学位論文要旨



No 217753
著者(漢字) 矢田(松本),勉
著者(英字)
著者(カナ) ヤダ(マツモト),ツトム
標題(和) 国語文字・表記史の研究
標題(洋)
報告番号 217753
報告番号 乙17753
学位授与日 2012.12.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17753号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 月本,雅幸
 東京大学 教授 井島,正博
 東京大学 准教授 肥爪,周二
 東京大学 准教授 高橋,典幸
 白百合女子大学 教授 山本,真吾
内容要旨 要旨を表示する

本書は、国語文字・表記史の総体的把握ということを視野に据えた上で、そのために必要な方法論・目的論を展開し、それに基づいて、特に略体仮名(平仮名および片仮名)の成立期(平安時代)から活版印刷の導入期(明治時代前半期)までを中心として、文字・表記史上重要と考えられる個別事象について、実証的調査と原理的考究を加えたうえ、それを横断的かつ通時的に論述したものである。

国語文字・表記史の特質は、第一に、その複線性・多層性・多段階性にある。複線的であることは、その出発点である漢字の受容において既に表意的・表音的の両途を併用して以来、近代初期まで一貫する国語文字・表記史の最大の特質であり、多層的であるとは、発生の時代を異にする様々な文字・表記の様態を共時的に併存せしめてきたことであり、多段階的であるとは、社会的変化や技術史的変化等に伴って、何度にもわたって文字・表記の性質そのものを大きく変質させてきたことを指している。そこで、本書では国語・文字表記史のそうした諸相に対応すべく、以下のような複層的構成を以て記述を行った。

第一編・第二編は国語文字・表記史研究の理論的前提について論ずるものである。

第一編「文字・表記史研究の目的・方法・資料」は、国語文字・表記史研究の目的論・方法論・資料論に関して考究したもので、上位研究分野としての一般文字・表記研究に対する位置づけ等についても論じている。その基盤的議論となるのは第一章「文字・表記史研究の目的」であるが、加えて第二章「文字・表記史研究の術語」では研究術語の再検討について、第三章「書記体の分類と非陳述的書記体」では文法性に着目した書記体分類の再整理について、第四章「書記教育史としての文字・表記史」では自然的に獲得される口頭言語とは異なり極めて意志的な教育によってしか習得され得ない文字・表記の特質に応じた研究方法論・資料論について、それぞれ論じた。

第二編「文字・表記史の原理」は、文字・表記が何故、どのように史的変化を被るのかに関して、その変化原理についてのモデルを様々な視点から提示したものである。第一章「国語文字・表記史の概略」では、国語文字・表記史のアウトラインを用途・記載方式と対応した複線性という観点から描いている。第二章「文字・表記史と表記史資料の普遍性・特殊性」は、文字使用層の拡張と文字・表記システムそのものの変化との関係を論ずる。第三章「仮名表記史の原理」は、書記労力と情報伝達能力の均衡の観点から仮名表記の史的変化原理を論ずる。第四章「表記史的原理としての表記習慣」は、汎社会的変化の母胎としての小範疇における表記習慣の発生と伝播のモデルを具体例から示す。第五章「文字・表記史と誤記・誤写」は、誤用として認知される所から始まることの多い口頭言語の史的変化との対比から、文字・表記規範の性質について再考する。

第三編・第四編は、複線的な国語文字・表記史の中でも特に主要な道筋である平仮名・平仮名文史、漢字・漢字文史についてそれぞれ実証的に論ずるものである。

第三編「平仮名史・平仮名文表記史の研究」は、国語表記のために日本で独自に生み出された文字であり、かつその成立後すぐから現代の表記に至るまで一貫して国語表記の主要部分を形成する文字種である平仮名と、それによって表記された平仮名文についての考究である。第一章「平仮名書きの意味」は、国語文字・表記史の複線性の中で平仮名・平仮名文が担ってきた機能、担わされてきた意味について論ずる。第二章「平安・鎌倉時代における平仮名字体の変遷」は、複数字体併用(変体仮名)時代における仮名字体の変遷を、主として実用的資料から記述する。第三章「片仮名資料に見える草体仮名の性格」では、初期訓点資料に見える草体仮名と平仮名の異質性、加えて平仮名と片仮名の関係性を論ずる。第四章「平仮名書きいろは歌の成立と展開」は、いろは歌による仮名教育の画一的方法の成立と展開について論ずる。第五章「『平仮名らしさ』の基準とその変遷」は行草体の漢字との緊張関係の中にあった平仮名字体史について論ずる。第六章「定家の表記再考」は、従来の国語表記史研究で過剰な意味づけを与えられてきた藤原定家の表記方式について再検討する。第七章「異体仮名使い分けの発生」第八章「異体仮名使い分けの衰退」は、異体仮名併用の後付的機能として字体間の用途分けが生じ、やがて印刷文字の画一化とともに衰退していく過程を記述する。第九章「平仮名表記史資料としての書道伝書」は、文字生活史上の上位層における仮名意識の実相を照射するとともに、それと近い世界にあると考えられる物語文学における仮名に関する記述の扱いについて論ずる。

第四編「漢字文表記史の研究」は、従来文体史的に取り扱われることの多い漢字・漢字文を、表記史的観点から考究する。第一章・第二章「漢文和化の原理I・II」は、漢文助辞の日本語的変容、漢文への仮名表記助詞の交用という二つの具体的事例を通じて、漢文和化の史的原理を考究する。第三章・第四章「候文の特質I・II」は、変体漢文史の最終到達点とも言える候文が獲得した高度な機能性と、最後まで保持しようとした漢文的規範性とに関して、「候」字の用法と倒置記法のあり方から論ずる。第五章「国語漢字書記における楷行草」は、文書の用途に応じて漢字の書体が選択され、一方その規範の拘束を受けない場面では雑多な書体・字体使用の実態が見られることを通じて、楷書規範の変化としてだけでない本邦の漢字書体・字体史を論ずる。

第五編「印刷と文字・表記史」は、音声言語とは異なり、記載技術の変革によってそれ自体の性質に大きな変化を被るという文字・表記史の特質を踏まえ、主として手書き時代の文字・表記史について論じた第三・四編に対して、印刷術の導入によって国語文字・表記に生じた変化について論ずる。

第一章「印刷時代における国語書記史の原理」は、印刷によって表記符号類が文字と同格のものへと昇格していく様を捉え、W.J.オングのいう印刷の「消費者指向」が顕現していることを指摘する。第二章「近世整版印刷書体における平仮名字形の変化」は、整版印刷期が平仮名の字型(=各文字が有する固有の相対的な大きさや縦横比など)の画一化や非連綿化を用意し、結果として近代活版印刷の助走期間として機能したことを論ずる。第三章「漢字仮名交り文の成立」・第四章「漢字仮名交り文要素としての振り仮名」は漢字仮名交り文が商業印刷において最も可読性の高い書記体として確立したこと、広い階層の読者に対応するうえで、高い識字能力を有する読者の可読性を害さず、かつ低能力者にも読まれうる書記を実現する要素として、振り仮名が漢字仮名交り文の成立に必須の要素であったことを論ずる。

第六編「文字意識史と文字研究史」は、近世を中心とした文字研究史とその背後にある文字意識の変遷について論ずる。書字・読字行為は、音声言語の発話とは異なり極めて意識的な行為である。従って、文字・表記に対する意識のありようの変遷は、文字・表記そのものの史的推移と密接な関係を持つものだからである。

第一章「文字研究史再考」は、従来国語学史の中で略述されてきた文字研究史を、言語研究史との相違点を見据えた上で再考する。第二章「鈴屋の文字意識とその実践」は、本居宣長が『古事記伝』で採った特異な表記様式とその背景にある文字意識について論ずる。第三章「気吹舎の文字意識とその実践」は、平田篤胤による『古事記伝』の表記方式の模倣と本質的誤解等について論ずる。第四章「近世における漢字研究の方法」は、文字研究史の中で特に漢字研究を取り上げ、それが中国の研究動向の後追いに終始し、独自的な研究は萌芽のまま成長しなかったことを記述する。第五章「近世いろは歌研究史」は、仮名研究の源流としてのいろは歌研究の流れ、中でも特に、誤った信念としての空海作者説の発生の思想史的背景等について論ずる。第六章「『倭片仮字反切義解』の成立年代」は、片仮名作者や仮名の字母についての最古の記述とされてきた同資料について、文字研究史の全体像と対置した上で再検討する。第七章「テキスト意識の展開」では、近世における古典資料本文の提供において、時代を追って書記・テキストの本質に関する文献学的考究の深まりが見られることを論ずる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は日本語史研究の一環として、日本語の文字・表記の歴史を特に平仮名・片仮名の成立した平安時代から活版印刷の導入された明治時代までを中心に論じたものである。全体は6編35章から構成されている。

第一編「文字・表記史研究の目的・方法・資料」では日本語の文字・表記体系を単に音声に対する副次的なものとしてではなく、それ自体独立した記号体系として扱おうとするものであることを述べ、これまで必ずしも厳密な定義が与えられて来なかった「片仮名」「草仮名」などの用語について検討を加え、新たな定義付けを行っている。

第二編「文字・表記史の原理」では日本語の文字・表記史を概観し、日本語では漢字文に日本語に応じた変化を与える方法(漢文の和化)と漢字の表意性を捨象した万葉仮名など(平仮名・片仮名)の二つの方式があったが、漢字文への仮名の混入の割合が高まり、また平仮名文・片仮名文への漢字の混入の割合が高まって、三つの文体は相互に接近し、最終的には現代の漢字平仮名交じり文が成立することになったとする。

第三編「平仮名史・平仮名文表記史の研究」では主として平安・鎌倉時代における平仮名の実態について、現存する資料に即して分析を加える。同音を示す平仮名の複数の字体(異体仮名)の種類は平仮名成立後、鎌倉時代の末までに二度、大きな変化の時期があり、そしてそれ以後の使用頻度の高い字体がやがて現行の平仮名字体になるとする。

第四編「漢字文表記史の研究」では漢字文の日本化したものとしての候文を取り上げ、候文が漢文に必須の返読を最小限とし、文末に必ず「候」を置くことによって、書きやすい漢文として成立発展したことを述べる。

第五編「印刷と文字・表記史」では、江戸時代の整版印刷、明治時代の活版印刷が日本語の文字・表記に与えた影響について述べ、前者では平仮名の字形の画一化が起こり、後者では句読点や濁点などの符号が文字と同格のものとして扱われるようになったとする。

第六編「文字意識史と文字研究史」では、江戸時代を中心にした文字の研究とその背後にある文字意識との関係について述べ、本格的な文字研究は新井白石に始まるとする。

本論文は、しばしば個別的に論じられてきた日本語の文字・表記の現象を一貫した原理や方法論を基礎に考察しようとしたものである。日本語と漢字が初めて接触した上代の文字・表記に関する記述がやや少ないなどの問題はあるが、全体の論旨は慎重でありながらも明快であり、特に平仮名の史的変遷や候文についての論はこの分野の研究を大きく推進するものである。よって本審査委員会は、全員一致で本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するとの結論に達した。

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