学位論文要旨



No 217766
著者(漢字) 床呂,郁哉
著者(英字)
著者(カナ) トコロ,イクヤ
標題(和) 流動と生成 : スールー海域世界の民族誌
標題(洋)
報告番号 217766
報告番号 乙17766
学位授与日 2012.12.26
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17766号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山下,晋司
 東京大学 准教授 渡邊,日日
 東京大学 准教授 津田,浩司
 東京大学 准教授 名和,克郎
 静岡県立大学 教授 富沢,寿勇
内容要旨 要旨を表示する

本論文「流動と生成―スールー海域世界の民族誌」は筆者のフィールドであるスールー海域世界(後述)における人やモノ、文化の多様な流動(または移動・越境)と、その流動に伴って現地で生起している社会・文化的な持続(再生産)と生成(変化)について、文化人類学的な視点から記述と検討を行うことを主な目的としている。本論文は主にスールー海域世界における筆者のフィールドワークによって得られた資料を中心とするが、また歴史的背景の分析などに関しては欧米を含む各地で収集した文献資(史)料等も必要に応じて参照している。以下に本論文の各章ごとの概要について述べる。

まず第1章は序論として本論文の主題であるスールー海域世界における各種の人やモノ、文化の流動を論じるに当たって必要な人類学や隣接分野における理論的参照枠組みと先行研究に関するレヴューを実施しながら本論文の位置づけと意義を述べる。これに続く第2章と第3章では、本論文の対象であるスールー海域世界の社会の歴史的背景について述べていく。この作業は現在のスールー海域世界における人やモノの流動(移動、越境)との連続性と非連続性を理解する上でも重要な作業である。

このうち第2章では、「スールー海域世界の歴史的動態」と題して、同地域の歴史的背景のうち、主に前植民地期におけるスールー王国を中心としたスールー海域世界における社会形成の動態について、近年の歴史学の新たな知見や当時の歴史的背景に関する文献資(史)料も参照しながら具体的に検討していく。

次の第3章では、スールー海域世界における伝統的な人やモノの流動やネットワークが、19世紀末から20世紀前半にかけての植民地化の過程で、国境をはじめとする様々な「境界」の設定によって分断・再編されていく過程について論述していく。

続く第4章と第5章は、現在のスールー海域世界を舞台とする人やモノ、文化の流動の諸相をよりミクロな民族誌的水準から記述していく。まず第4章では、「越境の民族誌」と題して、現代のスールー海域世界での多様な人やモノの流動の実態について主に筆者のフィールドワークを通じて得られたデータに基づいて記述していく。その過程で、交易商や海賊といった現代の海の民が、近代国民国家の制度である国境とどのように関わり、交渉しているのかという点に関しても、考察を加えることとしたい。

次の第5章では、前章に引き続き人の流動について述べる。とくにこの章では、スールー海域世界のなかでも、伝統的に海上での移動生活を営んできたサマ(サマ・ディラウト)人を取り上げて、そのいわゆる「漂海」生活の実態などについて記述していく。

以上のように第4章と第5章が現地における流動の諸相を扱ったものであるのに対して、続く第6章と第7章はそうした流動状況下における文化の問題を主題として扱う。まず第6章では、第5章までの考察を踏まえて、高い移動性・流動性を特徴とするようなサマ人の社会において、こうした流動性の高さにもかかわらず、いかにして現地の当事者たちが一定の文化・社会的なまとまりを持続し、再生産している(かのように見える)のか、という問題に関しての検討を行う。こうして第6章が、どちらかと言えば流動状況下における文化の持続(再生産)の側面にまずは焦点を当てるのとは対照的に、次の第7章は流動状況下における文化の変化・変容や生成的な側面をより中心的に主題化して扱うものである。具体的には、近年のイスラーム世界におけるグローバルな傾向であるイスラーム復興の顕在化や、グローバルな資本主義の浸透に関連した国境を超える大量移民など、各種の流動状況の拡大・進展下における現地の宗教的実践、とくにシャーマニズム儀礼の変容や、イルムと呼ばれる秘儀的知識の生成・流通の事例を取り上げて記述と考察を行う。

こうして第6章と第7章を併せることによって、本論文の後半では現在のスールー海域世界における流動状況下での文化の持続・再生産という側面と、他方ではその変容や生成の側面、という複雑で重層的なプロセスが同時進行する状況を検討していくこととなる。

また最後に、本論文の結論となる第8章では、それまでのスールー海域世界に関する個別具体的な叙述を整理するとともに、こうした流動状況のなかでの社会・文化的な再生産と生成・変容という現象について、より一般的・理論的な水準から総括し、本論文の結論とする。

審査要旨 要旨を表示する

床呂郁哉氏の論文「流動と生成――スールー海域世界の民族誌」は、フィリピン南部からマレーシア領ボルネオにかけての「スールー海域世界」における人、モノ、文化の流動とその流動に伴って現地で生起している社会的・文化的な持続と変化について、文化人類学の視点から記述、分析したものである。論文のもとになっているのは、床呂氏が1989年の予備調査以来2010年にいたるまで長期にわたって行ったフィールドワーク(集中調査は1992年3月から1995年3月までの3年間)によって得られたデータである。また、歴史的背景の分析などに関しては、欧米を含む各地で収集した文献資料等も参照している。

以下に、本論文の各章ごとの概要について述べる。第1章は、序論として、本論文の主題であるスールー海域世界における人、モノ、文化の流動(移動、越境)を論じるに当たって、先行研究のレビューを行い、理論的枠組みを提出し、本論文の位置づけを述べている。第2章では、「スールー海域世界の歴史的動態」と題して、主に前植民地期におけるスールー王国を中心とした海域世界における社会形成の動態について、近年の歴史学の知見や歴史的背景に関する文献資料も参照しながら検討している。第3章「<境界>の設定」では、スールー海域世界における伝統的な人やモノの流動性やネットワークが、19世紀末から20世紀前半にかけての植民地化の過程で、様々な境界の設定によって分断・再編されていく状況を論述している。

第4章と第5章では、現代のスールー海域世界が扱われている。すなわち、「越境の民族誌――スールー海域世界における流動の諸相」と題する第4章では、今日のスールー海域世界での社会や文化の流動の実態が、長年の現地調査に基づいて民族誌的に記述されている。そうしながら、今日の「海の民」が近代国民国家の制度である国境とどのように関わり、交渉しているのかという点について考察が加えられている。また、「漂海の民族誌」と題する第5章では、とくに伝統的に海上での移動生活を営んできたサマ(サマ・ディラウト)人を取り上げて、そのいわゆる漂海生活の実態が詳細に記述されている。

第6章と第7章では、そうした流動状況下における文化の動態の問題が扱われる。第6章「『祖先のやり方』――流動のなかの文化的持続」では、高い移動性・流動性を特徴とするようなサマ人の社会において、こうした流動性の高さにもかかわらず、一定の文化・社会的な持続性を維持し、いかにして文化を再生産しているかということが検討されている。第7章「流動と文化的生成」では、流動状況下における文化の変化・変容や生成的な側面を主題化し、とくに近年のイスラーム世界における顕著な傾向であるイスラーム復興や、グローバルな資本主義の浸透に伴う国境を超える大量移民など各種の流動状況の拡大・進展下における現地の宗教的実践、とくにシャーマニズム儀礼の変容や、イルムと呼ばれる秘儀的知識の生成・流通の事例を取り上げて考察している。

第8章では、結論として、それまでのスールー海域世界に関する個別具体的な叙述を整理するとともに、こうした流動状況のなかでの社会・文化的な再生産と生成・変容という現象について、より一般的、理論的な面から総括している。

以上の構成を持つ本論文の意義は、なによりも床呂氏のスールー海域世界に関する20年以上に及ぶフィールドワークに基づいた綿密で貴重な民族誌的な研究であるという点である。そのような長年にわたる地道な研究により、この地域の人びとや文化の流動の問題を、近代初頭から始まり欧米に起源するグローバル化(床呂氏がグローバリゼーションIと呼ぶもの)、近代以前に遡る歴史的タイムスパンを持ち、また必ずしも欧米を起源とするものでも中心とするものでもないグローバル化(グローバリゼーションIIと呼ぶもの)、さらにトランスローカル/トランスナショナルな流動の現象という3つの次元において検討した本論文は、歴史的・地域的民族誌の厚みと複合性のなかで文化のダイナミズムを検討する道を切り開いた。この点は、今日の民族誌研究にとって大きな貢献である。

審査においては、本論文で議論されているグローバリゼーション概念をめぐって疑問や批判的なコメントも提出された。しかし、本論文の持つ価値は十二分に高いものがあり、本論文は文化人類学の研究に対して重要で貴重な貢献をなしていると判断された。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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