学位論文要旨



No 217800
著者(漢字) 秦,裕子
著者(英字)
著者(カナ) ハタ,ヒロコ
標題(和) 高精度質量分析システムを用いた膠芽腫幹細胞情報伝達系の包括的蛋白質ネットワーク解析
標題(洋) Global protein network analysis of glioblastoma stem cells by high-resolution mass spectrometry
報告番号 217800
報告番号 乙17800
学位授与日 2013.03.06
学位種別 論文博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 第17800号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 尾山,大明
 東京大学 教授 菅野,純夫
 東京大学 教授 井上,純一郎
 東京大学 教授 津本,浩平
 東京大学 特任教授 市川,一寿
内容要旨 要旨を表示する

序論

膠芽腫は最も悪性度の高いがんの一種で、診断確定後の平均生存期間は約1年である。当該腫瘍に関する精力的な研究にもかかわらず、過去10年以上にわたってその治療成績はほとんど改善されていない。従来、がん組織は不均一な細胞集団から成り立つものの、組織を構成する全ての細胞が異常増殖を繰り返す能力を備えていると考えられていた。しかしながら、近年、がん組織にも自己複製能と多分化能を有する幹細胞が存在するというがん幹細胞の概念が支持され、脳腫瘍においてもその存在が実験的に証明された。この概念は、がん組織にも幹細胞を頂点とする階層性が存在し、通常の腫瘍細胞を供給しながら組織の維持増殖を行っているという現象を想定させるものである。従ってがんの根治のためには腫瘍組織全体をターゲットとする従来の抗がん剤治療並びに放射線治療に基づく手法を見直し、がん幹細胞に焦点を絞った新たな治療戦略の展開が必要である。

がん幹細胞の機能維持に必須となる細胞内情報伝達システムの特徴を理解し、組織幹細胞や分化した腫瘍細胞との違いを見出すためには、まず当該システムの全体像を把握しそこから特徴を抽出するオミックス及びバイオインフォマティクスの手法が非常に有効である。近年、解析技術の進歩により従来限定された細胞表面マーカーのみで定義されていたがん幹細胞集団のトランスクリプトーム解析が広く行われるようになってきた。しかしながら発現蛋白質の網羅的解析、並びにシグナル伝達の全体像を俯瞰する研究はほとんど行われていないのが現状である。

そこで本研究では、高感度、高精度測定を可能とする次世代型質量分析計 (LTQ-Orbitrap Velos ETD) にナノ流速液体クロマトグラフ装置 (Dina-2A) をon-lineで接続したnanoLC-MS/MSシステムを用いて、膠芽腫幹細胞の情報伝達系に関する蛋白質ネットワーク解析を行い、当該細胞の幹細胞性維持に関わる制御機構の特徴を抽出することを目的とした。

1. 膠芽腫幹細胞における包括的蛋白質ネットワーク解析

膠芽腫幹細胞における発現蛋白質の全体像を俯瞰するために、nanoLC-MS/MS システムを用いて患者由来の膠芽腫幹細胞 (GB2) に関するショットガンプロテオーム解析を行った。(なお、当該細胞は東京大学医学部付属病院にて膠芽腫の患者から摘出された脳腫瘍組織から樹立したものであり、本研究は東京大学医科学研究所倫理委員会の承認のもと実施された。)その結果、ペプチドレベルでは8,896種類、蛋白質レベルでは2,089種類の分子群が同定された。

次にHuman Protein Reference Database (HPRD) のGene Ontology (GO) 情報に基づいて、同定された全ての蛋白質をmolecular function, biological process及びcellular component のGOタームで分類した。molecular function による分類では RNA/DNA binding, transcription regulator/factor activity, transporter activity に属する因子がそれぞれ全体の 9%, 6%, 5% を占めていた。biological process による分類ではsignal transduction、regulation of nucleobase, nucleoside, nucleotide and nucleic acid metabolism、protein metabolism、metabolism/energy pathways に属する因子がほぼ同率 (約16%)であった。また細胞内局在 (cellular component) に関しては、主にcytoplasm (37%), nucleus (30%), plasma membrane (8%) に分布していた。

同定されたプロテオーム情報の特徴をより詳細に明らかにするために、Database for Annotation, Visualization and Integrated Discovery (DAVID) によるパスウェイ解析を行った。その結果、glycolysis/gluconeogenesis、pyruvate metabolism、pentose phosphate pathway等の Warburg 効果に関連する様々な代謝経路がmodified Fisher's exact test を用いてp < 0.0001の高い有意水準を持って抽出された。また興味深いことに、ribosome、spliceosome 及びproteasome システムに関してはp < 1×10 (-15) の極めて高い有意水準を持つことが明らかになった。

2. 膠芽腫幹細胞における包括的リン酸化ネットワーク解析

膠芽腫においてはEpidermal Growth Factor Receptor (EGFR) に増幅や変異が存在することが知られ、異常なEGFR シグナルが膠芽腫の悪性化に多大な影響を及ぼす可能性が指摘されている。また神経幹細胞の維持にはチロシンキナーゼ受容体に関わるシグナルが重要な役割を果たすことが知られているが、近年種々の増殖因子の中でもEpidermal Growth Factor (EGF) が幹細胞性の維持に特に重要であるという報告がなされている。そこで本研究ではnanoLC-MS/MSシステム及び高精度相対定量法であるStable Isotope Labeling by Amino Acids in Cell culture (SILAC) 法を併用して、GB2細胞におけるEGF刺激依存的なリン酸化活性の変動を異なる2種類のフラグメント開裂法を用いて包括的に定量解析を行った。その結果、2,282 種類のリン酸化蛋白質に由来する6,073種類のリン酸化ペプチドが同定され、その中でリン酸化部位が1か所同定されたペプチドは5,497種類、2か所以上同定されたペプチドは576種類であった。またSILAC法に基づく高精度定量解析の結果、EGF刺激に応じて516か所のリン酸化レベルが上昇し、275か所が低下していた。大変興味深いことに代表的な神経幹細胞マーカーの一つである nestinに関しては36か所のリン酸化部位が同定され、11か所の新規リン酸化部位を含む多くのアミノ酸配列が種間でよく保存されていた(図1)。

次に、同定された全てのリン酸化蛋白質に関してHPRDのGO 情報に基づいて分類を行ったところ、molecular functionではtranscription activityに関する因子が最も多かった (13%) 。このグループにはhistone deacetylase、histone-lysine N-methyltransferase、zinc finger proteins等の様々な転写関連因子が含まれていた。biological process による分類では、signal transduction (23%)、regulation of nucleobase, nucleoside, nucleotide and nucleic acid metabolism (23%)、cell growth and/or maintenance (8%) に多くの因子が属していた。またcellular component ではnucleous (48%) やcytoplasm (31%) に局在する蛋白質が多いことが示された。

同定されたリン酸化プロテオーム情報から細胞機能に関する特徴を明らかにするために、DAVIDを用いてパスウェイ解析を行った。その結果、Notch, ErbB, mTOR等のがんの増殖や幹細胞の制御にかかわる様々な経路が有意に抽出された。さらにEGF依存的なリン酸化活性の変動をパスウェイレベルで俯瞰するためにIngenuity Pathways Analysis (IPA) による解析を行ったところ、代表的なCanonical Pathwayに属するMolecular mechanisms of cancer を構成するシグナル因子SHC1 (Src homology 2 domain containing) transforming protein1) においてY427のリン酸化活性がEGF依存的に約18倍上昇していた。また、mTOR signaling に属する因子であるRPS6 (ribosomal protein S6) のS235及びS236のリン酸化活性がEGF依存的に約30倍の制御を受けていることも明らかとなった。

3. 膠芽腫幹細胞の情報伝達系を規定する新規シグナル制御因子の探索

近年、miRNAが幹細胞の制御に積極的に働いていることが報告されており、RNAレベルのみならず蛋白質レベルでの新規制御因子の探索を行うことが非常に重要であると考えられる。そこで、得られた大容量のスペクトル情報をヒト蛋白質データベース及びヒト RNA データベースに対して検索をかけ,ヒト RNA データベースのみにヒットしたペプチドを抽出した。その結果、従来非コード領域と規定されていた領域に由来する3種類のペプチドのセリン残基がリン酸化を受け、さらにその中の1ペプチドのリン酸化活性がEGFにより制御されていることが明らかとなった(図2)。

結論

膠芽腫幹細胞における包括的蛋白質ネットワーク解析の結果、ribosome、spliceosome 及びproteasome システムに属する蛋白質が細胞内で高度に濃縮されていることが明らかとなった。またリン酸化ネットワーク解析の結果、がんや幹細胞に関わる種々の経路が活性化され、神経幹細胞マーカーのnestinをはじめとする幹細胞関連因子に関して非常に多くのリン酸化部位の存在が明らかになった。また従来、蛋白質をコードしていないと考えられていたRNA配列由来の新規ペプチドのセリン残基がリン酸化を受け、その活性がEGF依存的に変動するという興味深い事実も見出した。これらの結果から、膠芽腫幹細胞の性質を規定する情報伝達制御機構が蛋白質ネットワークレベルで従来の想定を超える多様性を持つことが示された。

図1 膠芽腫幹細胞由来 nestinのリン酸化部位に関する種間アミノ酸配列比較解析

図2 Supervillin-like (LOC645954) によりコードされた新規リン酸化ペプチドの細胞種依存的活性変動

審査要旨 要旨を表示する

本論文は5章から成り、第1章は序論、第2章は膠芽腫患者由来GB2細胞における包括的蛋白質ネットワーク解析、第3章は膠芽腫患者由来GB2細胞における包括的リン酸化ネットワーク解析、第4章は膠芽腫患者由来GB2細胞の情報伝達系を規定する新規シグナル制御因子の探索、第5章は考察及び結論について述べられている。

膠芽腫は最も悪性度の高いがんの一種で、診断確定後の平均生存期間は約1年である。当該腫瘍に関する精力的な研究にもかかわらず、過去10年以上にわたってその治療成績はほとんど改善されていない。近年、がん組織にも自己複製能と多分化能を有する幹細胞が存在するというがん幹細胞の概念が支持され、脳腫瘍においてもその存在が実験的に証明された。この概念は、がん組織にも幹細胞を頂点とする階層性が存在し、通常の腫瘍細胞を供給しながら組織の維持増殖を行っているという現象を想定させるものである。従ってがんの根治のためには腫瘍組織全体をターゲットとする従来の抗がん剤治療並びに放射線治療に基づく手法を見直し、がん幹細胞に焦点を当てた新たな治療戦略の展開が必要である。そこで本研究では、高感度、高精度測定を可能とする次世代型質量分析計 (LTQ-Orbitrap Velos ETD) にナノ流速液体クロマトグラフ装置 (Dina-2A) をon-lineで接続したnanoLC-MS/MSシステムを用いて、膠芽腫幹細胞の情報伝達系に関する包括的な蛋白質ネットワーク解析を行い、当該細胞の制御機構の特徴をシステムレベルで抽出した。

第2章では、膠芽腫患者由来GB2細胞における発現蛋白質の全体像を俯瞰するために、nanoLC-MS/MS システムを用いたショットガンプロテオーム解析を行い、ペプチドレベルでは8,896種類、蛋白質レベルでは2,089種類の分子群を同定した。同定されたプロテオーム情報の特徴をより詳細に明らかにするために、Database for Annotation, Visualization and Integrated Discovery (DAVID) によるパスウェイ解析を行ったところ、glycolysis/gluconeogenesis、pyruvate metabolism、pentose phosphate pathway等の Warburg 効果に関連する様々な代謝経路がmodified Fisher's exact test を用いてp < 0.0001の高い有意水準を持って抽出され、また興味深いことにribosome、spliceosome 及びproteasome システムに関してはp < 1×10 (-15) の極めて高い有意水準を持つことを示している。

第3章では、nanoLC-MS/MSシステム及び高精度相対定量法であるStable Isotope Labeling by Amino Acids in Cell culture (SILAC) 法を併用して、GB2細胞におけるEGF刺激依存的なリン酸化活性の変動に関して異なる2種類のフラグメント開裂法を用いて包括的に定量解析を行った。その結果、2,282 種類のリン酸化蛋白質に由来する6,073種類のリン酸化ペプチドを同定し、その中でリン酸化部位が1か所同定されたペプチドは5,497種類、2か所以上同定されたペプチドは576種類であった。またSILAC法に基づく高精度定量解析の結果、EGF刺激に応じて516か所のリン酸化レベルが上昇し、275か所が低下していることを示した。大変興味深いことに、代表的な神経幹細胞マーカーの一つである nestinに関しては36か所のリン酸化部位が同定され、11か所の新規リン酸化部位を含む多くのアミノ酸配列が種間でよく保存されていることを明らかにした。また、同定されたリン酸化プロテオーム情報から細胞機能に関する特徴を導出するために、DAVIDを用いてパスウェイ解析を行ったところ、Notch, ErbB, mTOR等のがんの増殖や幹細胞の制御にかかわる様々な経路が高いリン酸化レベルであることを示している。さらにEGF依存的なリン酸化活性の変動をパスウェイレベルで俯瞰するためにIngenuity Pathways Analysis (IPA) によるネットワーク解析を行ったところ、代表的なCanonical Pathwayに属するMolecular mechanisms of cancer を構成するシグナル因子SHC1 (Src homology 2 domain containing) transforming protein1) においてY427のリン酸化レベルがEGF依存的に約18倍上昇しており、mTOR signaling に属する因子であるRPS6 (ribosomal protein S6) のS235及びS236のリン酸化活性に関してはEGF依存的に約30倍の制御を受けていることを明らかにしている。

第4章では、蛋白質レベルでの新規制御因子の探索を行うことを目的として、得られた大容量のスペクトル情報を用いてヒト蛋白質データベース及びヒトRNA データベースに対して検索を行い,ヒト RNA データベースのみにヒットした新規リン酸化ペプチドを抽出した。その結果、従来非コード領域と規定されていたRNA配列領域に由来する3種類のペプチドのセリン残基がリン酸化を受け、さらにその中の1ペプチドのリン酸化活性がEGFにより制御されているという大変興味深い事実を見出し、GB2細胞の性質を規定する情報伝達制御機構が蛋白質ネットワークレベルで従来の想定を超える多様性を持つことを示している。

なお、本論文第2章、第3章、第4章は、西村教子、那須亮、近藤裕子、津本浩平、秋山徹、尾山大明との共同研究であるが、論文提出者が主体となって解析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(生命科学)の学位を授与できると認める。

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