的な存在を述べるタイプがあることを明らかにした。これらはいずれも構文論の精度を大幅に高めることに寄与している。

形態変化のない孤立語に属し、機能語にも乏しい中国語においては、言語形式が担う意味はほとんどが非顕在的なかたちで、形態や構造の中に組み込まれている。本論文は、乏しい資源を巧みに利用し、機能語と実質語の協働のもとに豊かな「虚」的意味を表現する現代中国語文法の姿を明快かつ周到に解き明かすことに成功しており、その成果と手法は、今後の中国語のみならず多くの言語研究における道標としての役割を果たすものとして高く評価される。本審査委員会が、本論文が博士(文学)の学位を授与するに相応しいと判断する所以である。

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