学位論文要旨



No 217787
著者(漢字) 黒川,正剛
著者(英字)
著者(カナ) クロカワ,マサタケ
標題(和) 魔女とメランコリー
標題(洋)
報告番号 217787
報告番号 乙17787
学位授与日 2013.03.01
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17787号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 池上,俊一
 東京大学 教授 長谷川,まゆ帆
 東京大学 教授 相澤,隆
 首都大学東京 教授 河原,温
 九州大学 教授 関,一敏
内容要旨 要旨を表示する

西欧で魔女裁判が猛威を振るったのは、16世紀後半から17世紀にかけてであった。魔女とはいかなる存在であったのか。なぜ魔女裁判は近世に起こったのか。この二つの問題は本格的な研究が欧米で開始された19世紀以来、依然として根源的な問題である。本論文はこの魔女裁判の根本問題を、神話・占星術・医学思想、西欧人の世界観と密接に結びついてきたメランコリーという概念、そして社会的周縁者の問題の連関の中で、「魔女」の表象を読み解きつつ明らかにしようとするものである。

16世紀末に制作された「土星とその子供たち」と題される版画には次のような光景が描かれている。画面上方には二匹のドラゴンが曳く馬車に乗り天空を飛翔するローマ神話の神サトゥルヌス、画面下方にはその影響下にある人間たちが描かれている。サトゥルヌスは占星術における土星を意味する。地上に描かれている人々の姿には医学的な意味合いも付与されており、これらの人々は西欧近代医学の確立以前に支配的であった体液病理説における「黒胆汁を多く持つ者たち」、つまり「メランコリーに冒された者たち」を意味する。この版画には魔女とインディオが描かれているが、「土星の子供たち」は貧民、罪人、身体障害者など当時の西欧社会における周縁者を含んでおり、「最も貧しく最も蔑まれる人間」を意味していた。したがって本論文で解明する問題は次のように換言できる。魔女は西欧近世社会において「土星の子供たち」の負性を一身に凝縮させる存在であったために大量殺害の対象になったのでないか。その負性凝縮のプロセスは社会的周縁者が「土星の子供たち」に関係している以上、「メランコリー」という概念に密接に関係しているのではないか。本論文では社会的周縁者として貧民とインディオを、対象地域としてイングランドとフランスを取り上げ検討を行った。

第1章では、16世紀後半のメランコリー観の状況を古代ギリシア・ローマ時代以降のメランコリー概念史をたどることによって明らかにした。古代ギリシア・ローマ時代には二系統のメランコリー観が並存していた。一つは否定的なメランコリー観で、ヒポクラテス=ガレノス経由の体液病理説に基づき、黒胆汁が体内で増加することにより粗暴・精神錯乱・幻覚症状などが引き起こされ、罹患の程度は老人・女性が重くなると考えるものであった。もう一つは肯定的なメランコリー観で、偽アリストテレス作『問題集』第30巻1に由来し、体液病理説をふまえながらもメランコリーを男性の天才と結びつけて考えるものであった。中世になるとキリスト教の影響もあり否定的なメランコリー観が主流となったが、中世末にフィレンツェの新プラトン主義者フィチーノが肯定的メランコリー観を復活させ、その影響は16世紀第1四半期頃まで続いた。しかし宗教改革の影響によりメランコリー観は否定的なものに反転し、16世紀後半にはメランコリーは悪魔と老女に親和性のあるものとして受容されるようになっていた。

第2章では、16世紀後半を代表する三つの悪魔学論文(ヴァイヤー『悪魔の幻惑について』1563年、ボダン『魔術師の悪魔狂』1580年、スコット『魔術の暴露』1584年)を史料として取り上げ、「魔女とメランコリー」の関係がいかに捉えられていたのか検討した。大学医学部に学びユーリッヒ=クレーフェ=ベルク公の侍医を務めたヴァイヤーは、魔女裁判を批判するため著作を出版した。ヴァイヤーによると魔女として告発されているのはメランコリーに冒された老女であり、魔女の集会への参加を始めとする自白内容はメランコリー症を原因とし、悪魔に唆された想像に過ぎない。したがって魔女は処刑されるべきではなく、医者の手に委ねられるべきであった。この見解を激しく批判したのがフランスを代表する大知識人ボダンである。ボダンは魔女裁判に賛成する立場からメランコリーは男性を瞑想的にするものだと主張し、ヴァイヤーの見解を否定した。両者をふまえ、ヴァイヤーと同様の見解を主張したのがイングランドのジェントリ、スコットである。三者の見解を当時のメランコリー観の状況と照らし合わせた場合、説得力をもつのはヴァイヤー、スコットであり、またボダンが持論を主張する際に典拠を恣意的に扱っていることを考慮すると、ヴァイヤー、スコットの魔女像がボダンの首肯せざるをえない魔女像でもあったことが判明する。それは「メランコリーに冒された老女」という魔女像である。

第3章では、前章で検討した三つの史料において「メランコリーに冒された老女」という魔女像と貧民・インディオがどのように関連づけられ、最終的に魔女像が完成したのか検討した。16世紀の西欧では貧民の増大が社会問題となっていた。天候不順に伴う不作と飢饉の頻発、人口の増大に伴う失業と過少雇用、賃金低下などの諸原因により1520年代以降西欧各地で大量の失業者や貧民が生まれ、17世紀初めには最悪の状態を迎えた。一方、15世紀末の「新大陸」アメリカの「発見」は世界観を大転換させるとともに、人間観をも揺るがした。聖書に基づく人間分類法には、新大陸に居住するインディオが含まれなかったからである。1521年教皇ユリウス二世によってインディオはアダムとイヴの子孫である旨が公布されたものの、それはハムの子としてであり、アフリカ人と同様奴隷としての身分を容認するものであった。「真正の人間」である西欧人に対してインディオは「非人間的存在」であり、その具体的イメージは食人種であった。

ヴァイヤー、ボダン、スコットの各史料において魔女と貧民は明らかに結びつけて考えられており、魔女裁判反対派と賛成派で立場は異なるものの、貧民を魔女像の重要な要素としてみなしていたことがわかる。インディオについては、ヴァイヤーとスコットはインディオの食人を実際に行われているものとみなす一方、魔女が食人を行うと考えていない。魔女を「メランコリーに冒された老女」とみなし、その救済を主張する立場の者が魔女の食人行為を認めるならば、魔女はその非人間的行為によって断罪されてしまう。魔女とインディオの食人行為を媒介にした関係性・類縁性を切断するのがヴァイヤーとスコットであるが、それを認めるのがボダンである。またボダンは『魔術師の悪魔狂』に先立つ4年前に出版された『国家論』のなかで、中世以来の気候風土論に従いつつインディオがメランコリーゆえに食人を行うと述べている。ボダンの二著作を総合的に検討することによって魔女・インディオ・メランコリー・食人の関係が浮かび上がり、「メランコリーに冒された老女」としての魔女像がインディオも重要な要素としていたことが判明する。このようにして1570・80年代に貧民とインディオが担っていた負の要素(貧困と食人)を一身に凝縮した魔女像が完成する。負の要素とは、西欧人にとって自分自身ではないものを示す他者性にほかならない。

第4章では、前章で明らかにした魔女像が16世紀後半から17世紀第1四半期にかけて、六名の著名な悪魔学者たちによってどのような形で受容されたのかを検討した。各人の魔女像はそれぞれ細部で異なりながらも、核心の部分<「貧民」と「インディオ」の要素を併せ持つ「メランコリーに冒された老女」としての魔女像>についてほぼ共通している。1570・80年頃から17世紀第1四半期まで、当時の西欧社会における負性つまり他者性を凝縮させた魔女像が存続したからこそ魔女とみなされた人々が大規模に迫害されたのである。

第5章では、17世紀中頃から魔女裁判が衰退する原因として同世紀第2四半期において魔女像の解体、すなわち魔女表象の変容が起こったことを明らかにした。史料として、シュペーの『犯罪への警告』(1631年)とバートンの『メランコリーの解剖』(初版1621年、使用史料はバートンの最後の加筆を含む1651~52年にかけて出版された第6版)を用いた。魔女の聴罪司祭を務めたシュペーの著作は魔女裁判批判を目的として執筆されたものであるが、ヴァイヤーやスコットと異なり、拷問批判を中核とする。メランコリーとインディオについての言及はなく、魔女と貧民の関係性も薄い。メランコリー概念史の側面から魔女像の解体を検討するため用いたのがバートンの著作である。この書は当時のメランコリー論の集大成と言えるもので、メランコリー概念が網羅的に記述されている。この書では相対主義が貫かれており、「魔女とメランコリー」の関係についてもヴァイヤー説とボダン説が併記されている。また魔女像を構成する諸要素は、魔女と緊密に結びつけられず個々に論じられている。17世紀中頃、メランコリー概念は増殖と多岐化の極点に達し「爛熟期」を迎えていた。

第6章では17世紀第2四半期における魔女像の解体のプロセスの背景にある原因を検討し、「他者としての魔女」像の解体が西欧近代の誕生を意味することを論じた。(1)医学の変容による体液病理説の衰退、(2)貧民像の変容による貧民の脱想像領域化、(3)インディオ像の変容によるインディオの脱想像領域化が進行するなかで魔女像は解体していく。現実界と想像界の境界的存在としての魔女は、体液病理説におけるメランコリー概念が有効性を失い、魔女像の構成要素である貧民とインディオが脱想像領域化することにより現実性を失っていった。魔女像の解体に見られる「現実と想像の分離」を、「西欧近代の思考」の先駆者とも言えるホッブズの『リヴァイアサン』(1651年)とマールブランシュの『真理探究』(1674~75年)における魔女に関する記述からも検討し、「他者としての魔女」像の解体が西欧近代の誕生を意味することを裏づけた。

審査要旨 要旨を表示する

論文提出者の博士学位請求論文(乙)の審査結果は、以下の通りである。

論文タイトルは、「魔女とメランコリー」で、審査は平成25年1月12日(土)、13~15時に、教養学部8号館404室で開催された。審査委員は、専攻から、池上俊一、相澤隆、長谷川まゆ帆の3名、ほかに関一敏(九州大学教授)、河原温(首都大学東京教授)の計5名で、池上が主査を務めた。

まず提出論文の内容を簡単に紹介してから、評価を述べたい。

西欧で魔女裁判が猛威を振るったのは、16世紀後半から17世紀にかけてであったが、本論文は、なぜこの時期に魔女裁判は猖獗を極めたのか、そもそも魔女とはいかなる存在であったのか、という問いに正面から挑んでいる。これらは古くて新しい問題であり、近年は地方史的な観点から詳細な実証研究が盛んに行われながらも、この大きな問いに答えることはあえて回避しているように思われる。本論文は、こうした魔女研究の欠落を埋め、新たなヴィジョンを示すために、神話・占星術・医学思想、および西欧人の世界観と密接に結びついてきた「メランコリー」という概念、そして社会的周縁者の問題の連関の中で「魔女」の表象を読み解こうとしている。

論文提出者は、始めに16世紀末に制作された「土星とその子供たち」と題されるきわめて興味深い版画を取り上げ、そこに描かれているのが、ローマ神話の神サトゥルヌスとその影響下にある人間たち、すなわち「メランコリーに冒された者たち」であること、またそこに魔女とインディオが描かれている点に着目する。その事実を、「土星の子供たち」は貧民、罪人、身体障害者など当時の西欧社会における周縁者を含んでおり、「最も貧しく最も蔑まれる人間」を意味していたという知見と突き合わせて、一体この版画は何を意味しているのかと自問する。これが、本論文全体の議論のヒントであり出発点になっている。そして悪魔学文献や医学文献を基礎史料として、6章に分けて考察を進めている。

第1章では、16世紀後半のメランコリー観の状況が、古代ギリシア・ローマ時代以降のメランコリー概念史を辿ることによって明らかにされている。まず、古代ギリシア・ローマでは、肯定的・否定的双方のメランコリー観が並び立ち、前者は偽アリストテレス作『問題集』第30巻1に由来し、体液病理説に拠りながらもメランコリーを男性の天才と結びつけて考えるものであり、一方後者は、ヒポクラテス=ガレノス経由の体液病理説にもとづき、黒胆汁が体内で増加することにより粗暴・精神錯乱・幻覚症状などが引き起こされ、罹患の程度は老人・女性が重くなると考えるものであった。中世には否定的なメランコリー観が主流となったが、ルネサンス期には一転、新プラトン主義者フィチーノが肯定的メランコリー観を復活させる。だがまもなく宗教改革の影響によりメランコリー観は否定的なものにふたたび反転し、16世紀後半にはメランコリーは悪魔と老女に親和性のあるものとして受容されるようになったという。

第2章では、16世紀後半を代表する3つの悪魔学論文(ヴァイヤー『悪魔の幻惑について』1563年、ボダン『魔術師の悪魔狂』1580年、スコット『魔術の暴露』1584年)を検討し、当時の「魔女とメランコリー」の関係を解明しようとしている。ヴァイヤーは、魔女として告発されているのはメランコリーに冒された老女であり、魔女の嫌疑を裏付けるとされる自白内容はメランコリー症を原因とし、悪魔に唆された想像にすぎないから、彼女らは処刑されるべきではなく、医者の手に委ねられるべきであるとした。ボダンは魔女裁判に賛成する立場からこれを批判し、さらにスコットは、両者を考慮しつつ、ヴァイヤーと同様の見解を主張した。三者の見解を当時のメランコリー観の状況と照らし合わせてみると、「メランコリーに冒された老女」という魔女像が、当時の説得力をもつ魔女像であったことが判明する。

第3章では、前章で検討した3つの史料において「メランコリーに冒された老女」という魔女像と貧民・インディオがどのように関連づけられ、最終的に魔女像が完成したのかが検討される。16世紀の西欧では、貧民の増大が社会問題となっていた。天候不順に伴う不作と飢饉の頻発、人口の増大に伴う失業と過少雇用、賃金低下などの諸原因により1520年代以降西欧各地で大量の失業者や貧民が生まれ、17世紀初めには最悪の状態を迎えた。一方、15世紀末の「新大陸」アメリカの「発見」は世界観を大転換させるとともに、人間観をも揺るがした。聖書に基づく人間分類法には、新大陸に居住するインディオが含まれなかったからである。1521年教皇ユリウス2世によってインディオはアダムとイヴの子孫である旨が公布されたものの、それはハムの子としてであり、アフリカ人と同様奴隷としての身分を容認するものであった。「真正の人間」である西欧人に対してインディオは「非人間的存在」であり、その具体的イメージは「食人種」であった。

ヴァイヤー、ボダン、スコットの各史料において魔女と貧民は明らかに結びつけて考えられており、魔女裁判反対派と賛成派で立場は異なるものの、双方とも貧民を魔女像の重要な要素としてみなしていたことが分る。インディオについては、ヴァイヤーとスコットはインディオの食人を実際に行われているものとみなす一方、魔女が食人を行うとは考えていないが、ボダンはそれを認め、中世以来の気候風土論に従いつつインディオがメランコリーゆえに食人を行うと述べている。このようにして、魔女・インディオ・メランコリー・食人の密接な関係が浮かび上がり、1570・80年代に貧民とインディオが担っていた負の要素(貧困と食人)を一身に凝縮した魔女像が完成する。また、負の要素とは、西欧人にとって自分自身ではないものを示す他者性にほかならないと、論文提出者は主張する。

第4章では、前章で明らかにした魔女像が16世紀後半から17世紀第1四半期にかけて、6名の著名な悪魔学者たちによってどのような形で受容されたのかが検討される。各人の魔女像はそれぞれ細部で異なりながらも、〈「貧民」と「インディオ」の要素を併せ持つ「メランコリーに冒された老女」としての魔女像〉という核心の部分について、ほぼ共通している。1570・80年頃から17世紀第1四半期まで、当時の西欧社会における負性つまり他者性を凝縮させた魔女像が存続したからこそ、魔女とみなされた人々が大規模に迫害されたのであると論じられる。

第5章では、シュペーの『犯罪への警告』(1631年)とバートンの『メランコリーの解剖』(初版1621年、使用史料はバートンの最後の加筆を含む1651~52年にかけて出版された第6版)を用いつつ、17世紀中頃から魔女裁判が衰退する原因として同世紀第2四半期において魔女像の解体、すなわち魔女表象の変容が起こったことが明らかにされる。シュペー作品は、魔女裁判批判を目的として執筆されたものであるが、メランコリーとインディオについての言及はなく、魔女と貧民の関係性も薄い。一方メランコリー論の集大成といえるバートンの著作では相対主義が貫かれており、メランコリーをはじめとして、魔女像を構成する諸要素は、魔女と緊密に結びつけられず個々別々に論じられている。そこから、17世紀中頃、メランコリー概念は増殖と多岐化の極点に達し「爛熟期」を迎えていたことが窺えるという。

そして第6章では、17世紀第2四半期における魔女像の解体のプロセスの背景にある原因が検討され、「他者としての魔女」像の解体が西欧近代の誕生を意味することが論じられる。(1)医学の変容による体液病理説の衰退、(2)貧民像の変容による貧民の脱想像領域化、(3)インディオ像の変容によるインディオの脱想像領域化、この3つの変化が進行するなかで、魔女像は解体していく。現実界と想像界の境界的存在としての魔女は、体液病理説におけるメランコリー概念が有効性を失い、魔女像の構成要素である貧民とインディオが脱想像領域化することにより現実性を失っていった。最後に論文提出者は、魔女像の解体に見られる「現実と想像の分離」を、「西欧近代の思考」の先駆者ともいえるホッブズの『リヴァイアサン』(1651年)とマールブランシュの『真理探究』(1674~75年)における魔女に関する記述からも検討し、「他者としての魔女」像の解体が西欧近代の誕生を意味すると説いている。

*

以上が、本論文の概要である。16世紀後半から17世紀前半の「魔女」が老女かつ貧民で、さらに人間を食すインディオとも結びついた存在であり、それは「メランコリーに冒された者たち」という特性が共通分母になっていること、魔女は西欧近世社会において「土星の子供たち」の負性を一身に凝縮させる存在であったために大量殺害の対象になったこと、これらの仮説は、かなりの説得力をもって論証されている。多くの悪魔学の著作を綿密に検討しながら論を展開している点も、高く評価できる。しかも魔女の最盛期だけでなく、魔女衰退期にも目を配り、魔女像の変容と解体の過程が、魔女迫害の終熄と並行していることも明らかにし、より説得力のあるヴィジョンを打ち出している。

近年の魔女研究では、細かな地域史的研究、実証研究が主流になって、大きな像が見えなくなっているが、それに対して大胆にして独創的な視点から、魔女像を描き出しているのは極めて刺激的である。本論文では魔女イメージが立体的に浮き上がり、西洋文化論、近代化論としても秀逸である。また明快な文章で分かり易く、その点も好感が持てた。

本論文に鏤められた数多くの独創的解釈に大いに感心しながらも、本論文には欠点がないわけではないことが、複数の審査員より指摘された。大胆な構想は評価されるが、それゆえに弱点もあるということである。

まず第1に、「魔女とメランコリー」そして「貧者」「インディオ」との結びつきという視点からは、現実には、若い魔女も、金持ちの魔女も、男性の魔女もいたこと、そして魔女迫害が猖獗を極めたのが、しばしば貧困問題の深刻な大都市ではなく、ドイツなどでは、むしろ小都市・農村であったこと、これらの理由については説明しにくい。

第2に、救貧法などに言及して救貧の制度化プロセスと魔女像の解体が予定調和的に説明されているが、これも実際には地域的な差があるし、救貧を主に論じている論者が、貧者のことを論じながら、魔女については論じていないこともままあり、そのアンバランスが説明されていない。

第3に、メランコリーの変容は近世医学の変容と関わるが、ガレノス主義は科学革命が起きてもそう簡単には変わらなかったことに注意すべきである。だから身体観のみをもとに、魔女の盛衰を論じるのは適切ではないのではないか。また悪魔学者や医者だけでなく、カトリックの神学者がメランコリーをどう考えていたかを調べてみるべきであった。

第4に、新大陸のインディオが、魔女同様に「真正な人間」と認められていなかったという記述があるが、キリスト教会当局は、新大陸にキリスト教を広めようとしていたのであるから、改宗の可能性のある「人間」と捉えられていたのではないか。

第5に、いくつかのキーワードが、一人歩きしている印象がある、たとえば「他者」「想像」「現実」「脱想像化」という言葉である。これらは、分析概念なのか歴史概念なのか、いずれにせよ、より詳細に概念規定したほうがよかった。

第6に、「魔女」と「メランコリー」という結合が、現実の魔女狩り多発の「原因」として、どれほど決定的であるかは、まだ完全には十分に実証されていない恨みがある。そのためにはこうしたイメージを政治・経済・社会的な文脈に置き直してみる必要があろう。

以上、いささかの欠点なしとはしないが、これらの欠点は、論文提出者も十分自覚していることが審査の過程でよく分ったし、本論文の主な狙い・論旨から見れば、無い物ねだりといった側面もある。また本論文のスケールの大きさとオリジナリティーの高さは、これらの欠点を補って余りあるものである。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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