学位論文要旨



No 217760
著者(漢字) 松本,和彦
著者(英字)
著者(カナ) マツモト,カズヒコ
標題(和) 太平洋赤道域におけるENSOに呼応した植物プランクトン群集動態および一次生産の変動に関する研究
標題(洋)
報告番号 217760
報告番号 乙17760
学位授与日 2012.12.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17760号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古谷,研
 東京大学 教授 津田,敦
 東京大学 准教授 高橋,一生
 東京海洋大学 教授 神田,穣太
 長崎大学 教授 武田,重信
内容要旨 要旨を表示する

太平洋赤道域は冷温な東部の湧昇域と高温な西部の暖水域とに大別され、両者の分布域はENSO(エルニーニョ・南方振動)に応じて東西方向に変動する。湧昇域は表層でも栄養塩が豊富で、植物プランクトン現存量および一次生産ともに高い。湧昇域では1990年代前半に集中的な物質循環観測研究が実施され、植物プランクトン群集動態や一次生産、炭素沈降フラックスを中心に知見が集積し、それらの変動とENSOの関係が明らかにされた。一方、暖水域には表面水温が28℃を超える西太平洋暖水塊 (Western Pacific Warm Pool: WPWP) が存在しており、栄養塩が乏しく、硝酸塩にいたってはほぼ枯渇している。暖水域における植物プランクトン群集動態および一次生産に関しては、観測事例が少ないことから知見が乏しく、ENSOとの関係については不明である。この海域では湧昇域とは異なり、植物プランクトンが真光層底部に亜表層極大を形成するため衛星観測ではその動態を捉えることができないことも研究の進展が遅れている要因となっている。本研究は、1994年から2003年まで10年間にわたり太平洋西部から中部にいたる赤道域で計10回の観測航海を実施し、暖水域を中心に植物プランクトンの群集動態や一次生産の変動を把握し、それらとENSOとの関係を明らかにすることを目的とした。

植物プランクトン群集動態

湧昇域では表層付近で植物プランクトン現存量が高いのに対して暖水域では真光層底部で高く、クロロフィルa(chl-a)量の鉛直分布型が異なった。観測期間を通した平均水柱積算chl-a量は、暖水域では30.6 ± 6.3 mg・m-2であったのに対し、湧昇域では34.4 ± 5.4 mg・m(-2)と有意に高かったが、その差は、栄養塩濃度の大きな違いに比べて小さかった。

律速栄養塩である硝酸塩の表面濃度に基づいて観測海域を、暖水域(< 0.1 μM)、移行域(0.1 μM - 4 μM)および湧昇域(> 4 μM)に区分して、栄養塩濃度の違いが植物プランクトン群集動態に及ぼす影響を評価した。観測域を通してピコ植物プランクトンは植物プランクトン現存量の約7割を占める主要な群集であり、暖水域では、ピコ植物プランクトン群集の中でもProchlorococcusが水柱を通して高い現存量を示した。Prochlorococcusは窒素源として硝酸塩を利用できないことが報告されており、アンモニウム塩などの再生された窒素源を利用して暖水域で優占したものと考えられる。一般的に、高濃度の栄養塩環境では真核植物プランクトンの現存量が高いことが知られているが、湧昇域でもピコ真核植物プランクトンが卓越した。ピコ真核植物プランクトンは硝酸塩の増加に伴って現存量が増加する傾向を示し、その分布は硝酸塩濃度に大きく依存していた。移行域では硝酸塩濃度が湧昇域より低いにもかかわらず、Synechococcusの現存量は他海域と比べて高かった。Synechococcusは窒素要求量が他の藻類群と比べて高いが、湧昇域では高濃度の硝酸塩利用能の高い真核植物プランクトンが卓越していたため、Synechococcusは、移行域で効率よく硝酸塩を利用して増加したと考えられる。このように、太平洋赤道域では東西方向に植物プランクトン群集組成が異なることが明らかになり、その要因として律速栄養塩である硝酸塩濃度の違いが示唆された。

暖水域表層への栄養塩供給過程における鉛直混合の影響

WPWPは外洋では世界で最も水温の高い海域であり、貿易風によって湿った空気が東から運ばれて激しい降雨が頻繁に生じる。このため、表層での塩分が低下し、より深い深度に位置する温度躍層と、より上層の塩分躍層との間に密度勾配が生じてバリアレイヤーが形成され、温度躍層以深に存在する豊富な栄養塩が表層へ供給されるのを妨げる。バリアレイヤーは暖水域の東部で最も厚かったが、暖水域西部では薄くなっており、下層から表層付近への栄養塩供給は暖水域西部の方が東部より起こりやすいと考えられる。しかしながら、水塊の鉛直混合が実際に及んでいる深度を観測から直接評価することは困難である。このため、暖水域で優占しているProchlorococcusに含まれる補助色素のzeaxanthinとchl-aの鉛直分布から水柱の安定度を判定した。水塊中では下層に向かって光量が減少するため、安定した水柱ではzeaxanthin/chl-a比が表面から下層に向かって低下することが期待される。そのため、下層へのzeaxanthin/chl-a比の傾きが大きい場合には色素の光適応が顕著なので乱流運動エネルギーが弱く、その水塊は長期間安定していることを示すことになる。他方、zeaxanthin/chl-a比が鉛直的に均一な場合には乱流運動エネルギーが強く、その水塊はよく混合していると考えられる。

この点を、モデルシミュレーションによって確認した。その結果、zeaxanthin/chl-a比が鉛直的に均一な海域では強い海上風を伴う気象擾乱によって鉛直混合が生じているが、風が弱まると混合層内であってもその水塊は混合せず安定しており、zeaxanthin/chl-a比の鉛直勾配も大きくなることが確かめられた。従来の水温、塩分に基づく密度分布の変化から算出される混合層は、必ずしもその瞬間に混合していることを示すのではなく、過去のある時点で混合した水塊が均一な密度分布を維持していることを示している。一方、本研究が提案するzeaxanthin/chl-a比の鉛直勾配は、より近い過去の水柱の安定度を表している。現場の色素組成の観測結果から、強風時には混合層底部まで水塊がよく混合することが判明した。すなわち、バリアレイヤーが薄くなっている暖水域西部では、強風時には風成混合によって温度躍層以深に分布する栄養塩が表面混合層内に供給され、暖水域表層でも植物プランクトンの増加をもたらす可能性があることが明らかとなった。

一次生産量の変動

太平洋赤道域における平均水柱積算一次生産量は、湧昇域では990 ± 61 mg C・m(-2)・d(-1)に達するが、暖水域では435 ± 158 mg C・m(-2)・d(-1)と湧昇域の半分以下であった。真光層底部は低光量のために一次生産力が小さく、暖水域で形成された亜表層のchl-a極大は一次生産量の増加にあまり貢献していなかった。また、サイズ分画した一次生産量測定の結果では、ピコ真核植物プランクトンは他のピコ植物プランクトンよりも高い一次生産力を示した。すなわち、暖水域から湧昇域にかけて一次生産量が顕著に増加するのは、各海域のchl-a鉛直分布の違いを反映したものであると同時に、ピコ植物プランクトン群集の分布が海域によって異なることを反映していることが明らかとなった。

ENSOによる湧昇域の拡大と縮小に連動したWPWPの東西方向への分布変動は、植物プランクトン群集動態およびその一次生産量に大きな影響を及ぼした。エルニーニョによってWPWPが東方海域へ拡がると、中部太平洋赤道域でも暖水域となって一次生産量が低下した。一方で、WPWPが東に拡大することで暖水域では温度躍層が浅くなる海域が拡がるため、エルニーニョの発達に伴い暖水域の硝酸塩躍層は浅くなった。暖水域でも表面の5%光量以浅に高濃度の硝酸塩が供給された場合には、ピコ真核植物プランクトンの現存量が増加し、一次生産が高まった。20世紀最大規模のエルニーニョが発生した1997-1998年には、東経143.3度から西経163.5度の観測域全域に暖水域が拡がり、硝酸塩躍層がその全域で60m付近まで上昇していた。その結果、水深60mでは一次生産が顕著に高まり、表面まで栄養塩が供給されている測点も観測された。このように、エルニーニョ期には硝酸塩躍層の深度上昇に伴って、亜表層では顕著な一次生産量の増加が生じることが明らかとなり、エルニーニョが発達することによって暖水域の一次生産量は増加することを示した。しかしながら、エルニーニョ期における表層での一次生産量の増加は認められなかった。エルニーニョ期には表面のリン酸塩は減少傾向にあったことから、表層では硝酸塩に加えてリン酸塩も律速栄養塩となっていた可能性がある。また、太平洋赤道域では赤道潜流によって鉄が供給されると考えられるが、赤道潜流は西部から東部太平洋赤道域にかけて浅くなっており、暖水域では赤道潜流が深いため真光層内への鉄の供給はあまり期待できない。特に表層では鉄は定常的に不足していると考えられ、一次生産量の抑制に繋がっている可能性がある。

以上、本研究によって、これまで知見が乏しかった暖水域から湧昇域にいたる太平洋赤道域の植物プランクトン群集動態および一次生産量の変動、およびそれらとENSOとの密接な関係が明らかになった。現在、西部北太平洋の亜寒帯域と亜熱帯域において、一次生産を含む生物地球科学的プロセスについて気候変動に伴う将来予測に関する研究が進められている。本研究で示した観測手法や混合過程に関する知見は、その変動メカニズムの解明に大きく貢献すると考えられ、本研究が明らかにした赤道域における知見と合わせた総合的な解析により、気候変動に伴う植物プランクトン群集動態および一次生産の変動様態について太平洋の広範な海域について解明が進むと期待される

審査要旨 要旨を表示する

太平洋赤道域は、東部の湧昇の影響を受けた生物生産力の高い海域と、西部の貧栄養環境のため生産力の低い海域が分布し、ENSO(エルニーニョ・南方振動)に応じて両海域は東西に移動し、それに伴い生産力の地理分布も変動する。東部の湧昇域では1990年代前半に集中的な物質循環研究が実施され、植物プランクトン群集動態や一次生産に関する多くの知見が集積したが、西部の暖水域では、船舶観測例が乏しく、生産力に関する知見が限られ、このためENSOが赤道域の炭素循環に及ぼす影響評価も遅れている。本研究で暖水域を中心に、湧昇域へと移行する海域を含めて植物プランクトンの群集動態および一次生産の変動を把握し、ENSOとの関係を明らかにすることを目的として、1994年から2003年まで10年間にわたって太平洋西部から中部の赤道上で観測研究を実施し、その結果に基づき新たな知見を得たものである。

まず、律速栄養塩である硝酸塩の表面濃度に基づいて観測海域を、暖水域(<0.1 μM)、移行域(0.1 μM -4 μM)および湧昇域(>4 μM)に区分し、栄養塩濃度の違いが植物プランクトン群集動態に及ぼす影響を評価した。対象海域全般にわたりピコ植物プランクトンが優占群集であったが、その群集動態は各海域で異なることを初めて見出した。暖水域では最も小型の植物プランクトンである原核緑藻類Prochlorococcusがアンモニアなどの再生された窒素源を利用して高い現存量を示すのに対して、湧昇域ではピコ真核植物プランクトン現存量が顕著に高いことを捉えた。一方、Synechococcusは硝酸塩濃度が湧昇域より低い移行域でその現存量が最大となることを明らかにした。これらの3海域における優占群集の違いを、水柱の安定性に依存する光環境と硝酸塩分布の違いから説明されると結論した。

発達したエルニーニョ期には暖水域表層でも硝酸塩濃度の増加が確認されたことから、エルニーニョに伴い表層への硝酸塩供給が増加することが示唆されたため、暖水域表層への栄養塩供給過程における水柱の安定性についてさらに解析を進めた。鉛直混合による下層からの供給の増加が考えられるが、水塊の鉛直混合を直接、観測から捉えることは困難である。そこで本研究では、Prochlorococcusに含まれる補助色素のゼアキサンチンとクロロフィルa(chl-a)の鉛直分布から水塊の安定度を評価することを提案した。すなわち細胞内chl-a量は光順化によって暗所で増加することから、安定した水柱ではゼアキサンチン/chl-a比は鉛直的に減少し、その鉛直勾配は水柱安定度を示すことがモデルシミュレーションによって確認された。強風時にはゼアキサンチン/chl-a比は鉛直的に均一な分布を示し、水温躍層付近まで実際に風成混合が生じていることが確かめられた。エルニーニョ期には、暖水域では水温躍層に伴って硝酸塩躍層も浅くなるため、風成混合によって暖水域表層にも栄養塩が断続的に供給されていることが示唆された。

次に、一次生産量の変動を解析した結果、暖水域から湧昇域にかけて水柱積算chl-a量に大きな差はないが、水柱積算一次生産量は暖水域では湧昇域の半分以下であることを明らかにした。このような一次生産量の海域による違いは、暖水域では亜表層極大を形成していることが主原因となっており、海域毎のchl-a鉛直分布の違いを反映した結果であることを示した。それに加えて、硝酸塩が豊富な海域で高い一次生産力を示すピコ真核植物プランクトンが湧昇域で顕著に増加することも要因として加わることを見出した。また、エルニーニョ期には暖水域では硝酸塩躍層が浅くなるため、そこで増加したピコ真核植物プランクトンにより一次生産が高まることも明らかになった。エルニーニョ期には表層の貧栄養海域が東部に拡がるため太平洋赤道域の一次生産量は低下するが、暖水域の亜表層ではピコ真核植物プランクトンによる一次生産量の増加が生じていることを示した。

以上、本研究は、これまで知見が乏しかった暖水域から湧昇域にいたる太平洋赤道域における植物プランクトン群集動態および一次生産量の変動様態を明らかにし、それがENSOに伴う栄養塩と水柱の安定度の変動に起因することを明らかにした。このように本研究により、ENSOが赤道域の生物生産性に及ぼす影響が明らかになり、全球的な生物生産および炭素循環変動過程の解明に大きく貢献するものである。このように本研究は太平洋赤道域におけるENSOと植物プランクトン群集動態および一次生産の関連を解明する上で新たな展開を与え、学術上も応用上も極めて貢献するところが大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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