学位論文要旨



No 217749
著者(漢字) 服部,文昭
著者(英字)
著者(カナ) ハットリ,フミアキ
標題(和) ロシア語史研究における『アルハンゲリスク福音書』の意義 : 文章語の萌芽ならびに日用語(живая речь)の資料として
標題(洋)
報告番号 217749
報告番号 乙17749
学位授与日 2012.11.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17749号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 沼野,充義
 東京大学 教授 金澤,美知子
 東京大学 名誉教授 佐藤,純一
 明治大学 教授 岩井,憲幸
 慶應義塾大学 教授 金田一,真澄
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、『アルハンゲリスク福音書』のロシア語史研究における意義につき、特に文章語萌芽期の資料ならびに当時の日用語(живая речь)の資料としての両側面から、論じたものである。『アルハンゲリスク福音書』とは、11世紀ロシアの典礼用福音書抜粋(アプラコス)である。現存のロシア写本中、その成立の古さにおいて、1056年~57年成立の『オストロミール福音書』、1073年および1076年の二つの『スヴャトスラフの文集』についで四番目の古さを誇り、主要部分は1092年に書き写されたものである。1877年、アルハンゲリスク県のある農民がモスクワにもたらしたことで世に知られ、『アルハンゲリスク福音書』の名称もこのことに由来する。

ロシア語は、ロシアに一つの国家が生まれた時に、すなわちキエフ・ルーシ建国(882年)とともに、はじめて誕生したわけではなく、それよりも昔にさかのぼる先史がある。この先史時代には、当然、体系的な文字の使用は無かった。それが、国家が生まれるような、社会の複雑化に伴って、文字も用いられるようになり、その結果としてロシア語は、当時のキエフ・ルーシの社会発展に応じた、均質単一ではなく幾つかの下位的な体系の集合体として捉えられるべきものとなっていた。したがって、ロシア語の歴史を考察する場合には、当然ながら、ロシア語を標準語をはじめ幾つかの体系の複合的な集合体として捉えてゆかねばならない。

文章語誕生当時のロシア語の成り立ちを考察する資料としては、金石文、各種の証文類、そして福音書をはじめとする教会関係の文献などがある。11世紀の文献資料としては、結局のところ、数点余りの福音書など教会関係の文書に頼らざるを得ない。宗教的な観点から考えると、教義や宗教行事を執り行う手順、律法、聖人の伝記などの記録を残す必要性があった。このような経緯から、さまざまな典籍が編まれ、それが写本として書き写され受け継がれてゆくわけである。そして、書き言葉は、このような作業の中で成立し発展してゆくこととなる。したがって、書き言葉の歴史を研究する場合には、福音書などの写本はきわめて重要な資料となり得る。

キエフ・ルーシにおける文章語は古代教会スラヴ語(Old Church Slavonic以下OCS)と土地の言葉である東スラヴ族の日用語(живая речь)とのハイブリッドな存在であること、したがって、その成立の過程においては、古代教会スラヴ語が大切な役割を果たし常に核としてあったことは、スレズネフスキーやシャーフマトフを始め、これまでの研究においても明らかにされている。その際、中世ロシア写本に見られるOCSとは異なる表現(今後は「異読」箇所と呼ぶ)は、規範であるOCSからの逸脱として見なされることが多かった。すなわち、土地の言葉である東スラヴ族の日常語による「乱れ」と見なされることが多かった。しかし、異読個所の全てを単なる逸脱として処理してしまうことには問題がある。確かに、異読個所には単純な誤記や誤読も含まれているのだが、その一方で、写し手による積極的な改変と見なせる場合もあるのだ。キエフ・ルーシでの写本の作成に際しては、ただ単に機械的に筆写するのではなくて、より洗練しよう、より分かり易くしようといった「編集」的な態度がとられた。異読箇所はそのような積極的な編集的態度の反映と見なせるのである。異読箇所を、東スラヴ族の日常語の影響による、規範的OCSの「乱れ」とだけ見なす従来のアプローチは、ロシア語史の立場からは不十分である。

本論文では、写し手による積極的な改変と見なせる異読個所は、土地の言葉の東スラヴ族の日用語とOCSとが混ざり合って古代ロシア文語となってゆく過程を示す貴重な資料であると考えて、この観点から、改めて中世ロシアの福音書写本を、具体的には『アルハンゲリスク福音書』を中心にして、その異読個所の考察を行なってゆく。

積極的な改変と見なせる異読箇所は、質的に異なる二つのタイプに分けられる。一つは、福音書の平行箇所の利用や、福音書以外の月課経などの表現の利用による、創造的な洗練作業とも名づけるべきもの(ヴェレシチャーギンによる先行研究がある)。もう一つは、OCSから受け継がれた文章の中で、当時の東スラヴ人にとって分かりにくいと思われる表現をより身近で分かりやすいものへと書き換える場合である。本論文では、従来は規範からの単なる逸脱として見過ごされがちだった後者の諸例に関しても、ロシア語史研究にとって重要な意義のある編集的な異読箇所として考察を加えた。

以上に述べたように、本論文では『アルハンゲリスク福音書』を用いて萌芽期の古代ロシア文語の姿、さらには東スラヴ族の日用語(живая речь)の痕跡を捉えてゆく。その際に、ロシア語時制の多様な面のうち、本論考では過去時制に、それもとりわけ未完了過去とアオリストに焦点を当ててみたい。それは、二つの理由による。一つには、従来の解釈では、ロシア語の歴史において最も大きな変わり方をしたのは動詞であり、とりわけ過去時制において顕著な変化が見られたとされているからである。二つ目の理由は、より本質的で議論の中心となるものと考えられる。すなわち、未完了過去とアオリストの分布についてどのように解釈すべきかをめぐる、研究者の間の見解の不一致の存在である。従来からの説では、スラヴ祖語時代から継承されてきた過去形のうち、12世紀の間に未完了過去が失われ始め、ついでアオリストも用いられなくなり始める(すでに13世紀の文献ではアオリストの誤った使用が見られる)。こうして2つのシンセティックな過去形がいわゆる完了によって駆逐されて、やがて完了に由来する形態が唯一の過去形となったとされる。このような従来の図式に対して、ハブルガーエフらは、未完了過去やアオリストの用いられ方の研究を踏まえて、修正を試みる。これらの過去形はスラヴ祖語により近い状態だったとされる古代教会スラヴ語を媒介として古代ロシア文語に取り敢えずは継承されたかもしれないが、12世紀の東スラヴ族の日用語にはそれ本来の時制の意味を持ったアオリストも未完了過去も存在しなかったと主張する。彼らの説に立てば、現代ロシア語に見られるようなアスペクトと時制の仕組みが、すでにキエフ・ルーシの言葉の中に胚胎していたと考えることも可能なのである。

本論文は、以上に述べてきたことを六つの章に分けて考察する。第一章から第四章では、キエフ・ルーシでの文章語の萌芽とその特徴につき論じる。一方、第五章と第六章では、『アルハンゲリスク福音書』を活用した東スラヴ族の日用語(живая речь)の研究の一例を実証的に論じた。

第一章、第二章では、概念の整理や枠組みの解明を行う。第一章は、キエフ・ルーシにおける文章語の萌芽と誕生、その文章語の特に萌芽期における特色、『スヴャトスラフの文集(1073年)』に見る具体例などを論じる。第二章では、古代ロシア文語と称されるキエフ・ルーシの文章語の実体と実相を、その研究史も踏まえつつ、明らかにする。その際に、ダイグロシアの概念とそのキエフ・ルーシへの適応の妥当性についても言及する。

第三章では、古代ロシア文語の萌芽から誕生までの時期を代表する文献である『オストロミール福音書』、『アルハンゲリスク福音書』、『ムスチスラフ福音書』について、写本作成上の特色と古代ロシア文語の特性との双方を踏まえつつ、その位置づけを明らかにする。より具体的には、アプラコスの構成に着目した『オストロミール福音書』の新たな位置づけ、受難週間での礼拝回数の増加に対応した箇所を踏まえた『アルハンゲリスク福音書』の位置づけの再確認などが重要な論点である。

第四章においては、第三章でもふれた写本作成上の特色と古代ロシア文語の特性との双方につき、『アルハンゲリスク福音書』を例にとり、実証的に検討を加える。まず、『スヴャトスラフの文集(1073年)』から見られる写本作成における「編集」的態度が、『アルハンゲリスク福音書』においてはさらに発展拡大されていることを実例によって検証する。次に、『アルハンゲリスク福音書』では『スヴャトスラフの文集(1073年)』から見られる写本作成における「編集」的態度を踏まえるのみならず、さらに、古代ロシア文語風の改良も加えていることを、実例によって解明した。最後に、『ムスチスラフ福音書』との比較対照により、『アルハンゲリスク福音書』の独自性を確認し、ロシア語史の資料としてのより一層の重要性を明らかにした。

第五章においては、第四章までに論じられた内容を踏まえて、その上で、古ロシア語の特色の具体例として、動詞の過去時制に着目して、古ロシア語の時期における問題点を整理した。

第六章は、第五章で示した古ロシア語の特色としての過去時制に着目しつつ、『アルハンゲリスク福音書』の異読箇所を活用して分析検討を加え、東スラヴ族の日用語(живая речь)の研究の一例を実証的に論じた。

以上から、11世紀における文章語萌芽期ならびに当時の日用語(живая речь)の特徴を示す貴重な文献として、ロシア語史研究における『アルハンゲリスク福音書』の重要な意義が十分に示された。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、11世紀末に成立した典礼用福音書抜粋(アプラコス)である『アルハンゲリスク福音書』に焦点を合わせ、言語的特徴の緻密な実証的分析に基づいて、それがロシア語史研究にとって持つ意義を論じたものである。特に、この写本が萌芽期における文章語のみならず、当時の日用語(живая речь)を探るための重要な資料でもあるという着眼点が全体に活かされている。『アルハンゲリスク福音書』にはOCS(古代教会スラヴ語)のカノン・テキストからの逸脱が多く見られるが、著者はこれを日用語の影響による「乱れ」として片付けるのではなく、写し手による意図的な改変・編集の意図のこめられた「異読」と考え、そこにキエフ・ルーシにおける文章語が洗練され、日用語の影響を受けながら古代ロシア文語となっていく過程を読み取る。

本論文は序章と、全六章からなる本論、そして結論から構成される。

まず第一章および第二章は、OCS、日用語、ハイブリッド性、ダイグロシア(二言語変種使い分け)といった基本的概念を整理しながら、当時のキエフ・ルーシの言語状況を描き出す。著者は古代ロシア文語(10~14世紀に東スラヴ族によって使われた文章語)を、キエフ・ルーシに外部からもたらされたOCSという異質な言語が、現地語、すなわち東スラヴ族の日用語の強い影響を受けて変化した結果形成されたハイブリッドな言語であると規定し、OCSと日用語が混淆した状態を把握するために、ダイグロシアやレジスター(言語使用域)といった概念を援用しながら、当時の言語状況の実体に迫ろうとしている。

続く第三章は、古代ロシア文語の萌芽期を代表する『オストロミール福音書』『アルハンゲリスク福音書』『ムスチスラフ福音書』の三つを取り上げて、それぞれの写本の言語および編集上の特徴を比較しながら考察し、第四章は『アルハンゲリスク福音書』の特徴についてさらに実証的に検討している。

そして第五章と第六章で著者は、ロシア語史上特に大きな変化を遂げた過去時制、とりわけ未完了過去とアオリストに着目し、『アルハンゲリスク福音書』の異読箇所に焦点を合わせて、そこに日用語における時制体系が反映している可能性を指摘した。これは本論文の最大の貢献の一つと評価できる。

以上を総合して、本論文は『アルハンゲリスク福音書』のロシア語史研究上決定的に重要な意義を十分な説得力を持って示しただけでなく、古代ロシア文語の形成の複雑なプロセスを鮮やかに描き出しており、この分野での研究の進展に大きく貢献する国際的水準の独創的な研究成果と認められる。言語の実体を説明するための様々な概念の用い方にやや曖昧な点があることが指摘され、また実証のための具体的な用例を今後さらに豊富にしていくという課題も残されたが、それも本論文の高い学術的価値を損なうものではない。よって、審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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