学位論文要旨



No 116102
著者(漢字) 小野,順貴
著者(英字)
著者(カナ) オノ,ノブタカ
標題(和) 生物模倣型音響センシングの研究
標題(洋)
報告番号 116102
報告番号 甲16102
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4939号
研究科 工学系研究科
専攻 計数工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 安藤,繁
 東京大学 教授 嵯峨山,茂樹
 東京大学 教授 舘,すすむ
 東京大学 教授 石川,正俊
 東京大学 助教授 篠田,裕之
内容要旨 要旨を表示する

1 本論文の目的

 本論文の目的は,生物が進化の過程で獲得した多様な聴覚系の機能・構造に着目し,これらを模倣することにより新しい音響センシングの原理,デバイスの構造を提案することである。内容的には,本論文は大きく以下の二部よりなる。

1.1 零点表現に基づくサブバンド信号処理

 音声や楽音の主要な部分は疑似周期信号であり,基本周波数成分とその高調波成分からなる線形な周波数構造をもつ。このような信号に対して高い認識能力を示す人間の基底膜の周波数分解はwaveletのような対数線形構造であり,任意の基本周波数の入力信号を分析できる大きな特長を有する。一方,対数線形構造においては,フィルタの帯域幅は中心周波数に比例して広がるため,高次高調波は分解されず,従来の信号処理においては有害とされていた調波成分間の干渉を生じる。しかし,ピッチ知覚,位相知覚,聴覚神経パルスのピッチ同期の性質等の生理学的,心理物理学的な知見からは,聴覚系では調波間干渉が有効な特徴として用いられている可能性があると考えられる。本論文第I部の目的は以上のような問題意識から,調波間干渉からの特徴抽出を時間領域の零点を用いてモデル化し,対数線形な周波数分解に適した新たな調波信号分析法を提案することである。

1.2 生物模倣型音源定位センサ

 本論文第II部の目的は,生物の巧みな音源定位の仕組みに着目し,これを新たなセンシング構造として定式化することである。現在,マイクロフォンアレイを用いた音源定位については,多くの信号処理手法が提案されている。しかし,多くの生物は唯二つの耳により,的確に音源位置を定位することができる。これは生物の耳が,自由空間に設置されたマイクロフォンとは異なり,外耳,鼓膜等の聴覚器自体が方向依存性音響フィルタとして働くことにより音源位置情報を適切に符号化する仕組みを持つためである。本論文では,1)人間,2)メンフクロウ,3)ヤドリバエの音源定位に着目し,これらの聴覚器をモデル化した音源定位センサについて論じる。

2 本論文の構成

 本論文は序論、結論と下記6章の8章構成となっている。

 第1部―零点表現に基づくサブバンド信号処理

 1)解析信号と調波間干渉の零点表現

 2)対数微分分解に基づくAM-FM解析

 3)ピッチ不変な調波間干渉を生じるフィルタバンクの理論

 第II部―生物模倣型音源定位センサ

 4)単耳音源定位センサ

 5)メンフクロウをモデルとした2次元音源定位センサ

 6)ハエをモデルとした微分検出型音源定位センサ

3 本論文の結果

3.1 零点表現に基づくサブバンド信号処理

1)解析信号と調波間干渉の零点表現

 第一部の議論の準備として,AM-FMを論じるための解析信号表現,および,調波間の干渉成分を記述する零点表現について基本的な性質を確認した。また,解析信号の取得法として,

を満たす直交位相フィルタ対Gr(ω),Gi(ω)が因果的フィルタとして構成できること,このとき,同一入力に対するフィルタ対の出力として,解析信号の実部と虚部が得られることを示した。

2)対数微分分解に基づくAM-FM解析

 サブバンド信号のAM(振幅変動),FM(周波数変動)を扱う新たな信号処理の枠組として,対数微分分解を提案した。対数微分分解とは,解析信号に対する複素対数の時間微分として定義される演算であり,

とかかれるサブバンド信号に対して(α(t)は高調波共通のAM成分,ωoはピッチ周波数,αnは零点),

のように,1)キャリアのAM成分(第1項),2)キャリアのFM成分(第2項),3)高調波間の干渉によるAM-FM変動成分(第3項),という加法的な分解を与える。次に,式(3)第3項で表される干渉成分の要素関数

を基底波形と定義し,この関数の性質として,1)αが単位円の内側にある基底波形と外側にある基底波形が直交すること,2)αを単位円に近づけた極限では,基底波形の虚部が周期δ関数になること,3)相互相関関数もまた基底波形で表されること,等を定理として証明した。これらの性質に基づき,対数微分分解に整合フィルタを用いることでサブバンド信号の零点が最適検出できることを示し,また,ピッチ抽出やAM-FM解析といったより具体的な特徴抽出への応用を示した。

3)ピッチ不変な調波間干渉を生じるフィルタバンクの理論

 サブバンド信号の零点表現の導入に基づき,入力信号のピッチに依存しない新たな調波信号分析手法を提案した。入力信号

に対して,サブバンド信号の零点分布は

となり(κはフィルタの帯域を示すインデックス,αn(κ)が零点),一般にフィルタの特性H(κ)(ω)を介して入力信号のピッチωoに依存する。本章では,サブバンド信号の零点分布をピッチ不変な特徴量とすることを目的として,1)サブバンドの零点分布がピッチによらず相似となる,2)任意のサブバンド間の零点分布が相似となる,の2つの条件を設定し,これを満たす唯一のフィルタバンクとして,

という周波数特性をもつ定Q周波数領域ガンマチャープフィルタを解析的に導出した(uはQ値,υは位相遅れの量を決める正の実数,ω(κ)はフィルタの中心周波数)。このフィルタバンクにおいては,入力信号のFourier係数(式(5)のCn)とサブバシドの零点(式(6)のαn(κ))の相対的な分布は,入力信号のピッチに依らず一対一に対応する。数値実験により,各サブバンドで検出された零点を接続していくことにより,ピッチ不変な特徴抽出が実現されることを示した。

3.2 生物模倣型音源定位センサ

4)単耳音源定位センサ

 人間の聴覚系を模倣した単耳音源定位センサについて論じた。人間は単耳でも音源の仰角方向を定位できることが知られており,多くの心理物理学的な実験により,耳介の音源方向に依存したフィルタリングにより生じる周波数軸上の急峻なdip(零点)が重要な手がかりになっていると考えられている。本章ではこのような知見に基づき,まず,耳介を反射板としてモデル化し,受音点と反射板からなる音響系では,直接音と反射音による干渉により周波数軸上に零点を生じることを示した。また幾何音響解析に基づき,反射板形状と零点周波数の関係を導出した。次に,人間の蝸牛基底膜の周波数分解が対数線形であることに着目し,音源方向に対して零点周波数の対数が線形に変化することを最適条件と設定し,これを満たす最適反射板(耳介)形状として”対数らせん”を導出した。これらの理論に基づき,1)耳介,2)外耳道,3)蝸牛基底膜,という人間の聴覚系を,1)対数らせん型反射板,2)指数ホーン,3)Fishbone型音響センサにより模倣した,単耳音源定位センサを実現した(図1)。ここでFishbone型音響センサとは,蝸牛基底膜と等価な機械系であり,入力された音響信号を対数線形に周波数分解する素子である。また,本センサを用いた実験を行ない,広帯域雑音の音源に対して,17°以内の精度で音源定位が可能であることを示した。

5)メンフクロウをモデルとした2次元音源定位センサ

 非対称な外耳形状により高い音源定位能力をもつメンフクロウ(図2左)を模倣し,1)音源の仰角・方位角情報の,強度差・時間差への符号化,2)特徴量から方向情報への適切な復号化,という原理により,2つのマイクロフォンで2次元的な音源定位を行なうセンサについて論じた。1)のような符号化を行なう音響系として,幅方向に一様な2次元的な放物面を集音板を提案し,実際にこの集音板と2つのマイクロフォンを用いたセンサを製作し(図2右),実験によりこれを確認した。また,2)の復号化に関しては,集音板の指向性が周波数依存性をもつことから,1)サブバンド分解,2)サブバンドごとの特徴量(強度差・時間差)の抽出,3)特徴量から方向情報への復号化,4)サブバンド情報の統合,という信号処理過程が必要になることを論じ,それぞれを,1)定Qフィルタバンク,2)時空間勾配法,3)校正表と双線形近似を用いた補間,4)投票法により具体的に実現した。また,広帯域雑音を音源とした実験を行ない,本センサが10[ms]程度の高時間分解能で,方位角−45°〜45°,仰角−15°〜15°の範囲の音源を3°以内の誤差で定位できることを示した。

6)ハエをモデルとした微分検出型音源定位センサ

 非常に小さな体長でありながら,音源に対して鋭い方向知覚を有するヤドリバエの聴覚器官(図3左)を模倣した音源定位センサについて論じた。まず一般論として,微小振動板に働く音場は,1)振動板に一様に働く同相駆動力成分,2)振動板を回転させようとする逆相駆動力成分(偶力),に分解できること,これらを独立に検出することによって音源定位が可能となることを示した。一般のマイクロフォンでは同相成分しか検出できず,逆相成分は差分により求められているため微小領域でこれを求めることは困難であるが,ヤドリバエの聴覚器官(図3左)においては,1)中央支持された振動板が,逆相成分(偶力)を検出する最適構造となっていること,2)同相成分に対する感度を減じ,相対的に逆相成分への感度を高める構造をもっていることにより,微小な逆相成分を検出する構造をもつことを論じた。また予備実験として,ヤドリバエの振動板中央支持構造を導入した圧電型のセンサを試作し(図3右),検出感度を確認した。

図1:左:単耳音源定位センサ全体,中:指数ホーンと増幅回路,右:Fishbone型音響センサ

図2:左:メンフクロウの外耳形状(E. I. Knudsen(1981)),右:メンフクロウ型2次元音源定位センサ

図A

図B

図3:左:ヤドリバエの聴覚器官とその機械モデル(R. N. Miles(1995)),右:ヤドリバエ型音源定位センサ

審査要旨 要旨を表示する

 近年のセンサのマイクロ化や集積化の進展にともない,進化の中で磨き抜かれた生物の感覚系への着眼は,優れたセンサを実現する上で重要な方法論として広く認知されてきている。本論文は,人間や他の生物の多様な聴覚系の機能・構造への考察を通して,新しい音響信号処理方式および音響センシングの原理を提案した論文であり,全体で2部構成の8章から構成されている。

 第1章の序論においては,生物模倣の問題意識が整理されるとともに,これまでの生理学的,計算論的研究を概観し,零点表現に基づくサブバンド信号処理と生物模倣型音源定位センサという論文提出者の二つの主題を,数理的なモデル化と意義付けとその応用という観点で位置づけている。

 第I部「零点表現に基づくサブバンド信号処理」は,まず第2章「解析信号と調波間干渉の零点表現」において,音響波形のAM(振幅変動)とFM(周波数変動)の性質を論じるための解析信号表現と零点表現について基本的な性質をまとめている。さらに,人間の聴覚系で同様な表現が得られている可能性について論じている。続く第3章は「対数微分分解に基づくAM-FM解析」と題し,サブバンド信号のAM-FM変動を,従来の各調波のAM成分とFM成分に加え,新たに調波間干渉のAM-FM変動成分に分解する対数微分分解法を提案している。さらに,調波間干渉の成分が直交基底波形で展開されることを証明し,これから導かれる基底波形の最適整合フィルタを音声信号のピッチ抽出や変動解析に応用することによって,従来よりはるかに大きな時間分解能で,それらの特徴が抽出可能であることを示している。第4章は「ピッチ不変な調波間干渉を生じるフィルタバンクの理論」と題し,上記の零点分布をピッチ不変な特徴量とすることを目的として,サブバンドにまたがる零点分布がピッチ変動下においても相似形を保って推移するような,新たなフィルタバンク形状を解析的に導いている。さらに,このフィルタ関数形状と従来の定Qガンマチャープフィルタとの特異な相違点と類似点を指摘している。

 続く第II部「生物模倣型音源定位センサ」は,3種類の生物模倣型音源定位センサの具体的研究成果を示している。まず第5章の「単耳音源定位センサ」の章では,人間が耳介の音源方向に依存したフィルタリングを手がかりとして音源の仰角方向を定位するとの知見に基づき,人間の耳介,外耳道,蝸牛基底膜を,最適対数らせん型反射板,指数ホーン,Fishbone型音響センサにより模倣した単耳音源定位センサを実現し,広帯域雑音の音源に対して17°以内の精度で音源定位が可能であることを示している。第6章は「メンフクロウをモデルとした2次元音源定位センサ」と題し,非対称な外耳形状により上下左右の音源定位能力をもつメンフクロウを模倣し,音源の仰角・方位角情報の強度差・時間差への符号化という原理により,2次元的な音源定位を行なうセンサを提案している。さらに,メンフクロウの蝸牛基底膜と神経回路網に類似した構造をもつアルゴリズムを実装して,広帯域の音源を10[ms]程度の高時間分解能,3°以内の誤差で定位できることを示している。第7章は「ハエをモデルとした微分検出型音源定位センサ」と題し,非常に小さな体長でありながら音源に対して鋭い方向知覚を有するヤドリバエの聴覚器官を模倣した音源定位センサについて,中央支持された振動板が逆相成分を偶力として検出するのに非常に適した構造となっていること,同相成分に対する感度を減じ逆相成分への感度を高める構造をもっていることを示し,予備実験として中央支持構造を導入した圧電型のセンサを試作し,方向依存の検出感度を確認している。

 最後の第8章は結論であり,以上の成果を総括するとともに,将来の発展方向や応用展開について論じている。

 以上,要するに,本論文は,生物の感覚器の数理的なモデル化と意義付けと応用展開という生物模倣型センシングの方法論を人間や他の生物の聴覚系に対して適用し,サブバンド零点表現や対数微分分解法などの新たな非線形信号処理手法の体系的構成に道を開き,かつ新しい発想による音源定位システムとデバイスの構成原理を具体的に与えたもので,本研究のセンシング技術と信号処理技術への波及効果は大きく,計測工学上の貢献が大きい。よって,本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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