学位論文要旨



No 115940
著者(漢字) 齊藤,結花
著者(英字)
著者(カナ) サイトウ,ユイカ
標題(和) 偏光分解CARS測定法の開発と液体、溶液中の分子構造の研究
標題(洋) Development of polarization resolved CARS spectroscopy and its application to molecular structures in liquids and solutions
報告番号 115940
報告番号 甲15940
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3984号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 小林,昭子
 東京大学 教授 山内,薫
内容要旨 要旨を表示する

 ラマン散乱測定において、入射光を直線偏光とすると、入射光方向に対して90°方向に散乱されるラマン散乱光には、入射光の偏光方向に平行な成分と垂直な成分が存在する。これらの偏光成分の強度比を偏光解消度という。偏光解消度はラマンテンソルの回転不変量と結びついていて、分子振動の対称性をあらわす指標となる。この物理量を精密に測定することで、液体、溶液中の分子や、化学反応中間体など、様々な環境下における分子の対称性に関する情報を得ることができる。このラマン散乱の偏光解消度に相当する量を、非線形ラマン散乱の一種であるCARS(Coherent Anti-Stokes Raman Scattering)を用いると、二つの感受率の比X2112/X1111として求めることができる。CARS信号は位相整合条件によりコヒーレントなビーム光として放出される。従って小さい立体角で観測が可能であり、かつ偏光解消度の値によって決まる直線偏光面を持つ。CARS信号ビームの精密な偏光面の角度測定を行うことで、シグナル光の強度比を測定する自発ラマン散乱よりはるかに高精度の偏光測定をすることが可能である。本研究ではこれらの特徴に注目して、CARSの測定において入射レーザーの偏光を制御し、シグナルの偏光方向を精密に測定することによって、3桁という高精度で偏光解消度を測定することのできる、新しいシステムを開発した。自発ラマン散乱を用いた通常の測定では、偏光解消度は高々一桁半の精度しか測定できなかった。装置の性能をしらべるために、シクロヘキサンの非全対称振動モード、1,2-ジクロロエタンの全対称振動モードのバンドを測定した。また、MgSO4水溶液中の硫酸イオンのS-0全対称振動バンドの偏光解消度を測定し、水溶液中のイオンの対称性について考察した。さらにX1111とX2112成分のバンドの幅が異なる全対称振動バンドについて、CARSスペクトル形の検光子角度依存性と、偏光解消度の求め方について考察した。

[実験と解析] CARSのポンプ光ω1には532nm単色レーザー光(パルス幅12ns)を、ストークス光ω2にはω1の一部により励起したブロードバンド発振の色素レーザー光を用いた。色素レーザー光は波数にして800cm-1の範囲をカバーしている。CARSの位相整合条件を緩和するためにサンプルは厚さ300μmの液膜状にし、マルチプレクス方式で測定を行った。偏光の精密測定のため、グランテーラープリズムをそれぞれの入射レーザーの光路と、シグナル光路に挿入している。入射レーザー光、CARS信号光の偏光面と、検光子の透過軸の関係を図2に示す。ω1とω2の偏光面のなす角をΨ、偏光解消度をpとするとCARS信号は

を満たすφの方向に直線偏光として放出される。本実験では約Ψ=60°とした。正確なΨの値は四塩化炭素の非共鳴バックグランドを測定することにより、0.02°の精度で決定した。図3に四塩化炭素の非共鳴バックグランドの強度変化を検光子角度に対してプロットしたものを示す。ω1レーザー強度をPINフォトダイオードで検出しBOXCAR積分器で積算したものを用いて補正しているため、高い精度でcos2φaの理論曲線を再現している。検光子を精密ホルダーに入れることにより、偏光子間の原点の設定による誤差は1/6°程度におさえることができた。検光子角度φaを変えることによって特定の偏光成分を除去した偏光分解CARS測定を行った。

 代表的な観測例として液体シクロヘキサンの1276cm-1バンドの偏光分解CARSスペクトルを図4に示す。スペクトルはシグナルが消去される角度付近を中心に検光子角度1°おきに測定している。偏光解消角141-142°付近でシグナルと非共鳴バックグランドの干渉の形が逆になっていることがわかる(図4中の*参照)。実験結果のフィティングに用いた式を(2)に示す。フィァィングは実験

結果を非常によく再現している。図5にローレンツ型関数の高さHRを検光子角度に対してプロットしたものを示す。偏光解消度の値は、HRがOとなる角度から(1)式を用いて求めた。図5の例では、Φ=Φa-90°=51.40°

〓となり、

P=0.749が得られる。

[結果]

 (1)液体シクロヘキサンの偏光解消度測定

 液体シクロヘキサンの2本の非全対称振動バンドCH2twisting(1267cm-1)、CH2scis-sors(1445cm-1)を測定した。非共鳴条件下での非全対称振動の偏光解消度は、理論的にO.75という決まった値をとる。測定を繰り返した結果、2本のバンドの偏光解消度の値は0.748-0.752の間にあった(表1-1参照)この結果は、この測定が0.002程度の精度をもって偏光解消度を決定することができることを示している。また結果が理論値に一致したことで、液体状態におけるシクロヘキサンはD3dの対称性を保っていることがわかった。このように、偏光解消度の理論値があらかじめわかっている非全対称振動バンドについては、理論値からの値のわずかなずれを検出 することができれば、その分子の対称性が確かに低下していることを示すことができる。

(2)液体1,2-ジクロロエタンの偏光解消度測定

 全対称振動の偏光解消度は、理論的には0以上0.75未満の値をとる。自発ラマン散乱の結果から、全対称振動であるにもかかわらず偏光解消度の値が0.75に非常に近いことが知られていた、1,2-ジクロロエタンgauche CH2 scissors(1429cm-1)、trans CH2scissors(1443cm-1)のバンドについて測定を行った。結果は0.75よりわずかに(本実験の精度からは有意に)小さいことがわかり(表1-2参照)、このバンドが全体称振動であることと矛盾しないことがわかった。

(3)硫酸イオンの偏光解消度測定及び濃度変化MgSO4中のS-O全対称振動のバンド(981cm-1)の偏光解消度を測定した。硫酸イオンの水溶液中での対称性をTdと仮定すると、このイオンの全対称振動の偏光解消度は0になる。このような小さい偏光解消度を精密に測定することは、強度測定から偏光解消度を求める自発ラマン散乱では困難であったが、本実験手法では容易に求めることができる。繰り返し測定した結果、濃度0.8mol/1ではこのバンドの偏光解消度の値は、本実験の精度では0に一致する結果となり(表1-3参照)、水溶液中の硫酸イオンが、化学式から予想される正四面体構造をとっていることを支持する結果となった。さらにこの水溶液の濃度を飽和溶解度2.5mol/Iまで変化させると、偏光解消度の値は0.003まで増加した(表1-3)。これはイオン濃度が増加し、カウンターイオンMg2+が近接して存在することによって、硫酸イオンをとりまく電場環境が等方的でなくなったために、分子振動の対称性が低下したことを示している。硫酸マグネシウム水溶液については、SO42-aq Mg2+aqの他に[Mg2+(H20)2SO42-]、[Mg2+(H20)SO42-]、[MgSO4]aqの3つの構造の可能性について報告がある。本実験で得られた偏光分解CARSスペクトルからは新たなバンドは分離検出されなかった。しかし、偏光解消度が0以外の値をとることから、濃度が増加すると全対称成分以外のラマンテンソル成,D2h,D2,C3v,C2v,Csのどれか、が混入し、溶液中にこれらの異なる対称性をもつ分子が微小な割合で存在する、または非常に短い時間スケールでみると、ひとつの分子が正四面体から別の対称性へ変化している、ということがわかった。

 このような分子の、小さな摂動による本質的な構造変化は、従来の精度では観測することができなかったものであり、本研究で開発した手法により初めて観測可能になった。

(4)X1111と,X2112成分のバンド幅が異なる場合の偏光解消度測定

 偏光分解CARSスペクトルは二つの感受率X1111とX2112成分の和で構成されている。ここで、X1111は等方成分、X2112は非等方成分である。このとき等方成分と非等方成分のバンド幅は一般に、非等方成分のみが配向緩和を含むため、異なっている。偏光解消度が0でない全対称振動モードは、等方成分と非等方成分の両方を含む。従ってCARSの偏光面は楕円偏光になり、偏光解消度の値は正確には波長に依存した虚数になる。この場合、偏光分解CARSスペクトルに表れるバンド形の変化は、中心周波数が等しく、幅のみが異なる2つのローレンツ曲線を使って説明することができる。本研究ではシクロヘキサンの全対称振動モード(1157cm-1)について、上記のような考察を行い、スペクトル形の変化を再現することに成功した。また見積もった偏光解消度の値は自発ラマン散乱による測定と良い一致を示した。

図1 実験装置

図2 入射レーザー光、CARSシグナル光の偏光面角度と検光子の透過軸の関係

図3 非共鳴バックグランドの検光子角度依存性

図4 シクロヘキサンの偏光分解CARSスペクトル

図5シグナル光強度の検光子角度依存性

表1 偏光解消度の実測値

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、新しい分子分光手法である偏光分解CARS(Coherent Anti-StokesRaman Scattering)分光法の開発と、その液体・溶液中の分子構造とダイナミクス研究への応用を主題として、6章から構成されている。第1章では導入として、ラマン散乱の偏光解消度の定義、CARSを用いたその精密測定の原理、液体・溶液中の分子構造研究における偏光解消度測定の意義が述べられている。第2章には、偏光分解CARS法の理論的基盤が短くまとめられている。第3章は実験装置の記述に充てられており、レーザー光源、試料系、検出系の記述に加えて、本研究における高い精度での偏光解消度測定を可能にしている検光子角度の較正法が詳しく述べられている。第4章では、シクロヘキサンと1,2-ジクロロエタンを標準試料として、開発された測定システムの精度に関する性能評価がなされている。シクロヘキサンの2つの偏光解消バンドについては、測定誤差(±0.002)の範囲内で理論値0.75と一致する結果が得られた。また、全対称振動に帰属されている1,2-ジクロロエタンの2つのバンドについて、従来0.75と報告されていた偏光解消度が、僅かではあるが有意に0.75より小さく、帰属と矛盾しないことを明らかにした。これらの結果から、本論文に述べられている装置を用いれば、偏光解消を±0.002の測定誤差で極めて正確に測定できることが示された。この精度は、自発ラマン散乱を用いた従来の方法に比べて1桁以上高い。第5章では、偏光分解CARS法の水溶液中のイオン対形成ダイナミクス研究への応用が述べられている。従来、濃厚水溶液中の硫酸イオンとマグネシウムイオンは、強いイオン・イオン相互作用によりイオン対を形成すると考えられていた。本論文では、偏光分解CARS測定の結果から、このイオン対の形成が極めて短い時間(硫酸イオンの振動位相緩和時間に比べて短い時間)でのみ起こることが示唆されている。第6章では、分子回転に由来するCARS感受率の平行成分と垂直成分のバンド幅の差が、偏光分解CARS測定にどのように影響するかが、実験結果をもとに議論されている。

 本論文において提出者は、これまでは不可能であった測定誤差±0.002という高い精度で偏光解消度を測定できる新しい装置を開発し、その性能を評価した。また開発した装置を応用して、水溶液中での動的なイオン対形成という新しい概念につながる重要な知見を得た。これらの業績は独創性に富み、また精密に実行された実験と的確な理論解析に基づいており、極めて高く評価される。

 本論文第4章は、Journal of Raman Spectroscopy誌に公表済み(石橋孝章、濱口宏夫との共著)であり、第5章はChemical Physics Letters誌に投稿中(濱口宏夫との共著)であるが、論文提出者が主体となって実験および解析を行っており、その寄与が十分であるので、学位論文の一部とすることに何ら問題はないと判断する。

 以上の理由から、論文提出者齊藤結花に博士(理学)の学位を授与することが適当であると認める。

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