学位論文要旨



No 115978
著者(漢字) 重信,秀冶
著者(英字)
著者(カナ) シゲノブ,シュウジ
標題(和) 細胞内矯正細菌 Buchneraのゲノム解析
標題(洋) Genome analysis of Buchnera, an endocellular bacterial symbiont
報告番号 115978
報告番号 甲15978
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4022号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石川,統
 東京大学 教授 松本,忠夫
 東京大学 教授 神谷,律
 東京大学 助教授 三谷,啓志
 東京大学 併任教授 長谷川,政美
内容要旨 要旨を表示する

 真核生物の細胞の中に原核生物が生息する細胞内共生は,異種間相互作用の中でも最も緊密なものである.その典型例がアブラムシ(アリマキ)と共生バクテリアBuchnera(ブフネラ)との間に観察される.アブラムシは菌細胞(bacteriocyte)と呼ばれる特殊に分化した大型の細胞を60-80個保持しており,その中におびただしい数のブフネラが生息している.これらのブフネラは宿主昆虫の世代を越えて永続的に垂直感染を繰り返し,自由生活の期間を全く持たない.ブフネラの16SrDNAの分子系統樹と宿主アブラムシの化石的証拠などにより両者の共生はおよそ2億年前にさかのぼると推定されている.長期間の共生の結果,ブフネラとアブラムシは相互に依存度を深める形で共進化し,ブフネラは宿主の細胞外では増殖することができず,またアブラムシはブフネラを失うと成長が著しく抑えられ,生殖能力をも失ってしまう.本研究では,エンドウヒゲナガアブラムシ(Acyrthosiphon pisum)と共生するブフネラ(Buchnera sp. APS)の全塩基配列を決定し,得られたゲノム情報を足がかりに,共生のメカニズムの解明,および細胞内共生における分子進化のメカニズムの解明を試みた.本論文は第1部および第2部から構成されている.

 第1部ではブフネラゲノムの解析結果を述べた.私は,全ゲノムランダムショットガンシークエンス法により,ブフネラのゲノム全塩基配列をエラー率0.01%以下の高い精度で決定した.その結果,ブフネラゲノムは640,681 baseの染色体と約7kbのふたつのプラスミドから成ることがわかった.そのゲノムの主な特徴を表1にまとめた.ブフネラは大腸菌と近縁であるが,4.6Mbの大腸菌ゲノムに比べるとそのゲノムサイズはわずかに7分の1である.また,このゲノムサイズは,最小遺伝子セットを持つバクテリアと見なされているMycoplasma genitalium (マイコプラズマ・ゲニタリウム)に次いで2番目に小さい.私はブフネラゲノムから583個の遺伝子を同定し,遺伝子のレパートリーを全ゲノムが既知の他の原核生物と比較した(表2).リケッチアやクラミジアなどの細胞内寄生バクテリアも小さいゲノムを持つ点ではブフネラと共通の特徴を持っている.しかし,比較の結果,遺伝子のレパートリーはブフネラと寄生バクテリアは全く異なることが分かった. ブフネラは,宿主が合成することができない必須アミノ酸の合成に関与する遺伝子を揃えているが,宿主が合成可能な可欠アミノ酸に関する合成遺伝子をほとんど持っていないことが分かった.このことは,アミノ酸合成系に関してブフネラと宿主がゲノムレベルで相補的であることを意味している.このような相補性の例は補酵素合成などの他の代謝系に関しても観察される.この特徴は,寄生性バクテリアが栄養分をほぼ全面的に宿主に依存し,それらの合成酵素の遺伝子すら自分のゲノムにもっていないことと好対照を成している.

 ブフネラはDNA修復に関与する遺伝子と細胞表層成分の合成に関与する遺伝子をほとんど失っていることも明らかになった.このことはこのバクテリアがDNAレベルおよび,細胞構造のレベルで無防備であることを意味している.また転写制御の遺伝子もほとんどみつからなかった.これはブフネラが環境の変化に対応できないことを示し,宿主細胞内の安定した環境でのみ生存可能であることを示唆している.さらに興味深いことに,ブフネラはリン脂質合成酵素をほとんど失っていることが明らかになった.このことはブフネラが自分で細胞膜を合成できず,その合成に関して宿主に何らかの形で依存していることを示している.

 これらのゲノム解析の結果はブフネラとアブラムシの間の共生において,相互依存関係がゲノムレベルで規定されていることを示す強い証拠である.

 さらに,私はブフネラ,大腸菌,およびインフルエンザ菌の共通祖先バクテリアの遺伝子レパートリーを推定し,細胞内共生におけるブフネラゲノムの進化を検討した.その結果,共通祖先の遺伝子数は少なくとも1542個であり,ブフネラのオルソログはほとんどすべてがその中に含有され,またブフネラに種分化した後に重複化した遺伝子はひとつの例を除いて存在しなかった.つまり,ブフネラは祖先バクテリアから一方的に不要な遺伝子を失いつつゲノムサイズを縮小する方向へ進化してきたことを示している.現在,多くの証拠によって,ミトコンドリアや葉緑体などのオルガネラが細胞内共生に由来することが支持されている.ブフネラは宿主との共生による進化の過程で生存に必須な遺伝子さえ失いながら,宿主の栄養補給に特化した遺伝子セットを保持していることを考慮すると,ブフネラは寄生バクテリアよりもオルガネラに似た特徴を呈しているといえる.第2部では,第1部で得られたゲノム情報に立脚し,ブフネラのタンパク質のユニークな進化について,理論的解析を行った.

 垂直感染によってのみ伝播される細胞内共生微生物は,宿主の世代ごとにボトルネックがかかる点と,実質的に組換えの機会が少ない点から,軽度の有害変異が自然選択によって淘汰されずに蓄積することが示唆されてきた.実際,ブフネラゲノムはDNAの配列の進化速度が速いことが報告されてきた.そこで,私は,加速化したDNA配列の進化がタンパク質の機能にどのような影響を与えているのかを比較ゲノムの手法によって調べた.ブフネラの全タンパク質についてそれぞれ全ゲノム配列が既知の34種の原核生物を対象にホモロジー検索し,相同遺伝子のマルチプルアライメントを作製した.その結果,ほとんどすべての生物種において保存されているアミノ酸残基さえ,ブフネラでは他のアミノ酸に置換している例が多く観察された.種間で高度に保存されているアミノ酸残基は,そのタンパク質の機能にとって重要であることを意味しているので,この部位の変異はブフネラのタンパク質の機能に大きな影響を与えていることを示している.事実,種特異的変異の蓄積により,多くの機能モチーフがブフネラのタンパク質から消失していることが確認できた.注目すべきことに,ブフネラ特異的変異はそれぞれのタンパク質の全体にわたって一様に入っているのではなく,特定の機能部位に蓄積し,タンパク質が持っているいくつかの機能のうち一部を失わせる傾向にある.これは第1部で明らかにしたブフネラのユニークな遺伝子レパートリーによって説明することができる.ゲノムの縮小進化によって遺伝子レパートリーが再編されると,タンパク質どうしの相互作用も変化するはずである.その結果,アミノ酸置換の制約を強く受けていた部位がその制約から解放され中立的変異が蓄積することが期待される.実際,ブフネラにとっては中立的,もしくは正の淘汰によると考えられる変異が蓄積している遺伝子がいくつか見いだされた.また,ブフネラのタンパク質がほかの生物の相同タンパク質にはない機能を獲得している実験的証拠も蓄積しつつある.これらの事実を考えあわせると,ブフネラのタンパク質はアミノ酸配列と機能の上で独自の進化をしているといえる.

 本研究は絶対共生細菌についての初めてのゲノム解析であり,それによって,この細菌のゲノムおよびタンパク質のもつユニークな特徴を明らかにすることができた.これらの特徴は,自由生活性,寄生性のいずれのバクテリアとも全く異なるものであり,細胞内共生が生物進化に与える大きな影響について興味深い結果を得ることができた.この種の緊密な共生系の研究は,絶対的な相互依存関係のために実験的手法が限られていたが,当ゲノム解析がブレイクスルーとなって実験的解析が進むことが期待される.また,必須遺伝子をブフネラが失っていることからも推測できるとおり,宿主側から供給される構成成分が存在するはずである.このことは,アブラムシ菌細胞のように高度に統合化された共生系においては,常に宿主と共生者の両方を考慮しつつ研究を進めることが重要であることを示している.

表1 ブフネラゲノムの特徴

表2 細菌の遺伝子レパートリーの比較*

審査要旨 要旨を表示する

 アブラムシ(アリマキ)と共生バクテリアBuchnera(ブフネラ)との間には非常に緊密な相互依存関係が成立している.ブフネラは宿主昆虫の世代を越えて永続的に垂直感染によって母系継承される.約2億年の共生の結果,ブフネラとアブラムシは相互に依存度を深める形で共進化し,ブフネラは宿主の細胞外では増殖することができず,またアブラムシはブフネラを失うと成長が抑えられ,生殖能力をも失ってしまう.申請者は,これほどまでに緊密な共生関係がゲノムにどのように反映されているか,という興味を出発点として,エンドウヒゲナガアブラムシ(Acyrthosiphon pisum)の共生微生物ブフネラ(Buchnera sp. APS)の全塩基配列を決定した.本論文は第1部および第2部から構成されている.

 第1部ではブフネラゲノムの解析結果が記されている.申請者は,全ゲノムランダムショットガンシークエンス法により,ブフネラのゲノム全塩基配列を高い精度で決定することに成功した.その結果,ブフネラゲノムは640,681 baseの染色体と約7kbのふたつのプラスミドから成ることがわかった.申請者はブフネラゲノムから583個の遺伝子を同定し,遺伝子のレパートリーを他の原核生物と比較した.その結果,ブフネラの遺伝子レパートリ」は自由生活性および寄生性バクテリアとも全く異なる特徴を示すことを明らかになった.申請者はその特徴を大きく次の3点に分けて論じてしている.

 第一に宿主とギブ・アンド・テイクの関係が成立することがゲノムに反映されている点である.例えば,ブフネラは宿主が合成することができない必須アミノ酸の合成に関与する遺伝子を揃えているが,宿主が合成可能な可欠アミノ酸に関する合成遺伝子をほとんど持っていないことが分かった.このことは,アミノ酸合成系に関してブフネラと宿主がゲノムレベルで相補的であることを意味している.

 第二に,ブフネラは多くの点で無防備であり脆弱な細胞であることがゲノムに反映されている点である.ブフネラはDNA修復に関与する遺伝子と細胞表層成分の合成に関与する遺伝子をほとんど失っている.このことはこのバクテリアがDNAレベルおよび,細胞構造のレベルで無防備であることを意味している.また転写制御の遺伝子もほとんどみつからなかった.これはブフネラが環境の変化に対応できないことを示している.

 第三に,ブフネラは生存に必須な遺伝子を多く失っている点である.特に,ブフネラはリン脂質合成酵素をほとんど失っている点は興味深い.このことはブフネラが自分で細胞膜を合成できず,宿主に何らかの形で依存していることを示している.

 申請者は分子進化的な解析からブフネラとオルガネラの類似性について議論している.現在,ミトコンドリアや葉緑体などのオルガネラは細胞内共生細菌に由来することが支持されている.ブフネラは宿主との共生による進化の過程で生存に必須な遺伝子さえ失いながら,宿主の栄養補給に特化した遺伝子を保持していることを考慮すると,ブフネラはオルガネラに似た特徴を呈しているといえる.

 第2部では,ブフネラのタンパク質のアミノ酸配列に見られるユニークな進化について理論的解析を行っている.ブフネラゲノムはDNA配列の進化速度が速いことが既に報告されてきた.そこで申請者は,加速化したDNA配列の進化がタンパク質の機能にどのような影響を与えているのかを比較ゲノムの手法によって調べた.ブフネラの全タンパク質についてそれぞれ全ゲノム配列が既知の34種の原核生物を対象にホモロジー検索し,相同遺伝子のマルチプルアライメントを作製した.その結果,ほとんどすべての生物種において保存されているアミノ酸残基さえ,ブフネラでは他のアミノ酸に置換している例が多く観察された.種間で高度に保存されているアミノ酸残基は機能にとって重要であるので,この部位の変異はブフネラのタンパク質の機能に大きな影響を与えていることが示唆される,申請者はこの理論的解析を裏付ける実験的証拠としてOmpF様ポリンの実験データを示した.

 最後に申請者は本研究の今後の展望について議論した.ブフネラと宿主はきわめて高度に共生系として統合されている.従って,共生のメカニズムをいっそう明らかにするには,宿主と共生者の両方を考慮しつつ研究を進めることが重要である.

 なお,本論文は,渡邊日出海氏,服部正平氏,榊佳之氏,石川統氏との共同研究であるが,論文提出者が主体となって解析および実験を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する. したがって,博士(理学)の学位を授与できると認める.

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