学位論文要旨



No 217765
著者(漢字) 佐藤,元状
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,モトノリ
標題(和) ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの映像学 : イギリス映画と社会的リアリズムの系譜学
標題(洋)
報告番号 217765
報告番号 乙17765
学位授与日 2012.12.26
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17765号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 田尻,芳樹
 東京大学 教授 野崎,歓
 東京大学 准教授 大石,和欣
 東京大学 准教授 武田,将明
 法政大学 教授 丹治,愛
内容要旨 要旨を表示する

本論文「ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの映像学――イギリス映画と社会的リアリズムの系譜学」では、現在ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴとして総称される映画運動に注目し、その波動をイギリス映画史の長期的な観点から把握するとともに、その映画運動を担った中心人物であるリンゼイ・アンダーソンとカレル・ライスとトニー・リチャードソンの重要な映画作品の読解を試みた。本論文は、「フリー・シネマとイギリスのドキュメンタリー運動」、「ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴとリアリズムの諸問題」、「スウィンギング・ロンドンの政治学」、「イギリス映画とメタフィクション」の四部から構成され、時系列に沿って、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの運動それ自体の軌跡と、その運動を担ったアンダーソンやライスたちの映画作家としての成長の軌跡の双方を重層的に描き出すことを目的としている。以下では、各部の内容を総括していきたい。

第一部「フリー・シネマとイギリスのドキュメンタリー運動」を構成するのは、第一章「イギリス国民の表象――ドキュメンタリー運動からブリティッシュ・ニュー・ウェイヴまで」である。第一章ではブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの前史となるフリー・シネマの運動に注目し、その運動の映画史上の立ち位置について精査した。フリー・シネマ・プログラムというドキュメンタリー映画の上映会として活動を開始したフリー・シネマは、それ自身の映画史上の立ち位置を自己演出する際にドキュメンタリー運動の異端児ハンフリー・ジェニングズを参照枠とした。その理由は、ジェニングズのドキュメンタリーが、アンダーソンたちにとって、「芸術としてのドキュメンタリー」の可能性を示唆するものであったからだ。しかし、ジョン・グリアソン以来のドキュメンタリー運動の歴史が明らかにするのは、「芸術としてのドキュメンタリー」は、「プロパガンダとしてのドキュメンタリー」と表裏一体の関係にあるということだ。こうしてフリー・シネマは、ドキュメンタリー運動の遺産を全面的に受け継いでいくことになるが、その遺産はフリー・シネマを経由して、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ以降の社会的なリアリズムにも継承されていく。

第二部「ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴとリアリズムの諸問題」は、第二章「『土曜の夜と日曜の朝』の複眼的リアリズム」、第三章「『長距離走者の孤独』における風景のリアリズム」、第四章「方法としてのフラッシュバック――『孤独の報酬』における感情の風景」から成り立つ。ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの作品群は、イギリスのリアリズム映画の歴史について語る際に重要な位置を占めており、「労働者階級のリアリズム」、「詩的なリアリズム」、「社会的なリアリズム」など、さまざまな名称で呼ばれてきた。しかし、それらの名称は、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの作品群を包括的に記述するための、一般的なカテゴリーに過ぎず、個別の映画テクストを論じる際の根拠としては、不十分なものであった。第二部の各章では、これらのリアリズムのカテゴリーの批判的検証を、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの作品群のなかでもとりわけ重要な三つの映画作品のテクスト分析と対位法的に結びつけることによって、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴをめぐるリアリズム概念の刷新を意図した。

第二章では、「労働者階級のリアリズム」を「複眼的なリアリズム」という観点から捉え直し、ニュー・レフトの重要な論客リチャード・ホガートとライスの知的交流が、どのようにライスの映画作家としての成長に影響を与えていったのかを分析した。第三章では、映画研究者のアンドリュー・ヒグソンによる「詩的なリアリズム」についての考察を批判的に検証するとともに、リチャードソンの映画テクストを精査していくことによって、リチャードソンの「詩的なリアリズム」の政治的な可能性を浮き彫りにした。第四章では、アンダーソンの映画テクストを「社会的な風景」の探求から「感情的な風景」の探求への転換点として位置づけることによって、アンダーソンの「社会的なリアリズム」からの旅立ちの映画史上の意義について検証した。これらの三つの章を通じて明らかになるのは、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの「リアリズム」の多様性とそのラディカルな政治性である。フリー・シネマの美学=政治学は、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの「リアリズム」映画にもしっかりと継承されているのである。

第三部「スウィンギング・ロンドンの政治学」は、第五章「真面目な事柄についてのコメディ――『モーガン』と表象の政治学」と第六章「『ifもしも…』における帝国とコラージュの美学――叙事映画と帝国の表象」から成り立つ。この二つの章では、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの社会的なリアリズムからの政治的な後退として否定的な評価を与えられてきた、1960年代後半のいわゆる「スウィンギング・ロンドン」映画に光を当て、その表象の美学的、政治的な可能性について検証した。ライスの『モーガン』とアンダーソンの『ifもしも…』は、この二人の映画作家のブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ以降の最初のブレイクスルーとなった重要な作品である。しかし、その商業的な成功とは裏腹に、前者の作品は同時代のイギリスの映画評論家から、後者の作品は1970年代のイギリスの映画研究者から、致命的なほど辛辣な批判を与えられることになった。第三部では、このような否定的な評価の歴史化の作業を通じて、「スウィンギング・ロンドン」の時代に作られた、二つの希有な映画作品の再評価を試みた。

第五章では、ライスの映画テクストを「コメディ」として捉え直し、その主題とスタイルの喜劇性にポジティヴな要素を見出すことによって、モーガンの現実と空想の弁証法が孕む、ある種の政治的な可能性について考察した。第六章では、アンダーソンのテクストを「帝国映画」の文脈に位置づけるとともに、アンダーソンの新機軸となるブレヒト的な異化効果の映画技法に注目することによって、この映画テクストの美学的、政治的な可能性を浮き彫りにした。これらの二つの章を通じて明らかになるのは、スウィンギング・ロンドンの時代に作られた二つの映画作品の強靭な批判精神である。ライスとアンダーソンは、前衛的な映画作家として、表象の新たな可能性を探り続ける一方で、フリー・シネマを経由してブリティッシュ・ニュー・ウェイヴに引き継がれたニュー・レフト的な政治意識を手放すことは一度もなかったのである。

第四部「イギリス映画とメタフィクション」は、第七章「悟りの瞬間――『オー! ラッキーマン』とメタフィクション」と第八章「『フランス軍中尉の女』と時間性のモンタージュ」から成り立つ。この二つの章では、繊細かつ難解なメタフィクションの構成を持ちながらも、これまで映画批評においても、映画研究においても、正面から論じられることの少なかった、アンダーソンとライスの中期から後期にかけての二つの作品を取り上げ、テクスト分析を試みた。アンダーソンのテクストにおいては、サイレント映画のフォーマットとドキュメンタリーのフォーマットが、ライスのテクストにおいては、時間性のモンタージュが、それぞれのメタフィクションを読み解く重要な鍵となっているのである。これらのメタフィクションの映画テクストが、アンダーソンやライスがスウィンギング・ロンドンの時代に切り開いた表象の戦略をさらに発展させたものであるのは、言うまでもないだろう。そこでは、美学としての強度と政治的なメッセージの強度が見事な調和を見せている。

レイモンド・ウィリアムズが主張するように、「リアリズム」とは、「方法=スタイル=美学としてのリアリズム」と「態度=批判意識=政治としてのリアリズム」の双方を意味し、その両者の関係は弁証法的に捉えられなければならないならば、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの「リアリズム」は、フリー・シネマに由来する、その美学=政治学としてのリアリズムは、アンダーソンやライスのブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ以降の冒険にも大きな影響を与え続けることになるだろう。第一部から第四部にかけての通時的なテクスト分析によって本論文が目指したのは、アンダーソンやライスのリアリズムの美学=政治学の連続性と切断の局面をダイナミックに描き出すことであった。

審査要旨 要旨を表示する

佐藤元状氏の博士論文「ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの映像学――イギリス映画と社会的リアリズムの系譜学」の審査結果について報告する。

本論文が中心的にあつかうのは、現在ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴとして総称される、1959年から63年にかけて、リンジー・アンダーソン、カレル・ライス、トニー・リチャードソンによって制作された、労働者階級の若者を主人公にした社会的リアリズム映画、およびこの三人の監督によるその後の作品である。全体は、「フリー・シネマとイギリスのドキュメンタリー運動」、「ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴとリアリズムの諸問題」、「スウィンギング・ロンドンの政治学」、「イギリス映画とメタフィクション」の四部から構成され、時系列に沿って、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの運動それ自体の軌跡と、その運動を担ったアンダーソンたちの映画作家としての成長の軌跡の双方を追跡している。

そのような骨太の骨格のなかで佐藤氏は、1930年以降のドキュメンタリー映画からフリー・シネマ(1956-59)をへて、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴにいたるリアリズム映画の歴史を概観し、また、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ時代およびそれ以後のアンダーソン、ライス、リチャードソンの作品を、おもに社会的リアリズムとその美学化としての詩的リアリズムの葛藤という観点から精読することによって、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴをダイナミックな連続性として描こうとしているのである。

第一部「フリー・シネマとイギリスのドキュメンタリー運動」において佐藤氏は、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの前史となるフリー・シネマの運動に注目し、その運動がジョン・グリアソン以来のドキュメンタリー映画とブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの社会的リアリズムを結びつけるものであることを確認している。フリー・シネマ時代のアンダーソンたちは、ドキュメンタリー運動の異端児ハンフリー・ジェニングズをみずからの運動の参照枠としたが、それは、彼らがジェニングズの映画のなかにたんなる「プロパガンダとしてのドキュメンタリー」だけではない、「芸術としてのドキュメンタリー」の可能性を認めたからであった。こうして佐藤氏は、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴのなかに認められる社会的リアリズムと詩的リアリズムの葛藤が、ドキュメンタリー運動に由来するものであることを明らかにしている。

第二部「ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴとリアリズムの諸問題」を構成する第二章「『土曜の夜と日曜の朝』の複眼的リアリズム」、第三章「『長距離走者の孤独』における風景のリアリズム」、第四章「方法としてのフラッシュバック――『孤独の報酬』における感情の風景」において佐藤氏は、それぞれの作品のテクストを個別に分析しながら、それら三つの作品を大まかに規定してきた「労働者階級のリアリズム」、「詩的なリアリズム」、「社会的なリアリズム」といった名称を批判的に検証し、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴにおけるリアリズムの多様性とそのラディカルな政治性を浮かびあがらせている。

第三部「スウィンギング・ロンドンの政治学」は、第五章「真面目な事柄についてのコメディ――『モーガン』と表象の政治学」と第六章「『ifもしも…』における帝国とコラージュの美学――叙事映画と帝国の表象」から構成されている。佐藤氏は、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの社会的なリアリズムからの政治的な後退として否定的な評価を与えられてきた、1960年代後半のいわゆる「スウィンギング・ロンドン」映画としてのこの二作品を、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ以降の最初のブレイクスルーとなった重要な作品として再評価するとともに、その映画がもっているニュー・レフト的な政治的意味の可能性を提起している。

第四部「イギリス映画とメタフィクション」は、第七章「悟りの瞬間――『オー! ラッキーマン』とメタフィクション」と第八章「『フランス軍中尉の女』と時間性のモンタージュ」から構成されている。難解なメタフィクションとして知られる、アンダーソンとライスの中期から後期にかけてのこの二つの映画を、そのメタフィクション性を中心に精緻に分析しながら、佐藤氏は、両作品がアンダーソンやライスがスウィンギング・ロンドン時代に切り開いた表象の戦略をさらに発展させたものであり、美学としての強度と政治的なメッセージの強度を見事に調和させている作品として高く評価している。

そのうえで佐藤氏が結論として述べていることは、レイモンド・ウィリアムズが主張するように、「リアリズム」が、「方法=スタイル=美学としてのリアリズム」と「態度=批判意識=政治としてのリアリズム」の双方を意味し、その両者の関係は弁証法的に捉えられなければならないものだとするならば、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴとは、まさにウィリアムズ的な弁証法的統合としてのリアリズムにむけての弛まざる運動だった、ということである。

佐藤元状氏の博士論文『ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの映像学――イギリス映画と社会的リアリズムの系譜学』は、とりわけ日本ではあまり研究されていないイギリス映画を正面から扱ったという点でその独自性がまず高く評価された。「ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ」を担ったリンジー・アンダーソン、カレル・ライス、トニー・リチャードソンを中心に据え、戦前のドキュメンタリー映画、戦後のフリー・シネマとの関係、さらには後の「スウィンギング・ロンドン」を経て、彼らが独自の実験的美学を開花させるまでの長い年月に及ぶ系譜を、コンパクトでわかりやすい見取り図で提示するのに成功している点もまた本論文の美点と称えられた。論の対象となる具体的な映画作品の分析も丁寧で,関連文献も十分に渉猟していると認められた。

他方、審査員からは、鍵となる「ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ」という概念が映画史研究で十分市民権を得たものではなく、また該当する作品がイタリアやフランスの「ニュー・ウェイヴ」の概念に必ずしも適合しないという批判、作品の分析でマルクス主義批評家の概念枠組みにとらわれ過ぎた面があるという批判のほか、作品の解釈や専門用語の使用についていくつかの異論や疑問が出された。しかしこれらは、論文の全体としての高い独自性と価値を損なうものではないと認められ、佐藤氏に論文博士(学術)の学位を与えるという結論に満場一致で達した。

UTokyo Repositoryリンク