学位論文要旨



No 116471
著者(漢字) 岸本,泰司
著者(英字)
著者(カナ) キシモト,ヤスシ
標題(和) 瞬目反射古典的条件付けに関与する小脳および海馬シナプス機構
標題(洋)
報告番号 116471
報告番号 甲16471
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第945号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桐野,豊
 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 助教授 漆谷,徹郎
 東京大学 助教授 久保,健雄
 東京大学 助教授 鈴木,利治
内容要旨 要旨を表示する

物事が記憶される時、脳内の何処でどのような変化が起こっているのであろうか?パブロフ型連合学習の一種である瞬目反射条件づけ(eyeblink conditioning)は、音を条件刺激(CS)とし瞼への侵害刺激を無条件刺激(US)とした時、学習成立後は音だけで、刺激間隔に応じた瞬きの条件応答(CR)が表出される古典的条件付けの一手法である。古典的条件付けは生活体が環境内の2つの事象間の関係を学習する連合学習の1例であるとみなすことができる。それらの事象の一方は一般に意味対象(US)であり、もう一方は一般に学習経験前には生体にとって意味の中性なもの(CS)である。これらの諸事象間の関係を脳内で連合させた結果として、生活体は変化させられ、その変化を行動の修正によって表出する。パブロフ型条件付けは様々な事象間の様々な関係が学習されるものであって、連合学習一般のモデルとなりうると考えられている。古典的条件付けの中でも、瞬目反射条件付けは、関与する脳部位がよく同定されていることから連合学習モデルとしてとりわけ有用である。瞬目反射条件づけにおいて動物は2つの異種情報(CSおよびUS)を意味的かつ時間的に脳内で連合させる。この性質は、我々が日常の意味で用いる“いつ何が起こったのか”という記憶の意味により感覚的に近いものである。しかしながら空間学習における遺伝子改変マウスを用いた行動学的・電気生理学的研究に比べ、古典的条件付けの分子レベルの研究は殆ど進んでいない。そこで本研究はこの学習系を遺伝子ノックアウトマウスに適用することにより、小脳および海馬シナプス可塑性が、瞬目反射delay課題(CSとUSが同時に提示される)およびtrace課題(CSとUSの間に無刺激の期間が挿入される)双方の記憶形成にどのように関与しているかを明らかにすることを目的とした。

【結果と考察】

1. 小脳長期抑圧(LTD)仮説の検証

小脳はその特徴的な層構造から、パーセプトロンてあるというモデルが1969年に提出され(Marr,1969)平行繊維-プルキンエ細胞間におけるシナプス伝達力固定したものではなく可変的ならば、この可塑性力運動学習の基礎過程でありうると予測された(Albus JS,1971)。その後Itoらは小脳において実際にこの部位にシナプス伝達の投機的な抑圧現象(LTD)が起こることを示し、LTDが関与しうる運動学習として前庭動眼反射とともに瞬目反射条件付けが例示された。そこで、瞬目反射条件付けのLTD仮説を検討する目的で、LTD生成の必須分子として同定された一連の遺伝子のノックアウトマウスのdelay課題における学習能力を測定した。その結果グルタミン酸受容体δ2サブユニット(GluRδ2)をはじめ、I型代謝型グルタミン酸受容体(mGluR 1)およびリン脂質加水分解酵素ホスホリパーゼCβ4(PLCβ4)欠損マウスにおいてもdelay課題において顕著な障害が観察された。これら一連の結果は、mGluR1→PLCβ4→PKC→AMPARという、プルキンエ細胞内におけるリン酸化カスケードが小脳LTDおよび瞬目条件反射の成立に共通して必須であることを明らかにするものであり、delay課題における瞬目反射条件付けの小脳LTD仮説を強く支持するものとなった(図1)。しかしながらCS終了とUS開始の間に500msの無刺激期間をもつtrace課題(standard-trace conditioning)ではGluRδ2 mutantおよびPLCβ4 mutantのいずれにおいてもwild-typeと同様に学習が成立した。

2. 海馬機能の関与

小脳LTDに障害のあるmutantでもstandard trace課題で学習が成立する。ではこの場合、そのneural substrateは何であろうか?野生型マウスにおいてイボテン酸により両側性に海馬を破壊したり、NMDA受容体のアンタゴニストを投与するとstandard trace課題が顕著に抑制されたことから、NMDA受容体依存的な海馬長期増強(LTP)がその候補として考えられた。また、海馬が広い範囲の対象についての空間記憶、陳述記憶またはエピソード記憶に重要なことが、ヒトだけではなく他の動物種でも認識されるようになってきている。そこで瞬目反射条件付けへの海馬LTPの関与を明らかにする目的で、海馬CAl領域のLTPに障害を呈するグルタミン酸受容体サブユニットε1(GluRε1)欠損マウスで行動解析を行った。GluRε1欠損マウスはdelay課題では学習が阻害されなかったのに対し、trace課題ではwild-typeに比べ非常に顕著な学習障害を呈した(Figs.2A,B)。この結果は同じく海馬CA1野でのLTPに障害があるmGluR1 mutantおよび小脳プルキンエ細胞特異的にmGluR1をrescueさせたmGluR1-rescue miceでも観察された。即ちdelay課題と小脳LTDとの対応の場合と同様に、trace課題と海馬LTPの障害の有無に対応関係が見られた(Table 1)。またGluRε1欠損マウスはCRの獲得率の障害のみならずCR獲得のタイミングも障害されていた(Fig.2C)。このCRの潜時の撹乱は、mGluR1 mutantおよび海馬損傷マウスにおいても観察され、海馬がエピソード記憶の一因子である“temporal memory”に関与するとの考えに合致するものであった。

3. CS-USの時間的特性に依存したシナプス可塑性の変化

上記の実験によりstandardなdelay課題およびtrace課題においてGluRδ2およびGluRε1 mutantはそれぞれに対し相補的な学習障害を呈することが明らかとなった(Table1)が、こうした違いを決定的にする両パラダイムの刺激特性は何であろうか?この疑問に答えるために、さらに様々な刺激間間隔をもつ条件でdelayおよびtrace課題を2種類のmutant miceに行わせた。その結果GluRδ2 mutantは、CSとUSの刺激間間隔(interstimulus interval;ISI)によらず、2刺激の“重なり合い”があれば障害を呈し、ない場合にはwild-typeと同じように学習が成立することがわかった。すなわちGluRδ2 mutantは2事象が同時性をもつときにおいてのみ学習障害を呈した。一方、GluRε1 mutantは2刺激の“重なり合い”の有無には依存せずISIが長くなればなるほどその学習障害の程度は大きくなった。これらの結果より、瞬目反射条件付けにおいて小脳LTDは2刺激の“同時性”を検出しており、海馬はISIの“長短”を認識している可能性が示唆された。

4. プリオン蛋白質の小脳シナプス機構における関与

ヒトのクロイツフェルト・ヤコブ病をはじめとするプリオン病は、主に小脳失調および進行性の痴呆を症状とする遺伝性かつ感染性の疾患である。これら病変は正常型プリオン蛋白質(PrPC)が異常型プリオン蛋白質(PrPScに変換されることにより引き起こされるが、PrPc自体の生理機能は未だ明らかではない。しかしプリオン遺伝子の翻訳領域を内在するexon3を完全に除去した、ある系統のプリオン蛋白質ノックアウトマウス(NgskPrnp0/0 mice)は、約60週齢を過ぎる頃より小脳プルキンエ細胞の脱落および運動失調を呈することから、小脳機能に重要な役割を果たしている可能性がある。そこでPrPcの小脳シナプス機能への関与を調べる目的で、whole cell patch clamp法によりNgskPrnp0/0 miceの小脳スライスにおいてプルキンエ細胞の電気生理学的特性について調べた。paired pulse facilitation等、基本的な性質に異常は見られなかったが(Fig-3D)、小脳LTDに障害が観察された(Fig3A-C)。またmutantではプルキンエ細胞における抑制性シナプス後電流が有意に滅少しており神経細胞死との因果関係が示唆された。さらに16,40,60週齢におけるNgskPrnp0/0 miceの瞬目反射delay課題を調べたところ、CR獲得および潜時について加齢依存的な障害が観察された(Fig4A&B)。ミュータントの行動変化はプルキンエ細胞の脱落の度合いによく対応しており、この学習における小脳皮質の重要性を示していると思われる。

【まとめ】本研究において私はマウス瞬目反射条件付け系を時間的多様性を持つ系に拡張することにより、一般に運動学習として知られるこの連合学習がCSとUSの時間的特性の変化によって小脳LTD依存的であったり海馬依存的になることを明らかにした。これは脳が外界の状況に応じてその機構を極めて動的に変化させ対応していることを示す良い例と考えられる。またPrPc欠損マウスの解析からは加齢に伴う学習障害と小脳LTDの障害が示された。この結果はPrPcの生理機能を明らかにする端緒となりうるだけでなく、神経細胞死と学習障害に共通の神経機構が働いている可能性を示唆するものとしても興味深い。瞬目反射条件付けはヒトの臨床研究でも発展してきた経緯があるので、本実験系はヒト中枢疾患モデルを指向したmutant miceの学習機能評価系としても今後期待できるであろう。

Fig.1. 瞬目反射条件付けdelay課題の基礎過程を担う小脳LTDの分子機構模式図

Fig.2. GluRε1 mutant miceにおけるstandard trace conditioning.(A)7日間のacquisition sessionにおけるCR%の変遷。mutantでは顕著な障害が観察される(P<0.001;by two-way ANOVA)。(B)7日目の筋電位の加算平均トレース(C)ピークCRの潜時を表したヒストグラム。(**P<0.01,*P<0.05)

Table 1. Correlation between eyeblink conditioning and cerebellar/hippocampal plasticity

Fig.3 (left)(A&B)“conjunction protocol”により誘発される小脳LTD。Prnp+/+ mice(○,n=13 from 8 mice)ではwild-type mice(●,n=12 from 7 mice)に比べ抑圧の程度が小さくなっている(C)刺激終了30分後におけるEPSC amplitudeの分布図(D) Paired pulse facilitaion(PPF)にはwild-type(○,n=20)とNgskPrnp0/0 mice(●,n=25)間に差はない。

Fig.4 (right)NgskPrnp0/0 miceにおける瞬目反射delay課題の加齢依存的障害。(A)7日目における学習率および(B)短時間の潜時のCRが出現した頻度。(*P<0.05)

審査要旨 要旨を表示する

 パブロフ型連合学習の一種である瞬目反射条件づけ(eyeblink conditioning)は,音を条件刺激(CS)とし瞼への侵害刺激を無条件刺激(US)とした時,学習成立後は音だけで,刺激間隔に応じた瞬きの条件応答(CR)が表出されるというもので,古典的条件付けの一つであり,生物が環境内の2つの事象間の関係を学習する連合学習の1つである.一般に,USは意味対象であり,CSは意味のない中性なものである.瞬目反射条件づけにおいて動物はCSとUSを意味的かつ時間的に脳内で連合させる.本研究は,遺伝子ノックアウトマウスに適用することにより,小脳および海馬シナプス可塑性が,瞬目反射delay課題(CSとUSが同時に提示される)およびtrace課題(CSとUSの間に無刺激の期間が挿入される)双方の記憶形成にどのように関与しているかを明らかにすることを目的としたものである.

 1. 小脳長期抑圧(LTD)仮説の検証とLTDに依存しないメカニズムの発見

小脳はその特徴的な層構造から,平行繊維-プルキンエ細胞間におけるシナプス伝達の長期抑圧(LTD)が運動学習の基礎過程であるとする有力な仮説が提出されており,運動学習として前庭動眼反射とともに瞬目反射条件付けが例示されている.そこで,瞬目反射条件付けのLTD仮説を検討する目的で,LTD生成の必須分子として同定された一連の遺伝子のノックアウトマウスのdelay課題における学習能力を測定した.その結果グルタミン酸受容体δ2サブユニット(GluRδ2)をはじめ,I型代謝型グルタミン酸受容体(mGluR1)およびリン脂質加水分解酵素ホスホリパーゼCβ4(PLCβ4)欠損マウスにおいてもdelay課題において顕著な障害が観察された.これら一連の結果は,mGluR1→PLCβ4→PKC→AMPARという,プルキンエ細胞内におけるリン酸化カスケードが小脳LTDおよび瞬目条件反射の成立に共通して必須であることを明らかにするものであり,delay課題における瞬目反射条件付けの小脳LTD仮説を強く支持するものとなった.

 しかしながら,CS終了とUS開始の間に500msの無刺激期間をもつtrace課題(standard-trace conditioning)ではGluRδ2 mutantおよびPLCβ4 mutantのいずれにおいてもwild-typeと同様に学習が成立した.これは,小脳LTDに依存しない神経メカニズムが存在することを初めて示したものである.

2. 瞬目反射学習への海馬の関与瞬目反射条件付けへの海馬LTPの関与を明らかにする目的で,海馬CAl領域のLTPに障害を呈するグルタミン酸受容体サブユニットε1(GluRε1)欠損マウスを用いて行動解析を行った.GluRε1欠損マウスはdelay課題では正常な瞬目反射学習を示したが,trace課題ではwild-typeに比べ非常に顕著な学習障害を呈した.この結果は同じく海馬CA1野でのLTPに障害があるmGluR1 mutantおよび小脳プルキンエ細胞特異的にmGluR1をrescueさせたmGluR1-rescue miceでも観察された.即ちdelay課題と小脳LTDとの対応の場合と同様に、trace課題と海馬LTPの障害の有無に対応関係が見られた.またGluRε1欠損マウスはCRの獲得率の障害のみならずCR獲得のタイミングも障害されていた.このCRの潜時の撹乱は,mGluR1 mutantおよび海馬損傷マウスにおいても観察され,海馬がエピソード記憶の一因子である“temporal memory”に関与するとの考えに合致するものであった.

3. CS-USの時間的特性に依存したシナプス可塑性の変化

上記の実験によりstandardなdelay課題およびtrace課題においてGluRδ2およびGluRε1 mutantはそれぞれに対し相補的な学習障害を呈することが明らかとなった.こうした違いを決定的にする両パラダイムの刺激特性を探究するために,様々なCS-US間の時間間隔でdelayおよびtrace課題を2種類のmutant miceに行わせた.その結果GluRδ2 mutantは,CSとUSの間隔によらず,2刺激の“重なり合い”があれば障害を呈し,ない場合にはwild-typeと同じように学習が成立することがわかった.すなわちGluRδ2 mutantは2事象が同時性をもつときにおいてのみ学習障害を呈した.一方,GluRε1 mutantは2刺激の“重なり合い”の有無には依存せず,CSとUSの開始の間隔が長くなればなるほどその学習障害の程度は大きくなった.これらの結果より,瞬目反射条件付けにおいて小脳LTDは2刺激の“同時性”を検出しており,海馬は2刺激間の間隔“長短”を認識している可能性が示唆された.

4. プリオン蛋白質の小脳シナプス機構への関与

プリオン病は,主に小脳失調および進行性の痴呆を症状とする遺伝性かつ感染性の疾患であり・正常型プリオン蛋白質(Prpc)が異常型プリオン蛋白質(PrPSc)に変換されることにより引き起こされるが,PrPc自体の生理機能は未だ明らかではない.ある系統のプリオン蛋白質ノックアウトマウス(NgskPrno0/0 mice)は,約60週齢を過ぎる頃より小脳プルキンエ細胞の脱落および運動失調を呈する.そこでPrPcの小脳シナプス機能への関与を調べる目的で,whole cell patch clamp法によりNgskPrnp0/0 miceの小脳スライスにおいてプルキンエ細胞の電気生理学的特性について調べた.paired pulse facilitation等,基本的な性質に異常は見られなかったが,小脳LTDに障害が観察された.またmutantではプルキンエ細胞における抑制性シナプス後電流が有意に減少しており神経細胞死との因果関係が示唆された.さらに16,40,60週齢におけるNgskPrnp0/0 miceの瞬目反射delay課題を調べたところ,CR獲得および潜時について加齢依存的な障害が観察された.mutantの行動変化はブルキンエ細胞の脱落の度合いによく対応しており,この学習における小脳皮質の重要性を示していると考えられた.

以上の通り,本研究は,種々の遺伝子変異マウスを用いて,瞬目反射学習における小脳皮質及び海馬の関与を解明したものであり,学習の神経科学に寄与するところが大であるので,博士(薬学)の学位に値するものであると認めた.

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