学位論文要旨



No 116838
著者(漢字) 池田,貴
著者(英字)
著者(カナ) イケダ,タカシ
標題(和) シュウィンガー・ダイソンの方法による有限温度密度における量子色力学のカイラル相転移
標題(洋) The Chiral Phase Transition of QCD at Finite Temperature and Density in the Schwinger-Dyson Approach
報告番号 116838
報告番号 甲16838
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4101号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松井,哲男
 東京大学 教授 酒井,英行
 東京大学 教授 大塚,孝治
 東京大学 助教授 浜垣,秀樹
 東京大学 助教授 櫻井,博儀
内容要旨 要旨を表示する

 この論文では、軽いアップクォークとダウンクォークが存在する量子色力学(QCD)において、零温度・密度におけるカイラル対称性の自発的破れ、及び有限温度・バリオン密度でのカイラル対称性の回復を研究した。また温度・クォーク化学ポテンシャル平面におけるクォーク数感受率に関しても調べた。カイラル対称性とはクォークの質量を無視する場合にQCDがもつ対称性である。これらを研究する手法として、非摂動的計算を行うのに有効な方法であるシュウィンガー・ダイソンの方法を用いた。

 1章では、強い相互作用の基礎理論であるQCDの基本的性質を述べた。QCDは非アーベル型ゲージ理論の特徴である漸近的自由性を持ち、高エネルギー・スケールにおいては結合定数による摂動展開がよく成り立つ。一方、低エネルギー領域においては摂動論は破綻し、カラー閉じ込めやカイラル対称性の自発的破れという非摂動的な性質が現れることが知られている。また、高温・高密度ではQCDの持つ漸近的自由性からQCD真空は非閉じ込め・カイラル対称相へ相転移すると考えられている。このような新しい物質の状態は、クォーク・グルーオンプラズマ(QGP)と呼ばれ、BNLにあるRHIC(Relativistic Heavy Ion Collider)やCERNのLHC(Large Hadron Collider)による相対論的重イオン衝突により実験的に形成されると期待されている。これらの非摂動的性質を連続理論の枠内で記述する強力な方法の一つとして、シュウィンガー・ダイソンの方法がある。

 2章では、零温度・密度におけるシュウィンガー・ダイソン方程式とそれらを解くために用いる近似について説明した。QCDにおけるシュウィンガー・ダイソン方程式は、クォーク、グルーオン、ゴースト伝播関数に対するものや頂点関数に対するものがあり、互いに関係しあっている。この論文ではカイラル対称性に注目し、クォークの伝播関数に対するシュウィンガー・ダイソン方程式(ギャップ方程式)のみを考察する。この方程式はグルーオン伝播関数、クォーク・グルーオン頂点関数、結合定数を含むので、数値的に解くためにはそれらに対する近似の導入が必要である。この論文では一貫して、treeレベルのクォーク・グルーオン頂点関数(レインボー近似)、赤外領域のカットオフを導入した1ループレベルの走行結合定数を用いた。またグルーオン伝播関数としては零温度・密度の場合はランダウゲージでの双対ギンツブルグ・ランダウ模型という、クォーク閉じ込めとカイラル対称性の自発的破れを説明できる模型を用いた。

 これらを用いるとクォーク伝播関数に対するシュウィンガー・ダイソン方程式は閉じた方程式になる。カイラル対称性の破れを調べるには、シュウィンガー・ダイソン方程式を数値的に自己無撞着に解き、その解としてのクォーク伝播関数から秩序変数を計算する。カイラル対称性の破れに対する秩序変数はカイラル凝縮(<qq>)であるが、シュウィンガー・ダイソン方程式を温度・密度がゼロの場合に数値的に解くとカイラル凝縮が有限な解が得られる。またカイラル対称性の自発的破れに伴い南部・ゴールドストーンボソンとして現れるパイ中間子の性質も調べた。パイ中間子の崩壊定数(fπ)は、シュウィンガー・ダイソン方程式の解を用いるとPagels-Stokar(PS)形式で計算でき、その値は用いた模型のパラメータの値の調整により実験値(fπ=93 MeV)を再現できる。また2体の結合状態を記述できるベーテ・サルピーター方程式を用いて、クォーク・反クォークの結合状態としてパイ中間子を構成することを試みた。ベーテ・サルピーター方程式の積分核はシュウィンガー・ダイソン方程式の解を用いて構成することができる。ベーテ・サルピーター方程式を数値的に解くことによって、その最低固有値としてパイ中間子の質量が得られる。ここで得られたパイ中間子の質量、パイ中間子の崩壊定数、カイラル凝縮は、模型中のパラメータの値によらずカレント代数から導出されるGell-Mann-Oakes-Renner関係式を満たすことが示された。

 このように零温度・密度クォーク伝播関数に対するシュウィンガー・ダイソン方程式は、適切な近似をすることにより、カイラル対称性の自発的破れを定量的に記述することが示された。またその応用として、ベーテ・サルピーター方程式によりカイラル対称性の自発的破れによって現われるパイ中間子をクォーク・反クォークの結合状態として記述できることが分かった。

 3章では、2章で用いた近似を用いてクォークに対するシュウィンガー・ダイソン方程式を有限温度・密度の場合に拡張した。これ以後の計算はカイラル極限、つまりクォークの質量がゼロの場合にのみ行う。また有限温度・密度では、閉じ込めの効果を取り入れるのは難しいので、グルーオン伝播関数としてtreeレベルのものを用いた。このような取扱は改良された梯子近似(improved ladder approximation)と呼ばれ、クォーク伝播関数に対するシュウィンガー・ダイソン方程式をこの取り扱いで自己無撞着に解くとカイラル対称性の自発的破れをうまく記述できることが知られている。まず、カイラル対称性の破れとその回復(カイラル相転移)を定量的に調べるには系の自由エネルギーを評価しなければならない。そのような自由エネルギーとしてCJT(Cornwall-Jackiw-Tomboulis)有効ポテンシャルを用いた。CJT有効ポテンシャルが最も低い状態が系の基底状態を表す。シュウィンガー・ダイソン方程式はカイラル対称性が破れた相(南部・ゴールドストーン相)に対応する解(南部・ゴールドストーン解)と、カイラル対称な相(ウィグナー相)に対応する解(ウィグナー解)を持ち、それらの解に対するCJT有効ポテンシャルを計算し比較することによって、南部・ゴールドストーン相とウィグナー相のどちらがQCD真空の基底状態になっているかを調べることができる。

 まず零温度・密度において、模型に含まれるパラメータの値を決定した。パラメータはパイ中間子の崩壊定数fπ=93 MeVを再現するように決めた。このように決められたパラメータを用いると、カイラル凝縮の値は現象論的に知られている値と矛盾しないものになる。以後、有限温度・密度の計算においても、零温度・密度と同じパラメータを用いる。

 有限温度・クォーク化学ポテンシャルに対してはまず、クォークの波動関数繰り込みの3元運動量・松原振動数依存性を無視した場合について、シュウィンガー・ダイソン方程式を自己無撞着に解いた。その解に対するCJT有効ポテンシャルを計算することによりカイラル相転移が起こる温度・クォーク化学ポテンシャルを求めることができ、それによりカイラル対称性に対するQCD相図が得られた。有限温度・零クォーク化学ポテンシャルの場合はカイラル相転移は2次相転移であり、零温度・有限クォーク化学ポテンシャルでは1次相転移になる。これにより相図には臨界三重点が存在し、その位置は高温・低クォーク化学ポテンシャル領域にあることが分かった。この場合、ウィグナー相はクォークの自由ガス状態となっており、また有限温度・零密度でのCJT有効ポテンシャルやカイラル凝縮の温度依存性に物理的に異常な振舞いが見られた。

 次に、クォークの波動関数繰り込みの3元運動量・松原振動数依存性を取り入れてシュウィンガー・ダイソン方程式を自己無撞着に解いた。このようにクォークの波動関数繰り込みの3元運動量・松原振動数依存性を取り入れてシュウィンガー・ダイソン方程式を解くことは、代数的に解ける模型以外では初めてである。この場合に対してもCJT有効ポテンシャルを計算することによりQCD相図が得られた。クォークの波動関数繰り込みの3元運動量・松原振動数依存性を無視した場合と違い、有限温度・零クォーク化学ポテンシャルでCJT有効ポテンシャルやカイラル凝縮の温度依存性の異常な振舞いは改善され、また転移温度も変化し格子QCDシミュレーションの結果と矛盾しない温度になった。また臨界三重点の位置にも変化が見られた。この場合では、ウィグナー相においてもクォークとグルーオンの相互作用は無くなっておらず、クォークの自由ガス状態とはならない。これは有限温度格子QCDシミュレーションで予想される事である。しかしこの場合は低温度・高クォーク化学ポテンシャル領域では数値計算としては問題を含んでおり、そのままでは適応できない。

 4章では、3章のクォークの波動関数繰り込みの3元運動量・松原振動数依存性を無視した場合での、有限温度・クォーク化学ポテンシャルにおけるクォークの圧力とクォーク数密度、及びクォーク数感受率をシュウィンガー・ダイソンの方法で計算した。有限クォーク化学ポテンシャルにおいてクォーク数感受率を計算するのは本研究が初めてである。

 クォークの圧力は、シュウィンガー・ダイソン方程式の解を用いて計算することでき、その圧力をクォーク化学ポテンシャルで微分することによりクォーク数密度が得られる。クォーク数感受率は、クォーク数密度をクォーク化学ポテンシャルで微分することにより得られる。その結果、クォーク数感受率は臨界三重点の近傍で異常に増幅することが分かった。また、クォーク数感受率はクォーク数の揺らぎと深く関係していることが知られている。クォーク数の揺らぎは、クォーク・グルーオンプラズマのシグナルの候補として提唱されているevent-by-event fluctuationsの一つである。これを考慮すると、クォーク数感受率の臨界三重点近傍での異常な増幅は、相対論的重イオン衝突実験において臨界三重点の位置の決定に役立つ可能性がある。

 5章に本論文のまとめを記載した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は本文5章と付録4節から成る。第1章の導入部では、強い相互作用の基礎理論であるQCD(量子色力学)の基本的な性質と、この論文の主題となる高温・高バリオン密度の物理の概観が述べられ、本論の課題の設定が行われている。第2章では、真空におけるカイラル対称性の自発的破れをシュウィンガー・ダイソン(SD)方程式から記述する理論的方法が述べられ、第3章でその有限温度・有限バリオン密度への拡張が行われている。この3章が、論文の主要部であり、カイラル相転移にたいするハドロン物質の相図がレインボウ近似と呼ばれる真空の記述で用いられた方法の拡張により計算され、有限密度での臨界3重点の存在が示される。第4章ではその結果を用いて、クォーク数感受率の計算が行われ、相対論的重イオン衝突実験におけるカイラル相転移のシグナルとの関係が議論された後、最後章でこの研究の成果をまとめている。一部の計算の詳細は補遺に記されている。論文は英文であるが、総じて読みやすく明瞭に書かれている。

 この論文の主題となる高温・高密度の極限状態にある物質の研究は、一昨年より米国ブルックヘブン国立研究所で新しい加速器(RHIC)を用いた相対論的原子核衝突実験が始まっており、現在、原子核物理学と素粒子物理学の両分野にまたがって国際的に大きな注目を集めている研究テーマである。この論文では、QCDの真空で自発的に破られているカイラル対称性の有限温度・有限クォーク密度での回復、「カイラル相転移」の問題に焦点を当て、標準的なQCDの摂動論から出発してその理論的記述を試みている。すなわち、摂動計算のファインマン・ダイアグラム展開で現われる様々な項の一部をSD方程式を使って系統的に無限個足しあげるという方法で、有限温度・有限クォーク密度におけるQCDの自由エネルギーを近似的に計算し、それをもとにこの相転移における様々な物理量の理論計算をおこなっている。

 この研究の基礎になるのは、以前、東島やMiransky等によってQCDの真空の記述たいして行われた研究で、QCDのSD方程式に現われるクォークの自己エネルギーの摂動ダイアグラム展開のなかでレインボウ・ダイアグラムと呼ばれる特殊な項のみを拾い集める近似を用いると、SD方程式の自己無撞着解としてカイラル対称性の自発的破れに相当する解が得られることが知られている。このような計算は量子電磁気学(QED)でも行うことができるが、QCDでは「漸近的自由」と呼ばれる結合定数が近距離(紫外領域)で小さくなる性質と、逆に遠距離(赤外領域)で結合定数が大きくなる性質を持つ点が異なる。後者がカイラル対称性の自発的破れを引き起こす原因となる。実際の計算には、結合定数の増加に人為的に上限を与えて赤外発散を防ぐという方法がとられる。この論文の第2章は、前半がこの東島・Miransky理論のレビューに当てられている。この章では、更に、東島・Miransky理論で取り上げられなかったクォークの閉じ込めの効果を、双対Landau・Ginsburg模型によって記述することが検討されており、この部分は著者のオリジナルな研究結果である。

 この論文の主要部である第3章では、有限温度・有限クォーク密度へのSD方程式の拡張を、Cornwall-Jackiw-Tombolisによって導入された複合演算子に対する有効ポテンシャルの方法を用いて行っている。QCDのCJT有効ポテンシャルを2ループの近似で計算すると、摂動計算で梯子近似でクォークの自己エネルギーのレインボウ・ダイアグラム和近似に相当した自由エネルギーが計算できることが示されている。実際、このように計算されたCJT有効ポテンシャルの定留値条件から有限温度・有限クォーク密度におけるクォークの松原温度グリーン関数を自己無撞着に決める式が求まる。この論文では、この式(クォークのギャップ方程式)を更に2種類の近似を用いて数値的に解き、自由エネルギーやカイラル相転移の秩序変数の温度とクォーク化学ポテンシャルへの依存性を調べている。その際、クォークの温度グリーン関数の波導関数繰り込み条件の取扱いによって、結果が数値的にも定性的にも大きく変わることが示されている。この部分の研究は、これまでどこにも報告されていない、全くオリジナルな結果である。

 この研究で得られた結果で興味深いのは、クォーク質量を無視する極限でカイラル相転移が低クォーク密度のとき2次相転移であったのがクォーク密度が増すと1次相転移に変わることを示し、その転換点にあたる臨界3重点を求めた点である。このような振る舞いは、これまでも南部−Jona-Lasinio模型のようなより現象論的なQCDの有効模型でも得られていたが、この論文の様にQCDの性質により依拠した方法で同じような結果が得られたことは、特定の模型に依らないこの結果の普遍性を示すものと考えられ、重要である。また、この論文では、その第4章で新たにクォーク数感受率と呼ばれる揺らぎの計算を行っており、臨界3重点付近でこのような揺らぎの増幅が起ることを示している。著者は、高エネルギー重イオン衝突実験でこのような揺らぎによってバリオン・反バリオンの対生成の増加が起るかも知れないと推論している。これも、カイラル相転移の新しいシグナルの提案として大変興味深い。

 以上、この論文は方法的にも結果的にも多くの新しい重要な成果を含み、博士論文として十分な内容であると判定する。なお、本論文の第3章は、既にProgress of Theoretical Physics誌に本論文の著者の単名の論文として掲載決定となっている。

 従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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