学位論文要旨



No 217799
著者(漢字) 鷲尾,巧
著者(英字)
著者(カナ) ワシオ,タクミ
標題(和) マルチスケール・マルチフィジックス心臓シミュレーションに関する研究 : サルコメア力学から心筋細胞構造を経て心拍動に至る解析手法の開発と応用
標題(洋)
報告番号 217799
報告番号 乙17799
学位授与日 2013.03.06
学位種別 論文博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 第17799号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久田,俊明
 東京大学 特任教授 杉浦,清了
 東京大学 教授 奥田,洋司
 東京大学 教授 杉原,正顯
 東京大学 教授 樋口,秀男
内容要旨 要旨を表示する

【1章:序論】

生体は, 根本的には分子間の相互作用を基本として成り立っているミクロのシステムである. 生体の構成要素である心臓は, エネルギー源となるATP 分子を生成する生化学反応を原点として, 電気(イオン電流, 興奮伝播, 心電図など)・化学(物質輸送, 反応, エネルギー変換など)・力学(心筋張力, 血圧, 血流など)の諸現象に広く派生するマルチフィジックス問題を構成する. また空間尺度としては, タンパク分子(~10nm) から細胞(~100μm), 組織(~mm), 臓器(~cm) を経て血液拍出に至るマルチスケール問題を構成している. 臨床で日常的に用いられる心電図や血圧などのマクロ現象については古くから多くの医学・生理学的研究がなされてきたが, 一方で近年著しい発展を続ける分子生物学によるミクロレベルの知見との因果関係は, その間に大きなスケール差と複雑な相互作用を介したブラックボックスが介在しているため, もはや専門家にとっても明らかでなく, 両者を合理的に説明し予測することは困難な現状に立ち至っている.

本論文では, 収縮タンパクの分子間相互作用の法則から統計物理学とNewton力学をその拠り所にしてマクロシステムとしての心臓の拍動を再現する新たなマルチスケール解析法を構築し, それを用いてミクロシステムの分子モデルの特性およびメゾスケールの心筋細胞集合体の力学的特性とマクロシステムとしての心機能の関係を調べる. 2章では基礎となる連続体力学とマクロモデルの数理を導入し, 3章ではメゾスケールとマクロスケールを結び付ける非圧縮に近い連続体向けの新たな均質化アルゴリズム1を導入する. 4章では線形化された方程式を高速かつロバストに解くための反復解法を導入し, 5章ではメゾスケールモデルとなる心筋細胞集合体の力学モデルを提案する. 6章ではミクロスケールモデルとなる確率的クロスブリッジモデルおよびそれとマルチスケール有限要素解析を結び付ける方法を導入し, 7章では構築した心拍動のマルチスケール解析法を用いて正常な心拍動がミクロからマクロ現象に渡って再現できたことを示し, さらにミクロおよびメゾスケールモデルの種々のパラメータとマクロ拍動現象の関係を調べる.

【2章:心拍動現象の有限要素マクロモデル】

本論文の拍動解析では, 心筋の運動のみではなく, 心室内血液の流入出口に適切な境界条件を仮定して, 心室内壁における流体-構造連成問題を強連成アプローチ[1]による一体型解法で取り扱う. 流体領域に対しては, Navier-Stokes方程式をALEメッシュ上で離散化し, 構造領域に対しては, 心筋の運動方程式を第3章で導入する均質化法を基に離散化する. また, 心筋の収縮を制御するためのカルシウムイオン濃度は, 別途開発した興奮伝播解析コード[2]を用いて与える.

【3章:マルチスケール解析の数理】

心筋細胞内で収縮力を発生する場所は筋原線維部に限られ, また細胞同士を接続する介在板, コラーゲン線維で構成される細胞外マトリックスなど心筋は種々の変形エネルギーの異なる部材で構成され,マクロの変形がそのまま局所的なメゾスケールの変形に等しいとは限らない. さらに, 筋原線維部の変形が収縮力に影響を及ぼすことになるので, ミクロスケールとのカップリングにおいてもメゾ構造の変形を求めることが重要となる. 本論文では心筋組織の構造に鑑み, メゾ構造が局所的に周期的な構造を持っていると仮定し, 均質化法によりメゾ構造の変形とマクロ構造の変形を同時に連成させて解く. さらに, 生体組織は一般に非圧縮性または非圧縮に近い微圧縮性を有するので, 安定に解析を進めるために体積剛性をLagrange 未定乗数の導入により分離した混合型有限要素離散化を新たな方法で均質化法に拡張する.

その基本的なアイデアは, メゾモデル上のラグランジュ乗数λをその体積平均値λ- と平均値との差ηに分離し, 以下のように元の拘束条件式をメゾとマクロの2つのスケールに分離することである.

式(1)の分離をもとに, 右辺第2項をマクロ領域上の拘束条件として有限要素離散化し, それが満たされているものと仮定して, 第1項をメゾスケール領域上の拘束条件式とする. これにより, マクロ積分点において拘束条件が満たされていない場合でもメゾ領域上の拘束条件を無理なく満たすことが可能になり安定に解析を進めることができる.

【4章:拘束条件付き問題に対する反復解法の数理】

3章で導入した混合型均質化法では, マクロ方程式の変数として変位変数以外にLagrange乗数も含まれるようになり, 鞍点型問題を解く必要が生じる. このような問題を安定かつ効率的に解くために拘束条件部の存在を考慮したfill-in制御付きILU分解行列[3]を前処理行列とするGMRES反復解法を本論文では適用する. 並列化においては, マクロ要素集合のオーバーラップを伴う部分集合への分割を利用し, 各オーバーラップ部分集合上で上記前処理演算を適用する. ILU前処理は, 節点集合の排他的な分割のもとに並列化されるケースが多いが, 鞍点型問題に対しては, 排他的分割において部分領域境界に位置するLagrange乗数をオーバーラップにより内包することで並列化にともなう収束性の悪化が抑えられる.

【5章:心筋細胞モデルおよび心筋組織モデル】

本論文のマルチスケール解析では, メゾスケール構造として細胞の集合体が形成する構造に主眼を置くので, 計算負荷の観点から単体細胞の構造については, シンプルなものを仮定する. すなわち, 単体細胞が収縮力発生源の筋原線維部, 細胞外マトリックス部と細胞を線維方向に沿って接続する介在板からなると仮定し, すべてを連続体モデルで近似する. さらに, 心筋組織のところどころに存在する間隙(cleavage plane)を心筋細胞4層に1層の割合で挿入したものをマルチスケール解析のミクロユニットモデルとする. マクロ的にみた心筋組織の異方性(線維方向およびシート方向分布) は, 心機能に大きな影響を及ぼしていると考えられ, 本論文では一般的統計データを参考に定めた分布をシミュレーションに適用する. マルチスケール解析においては, マクロメッシュ上で定めた線維およびシート方向分布に沿って上記ユニットモデルを各要素に配置する.

【6章:確率的振る舞いを示すサルコメア力学モデル】

本論文では, 図1Aに示すようにアクチンフィラメント上にT/T ユニットをミオシンフィラメント上にミオシンヘッドを等間隔に並べ, それぞれの状態遷移を直接的にモンテカルロ法でシミュレートする. これにより近接ミオシンヘッド間のクロスブリッジ生成における協調性, さらに同図A1,A2およびA3に示すようサルコメア長SLに依存する二つのフィラメントのオーバーラップ状態が自然に計算モデルに反映できるようになる. ミオシンヘッドの状態遷移に関しては, 図1右に示す4状態モデルを提案する. ここでは結合状態間の遷移率を平衡状態において状態の内部エネルギーから決まるBoltzmann 分布に収束するように定め, 統計力学的な観点から矛盾が生じないようなシステムの構築した.

次に, ここで提案したクロスブリッジモンテカルロモデルとマルチスケール有限要素解析モデルとのカップリングにおいては, ミオシンアームの伸びから生じる力積とマルチスケール解析ミクロユニット内の筋原線維部アクティブ応力テンソルから生じる力積の平衡条件を基に大きく異なる時間刻みから生じる溝を埋めた. ここで, 筋原線維部の歪速度をクロスブリッジモデルに正確に反映させ, 精度良く安定に解析を進めることのできる方法を導入した.

最後に, 組織レベルの基本的機能のテストを行い, 張力-短縮速度の関係, 等尺性収縮, 急な長さ変化に対する張力応答, 周期的変位振動にともなう応力応答において提案モデルが実験事実にかなった振る舞いを示すことを確認した.

【7章:心拍動のマルチスケール解析】

前章までに導入したモデル化および解法を実装したマルチスケール拍動解析コードを種々のパラメータで実行し, そこで得た結果について議論する. まずは, 解析手法の妥当性を検証するためにモンテカルロモデルのサンプル数や時間刻み幅を変更してみたところ, これらのパラメータに計算結果がほとんど影響を受けないことが示された. さらに, 標準モデルでの計算結果は, ミクロ現象からマクロ現象にかけて現実の正常な心拍動を表現していることを確認した. 次に, 心筋組織レベルのモデル化で導入したcleavage planeの存在が拍動性能に及ぼす影響を調べたところ, これは弛緩末期の心室容積の増加のみではなく, 収縮能の向上にも貢献していることがわかった. クロスブリッジモデルに関しては, 協調性パラメータ, ミオシンアームの非線形剛性の影響, 短縮速度を制御するパラーメータなどの影響について吟味した. これらの数値実験においては, マクロ的な振る舞いと組織レベルおよびクロスブリッジレベルの諸量との関係について考察した. ここで得た知見は, 本論文で試みたミクロモデルおよび細胞組織モデルをありのままシミュレートすることの有用性を示すものであった.

[1] Zhang Q., Hisada T.: Analysis of fluid-structure interaction problems with structural buckling and large domain changes by ALE finite element method, Comput. Methods Appl. Mech. Engrg. 190, 6341-6357(2001)[2] Okada J., Washio T., Maehara A., Momomura S., Sugiura S, Hisada T.:Transmural and apicobasal gradients in repolarization contribute to T wave genesis in human surface ECG, Am J Physiol Heart Circ Physiol 301, H200-H208(2011)[3] Washio T., Hisada T.: Convergence analysis of inexact LU-type preconditioner for indefinite problems arising in incompressible continuum analysis. JJIAM. 28, 89-117(2011)

図1 フィラメントペア(左)とクロスブリッジモデル(右)

審査要旨 要旨を表示する

本論文は8章からなる.

第1 章は序論である.心臓の活動に関するマクロ現象についての古くからの医学・生理学的研究と近年著しい発展を続ける分子生物学によるミクロレベルの知見との因果関係を明らかにするため, 収縮タンパクの分子間相互作用の法則から統計力学と連続体力学をその拠り所にしてミクロの素過程から細胞集合体の構造を介してマクロシステムとしての心臓の拍動を再現する新たなマルチスケール解析法を構築し利用することを提案している. また, この目的を達成するために, 非圧縮に近い連続体に対する均質化法の開発, 大規模鞍点型問題をロバストかつ高速に解くことのできる反復解法の開発, 分子モデルの確率的遷移を扱うモンテカルロ法と連続体モデルとのカップリング法の開発が必要であることを述べている.

第2 章では, 連続体力学解析の基礎, 非圧縮に近い連続体を扱う際に有効な混合型有限要素法, 本論文の拍動解析において心筋と血流との相互作用を取り扱うために適用する流体-構造強連成解析手法について述べている.

第3 章では, 非圧縮に近い連続体を均質化法で扱う際の不安定性を克服するために, 拘束条件式およびLagrange乗数をミクロとマクロに分離して混合型有限要素法を適用することを提案している. さらに, 上記混合型定式化のもとで, 同時線形化による求解を具体的に実行するためのアルゴリズムが示されている. 本章で提案した均質化法アルゴリズムの安定性および精度は第7 章における数値実験により確認されている.

第4 章では, 前章のマルチスケール解法においてミクロ変数消去後に生じるマクロ変数についての鞍点型大規模線形方程式を高速かつロバストに解くために, 拘束条件式を考慮したfill-in制御付き不完全LU分解前処理演算をオーバーラップ法により並列化し, 基礎反復法としてGMRES法を適用することを提案している. 提案解法の有効性は非圧縮性を有する連続体に対する数値実験例および7章におけるマルチスケール解析実施例で示されている.

第5 章では,マルチスケール解析のミクロユニット領域として適用するモデルを導入している. 収縮力発生源である筋原線維部, 細胞外マトリックス部および細胞を線維方向に接続する介在板から細胞が構成されると仮定し連続体モデルを構成している. さらに, 心筋組織の所々に存在する間隙を具体的にミクロユニットモデル内に挿入し, 第7 章の数値実験ではこれら間隙の存在により細胞にかかる変形負荷が軽減されることを確認している.

第6 章では, 前章で示した細胞モデルの筋原線維部に埋め込む架橋運動モデルを導入している. 統計力学的な要素をありのままモデル化するために, フィラメント上にミオシンヘッドを並べ, 架橋に関わる遷移率を近接ミオシンヘッド間の協調性を考慮して定め, さらに架橋後の首振り運動に関わる遷移率をヘッドの内部エネルギーとミオシンアームの弾性エネルギーの和から決まるBoltzmann因子から定めモンテカルロシミュレーションを行う方法を導入している. 次に, モンテカルロモデルの架橋状態とマルチスケール連続体モデルの筋原線維部において発生する収縮力とを仕事量の整合性から結び付け連続体の収縮運動を安定に解く方法を提案している. また架橋モデルとして, 2種類のモデルを提案し, これらモデルが種々の組織レベル実験事実にかなった妥当な振る舞いを示すことを確認している.

第7 章は, 多様な拍動解析数値実験例からなる. まずは, 正常な拍動が再現できていることを確認し, メゾ構造における間隙, 近接ミオシンヘッド間の協調性パラメータ, ミオシンアームの非線形剛性, 首振り運動に関わるパラメータが拍動性能に及ぼす影響などについて吟味している. これらの数値実験においては, マクロ的な振る舞いと組織レベルおよび分子レベルの諸量との関係について考察し, マルチスケール解析の有用性を示している.

第8 章では,論文全体としての結論と今後の展望が示されている.

以上を要するに,本論文において開発されたマルチスケール解析手法により分子レベルでの状態変化の法則および 細胞組織レベルでの各構造体が心臓の拍動性能やエネルギー効率にどのような影響を与えているのか, 逆にマクロ的な筋肉の収縮弛緩がフィードバックされて分子レベルでの状態変化にどのような影響を及ぼしているのか, などをシミュレーションを通じて分析することが可能となった. このようなシミュレーションプラットフォームは臨床医学と分子生物学の融合および,計算科学の発展に寄与するところが大きい.

従って,博士(科学)の学位を授与できると認める.

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