学位論文要旨



No 217750
著者(漢字) 邊,姫京
著者(英字)
著者(カナ) ビョン,ヒギョン
標題(和) 日本語狭母音の無声化 : 共通語普及の指標として
標題(洋)
報告番号 217750
報告番号 乙17750
学位授与日 2012.11.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17750号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 広瀬,友紀
 東京大学 教授 上田,博人
 東京大学 准教授 田中,伸一
 国立国語研究所 客員教授 上野,善道
 国際教養大学 教授 鮎澤,孝子
内容要旨 要旨を表示する

本研究は,日本語の母音の無声化現象について,全国的地域差と年齢差を,全国から集められた音声データを用いて定量的に分析,考察したものである。

本研究の目的は,全国を対象に統一した方法で収集された音声データを材料に,先行研究を踏まえつつ,無声化の全体像について全面的な再検討を行うことにある。具体的には,無声化の生起要因,無声化の全国的地域差,無声化の年齢差を中心に比較・検討し,検討結果に基づいて現在の無声化分布図,無声化生起率の変化パターン,コーホートの無声化生起率,無声化生起率を指標とした共通語の普及状況,無声化生起率の今後の動向について考察し,いくつかの提案を行っている。

本稿は,全7章から成る。第1章序論では,研究の背景と目的,研究の枠組みについて述べた。第2章では,無声化に関する先行研究を概観し,第3章では,分析材料となる二つの音声資料「全国高校録音資料」と「指標地域録音資料」の詳細と調査語について説明した。

第4章,第5章,第6章が本論である。第4章では,「全国高校録音資料」(1986-1989収録)のうち,41府県の高年層と若年層607名の音声を「井上データ」とし,41府県について要因別無声化生起率の詳細を記述した。また,無声化生起率の全国的地域差と世代差についての考察を行った。

第5章では,「全国高校録音資料」の追跡調査としてその20年後に収録された「指標地域録音資料」(2006‐2007収録)のうち,7地域の10代から60代以上の463名の音声を「高田データ」とし,7地域について要因別無声化生起率の詳細を記述した。続けて7地域のうち秋田,東京23区,大阪,兵庫,熊本の5地域を取り上げ,無声化生起率の年齢的変化,無声化生起率の変化パターンについての考察を行った。また,上記の二つの音声資料とは別に京阪式アクセント地域の話者を対象にした音声資料を用い,音調と無声化生起率の関係についての考察を行った。

第6章では,第4章と第5章の分析結果を共通語の普及に関する研究の中に位置づけている。現在のように方言と共通語が使い分けられるようになった経緯と,国立国語研究所による共通語化調査を概観した後,無声化生起率が全国共通語化の指標として適切であることを主張した。さらに,言語変化のS字カーブモデルを用いて無声化生起率の現況を確認した上で,無声化生起率の今後の動向について予測を試みた。

第7章は結論である。全体のまとめをし,最後に今後の課題を述べた。

以下に,論文の内容を(1)狭母音無声化の生起要因,(2)無声化生起率の全国的地域差,(3)無声化生起率の年齢差,(4)無声化生起率と共通語の普及および言語変化に分けて要約する。

(1)狭母音無声化の生起要因

狭母音の無声化の生起要因として,先行子音,後続子音,無声化母音,後続母音,音調(アクセント)の5要因をあげ,無声化生起率への影響を検討した。

全国的に,破裂音が先行する場合に母音の無声化が起こりにくく,後続する場合に無声化が起こりやすい。摩擦音が後続する場合には無声化が起こりにくい。破擦音は無声化生起率,生起パターンともに破裂音と摩擦音の中間に位置づけられる。

無声化母音の前後にくる子音を同時に見た場合,先行子音‐後続子音の順に,(1)摩擦音‐破裂音,(2)破擦音‐破裂音,(3)摩擦音‐破擦音の三つの環境で無声化が最も起こりやすく,(4)摩擦音‐摩擦音,(5)破擦音‐摩擦音の二つの環境で無声化が最も起こりにくい。これらの前後子音に見られる無声化生起率の変化パターンは,次の3段階にまとめられる。

第1段階では,上記の(1)(2)(3)の三つの環境でまず無声化が起こる。この三つの環境はほかの環境で無声化が起こらない場合でも無声化が起こりやすい。第2段階では,上記の三つの環境を中心に無声化生起率が伸びていく。第3段階では,上記の(4)(5)の二つの環境以外ではほぼ100%無声化する。第3段階は無声化が完成したと見られる段階であるが,(4)(5)の環境では無声化生起率が相対的に低いため,全体の無声化生起率は100%にはならない。

無声化母音は,ほとんどの地域で/i/のほうが/u/より無声化が相対的に起こりやすい。後続母音の影響については,全国的に非狭母音だと無声化が起こりやすく,狭母音だと無声化が起こりにくい。

音調は,東京式アクセント地域では,無声化拍と後続拍の組み合わせでLHの場合は無声化が起こりやすく,HLの場合は無声化が起こりにくい。京阪式アクセント地域(主に京阪神)では,高年層はどの音調でも無声化が起こりにくいが,若年層は東京と同様にLHはHLより無声化が起こりやすい。ただし,無声化生起率自体は東京に比べると非常に低い。

(2)無声化生起率の全国的地域差

「井上データ」の41府県の高年層,若年層の無声化生起率と階層クラスター分析をもとに作成した新しい無声化分布図を提案した。従来の無声化分布図と高年層の無声化分布図の比較では,従来無声化が目立つと感じる境界は無声化生起率が60%以上,無声化が規則的に起こると感じる境界は無声化生起率が80%以上であることが明らかになった。高年層の無声化分布図と若年層の無声化分布図の比較では,ほとんどの地域で若年層の無声化生起率は高年層より高く,無声化生起率は全国的に増加傾向にあることが確認された。ただし,増加の幅は地域により異なり,東北のように大幅に上昇したところもあれば,近畿のように小幅な上昇に留まっているところもあり,無声化生起率の地域差は,今なお健在である。

若年層における無声化生起率の増加傾向は,「高田データ」にも見られる。秋田,東京23区,大阪,兵庫,熊本の無声化生起率を,後述する(4)の変化のS字カーブ上で見ると,秋田の50代以下,熊本の30代以下の世代は無声化がほぼ完成し,東京と同様に無声化の完成領域に入っている。大阪,兵庫は10代,20代を中心に無声化生起率が増加しつつあり,増加傾向は今後も続くと予想される。ただし,大阪,兵庫は,無声化の完成までの途上にあり,全国的に見れば,無声化の地域差は依然として保たれている。

(3)無声化生起率の年齢差

「井上データ」では,ほとんどの府県で高年層と若年層の間に世代差が認められた。「高田データ」では5地域について世代差が生じ始める時期を特定した。秋田は60代と50代の間,熊本と大阪は40代と30代の間に世代差の断層があり,兵庫は大阪と同様に40代と30代の間に断層がある可能性が示された。また,東京23区では明らかな年齢的違いはないことが確認された。

各地域の断層を生年で見ると,秋田は1950年以後,熊本,大阪,兵庫は1970年以降に無声化生起率が変化したことになる。このうち秋田と熊本は年代間の変化が急で,変化の要因は言語内よりも言語外によるものと考えられる。具体的には,秋田は戦後行われた学校での体系的な共通語教育が主な要因と考えられる。また,熊本は1970年前後に急速に発達した交通機関による人の移動に加え,とりわけ共通語によるテレビ放送が言語形成期のことばに影響を与えたと考えられる。大阪と兵庫の場合も1970年以後無声化生起率に変化が見られるが,秋田,熊本の急な変化に比べると変化の幅は小さく,テレビ放送の共通語による影響は小さいものと考えられる。

(4)無声化生起率と共通語の普及および言語変化

国立国語研究所の共通語化調査に用いられている指標は,従来の東北方言の音声特徴であり,共通語の音声特徴ではない。そのため,東北に限らず全国に共通語がどの程度普及しているかを知るための指標としては適切ではない。一方,母音の無声化は,アクセントを除いて最も共通語らしい音声特徴であり,共通語らしさを判断する共通語普及の指標として適切であると判断される。

各地域に見られる無声化生起率の年齢的変化は,現在進行中の言語変化である可能性がある。その根拠となるのが,コーホート(同年出生集団)の無声化生起率である。「井上データ」の若年層と「高田データ」の30代は同じく1970年前後生まれで同一コーホートとなるが,20年の経年後も両者の無声化生起率はほとんど変化していない。年代が若いほど無声化生起率が増加する傾向がある一方で,コーホートの無声化生起率に変化がないということは,「高田データ」の年代間に見られる無声化生起率の違いが,年齢とともにことばが変化するエイジ・グレイディング(age-grading)ではなく,通時的な言語変化(language change)であることを示すものと考えられる。

無声化生起率の共時的年齢分布が言語変化であるとするならば,変化の軌跡は,多くの言語変化がそうであるように,S字カーブモデルで説明できると思われる。本研究では,無声化生起率の年齢的変化がS字カーブの軌跡を描くという立場に立って,「高田データ」の5地域の無声化生起率をS字カーブモデルに適用し,無声化生起率の動向についての予測を行った。

秋田の50代以下,熊本の30代以下の無声化生起率は,東京23区と同様に無声化の完成領域に入っており,これらの地域では若い世代の無声化は完成したものと見られる。また,今後も高い無声化生起率を維持していくものと予想される。大阪,兵庫は30代以下の世代で無声化生起率に増加が認められ,S字カーブ上では変化のはずみがついた中間段階にさしかかっている。今後,同様のスピードで増加を続ければ,若年層は最短30年,全世代は最短80年程度で完成領域に近づくものと予想される。ただし,大阪,兵庫は,秋田,熊本に比べれば変化のスピードが鈍く,実際はより長い時間を要することも考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

審査の対象となった論文は,全7章から成っている。第1章は全体の序論にあたり,研究の背景と目的,研究の枠組みを述べる。第2章は,無声化という現象に関する先行研究の概観を行い,第3章では,分析材料となる二つの音声資料「全国高校録音資料」と「指標地域録音資料」の詳細と調査語について説明している。

第4章,第5章,第6章が本論文の中心となる章であるが、第4章では,「全国高校録音資料」(1986-1989収録)のうち,41府県の高年層と若年層607名の音声を「井上データ」とし,41府県について要因別無声化生起率の詳細を記述すると同時に、無声化生起率の全国的地域差と世代差についての考察を行っている。

第5章では,「全国高校録音資料」の追跡調査としてその20年後に収録された「指標地域録音資料」(2006‐2007収録)のうち,7地域の10代から60代以上の463名の音声(「高田データ」)に基づいて,7地域の要因別無声化生起率の詳細を記述している。また,そのうち秋田,東京23区,大阪,兵庫,熊本の5地域を対象に,無声化生起率の年齢的変化,無声化生起率の変化パターンについての考察を行ない、ほかに,上記の二つの音声資料とは別に京阪式アクセント地域の話者を対象に収集した音声資料を用いて京阪神における音調と無声化生起率の関係についても考察を加えている。

第6章では,第4章と第5章の分析結果を全国共通語化の中に位置づけることが試みられる。現在のように方言と共通語が使い分けられるようになった経緯と,国立国語研究所による共通語化調査を概観した後,無声化生起率が共通語普及の指標として適切であることを主張する。さらに,言語変化のS字カーブモデルを用いて無声化生起率を指標とした共通語の普及状況を確認したうえで,無声化生起率の今後の動向についての予測を行っている。

第7章は,結論である。全体のまとめを行い,最後に今後の課題を述べている。

本研究は、日本語狭母音の無声化について、日本全国の47都道府県の方言を対象に、先行研究で得られた資料を再分析し、加えて自身のフィールドワークに基づくデータを分析することにより、母音無声化の生起条件を多様な角度から検討するという、非常に大規模かつ野心的な取り組みである。これを現実的な実験分析研究として博士論文にまとめるために、要因の選定ならびに分析対象や方法の検討について、論文提出者がこれまで培ってきた実験音声学における豊富な知識をもとに緻密な議論が重ねられた。実際のデータ収集およびその音響分析については、多くの時間をかけ、非常に厳密な分析を粘り強く行った成果がまとめられている。この結果、日本語全体として無声化の生起に最も影響を与える言語的環境が、先行子音、先行母音、後続子音、後続母音およびアクセント型といった要因の複合的な考察により特定された。さらに、話者の生年、年齢という要因についても独立に考察が加えられ、無声化が個人内での変化でなく世代としての通時的な変化である点が確認された。その上で方言間での無声化生起状況についても緻密に分析がなされ、狭母音の無声化という進行中の言語現象が、国内での共通語普及度合いを推し量る指標となり得る根拠とその進行の段階を表すモデルとが示された。

本研究は、47都道府県にわたる方言のデータと要因ごとの分析結果を網羅的に示したものとして、非常に重要な資料的価値を持っており、日本語学・日本語音声学の分野においては繰り返し参照・引用される研究となると思われる。そこに加えられた無声化を共通語化の指標とすることを示す考察については、分析の手法や論の展開に関して、やや説得力に欠ける点や説明不足の点があることが審査会で指摘されたが、扱われているデータがこれまでの研究にない規模であり、かつ一貫性のある分析が加えられた成果であることを考えると、許容すべき範囲の妥協であることを審査員全員認めている。

以上を踏まえた審議の結果、本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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