学位論文要旨



No 217764
著者(漢字) 小林,徹也
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,テツヤ
標題(和) アカスジカスミカメ地域個体群の遺伝的多様性に関する研究
標題(洋)
報告番号 217764
報告番号 乙17764
学位授与日 2012.12.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17764号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 嶋田,透
 東京大学 教授 石川,幸男
 東京大学 教授 富樫,一巳
 東京大学 准教授 松尾,隆嗣
 東京大学 准教授 勝間,進
内容要旨 要旨を表示する

カメムシ類が登熟中のイネを吸汁すると、収穫後の玄米に黒色あるいは茶色の食害痕が残った「斑点米」が形成される。斑点米の混入は米の品質を低下させることから、可能な限り低く抑える必要があるが、このためには斑点米形成の原因となるカメムシ類を防除する必要がある。斑点米の原因となるカメムシ類は多く知られている。中でも、1980年中ごろから一部の地域で問題となり始めたアカスジカスミカメ(Stenotus rubrovittatus (Hemiptera: Miridae))は2000年以降密度が顕著に増加しており、現在では全国各地で斑点米被害を与えるイネの重要害虫となっている。本研究は、アカスジカスミカメによる斑点米被害の拡大の過程と要因を明らかにすることを目的に、日本各地の地域個体群の遺伝的多様性を調査したものである。

アカスジカスミカメ地域個体群の遺伝構造

2005年から2008年にかけ、日本における本種の分布域をほぼ網羅する34地点から地域個体群を採集した。これらの個体について、ミトコンドリアDNAについてはチトクロームcオキシダーゼサブユニットI(COI)遺伝子の塩基配列1,034bpを、核DNAについては6つのマイクロサテライトマーカーの多型を解析し、日本のアカスジカスミカメの遺伝的構造を明らかにした。COI遺伝子の解析の結果合計39種類のハプロタイプが見つかり、これらを分類したところ、本種のミトコンドリアは塩基配列が大きく異なる2つの系統で構成されていることが明らかになった。1系統は福島県以北の北日本の個体群に存在し、もう1系統は全国すべての地域個体群に存在した。塩基配列の違いから2つのミトコンドリア系統は更新世にあたる約75万年前に分岐したと推定され、現在の分布は氷河期における分布域の縮小とその後の拡大の過程において生じたと考えられた。ミトコンドリアDNAの遺伝的多様度と緯度には有意な相関があり、北日本の個体群ほど高く、南日本の個体群は極めて低かった。また、遺伝的距離と地理的距離の間にも有意な相関があり、本種の地域個体群間の遺伝的交流は地理的距離が離れるほど少ないことが明らかになった。一方、マイクロサテライトマーカーの多型解析の結果、本種の核DNAはミトコンドリアDNAと同様に北の個体群ほど遺伝的多様度が高い傾向を示し、また、遺伝的距離と地理的距離の間にも相関が認められた。両DNAにおいて北日本の個体群は遺伝的に多様性であることから、日本における本種の歴史的な起源は北日本にある可能性が示唆された。さらに、遺伝的構造を明らかにするクラスタリング解析の結果、本種の地域個体群は遺伝的に北日本を中心とするグループ、関東を中心とするグループ、南日本を中心としたそれ以外の地域に分布するグループの大きく3つに分けられた。このことから、本種の地域個体群はそれぞれの地域に定着しており、グループ間での個体の移動は長い時間制限されてきたことが明らかになった。まとめると、日本における本種の遺伝的構造は氷河期以降の分布拡大によって形成され、その後は気候等の地域環境に応じて遺伝的に分化して固定したと考えられた。

全国レベルの調査で明らかになった遺伝的なグループについて、グループ間の境界の正確な位置と遺伝的交流を妨げる要因を明らかにするため、福島県と茨城県内の地域個体群について高密度のサンプリングを行い、遺伝的多様性の解析を行った。その結果、福島県南部の北緯37.3度の位置に東西に沿って遺伝的グループの境界が存在した。この境界はミトコンドリアDNAと核DNAの両方においてこの地域の本種の個体群を南北に2分していた。境界周辺には八溝山とその周辺を源流とする久慈川が流れており、関東地方側に属する個体群の北限は久慈川に沿っていることから、地形が遺伝的交流を妨げる要因になっている可能性が示されたほか、平均気温が両グループの境界地点で大きく異なることから、気候条件が両グループを隔てる要因として機能している可能性も示された。本種の世代数は地域により異なり、西日本では4–5世代、東北地方では2–3世代とされており、世代数や世代数の違いに伴う発生時期の違いが両グループの交流を妨げている可能性もあるが、これは今後の検討課題である。

アカスジカスミカメによる斑点米被害の拡大と遺伝的多様性の関係

次に、アカスジカスミカメの斑点米被害の拡大の過程と、地域個体群の遺伝的多様性の関係を検討した。1980年代に日本で最初に本種による斑点米被害が報告された宮城県と広島県の加害個体群はそれぞれ遺伝的に異なるグループから生じており、異なる起源をもつことが明らかとなった。また、2000年代半ばから斑点米被害が報告され始めた関東地方の比較的新しい加害個体群は、すでに被害が顕在化している東北地方や南日本の地域の個体群とは遺伝的に異なるグループに属し、むしろ近隣の低密度に生息する個体群と遺伝的に近いことがわかった。これらの結果から、近年観察される本種による急激な被害の拡大は、特定の加害個体群が全国に分布を拡大することで生じたのではなく、それぞれの地域に適応している低密度の土着の個体群が、各地域で起きた環境の変化に応じて密度を増加して害虫化したと考えられた。また、水田で採集した個体群と水田周辺のイネ科牧草から採集した個体群間に遺伝的な違いは観察されず、寄主植物ごとのホストレースは生じていないと考えられた。

アカスジカスミカメは、斑点米カメムシの原因種として認識される以前は害虫としてほとんど知られておらず、全国的に生息密度の低い無名種であった。また、その分布域の調査もされていなかったため、斑点米被害が報告されて初めて生息が確認された地点も多く、本種による斑点米被害は本種の分布拡大によって生じているのではないかという推察もされてきた。しかし、本研究において聞き取り調査を含めたサンプリングを全国的に行ったところ、アカスジカスミカメの分布が斑点米被害の拡大に伴って近年広がったという証拠は得られず、むしろ斑点米被害が顕在化する前から本種は土着種として低密度ながら全国に分布していたと推測された。遺伝的多様性の解析の結果、本種の地域個体群はむしろそれぞれの地域に土着の個体群であり、遺伝的構造は長い時間をかけて形成されたものであると考えられた。さらに、本種が全国的に斑点米カメムシ類の主要種として問題となったのちもこの遺伝構造は維持されていると考えられた。結局、各地で問題化しているアカスジカスミカメの加害個体群は、それぞれの地域内に従来から生息していた個体群が密度を増して生じたものであると推察される。

アカスジカスミカメが近年密度を急増させた原因として、減反政策による休耕田の増加や、水田周辺の雑草管理の不徹底によって寄主植物となるイネ科植物が増加したことが第一にあげられている。水田環境の変化が、それまで低密度で生息しているに過ぎなかった土着種であるアカスジカスミカメが増殖する条件が整って発生源となったこと、このような環境の変化が全国各地で同時に起きたことが、本種が近年日本の斑点米カメムシの主要種となった原因であると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

登熟中の籾を加害するカメムシ類は、斑点米を形成して米の品質を著しく低下させるイネの重要害虫である。近年、アカスジカスミカメによる斑点米被害が全国的に急増して問題になっている。本種は、1980年代に初めてイネへの加害が報告されて以来、ごく限られた地域でのみ斑点米の原因となるに過ぎなかったが、2000年以降全国的に密度を顕著に増加し、全国各地で斑点米の原因種として主要な位置を占めるまでになった。土着種の害虫による被害がこのように広い範囲に急速に広がることは珍しく、アカスジカスミカメにおいても、この20年間に新たに被害を出した加害個体群がどこから生じているのかは明らかにされていなかった。

本研究は、アカスジカスミカメによる斑点米被害の拡大の過程と要因を明らかにすることを目的に、日本各地の地域個体群の遺伝的多様性を調査したものである。

1.アカスジカスミカメ地域個体群の遺伝的多様性の調査

2005年から2008年にかけ、アカスジカスミカメの日本における分布域をほぼ網羅する34地点から679個体の成虫をサンプリングし、ミトコンドリアDNAにコードされるチトクロームオキシダーゼサブユニットI(COI)遺伝子の塩基配列1,032bpを解析した。結果、39種類のハプロタイプが見つかり、本種のミトコンドリアは、塩基配列が大きく異なる2つの系統で構成されていることが明らかになった。現在の分布は氷河期における分布域の縮小とその後の拡大の過程において生じたと考えられた。ミトコンドリアDNAの遺伝的多様度と緯度には有意な相関があり、北日本の個体群ほど高く、南日本の個体群は極めて低かった。また、遺伝的距離と地理的距離の間には相関があり、本種の地域個体群間の遺伝的交流は地理的距離が離れるほど少ないことが明らかになった。一方、マイクロサテライトマーカーの多型解析の結果、本種の核DNAはミトコンドリアDNAと同様に北の個体群ほど遺伝的多様度が高い傾向を示し、また、遺伝的距離と地理的距離の間にも相関が認められた。

両DNAにおいて北日本の個体群は遺伝的に多様性であることから、日本における本種の歴史的な起源は北日本にある可能性が示された。さらに、遺伝的構造を明らかにするクラスタリング解析の結果、本種の地域個体群は遺伝的に北日本を中心とするグループ、関東を中心とするグループ、南日本を中心としたそれ以外の地域に分布するグループの大きく3つに分けられた。このことから、本種の地域個体群はそれぞれの地域に定着しており、グループ間での個体の移動は長い時間制限されてきたことが明らかになった。まとめると、日本における本種の遺伝的構造は氷河期以降の分布拡大によって形成され、現在も地域間の遺伝的分化が維持されている。

2.アカスジカスミカメによる斑点米被害の拡大と遺伝的多様性の関係

アカスジカスミカメの斑点米被害の拡大の過程と、地域個体群の遺伝的多様性の関係を検討した。1980年代に日本で最初に本種による斑点米被害が報告された宮城県と広島県の加害個体群はそれぞれ遺伝的に異なるグループから生じており、異なる起源をもつことが明らかとなった。また、2000年代半ばから斑点米被害が報告され始めた関東地方の比較的新しい加害個体群は、すでに被害が顕在化している東北地方や南日本の地域の個体群とは遺伝的に異なるグループに属し、むしろ近隣の低密度に生息する個体群と遺伝的に近いことがわかった。

これらの結果から、近年観察されている本種による急激な被害の拡大は、特定の加害個体群が全国に分布を拡大することで生じたのではなく、それぞれの地域に適応している低密度の土着の個体群が、各地域で起きた環境の変化に応じて密度を増加して害虫化したことによると考えられた。本種の寄主となるイタリアンライグラスの増加など、水田周辺の環境が変化してアカスジカスミカメが増殖する条件が整い、しかもこのような環境変化が全国各地で短期間に起きたことが、本種が近年急激に斑点米カメムシ類の主要種となった原因であると考えられる。

以上要するに、本研究は、近年急速に被害を拡大させた土着の害虫であるアカスジカスミカメにおいて、加害個体群の遺伝的多様性を全国的に調査し、各地の加害個体群がそれぞれ土着の低密度の個体群から生じていることを明らかにした。この成果は、土着種が害虫化する過程を集団遺伝学的に解析した貴重な研究例であり、斑点米カメムシに限らず土着害虫種の防除法の開発に新たな切り口を開いたものである。このように、本論文は学術上、応用上、重要な知見を明らかにしているので、審査委員一同は、博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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