学位論文要旨



No 217788
著者(漢字) 山本,理奈
著者(英字)
著者(カナ) ヤマモト,リナ
標題(和) 住宅の商品化と居住者像の変容
標題(洋)
報告番号 217788
報告番号 乙17788
学位授与日 2013.03.01
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17788号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 内田,隆三
 早稲田大学 教授 若林,幹夫
 東京経済大学 教授 森反,章夫
 東京大学 教授 瀬地山,角
 東京大学 教授 松原,隆一郎
内容要旨 要旨を表示する

本稿は、産業システムの高度化、およびそれと相関する人びとの「生の様式(lifestyle)」の変化、という二つの焦点から現代社会に生じている変化の様相について分析を試みようとするものである。具体的には、「住宅」という対象を媒介として、第二次世界大戦後の高度成長以降における日本社会の構造的な変容、すなわち、〈消費社会〉化の進行過程について分析することをその課題としている。

第1章では、こうした課題を設定する背景となった、(1)本稿の問題意識について説明を行い、それが現代社会論とメディア論の問題意識を継承するものであることを明らかにする。そのうえで、(2)本稿の問題設定の主眼について説明を行う。具体的には、先行研究と本稿の位置づけ、および方法論的な立場の相違点を確認することを通して、本稿の理論的な課題が、住宅を分析する問題構成の場を近代家族論から「消費社会論」へ移すことにある点を明らかにする。また、本稿の目的が、社会学と建築学に共通の議論の場を社会学の側から模索し、「住宅社会学」のための新たな問題設定の場を練り直すことにある点を明らかにする。

つぎに第2章では、住宅の商品化の過程を、(1)持ち家社会の形成、(2)住宅産業の成立、(3)住宅政策の転換、という三つの側面から分析する。具体的には、住宅金融公庫の融資拡大などにみられる持ち家政策の展開が、住宅の供給サイドと需要サイドの双方に対する支援を通して、住宅産業の成長を促し、建物だけではなく土地を含めたトータルな住宅の商品化を進めたことを明らかにする。そして、そのことが大都市圏を中心に商品住宅の広範な普及をもたらし、現在まで持続する持ち家社会を形成したことを明らかにする。

重要なことは、こうした商品住宅の持続的な大量供給を背景として、1990年代以降になると、その代表的な形態である「nLDK」住宅に対して、建築学だけではなく社会学においても批判が起こり、両者のあいだに論争が生じたことである。だが、両者の議論は必ずしも十分にかみ合っていたとはいえない。なぜなら、建築学と社会学では、批判の背景となる問題関心が異なっていたからである。

まず、建築学によるnLDK批判には、「住宅の商品化」それ自体に対する批判が根底にある点に注意しなくてはならない。言い換えれば、住宅が商品となることによって、「住む」ためのものというよりは「売る」ためのものとなってしまったことが、最も重要な問題として考えられていたのである。これに対し、社会学によるnLDK批判の要諦は、「近代家族規範の拘束力」を問題化する点にある。具体的には、「nLDK」という間取りが近代家族規範の具体化された空間としてとらえられているため、こうした間取りが長期にわたり大量に流通していることが主要な問題と考えられたのである。

そこで第3章では、こうした論争をふまえたうえで、従来の住宅をめぐる問題構成の検証と転回を次の三つの側面からの分析を通して行う。すなわち、(1)「nLDK」住宅をめぐる批判の展開、(2)脱nLDK論における問題構成の検証、(3)「nLDK」住宅をめぐる問題構成の転回、以上の三点である。

具体的には、近代家族論に依拠する脱nLDK論の問題構成の可能性と限界を確定することを試みる。その際、建築計画学から寄せられた脱nLDK論の解釈に対する批判を照らし合わせ、その解釈の妥当性について検証を行う。そしてこの検証を通して、脱nLDK論が、家族形態や家族規範との関係において住宅の問題を考えているために、社会の構造的な変容をとらえる視点が欠如していたことを明らかにする。これに対し、むしろ建築計画学では、(1)社会の構造的な変容が人びとの住まい方の実践を変化させたこと、(2)その結果として、「nLDK」という間取りが出現したことをとらえており、(3)「nLDK」という間取りが示す〈居住規範〉(=公私室分離)の分析が行われていたことを明らかにする。

本稿では、こうした建築計画学における社会構造論的視点を受け継ぎ、それを消費社会論の問題構成と接続することを通して、建築学と社会学に共通する議論の場を設定することを試みる。そして、この新たな問題設定のもとで、「nLDK」住宅をあらためてとらえ直し、その中核的な部分となる「LDK」空間(「私室=n」を除く「公室=LDK」部分)、とくに「リビングルーム」が人びとの住まい方の実践によって生み出されたことの社会的意味について分析を行う。この分析を通して、それが大衆消費社会の成立と相関する現象であり、人びとの「生の様式」の根本的な変容――マイホーム主義の台頭――を示していたことを明らかにする。

第4章では、リビングルーム生成の社会的意味がマイホーム主義であることをふまえ、住宅と神話作用の関係について、(1)マイホーム主義をめぐる言説の構図、(2)マイホームの神話作用、(3)マイホーム主義の背面、という三つの側面から分析を行う。具体的には、まず、マイホーム主義をめぐる言説的な実践について、とくに住宅広告の言説に焦点をあて、それが住宅の商品化の過程で果たした役割を分析する。住宅広告の言説の役割を理解するうえで重要なことは、それが、住宅政策や住宅の生産・供給体制といったマクロな水準と、住宅を購入する人びとの〈生きられる経験〉というミクロな経験の水準とを媒介するものとして機能し、住宅の商品化を支えてきたことである。

つまり、住宅広告の言説は、そのままでは何の根拠もない「住宅」と「家庭」との結びつきをあたかも自明なことであるかのように方向づけ、その方向づけを介して「幸せな家庭」のイメージやマイホーム主義というメッセージを、ごく自然なかたちで人びとに届けていた点を分析する。そして、住宅広告の言説がこうした神話作用の効果を介して、住宅購入へと水路づけられた人びとの経験を、ごく自然で当たり前のこととして受容させる役割を果たしていたことを明らかにする。

ただし、マイホーム主義をとらえるうえではこうした言説の分析だけではなく、人びとの非言説的な生活実践についても分析することが必要である。なぜなら、互いに顔を合わせたこともない人びとが、それぞれに夫婦と子どもからなる世帯を形成し、耐久消費財をそろえ、持ち家取得へと向かうゆたかな消費生活を志向したこと、このような経験的事実の無数の合致もまた、マイホーム主義という形象に暗黙の強度を与えていたからである。それゆえ本稿では、人びとの生活実践の中核となる夫婦と子どもからなる世帯の形成過程に着目し、それが避妊や中絶という現実を伴うものであったことを明らかにする。

そのうえで、夫婦と子どもからなる世帯が、1980年代以降その割合・実数ともに減少の局面に入っており、そのことが脱nLDK論の登場する条件となっていることを明らかにする。脱nLDK論は、第3章で言及しているように、夫婦と子どもからなる世帯の減少に着目し、家族形態が変化しているにもかかわらず、住宅の間取りが「nLDK」のまま変わらないことを批判していた。しかしながら、「nLDK」という間取りとその核心にある「LDK」空間のありようを具体的に検証すると、〈消費社会〉化の進行とともに、内部分節が次第に変化していった過程がみえてくる。

そこで第5章では、こうした「nLDK」住宅の変容と〈消費社会〉の高度化の関係を次の三点から分析する。すなわち、(1)「LDK」空間の分節変容、(2)商品住宅のモード、(3)居住者像の変容と消費社会の〈現在〉、という三つの側面から実証的な分析を試みる。

具体的には、1980年代以降、「LDK」空間の内部において、(1)キッチン空間を独立化(キッチン空間が一定の独立性を持つ領域として分節されること)する傾向、(2)内装・デザイン・設備の限界差異化がみられるようになり、それが現在まで続いていることを明らかにする。そのうえで、こうした「LDK」空間の内部分節の変容が、「身体の快適性」の実現を目指すものであるという仮説を提示する。

そしてこの仮説を、現在の商品住宅のモードである東京の「超高層マンション」に関する調査に基づいて実証的に検討する。その分析結果から、(α)「LDK」空間の分節変容は居住者像の不明瞭化とパラレルな現象であり、(β)住宅広告の宣伝文において、居住者への言及が減少し、身体感覚に訴えるマテリアルな差異への言及が増大していることを明らかにする。また、モデルルームや住宅の広告表現に見受けられるこうした変化が、(γ)住宅の商品化における訴求ポイントの移行――人間学的な「意味」の次元から、身体的な「感覚」の次元へ――を示唆していることを明らかにする。

以上の分析より、現在、住宅の商品化の焦点は「身体の快適性」に照準していると考えられる。それゆえ、居住主体を〈マイホーム〉としてとらえることがあるとしても、それはいわばアリバイとして二次的な形式へと後退しており、むしろ「感覚的な身体」として居住者像をとらえ直すことが、現代の住宅産業の新たな戦略となっている点に注意したい。このことは、産業システムがさらなる成長を遂げていることとパラレルな現象であり、消費社会の〈現在〉を具体的に示していると同時に、マイホーム主義という神話や〈マイホーム〉という主体の臨界を示しているといえよう。

終章では、こうした本稿の取り組みを、(1)住宅の商品化の進展過程、およびそれと相関する、(2)居住者像の変容、という二つの焦点からとらえ返す作業を行う。そのうえで、(3)今後の展望について、(1)新たな理論的な課題(権力論への接続)、(2)都市住宅の可能性をめぐる二つの論点(時間の堆積性、都市の集住性)という視角から検討する。

審査要旨 要旨を表示する

山本理奈氏から提出された学位請求論文「住宅の商品化と居住者像の変容」は全五章及び終章からなり、全体で二一七頁である。本論文は、高度成長期以降の日本社会の構造的な変容とそれに相関する人々の「生の様式」(lifestyle)の変化を、住宅とその商品化の過程を通して捉えようとするものである。具体的には、人々の住宅をめぐる実践にかんして、(1)高度成長期におけるマイホームとしての住宅の生産とそれを裏打ちした神話作用の構造を明らかにし、そのうえで、(2)消費社会の高度化に伴ってこの神話作用が臨界を迎えるようになる構造的な変化の過程を明らかにすることを主要な課題としている。またこれらの作業を行うための理論的な前提として、(3)住宅をとらえる方法論的な視点を消費社会論・メディア論の側へ移すことにより、(1)先行する二つの言説――鈴木成文を中心とする建築計画学の言説と1990年代に影響力をもった近代家族論の言説に依拠する脱nLDK論――の対立とすれ違いの構図を明らかにし、(2)近代家族論の問題構成とその限界を示すとともに、住宅の「商品化」に対する批判を独自の方法論的な視点のもとに相対化するパースペクティヴを提示している。

第1章に示されるように、本論文には二つの方法論的な視点が設定されている。すなわち、(1)ボードリヤール以降の消費社会の分析を参考にしながら、産業システムを通じて生産され/消費される商品として住宅をとらえる社会構造論的な視点と、(2)多木浩二やロラン・バルトの分析を参考にしながら、人々によって生きられる意味の経験を媒介する装置として住宅をとらえるメディア論の視点である。本論文は産業の高度化が内包する構造的な論理と、人々によって生きられる意味の水準を分節するメディア論の視点を連携させることにより、住宅をめぐる実践を構造論的/意味論的な経験として分析する枠組を装備しており、この複眼的なパースペクティヴにその方法論的な特徴を有している。

第2章では問題状況の出発点となる住宅の商品化の基盤的な過程の分析が行われる。すなわち戦後日本における、(1)持ち家社会の形成、(2)住宅産業の成立、(3)住宅政策の転換という三つの過程が相互連関的に分析される。この局面で重要なのは、住宅金融公庫の融資拡大と並行して、政府主導の持ち家政策が住宅産業の成長を促し、(1)住宅だけでなく土地を含めたトータルな意味での「住宅の商品化」が進められたこと、(2)大都市圏を中心に商品住宅の広範な普及がもたらされたこと、その結果、(3)現在まで続く「持ち家社会」が形成されてきたという事実が豊富なデータを通じて明らかにされる。ここで本論文が注目するのは、このような住宅の商品化の過程、とくにその代表的な商品形態である「nLDK」住宅が高度大衆消費の持続的な相関項となったことに対して、建築計画学だけでなく家族社会学でも批判が生じたことである。ただし本論文が分析するように、同じ対象を関説領域としながら、その批判の文脈には大きな位相差があった。建築計画学の言説は住宅の「商品化」そのものを憂慮し、近代家族論は「nLDK」という間取りが近代家族規範の具体化された空間であることを批判の対象としていたからである。

第3章では、住宅をめぐる二つのタイプの言説の関係が系譜学的に解明され、近代家族論に依拠する脱nLDK論の問題構成の限界が示される。すなわち本章では、(1)「nLDK」という間取りをめぐる批判的な言説の展開過程を詳細に跡づけ、(2)脱nLDK論の言説がもつ問題構成とその限界を検証し、(3)「nLDK」をめぐる問題構成を転回することが求められる。脱nLDK論の問題構成には、住宅を家族の容器と見做し、住宅の間取りのありように予め近代家族規範を読み込む超越的な想定が見受けられる。本論文はこうした読み込みや想定を歴史的に相対化し限界づける作業を介して、居住規範を、社会の構造論的な条件と相関する人々の住まい方の実践との関係において、つまり歴史的な実定性の水準でとらえ返す独自の分析図式を提示している。本論文はこの分析図式を基本枠組として第4章における住宅の神話作用の分析を展開することになる。

本論文はここで近代家族論に準拠する脱nLDK論の前提を実証的に相対化するが、それとの対比でいえば、建築計画学の言説が社会構造論的な視点を担保し、人々の住まい方の実践的なリアリティに着目することを通じて公私室分離などの「居住規範」にかんする分析を行ったことを評価している。しかしながら、建築計画学の視点は必ずしも十分なものとはいえず、本論文はその視点を産業システムにかんする構造論的な視点からとらえなおし、その作業を通じて、建築計画学を制約してきた住宅の商品化に対する疎外論的な見方を相対化する枠組を担保している。そのうえで本論文は「nLDK」住宅のありようを積極的にとらえなおし、その中核的な部分である「LDK」空間、とくにリビングルームが人々の住まい方の実践――本論文によれば、この実践は建築による空間決定論でも、また特定の家族規範の表現としてもとらえられず、むしろ社会構造論的な条件や過程と深く相関している――を通じて生み出されていることの社会的意味にかんする分析を展開していく。

第4章では、リビングルームの生成の社会的意味の核心を、マイホームの神話が強い実定性をもって生成し人々の生きられる経験に浸透していったことに求め、その浸透のプロセスを立体的に分析することがめざされる。すなわち、住宅が人々によって生きられる経験の場となるとき、その経験の場に浸透する神話作用の生成とはたらきが、(1)マイホーム主義をめぐる言説の配置、(2)マイホームの神話作用の構造、(3)マイホームの背面の事実という3つの観点から解読される。戦後日本社会においてナショナルな共同幻想の後退を背景に浮上し、政治的統合や経済成長の重要な準拠点の一つとなったマイホーム主義について、これまで、(1)新しいタイプの家郷の創造、(2)資本主義のジェンダー・システムへの適応、(3)戦後的な「生」への希求といった側面から分析がなされてきたが、本論文はそれらの論点を踏まえつつ、メディア論的な視点から住宅(をはじめとする商品)への人々の欲望の喚起という側面を焦点化する。

本論文は住宅広告の言説を分析するが、それは広告の言説が住宅政策や住宅の生産・供給体制といったマクロな水準と、住宅を購入する人々の生きられる経験というミクロな水準を媒介する位置に立ち、住宅の商品化の過程を支えているからである。そこで本論文は、商品住宅の取得を介してマイホームの主体となることを勧め、幸福の意味論を展開する住宅広告の言説の社会的な機能――個々の商品の言説=デノテーションを介して、それとは別の水準ではたらく社会的なコノテーションの作用――をバルトの分析を援用して明らかにする。バルトの分析は記号論の体裁をとるが、実質はテクストや言説をめぐる神話作用の分析であり、本論文はその特長をうまく活かしている。そこで明らかにされるのは、住宅と家庭の結びつきをあたかも自明なことのように方向づける言説の体制である。本論文が示しているのは、この神話的な方向づけを介して「幸せな家庭」のイメージやマイホーム主義のメッセージ、あるいは脱nLDK論のようにそれらのメッセージに対する批判などが族生する言説の場が設えられたことである。

さらに本論文は、マイホーム主義が「幸せな家庭」のイメージを強調する背面で無数の避妊や中絶の事実が存在していたことの意味を検証する。「幸せな家庭」というファンタジーの中核的なモデルとなった夫婦と子供からなる世帯の形成過程には大量の避妊や中絶という現実が伴っていた。また他方には、夫婦と子供からなる世帯が1980年代以降その割合・実数がともに減少の局面に入ったことと脱nLDK論の登場が同期していたという事実がある。こられの経緯を勘案すると、1970年代にマイホーム主義の裏面で避妊や中絶との関連で女性の解放を求めていた言説を、脱nLDK論が1990年代に住宅の問題に仮託して一種の模像のように反復し再生産していた可能性が浮かび上がる。このように近代家族論と結びついた脱nLDK論の問題構成を歴史的な文脈のなかで解明するパースペクティヴを提示したことも本論文の重要な成果の一つといえよう。

第5章では、消費社会の高度化とともに、「nLDK」住宅のありように内在的な変容が生じていることが検証され、その変容の方向が分析される。ここで本論文は、「LDK」空間自体の変容を介して、居住主体としてのマイホームと商品としての住宅との神話的な結びつきが乖離していく現象を明らかにする。すなわち、(1)「LDK」空間の分節変容、(2)商品住宅のモードの変化、(3)居住者像の変容が示す消費社会の〈現在〉という三つの側面から、実証的なデータと調査にもとづき、この乖離の現象について詳細な分析が行われる。ここで本論文は、1980年代以降、「LDK」空間の内部で、(1)キッチン空間の独立化、(2)内装・デザイン・設備の限界差異化の傾向が続き、そのプロセスの累積のなかで、「LDK」空間の内部分節がマテリアルな感覚の次元における「身体の快適性」の実現に向かっているという仮説を立て、その具体的な検証を行っている。

1990年代半ば以降になると、都市再生による都心回帰の現象とともに、超高層集合住宅が商品住宅のモードの重要な相関項になっていく。この動向はマイホームの神話作用が実定性を与えていた幸福の意味論を二次的な形式にし、感覚的な次元にある身体空間の操作が住宅産業の戦略的な相関項になっていくことと重なっている。そこで本論文は、東京の超高層集合住宅にかんする調査にもとづき、(a)「LDK」空間の分節変容は居住者像の不明瞭化とパラレルな現象であること、(b)住宅広告の宣伝文において居住者への言及が減少し、身体感覚に訴えるマテリアルな差異への言及が増大していることを明らかにし、(c)歴史的に見れば、住宅の商品化における訴求ポイントが人間学的な意味の次元から身体的な感覚の次元へ移行していることを見いだしている。

このように本論文は、消費社会の〈現在〉におけるマイホームの神話作用、そしてマイホームという主体のありようが、その臨界を迎えていることを展望しつつ、終章において、(1)住宅の商品化の進行過程と消費社会の高度化との相関、(2)住宅の商品化における構造的な変容と相関して生成する居住者像の変容という、二つの論点から、本論文の取り組み自体をとらえ返す作業を行っている。そのうえで、今後の理論的な課題として身体空間を介した権力の政治技術論への接続の可能性を考えること、政策的な実践と結びついた課題として「時間の堆積性」「都市の集住性」との関連で都市住宅の可能性を思考することの必要性を確認している。

以上の検討を踏まえて、本論文が達成した独自の業績として以下の諸点を挙げることができる。第一に、本論文は住宅の商品化にかんして建築計画学と近代家族論における批判的な言説を相対化しているが、この相対化の過程で近代家族論に依拠する脱nLDK論の言説がどのような「問題化」の構造をもっていたのかを歴史的なパースペクティヴのもとで明らかにしており、この系譜学的な分析はこれまでにない高い水準と学術的な価値を有している。第二に、この系譜学的な分析にもとづいて、本論文は居住規範と生活実践との関係について独自の分析図式を提案し、それを住宅にかかわる人々の実践の社会的意味の分析論に連携させることにより、マイホームの生成とその神話作用の核心が住宅と家庭を結びつける点にあったことを明らかにしている。このことは、多くの言説が住宅と家庭の結びつきを予め前提していたことを考えると、きわめて重要な価値を有している。第三に、本論文はマイホーム主義をその背面にある避妊・中絶の事実と相関させることにより、マイホームの神話作用の見えにくい基盤を可視化し、この可視性のなかで近代家族論の系譜を浮かび上がらせている点でも重要な意義をもっているといえよう。

第四に、本論文は消費社会の進行過程を具体的に検証するという文脈のなかで、東京における居住空間のモードの実証的な調査にもとづき、消費社会の〈現在〉における居住空間の内部分節の変容を明らかにしており、反証可能性にひらかれた消費社会の具体的な分析としても貴重な貢献となっている。第五に、住宅にかんする人々の経験の解読格子が人間学的な幸福の意味論から身体感覚の快適性のモードへと焦点を移していることを明らかにし、高度成長期以降に形成されたマイホームの神話作用がひとつの臨界を迎えているという仮説を提示しており、現代社会論としても重要な価値を有する研究となっている。第六に、本論文は脱nLDK論と建築計画学の対立と齟齬を相対化する議論の地平を提示することを通じて、社会学と建築学が交流しあう可能性の場を社会学の側から整える試みであり、住宅社会学の位置を考えるうえでも重要な意味をもつ研究となっている。

とはいえ、本論文にもいくつかの課題が残されている。たとえば身体の快適性を志向する技術論やモードが権力関係の次元における分析とどのように結びつくのかという問いもあるだろう。また、本論文はある意味で住宅を独立の空間として焦点化しているが、住宅を都市という空間のなかに配列する集住の論理やそれと相関する都市・住宅政策をどう扱うのかという問題も残っている。さらにいえば、住宅をめぐる実践が人々の経験する社会的な意味の場とするなら、この経験の場に流れ、あるいは堆積する時間性をどのように扱うのかという、おそらく比較社会学的な考察を要する問題も残っている。しかしながら、こうした指摘も、本論文がこれらの課題に積極的かつ効果的に向きあうのに必要な地点に十分なかたちで到達していることを示しており、本論文の目標と整合性の範囲から見れば外縁的な問題にとどまる。

以上のように、本論文は住宅社会学の新たな準拠点となる貢献であり、現代社会論としても独創的で重要な知見を提示している。また論理展開も明快であり、ひとつの著作としての整合性や完成度も高度な水準にある。その学術的な価値は優れて高いものであり、したがって本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位を授与するに相応しいものと認定する。

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