学位論文要旨



No 217767
著者(漢字) 宮下,遼
著者(英字)
著者(カナ) ミヤシタ,リョウ
標題(和) 同時代叙述史料に見る16世紀イスタンブルの都市イメージ
標題(洋)
報告番号 217767
報告番号 乙17767
学位授与日 2012.12.26
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17767号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 杉田,英明
 東京大学 教授 羽田,正
 東京大学 准教授 黛,秋津
 東京大学 名誉教授 鈴木,董
 東京外国語大学 教授 林,佳世子
内容要旨 要旨を表示する

本稿は,16世紀,および一部17世紀の叙述史料を用いつつ,オスマン朝の文化的選良層と西欧人旅行者,そしてイスタンブルの庶民という三者におけるイスタンブルの「都市イメージ」を明らかにしつつ,イスタンブルという都市の特徴について検討することを目的とした都市文化史研究である。

16,17世紀イスタンブルの「都市イメージ」を研究する意義は,世界の他の都市と比較したとき,当時のイスタンブルが世界的にも類例の少ない多彩な住民や文化,宗教が共存した空間であったことに求められる。すなわち,この都市を支配したオスマン朝は,異なる文化的出自を持つ人々を,納税者としての義務を履行する限りにおいて駆逐せず,結果としてイスタンブルは住民のみならず,都市景観においても古代ギリシア・ローマ,ビザンツ帝国,オスマン朝という異なる時代に属し,異なった文化,技術によって築かれた建築物が残存する稀有な都市空間を持つに至ったからである。そして征服直後の急激な人口増加を経て,その後も恒常的な人口流入が続いたたこの都市では,居住地の明確な差別化のような目に見える形での社会集団ごとの住み分けは重視されず,基本的にその居住や往来に厳しい制限が設けられていたわけではない。つまり,イスタンブルと対峙した帝国内外のさまざまな観察者たちにおける都市の空間的差異化は,居住地の差別化という実際の空間における住み分けよりも,むしろ同一対象を観察しながらもまったく異なった「都市イメージ」を抱くという精神的な領域でこそ起こっていたと考えられるのである。そのため,多種の住民と高い歴史的重層性を有する都市空間を擁するイスタンブルで発生した「都市イメージ」は,たんなる文学的研究対象を越えて,都市史研究,文化史研究にもかかわる実質を伴っていると言えるだろう。本稿ではオスマン朝の文化的選良,西欧人旅行者,イスタンブルの庶民という三種の観察者を設定することで,こうした「都市イメージ」を多角的に検討した。

なお,本稿における「都市イメージ」の定義は人々の都市にたいする心象風景や印象が一定の共通性を保ちつつも,完全な定型性を獲得せず,散発的にテクストに書き記される段階のイメージ,すなわちクルツィウスが定義した「歴史的トポス」の前段階として位置付けられる心象であり,イスタンブルという文脈上で語られた同時代人の観察集団おのおのの言説空間内に共通して見られる建築的,人的対象についての,「ある程度の」定型性を持つイメージと定義される。

以上を踏まえた上で本稿では,序論において先行研究の確認と問題点の指摘を行い,オスマン朝の文化的選良,西欧人旅行者,イスタンブルの庶民という三種の観察者の定義と,おのおのの集団によって著された史料についての解説を,ついで第一章では,各観察者たちが共通して取り上げる16,17世紀イスタンブルの基本的な地勢や市内外の主な建造物の実状を概観した。その上で,第二章では古典定型詩の教養を備えた人々を中核とするオスマン朝の文化的選良の「都市イメージ」を,第三章では異邦人としてイスタンブルをおとない,前記のオスマン朝選良層とはまったく異なった視点からこの都市を観察,記録した16世紀半ばの西欧人旅行者の都市イメージを,そして第四章では二人の市井の名士の著作に見られる17世紀のイスタンブルの庶民たちの都市イメージを,それぞれ検討した。

上記の研究を経て本稿では,オスマン朝の文化的選良である古典詩人の残した都市礼賛を行う古典定型詩,同時代都市の社会問題を扱う当世批判の諸作品の分析を通して,都市のランドマーク群から成り,王朝を称揚しようとする詩的美意識に則った「理想の都市」像,及び紳士としての選良層が持ち合わせた雅人意識という価値観にそぐわない庶民が暮らす卑しい日常生活空間からなる「下郎の巷」という二種類の都市イメージがオスマン朝の文化的選良に保持され,雅と野卑の対比構造の中でイスタンブルが捉えられていたことを明らかにした。

また,16世紀半ばにイスタンブルを訪れた西欧人旅行者ダラモン大使一行の残した東方旅行記の分析を通して,彼らが「トルコ帝国」の敵情視察という実地検分と,異文化ないし異教・キリスト教古代文化が発見されることを予定された観光名所めぐりの双方の観点からイスタンブルを観察し,精強かつ規律正しいトルコ兵や豪奢な宮殿,宮廷行事とともに西欧人にとっては野蛮と見なされた割礼のような種族や奴隷売買についての実地検分を主体としつつ,強大なトルコ帝国というイメージを託された「現代的異文化の都市」,ならびに,市内各所に残るギリシア・ローマ,ビザンツ期の遺構やトルコ人の習俗といったさまざまな要素に異教・キリスト教古代文化を見出すという「異教・キリスト教古代文化の都市」という二種類の都市イメージを併せ持ったことを詳らかにした。

さらに,オスマン朝の文化的選良でありながら庶民的視座からも都市を記述した市井の名士二名の地誌作品の検討を通じて,その叙述に露頭を覗かせる庶民の都市にまつわる多彩な俗信を検討し,人的対象や建築物という多様な要素にその都度,不可視の力への畏れを感じとるという迷信的生活意識の存在を指摘しつつ,さまざまな俗信が都市の随所に点在する庶民層に特有の「俗信の都市」像を明らかにした。

このようにオスマン朝の文化的選良,西欧人旅行者,イスタンブルの庶民は,おのおのの大きく様相を異にする都市イメージが見られる。つまり、イスタンブルの「都市イメージ」群の最大の特徴は,おのおののイメージが交わることなく,併存してテクストに書き残されるという相関関係の希薄さであると言えよう。まずもって同時代人の言説空間における16,17世紀イスタンブルは,言語や宗教,文化とそこから派生する生活基調を異にする観察者たちが創出した独自の都市イメージ群が,交わることなく併存するという多元的構造を有しているのである。本稿ではこうしたイスタンブルの状況を「多元的都市イメージの場」と呼ぶこととした。

この「多元的都市イメージの場」としてのイスタンブルの構造的起源はオスマン朝の支配体制に求めるのが妥当である。オスマン朝は都市建設に際しては異教の建築物をことさらに排除せず,モスクへの転用やワクフ寄進の形で既存の建築物を再利用することが多かったため,結果として帝都の都市景観の中には観察者にたいしてその文化的背景に応じた興味関心に応じた選択性を保証しうる建築学的歴史性,多様性が胚胎されるに至っていたからである。また,ズィンミー制度を施行したオスマン朝は,非ムスリムの信仰や文化といった精神的領野にまで積極的に立ち入ろうとしなかったため,この緩やかなオスマン朝支配体制が,多様な観察者が比較的自由な視点から都市を観察し,そこに生じたイメージをテクストに書き残すことを許した点も,都市イメージの多様性に少なからぬ影響を及ぼしている。「多元的都市イメージ」の場としてのイスタンブルは,オスマン朝の支配体制に発する建築的,社会的要因によって現出した観察者,被観察対象双方における多様性によって保持された空間だったのである。

一方で,「多元的都市イメージ」の中で三種の観察主体の都市イメージに共通して見られる要素に着目した場合,そこには同時代の観察者による歴史的重層性の認知という現象が顕著に見られる。無論,ローマ帝国とその文化的影響を残した後継国家群が長らく存在した地中海世界にあっては,主に古代建造物という形でギリシア・ローマ文化が都市空間の中に取り残されることは少なくなかった。従って建築学的見地から見れば歴史的重層性を胚胎する都市はイスタンブルだけではない。しかし,イスタンブルには,征服後百年を経てなお,学究や知識人のみならず,ムスリム,非ムスリム,詩人,庶民,異邦人という身分や言語,宗教を問わない広範な同時代人によって歴史的重層性が感知されるアヤソフィア・モスクやアトメイダヌのような特異点が複数残存し,同時代的な影響力を行使している。これはイスタンブルの歴史的重層性が地中海他都市を圧する強い影響力を保持していたことを示すだろう。

以上のように本稿では従来のトルコ史,トルコ文学(史)研究ではほとんど行われてこなかった都市イメージ研究を行い,イスタンブルという都市が,そこに生きる者が意識,無意識にかかわらず常に都市の歴史性を感知し,また感知せざるを得ない際立った歴史的重層性を持つ都市であったという結論を得るに至った。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,16世紀ならびに一部は17世紀に属する叙述史料を用いながら,オスマン朝の文化的選良層と西欧人旅行者,および庶民という三者が抱いたイスタンブルの都市イメージを明らかにし,社会史・心性史の視座からこの都市の特徴である歴史的重層性を抽出しようとする都市文化史研究である。

ここで言う「叙述史料」とは,徴税台帳や判決記録などの「文書史料」,あるいは宮殿やモスクなどの「建築物」に対立する概念として,おもに歴史書や旅行記などを指して(古典詩を中心とする「文学史料」も含めて)用いられている。16世紀という時代を対象としたのは,この世紀のスレイマン1世の治世(1520–66年)にオスマン朝の国家制度やイスタンブルの都市景観の原型が整備されたことによる。「西欧」とはヨーロッパを東西に分けた場合の西側,すなわち現代で言う西欧(フランス,イギリス,ドイツなど)や南欧(イタリア,スペインなど)を含む包括的な概念である。また「都市イメージ」は,都市に関して人々が文書に散発的に書きとめ,一定の定型性・共通性を持つに至った印象ないし心象風景 ―― ドイツの文藝批評家クルティウスが言うところの「トポス」の前段階 ―― と定義される。

論文は「はじめに」「おわりに」を挟んで,「序論」,本文の全四章,それに「結論」からなり,凡例・地図・表・文献目録が付されている。全体の分量はA4判で139頁,本文・注のみの合計(空白を含む)は400字換算でおよそ400枚相当である。

「序論」ではまず,社会経済史的研究と文学史研究とが乖離していた従来の状況に鑑みて,本論文の目標は叙述史料・文学史料に依拠した社会史研究に置かれる旨が宣言される。続いて,検討の対象となった三種類の都市観察者と主要史料の概説が行なわれる。それによれば,本論文が依拠するのは,(1) 古典文学の素養を持ち合せた文化的選良の視点を代表する16世紀の文学史料として,ジェマーリー,ファキーリー,キャーティブ,ジャフェル・チェレビー,ヤフヤー・ベイ,ラティーフィーの六点の都市頌歌と,ファキーリー,サーフィー,アーリーらの当世批判の作品四点,(2) 西欧人旅行者の視点を代表する史料として,1544年から1550年にかけてイスタンブルを訪れたフランス王国大使ダラモン男爵一行の旅行記七点,および補助的に16世紀後半から17世紀にかけてのパレルヌ,テヴノ,グルロ,モトライユらの東方旅行記数点,(3) 自らの記録を残さなかった庶民を代弁する17世紀の史料として,市井の名士とも呼ぶべきエヴリヤ・チェレビーの『旅行記』と,アルメニア人エレミヤ・チェレビー・キョミュルジュヤンの『イスタンブル史』の二点という,大きく三つの範疇に分類される史料群である。

第一章「16世紀イスタンブルの概要:本稿の研究対象地域」は,1537年にスィラーヒーによって作成された都市図を利用しながら,議論の前提条件として,三種類の観察者たちが共通して取り上げているイスタンブルの地勢,主要地域,建築物などを概観する。続く第二章「文化的選良の都市イメージ」では,古典詩人の作品におけるイスタンブルが「理想の都市」と「下郎の巷」という,雅と卑の対立的構造のなかで把握されていたさまを明らかにする。詩人たちは都市頌歌のなかで,ボスフォラス海峡,ハレム庭園,アヤソフィア・モスク,ファーティフ・モスク,聖地エユプ,キャウトハーネ,ガラタという七つの地理的対象の称揚を通じ,詩的美意識に則った理想の都市としての帝都を描き出す一方,当世批判の諸作品においては,紳士たる雅人の価値観にそぐわない卑しい庶民が暮らす,悪徳と不潔と無礼さに満ちた現実の日常生活空間を侮蔑的・揶揄的に描写しているという。

第三章「西欧人旅行者の都市イメージ」は,ダラモン大使一行の旅行記群のなかから,「現代的異文化の都市」と「異教・キリスト教古代文化の都市」という二つの都市イメージの併存を導き出している。彼らは一方で,「トルコ帝国」の敵情視察という実地検分を行ない,トルコ兵の静謐と秩序,ハレムの東方的豪奢,奴隷売買や割礼などの習俗の観察を通じて,イスタンブルを強大で豊かな野蛮人の都として描き出すと同時に,他方では人文主義的関心から,ローマを想起させる七つの丘やアト・メイダヌ(ビザンツ帝国のヒッポドローム),アヤ・ソフィア(古代の教会からの改造モスク)といった建造物,入浴や油相撲などの習俗を重視し,そこに異教・キリスト教古代文化の痕跡を探し求めようとする。ここでは,同時代の異文化への興味と古代文化への憧憬とが相補的に同居していることが論じられる。また,ヨーロッパ人による「現代的異文化」としてのイスタンブル像が,17世紀以降,個人的体験を重視する「幻想的異文化」の都市像へと継承され,変容してゆくという見通しも示される。

第四章「イスタンブルの庶民の都市イメージ」では,17世紀の二人の庶民的名士による旅行記的地誌に見られるさまざまな俗信が取り上げられる。この章のみ17世紀の史料に依拠するのは,対応する類似史料が16世紀にはまったく存在しないことによる。アヤズマ(聖なる水場)や聖人エユプの伝説といった宗教的俗信,でか鼻メフメト・チェレビーや篩翁など同時代の狂人に関する俗信,アヤソフィアやアト・メイダヌの「奇物」(奇妙な建築物ないしその装飾品),コンスタンティヌスとテオドシウスの円柱などの遺構にまつわる歴史的な俗信という,三種類の俗信を検討する過程で立ち上がってくるのは,日常生活のなかの奇異な事象から不可視な力への畏れを感じ取る庶民の「迷信的生活意識」であり,「俗信の都市」としてのイスタンブル像である。

最後の「結論」では,これまでの議論を踏まえた上で,三種類の観察者によるイスタンブルの都市イメージ群の最大の特徴は,それぞれが交わることなく併存するという多元的構造にあることが示される。このような状況を本論文は「多元的都市イメージの場」と呼んでいる。この多元性の起源として挙げられるのが,既存の異教の建築物を排除せずに再利用する形で進められた都市建設のあり方と,異教徒の精神的領域にまで立ち入らないオスマン朝の柔らかな支配体制である。これら建築的・社会的要因によって観察者と観察対象の多元性が保証された結果,三種類の観察者はそれぞれの文化的背景に応じた独自の観察を行ないながら,同時にいずれもがその対象の歴史的重層性を感知する点で共通する態度を見せることになる。

こうした構成と内容を持つ本論文の特徴としては,筆者が卓抜な語学力を生かして韻文と散文とに跨るオスマン語史料を駆使するとともに,ヨーロッパ諸語の一次史料をも幅広く渉猟し,さらに現代トルコ語・ヨーロッパ語による社会経済史・文学史の研究成果にも十分な目配りをしていること,性格の異なる膨大な史料群に鏤められたイスタンブル像を整理し,三種類の観察者の独自性と共通性との分析から,歴史的重層性を持つ都市の多元的イメージを抽出してみせたことが挙げられる。16–17世紀という時代に限ってみても,イスタンブルの都市イメージをこのように包括的・統合的に叙述した研究はこれまで存在しなかったので,本論文は都市文化史研究の分野において基本的な新知見をもたらした労作と見なしうる。また,トルコ文学作品を社会史研究に応用する試みとしても,トルコの内外を問わず先駆的業績に位置づけられよう。全体は,読者が通読しやすい簡潔な文体で記されている点も特筆すべきである。

ただ,本論文にも望むべきいくつかの問題点が残されている。審査委員からの指摘を若干紹介するなら,まず史料の網羅性,事例の代表性という点で,ダラモン大使一行の記録その他数点のみを以て「西欧人旅行者」の旅行記一般を代弁させているのは不徹底であり,より広範囲に,さまざまな文化的背景や社会階層に属する旅行者たちの記録を精査すると同時に,実際に現地を訪れていない人々が旅行記や文学作品を通して間接的に生み出した「都市イメージ」をも問題にすべきであろう。また,社会史・心性史の視点の導入を意図している割には「心性」そのものの分析が不十分であり,論文は全体として分析よりは列挙に力点が置かれる傾向にある。第三に,三種類の観察者の分類にはやや恣意的な面が見られ,そこから得られる結論も,事前に予測されうる常識的な範囲内にとどまっている。さらに「俗人的聖職者」「庶民的名士」「帰納的観察者」「定点観測」といった,分析概念にまつわる言葉の使い方にも再考の余地がある。

しかし,これらは本論文の意義や貢献を否定するような性質のものではなく,その一部については筆者自身が今後の展望として「おわりに」のなかでも自覚的に述べているように,これからの研究の展開の過程で克服されるべき課題である。従って本審査委員会は,全員一致で,本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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