学位論文要旨



No 116921
著者(漢字) 村田,昌樹
著者(英字)
著者(カナ) ムラタ,マサキ
標題(和) フェロセン−キノン共役ドナー−アクセプター系におけるプロトン駆動分子内電子移動と原子価互変異性
標題(洋) Proton-Coupled Intramolecular Electron Transfer and Valence Tautomerization in the Ferrocene-Quinone π-Conjugated Donor-Acceptor System
報告番号 116921
報告番号 甲16921
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4184号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西原,寛
 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 上田,寛
 東京大学 教授 下井,守
 東京大学 助教授 小川,桂一郎
内容要旨 要旨を表示する

 エネルギーレベルの接近したドナー(D)とアクセプター(A)をπ共役鎖で連結し同一分子内に組み込むことは、D-A間での電子移動反応が障害となるため直接的な合成アプローチには困難が伴う。しかしながら、ドナーレベルとアクセプターレベルが離れた状態で接合した後に外部刺激によって両者のエネルギーレベルを近接することが出来れば、D-A間での分子内電子移動が誘起されうる(Scheme 1)。さらに、金属錯体を用いることで、分子内電子移動に伴った原子価互変異性の発現が期待できる。原子価互変異性体間は僅かなエネルギーで可逆に往来できることから、構造・電子・磁気・光学特性が大きく変化する多重安定分子系となる点で、基礎及び応用の両面から非常に興味深い。

 しかしながら、D-A間での完全かつ可逆な分子内電子移動、原子価互変異性によるダイナミックな構造・物性変換を実現した報告例は今までなかった。筆者は、外場の影響を受けにくいフェロセンをドナー、プロトン付加によって大きくアクセプターレベルを変化できるキノン類をアクセプターとし、置換位置、置換数の異なる種々のフェロセン−キノンD-A共役系(1-FcAq、2-FcAq、1,8-Fc2Aq、1,5-Fc2Aq)を対応するブロモアントラキノン類とエチニルフェロセンのPd(II)-Cu(I)触媒反応により新規合成し、多重安定分子系の創製を目指した。

 その結果、本系では、非プロトン性溶媒中における有機酸の添加によってプロトンと連動した分子内電子移動反応が可逆に起こり(Scheme 2)、D-A共役系が100%新たな安定化状態に変換でき、置換位置、置換数によって鉄2価構造変換型錯体(1-FcAq、1,8-Fc2Aq)、鉄3価スピン分離型錯体(2-FcAq、1,5-Fc2Aq)と異なる原子価互変異性体で安定化することを明らかにした。さらにプロトン付加型錯体は、固体状態において、原子価互変異性体間の存在比が温度依存を示し、熱的に構造・磁性が変換できることを明らかにした。ここでは、1-FcAq、1,5-Fc2Aqの溶液中及び固体状態での構造と物性の結果を具体的に示す。

【1-FcAqにおけるプロトン駆動分子内電子移動と原子価互変異性の発現】

 1-FcAqについて、ベンゾニトリル中、トリフルオロメタンスルホン酸を段階的に添加すると、吸収スペクトルはほぼ定量的な変化を示した。1-FcAqの吸収スペクトルにおいては(Figure 1(a))、MLCTバンドの増加(510nm)とともに、939nmに原子価互変異性による遷移に帰属されるブロードで溶媒依存性を持つ大きく揺らいだ吸収が観測された(Δv1/2=5200cm-1)。また、これらの挙動は、非プロトン性溶媒中であれば、トリフルオロ酢酸、BF3・OEt2、Gd(OTf)3錯体の添加によっても誘発されることを見出した。ESI-massスペクトルより有機酸添加による挙動変化が1H+付加であることを確認し、1H NMR、13C NMR、元素分析より、D-A間での分子内電子移動によりフルベン−ブタトリエン構造を有する鉄2価反磁性構造変換型錯体が生成したことを明らかにした(Scheme 2)。プロトン付加による分子内電子移動は、共役系の再配列を伴う構造変換を誘発し、鉄中心の電子数は変化せずフェロセンのCp環のπ電子がCp環外へ電子移動を起こしフルベン−ブタトリエン構造、鉄中心はη6に近い状態で安定化していることがわかった。1-FcAqの電気化学測定より(Table 1)、酸添加によってフェロセンの応答は正側にシフトし(0.11→0.30V vs. Fc/Fc+)、Cp環と鉄中心の配位環境に変化が起こりフルベン骨格となることで鉄中心の電子密度が低下し構造変換型錯体([1-FvAqH]+)となることがレドックス応答からも支持された。

 1-FcAqの1H+付加型錯体を固体として単離し、4K〜293Kの温度領域における57Feメスバウアー分光を行ったところ、各測定温度におけるメスバウアースペクトルより、温度によって構造及び価数が変化し、鉄2価反磁性構造変換型錯体と鉄3価常磁性スピン分離型錯体との間で、原子価互変異性による相転移が起こることを明らかにした(Scheme 3)。1-FcAqの1H+付加型錯体の固体状態は、室温で鉄3価フェロセニウムとしてのみ存在し、低温になるに従って全温度領域で鉄3価のピークの減衰が観測された。11Kでは完全に鉄3価のスペクトルは消失し、フェロセンの鉄2価のピークに比べて四極子分裂が小さいフルベン錯体の鉄2価に特徴的なピークのみが観測された。このことより、高温相はスピン分離型錯体[1-FcAqH]+、低温相は構造変換型錯体[1-FvAqH]+として存在し、熱的に共役D-A分子間での分子内電子移動が誘起されることを明らかにした。

【1,5-Fc2Aqにおけるプロトン駆動分子内電子移動と原子価互変異性の定量解析】

 1,5-Fc2Aqの非プロトン性溶媒中での有機酸の添加は2段階の挙動を示し、ESI-massスペクトルより段階的な2H+付加であることが明らかになった。吸収スペクトルでは(Figure 1(b))、1H+付加によって構造変換型錯体になったのち、2H+付加によって750nm付近にアントラセミキノンラジカルに由来する鋭いバンドが観測された。2H+付加型錯体は常磁性錯体となり、ESRスペクトルより(凍結MeCN溶液,5K)、アントラセミキノンラジカルの強いシグナル(g=2.00)とともに、フェロセニウムに特徴的な低スピン鉄3価のシグナル(g〓=4.12,g⊥=1.50)が観測された。2つのシグナルが独立していることから、プロトン駆動分子内電子移動によってD部位とA部位のそれぞれにスピンが独立して存在する、鉄3価常磁性スピン分離型錯体[1,5-FcFvAqH2]2+へと変換されることを明らかにした(Scheme 4)。電気化学測定では(Table 1)、吸収スペクトル変化と同様に2段階の変化を示し、最初に1-FcAqと同じ応答を示した後([1,5-FcFvAqH]+)、更なる変化によって、フェロセン(0.11V)とフルベン錯体(0.27V)の中間に自然電位がシフトし(0.20V)、フェロセニウム(Fe(III))、フルベン錯体(Fe(II))で存在しスピン分離型錯体となっていることを示した。

 1,5-Fc2Aqの2H+付加型錯体を固体として単離し、4K〜293Kの温度領域における57Feメスバウアー分光、ESR、SQUID測定を行った。メスバウアースペクトルより、293Kでは鉄3価のみが存在し(Figure 2(a))、室温での固体状態は唯一鉄3価の原子価互変異性体[1,5-FcFcAqH2]2+であることがわかった。また低温になるに従って全温度領域で鉄3価のピークの減衰が観測され、10Kで鉄3価の比率は0.44となった(Figure 2(b))。ESR、メスバウアー分光、磁化率測定(SQUID)から各温度における原子価互変異性体の存在比を見積もり、室温ではほぼ[1,5-FcFcAqH2]2+として存在するが、低温では[1,5-FvFvAqH2]2+が混在することを明らかにした。

【結論】

 筆者は、フェロセン−アントラキノン共役錯体系を新規合成し、D-A共役系におけるプロトン駆動分子内電子移動による可逆かつ完全な構造・電子・磁気・光学特性などの物性変換が誘起されることを明らかにした。さらにH+付加型錯体が固体状態で、原子価互変異性による相転移が起こり、わずかな外部刺激で構造・物性が変化する多重安定分子系として有用であることを明らかにした。

Scheme 1

Scheme 2

Figure 1 (a)UV-vis-near-IR spectral change of 1-FcAq(5.0×10-5moldm-3)in benzonitrile upon addition of 0-2 equiv of CF3SO3H.

(b)UV-vis-near-IR spectral change of 1,5-Fc2Aq(5.0×10-5moldm-3)in benzonitrile upon addition of 0-2 equiv(dotted lines and arrows)and 2-4 equiv(solid lines and arrows)of CF3SO3H.

Scheme 3

Table 1 Redox Potentials of Ferrocene-Anthraquinone Complexes and Their Protonated Speciesa

aCyclic voltammetry of the complexes(0.3-0.5mM)was carried out at a glassy carbon electrode in 0.1M Bu4NClO4/dichloromethane at 0.1V/s. E0'Red and E0'Ox are refered to ferrocene/ferrocenium.

Scheme 4

Figure 2 57Fe Mossbauer spectra of doubly protonated 1,5-Fc2Aq at 293K(a) and 10K(b).

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は6章(序章、本論4章、及び結論)からなり、序章では研究の背景と目的、第1章では、共役ドナー(D)−アクセプター(A)分子の合成、構造および物性、第2、3章では、D/A=1:1分子系とD/A=2:1分子系のプロトネーション挙動及びプロトン付加体の固体物性、第4章では、D/A=1:2分子のプロトネーション挙動、結論では、研究成果のまとめと展望について述べられている

 第1章では、DA接合系、フェロセンおよびキノンについて解説し、本研究の主旨である外部刺激により分子内電子移動が誘起されるプロセスについて述べられている。エネルギーレベルが離れた状態でDとAをπ共役鎖で連結して同一分子内に組み込み、外部刺激によって両者のエネルギーレベルを近接することができれば、D-A間での分子内電子移動が誘起され得ると考えられる。本論文では、フェロセンとアントラキノンとプロトンの組合せでその現象を確認し、生成物の物性を解明することを目的としている。

 第2章では、フェロセンとアントラキノンを種々の置換位置、置換数でエチニル基を用いて接合した新規D-A共役分子の合成、結晶構造解析、並びに分光・レドックス特性が述べられている。

 第3章では1-FcAqと2-FcAqのプロトネーション挙動、並びにプロトン付加体の固体状態について述べられている。非プロトン性溶媒中におけるトリフルオロメタンスルホン酸の添加によって分子内電子移動反応が起こり、1-FcAqでは鉄2価構造変換型錯体([FvAqH]+)、2-FcAqでは鉄3価スピン分離型錯体([Fc・AqH・]+)と異なる原子価互変異性体で安定化することをNMR、EPR、ESI-mass、電気化学測定などから明らかにしている。また、1-FcAqについては、他のブロンステッド酸およびルイス酸の添加によっても同様の分子内電子移動反応が誘起されその発光挙動に差異が生じること、また、塩基(Et3N、t-BuOK)の段階添加により可逆性があることも明らかにしている。さらに1-FcAqのプロトン付加型錯体は、固体状態において、2つの原子価互変異性体間([1-FvAqH]+〓[1-Fc・AqH・]+)の存在比が温度によって完全に逆転し、熱的に構造・磁性が変換できることを明らかにしている。

 第4章では、1,8-Fc2Aqと1,8-Fc2Aqについて述べられている。1,8-Fc2Aqでは1H+付加のみ起こし、、1-FcAqとほぼ同一の溶液、固体挙動を示すことを明らかにしている。それに対し、1,5-Fc2Aqは、2段階のプロトン付加を起こし、さらに2H+付加型錯体は3種の原子価互変異性体([1,5-FcFvAqH2]2+、[1,5-FcFcAqH2]2+、[1,5-FvFvAqH2]2+)のうち、溶液中ではスピン分離型錯体、[1,5-FcFvAqH2]2+となることをEPR、電気化学測定より明らかにしている。また、2H+付加体の固体状態について57Feメスバウアー分光、EPR、SQUID測定より、各温度における原子価互変異性体の存在比を定量的に見積もり、室温ではほぼ[1,5-FcFcAqH2]2+として存在するが、低温では[1,5-FvFvAqH2]2+が混在することを明らかにしている。

 第5章では、1,1'-FcAq2について述べられている。その溶液挙動は、1H+付加によって1-FcAqと同様に構造変換型錯体となるが、2H+付加では分子内電子移動反応は誘起されないことを明らかにしている。

 第6章では、得られた成果として、共役D-A間でのプロトン駆動分子内電子移動による可逆かつ完全な構造・電子・磁気・光学特性などの物性変換、および固体状態でのH+付加型錯体における原子価互変異性間の転移を見出したことを述べ、これらの分子系の更なる研究展開について言及している。

 以上、本論文は、論文提出者が創製したドナーアクセプター共役接合分子系の構造および外部刺激応答性について様々な手法で解析することにより興味深い挙動を見いだし、錯体化学、機能性分子の開発研究におおきなインパクトを与えたオリジナルな研究として評価できる。なお、本論文第2-5章は西原寛、栗原正人、久保謙哉、山田真実、藤田貴子、小島広平、小林義男との共同研究であり、一部は既に学術雑誌として出版されたものであるが、論文提出者が主体となって実験および解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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