学位論文要旨



No 116489
著者(漢字) 中西,康介
著者(英字)
著者(カナ) ナカニシ,コウスケ
標題(和) 脳由来神経栄養因子(BDNF)の海馬抑制性シナプス形成促進作用
標題(洋)
報告番号 116489
報告番号 甲16489
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第963号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 長尾,拓
 東京大学 教授 桐野,豊
 東京大学 教授 岩坪,威
 東京大学 助教授 西山,信好
内容要旨 要旨を表示する

序論

ヒトの脳は少なくとも数百億といわれる神経細胞がらなるが、これらの神経細胞はその突起を介するシナプス結合によって複雑で多岐にわたる神経回路網を形成している。このような複雑な神経回路網がどのようにして形成されるのだろうか?近年の研究によりこれら神経回路形成を制御する軸索ガイド分子として神経軸索に直接接触して働く分子群であるラミニンやカドヘリンといった細胞接着因子、標的細胞がら分泌されて遠距離に作用するもので誘引的に働くネトリンや反発的に働くセマフォリンといったものが明らかとなっている。こういった遺伝情報に基づく神経回路の制御に加え、神経活動に依存した神経回路の修飾も精緻な神経回路網の完成のためには必須なプロセスであるといえる。記憶・学習を調節する部位である海馬においては主にグルタミン酸を伝達物質とする興奮性シナプスとγ-アミノ酪酸(GABA)を伝達物質とする抑制性シナプスが緻密に神経ネットワークを形成し情報処理機構の基となっている。私はこれら神経ネットワーク形成を制御する因子として脳由来神経栄養因子(BDNF:brain-derived neurotrophic factor)に注目した。BDNFの産生は神経活動に伴って上昇することから神経活動に依存した神経回路形成を制御する可能性がある。そこで本研究では培養海馬神経細胞を用いて神経回路網構築の基となるシナプス形成に対するBDNFの作用を検討した。

 1. シナプス関連小胞蛋白質現及び伝達物質放出に対する影響

培養海馬神経はin vitroにおけるシナプス形成のモデル実験系としてよく使われる。胎生18日齢のラットより海馬神経細胞を単離し、10%血清含有培地で24時間培養した後、無血清培地Neurobasal+B27にて培養し実験に用いた。シナプス部には神経伝達物質放出機構に関与するSNARE蛋白質群が存在している。これら蛋白質の発現をwestemblot法にて検討した。BDNF(50ng/ml)を約一週間慢性適用することによりsynaptophysin,synaptobrevin,syntaxinなどのSNARE蛋白質の発現が2-3倍に増大した。そこで神経伝達物質の放出量にも影響があるのではと考え、高速液体クロマトグラフィーを用いて高K+刺激で誘発されるグルタミン酸、及びGABAの放出量を定量した。BDNFを慢性処置してもグルタミン酸の放出量には影響が認められなかったが、GABAの放出量は約80%程増大していた(Fig.1)。このことがらBDNFは抑制性の伝達物質であるGABAの放出を特異的に増強すると考えられた。

2. 受容体発現及び樹状突起形態への影響

次にシナプス後部側における受容体発現への影響を検討したところ、グルタミン酸受容体AMPA、NMDAのサブユニットであるGluR1、NR1の発現に変化は認められなかったが、GABAAR β2/3の発現は約2倍に上昇した。興奮性のシナプスは樹状突起のspine上に、抑制1性のシナプスは樹状突起のshaft上にシナプスを形成することが知られている。そこで細胞膜表面を染色する蛍光色素Dilを用いspineの形態を観察したところ、BDNFの効果を検討したところspineの数が約30%程減少した(Fig,2B)。このことがらもBDNFは抑制性シナプスを特異的に増強していると考えられた。

3. BDNFの総シナプス数及び抑制性シナプス終末への影響

次にBDNF慢性処置によりシナプス数が実際に変化しているかを蛍光色素FM1-43を用いて検討した。FM1-43はエンドサイトーシスの機構により細胞内に取り込まれると発色することから機能的なシナプス終末を染める方法として用いられている。FM1-43を用いた解析からシナプス総数には影響が認められなかった。そこで抑制性シナプス数への選択的な作用を観察するために抗GAD抗体を用いた蛍光免疫染色像の解析を行った。GADはGABA合成酵素で抑制性の神経終末に比較的多く存在し抑制性シナプスのマーカーとして使われる。BDNF慢性処置によってGADの免疫蛍光強度が上昇し、cluster状の斑点の数が約2倍以上増加した(Fig.2)。これらのことからBDNFは抑制性のシナプス形成を実際に促進することが明らかとなった。

4. BDNF作用の抑制性神経選択性

BDNFの抑制性シナプスへの作用の特異性の理由としてBDNFの内在的な受容体であるTrkBの偏りが考えられる。そこでTrkBの局在を共焦点レーザー顕微鏡を用い神経細胞を特異的に染めるMAP2、抑制性神経を特異的に染めるGABAと二重免疫染色で検討したところGABA陽性細胞を含めすべての神経細胞にTrkBが発現していた。そこでBDNFの作用を明確にするために免疫組織化学的手法を用いて細胞数、形態への影響を検討した。BDNF慢性処置によってもMAP2,GABA陽性細胞数には変化はなかったが、GABA陽性細胞の細胞体面積および神経突起数が有意に増加した(Fig,3)。MAP2陽性細胞ではこのような形態変化はみられなかった。これらのことがらTrkB受容体はすべての神経細胞に発現しているのにもかかわらずBDNFは抑制性の神経に選択的に作用することが明らかとなった。

5. 神経活動による抑制性神経制御とBDNFの関与

神経活動が高まるとBDNFの産生が亢進することが知られている。上記の結果よりBDNFは抑制性神経に選択的な作用を示すことが明らかとなっている。そこで神経活動依存的に抑制性神経に選択的可塑的変化が起こりうるのでないかと考え、高K+刺激の影響を検討した。高K+はBDNF処理同様にGABA陽性細胞の細胞体面積、神経突起数を選択的に増加させた。次に高K+及びBDNFの効果に対するL型Ca2+channel阻害剤であるNicardipine,Trkの阻害剤として使われるk252aの作用を検討したところ高k+の作用はNicardipine,k252a両阻害剤により抑制されたが、BDNFの効果はk252aによってのみ抑制された(Table1)。以上より神経活動依存的に抑制性神経に可塑的な変化が引き起こること、またこの作用にBDNFが関与していることが示唆された。

まとめ

本研究はBDNFのシナプス形成に対する影響を検討し、(1)GABA放出量を増加させる。(2)GABAA受容体の発現を上昇させる。(3)spineの数を減少させる。(4)GAD染色終末を増加させる。などがらBDNFは抑制1性シナプス形成を選択的に促進していることを明らがにした。また神経活動依存的な抑制性神経形態変化の作用にBDNFが関与している可能性も示唆された。本研究は興奮性、抑制1性のシナプスが複雑なネットワークを形成する神経回路網構築のメカニズムに新知見を与えるものと思われる。

Fig.1 グルタミン酸(A)及びGABA放出(B)へのBDNF慢性処置の影響★P<0.05vs control

Fig.2 抗GAD抗体を用いた抑制性シナプスの観察(A,B)。BDNF慢性処置の抑制性シナプス数への影響(C)。★★P<0.01vs control

Fig.3 K抗GABA抗体による免疫染色像(A,B)。抗GABA抗体陽性細胞突起数へのBDNF慢性処置の影響(C)★★P<O.01 vs control

Table 1 Effects of k252a and nicardipine on high k+ or BDNF induced GABAergic growth

審査要旨 要旨を表示する

 脳は神経細胞間に複雑な神経回路網を形成することにより高次機能を発揮している。そして、神経回路網は神経と神経間の連絡、すなわちシナプス結合の形成に依存している。神経細胞が軸索を伸ばし、目的の神経細胞にシナプスを形成するためには、様々な生体内因子が関与すると考えられている。近年の研究により、軸索をガイドする分子として神経軸索に直接接触して働くラミニンやカドヘリンといった細胞接着因子、標的細胞から分泌され誘引的に働くネトリンや反発的に働くセマフォリンなどが明らかとなってきている。しかし、脳においてはグルタミン酸を伝達物質とする興奮性シナプスとγ-アミノ酪酸(GABA)を伝達物質とする抑制性シナプスが緻密に神経回路網を形成しており、軸索ガイダンスにはこれら必須の因子に加えて、神経活動に依存して局所的に修飾する因子の存在が示唆される。

 本研究ではこうした因子として脳由来神経栄養因子(BDNF:brain derived neurotrophicfctor)に注目し、記憶学習などに重要や役割を果たしている海馬の分散培養神経細胞を用いてBDNFが抑制神経のシナプス形成を特異的に促進することを明らかにした。

 BDNFは神経活動に依存して放出されることが既に明らかにされているが、その受容体のTrkBについての局在は知られていない。胎生18日齢のラット脳より調整した海馬神経細胞に対して、神経細胞全般に特異的な抗MAP2抗体、抑制性神経特異的な抗GABA抗体を用いて二重免疫染色を行ったところ、TrkBは抗GABA抗体陽性細胞を含む全ての神経細胞に発現していることを確認した。BDNFを約一週間適用すると、神経細胞総数及び抑制性神経細胞の数には影響しなかったが、抑制性細胞の細胞体面積及び神経突起数を有意に増加させた。従って、BDNFは抑制性神経細胞に作用することが示唆された。

 神経伝達物質放出機構に関与するSNARE蛋白質群の発現に対する作用をウェスタンブロット法で解析した。BDNF存在下で約一週間培養するとsynaptophysin,synaptobrevin,syntaxinなどのSNARE蛋白質の発現が2〜3倍に増大した。そこで神経伝達物質の放出量にも影響があるのではと考え、高速液体クロマトグラフィーを用いて高K+脱分極刺激で誘発されるグルタミン酸及びGABAの遊離量を測定した。BDNFはグルタミン酸の放出量には作用しなかったが、GABAの放出量を約80%増大させた。このことがらBDNFは抑制性の伝達を特異的に増強することが示唆された。

 次にシナプス後部側における受容体発現への影響を検討した。BDNFはAMPAおよびNMDA型グルタミン酸受容体のサプユニットであるGluR1、NR1の発現には影響しなかったが、GABAARP2/3の発現量を約2倍に上昇させた。興奮性のシナプスは樹状突起のスパイン上に、抑制性のシナプスは樹状突起のシャフト上に形成することが知られている。そこで細胞膜表面を染色する蛍光色素DiIを用いてスパインの形態を観察した。その結果、BDNFはスパインの数をむしろ約30%減少させた。シナプス総数に対する作用をエンドサイトーシスにより細胞内に取り込まれると発色し機能的なシナプス終末が検出できるFM1-43を用いて検討した。その結果、BDNFはシナプス総数には影響しないことを明らかにした。GABAの合成酵素(GAD)に対する抗体染色を行ったところ、BDNF慢性処置によってクラスター状の斑点が約2倍以上増加した。GADは主として抑制性神経の終末に存在するので、BDNFは抑制性のシナプス形成を実際に促進することが明らかとなった。

 神経活動が高まるとBDNFの産生が亢進することが知られており、上記の結果からBDNFは抑制性神経に選択的な作用を示すことが明らかとなっている。そこで細胞外のカリウム濃度を上げて(高K+)神経活動を上昇させた。高K+処理はBDNFと同様に抗GABA抗体陽性細胞の細胞体面積、神経突起数を選択的に増加させた。L型Ca2+チャネル阻害薬、Nicardipine、Trk型チロシンキナーゼ阻害薬、K252aの作用を検討したところ、高K+の効果はNicardipineとK252a、BDNFの効果はK252aによってのみ抑制された。以上より、神経活動依存的に抑制性神経に可塑的な変化が起こること、またこの作用にBDNFが関与することが示唆された。

 以上、本研究において培養海馬神経細胞に対するBDNFの作用を検討し、シナプス数及び放出関連蛋白質の発現を増加させること、GABAの遊離を促進すること、抑制性神経細胞に対して特異的な栄養効果を示すこと、GABAA受容体の発現を増加させること、抑制神経終末を増加させること、神経活動を高めるとBDNFと同様の作用が得られることなどを明らかにした。従って、抑制性神経のシナプス構築にBDNFが重要な役割を果たしていることが示唆された。脳の神経回路網構築に関する新しい知見であり、治療薬開発の新しい方向性を示したことから、博士(薬学)の授与に値すると判断した。

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