学位論文要旨



No 116925
著者(漢字) 豊,智奈
著者(英字)
著者(カナ) ユタカ,トモナ
標題(和) アゾベンゼン共役テルピリジンを配位子とした遷移金属錯体の光異性化挙動
標題(洋) Photoisomerization Behavior of Azobenzene-Conjugated Terpyridine Transition Metal Complexes
報告番号 116925
報告番号 甲16925
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4188号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西原,寛
 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 小林,昭子
 東京大学 教授 斉木,幸一朗
 東京大学 助教授 村田,滋
内容要旨 要旨を表示する

アゾベンゼンは可逆なtrans-cis異性化を起こすことで知られ、そのスイッチング機能を利用した数多くの応用研究が行われている。そのアゾベンゼンに光化学・電気化学的な応答を示す錯体を置換基として連結すると、π共役鎖を介してアゾベンゼンと錯体部位との相互作用が可能となる。従って、アゾベンゼンの異性化挙動と錯体部位の特質を併せ持つことにより、更に多機能なスイッチング特性を示す分子の創製が期待できる。本研究では、その錯体ユニットとして、terpyridineを配位子とする遷移金属錯体(M=RuII,RhIII,CoII,CoIII,FeII,PtII)を選択し、Scheme 1に示す錯体を合成した。各錯体におけるtrans-cis異性化挙動、また光化学・電気化学的物性を測定し比較検討を行った結果、有機アゾベンゼン類には見られない現象を見出した。

【RuII・RhIII錯体】mono-Rutpy・2PF6のdimethyl sulfoxide (DMSO)溶液にアゾ基のπ-π*遷移に相当する波長366nmの紫外光を照射したときの光異性化に対応するUV-vis吸収スペクトル変化は、アゾベンゼンと比較すると抑制されていた(Fig.1(a))。1H-NMRにより異性化挙動を追跡すると、trans-cis異性化が20%進んでいることが確認された。また、di-Rutpy・4PF6においては、全く異性化が起こらなかった。Ru錯体は500nm付近のMLCTを励起することにより3MLCTからの発光挙動を示すことで知られている。これらの錯体においては波長360nmで励起しても500nm励起と同様の発光挙動が観測されること(77K, in MeOH-EtOH=1:4(v/v))、また過渡吸収スペクトル測定により(excitation 360 nm, in acetonitrile)、アゾベンゼンからRu(tpy)2部位へのエネルギー移動のために異性化が抑制されることが示された。一方、mono-Rhtpy・3PF6のDMSO溶液に紫外光を照射したときのスペクトル変化(Fig.1(b))は、アゾ基のπ-π*遷移に由来する吸収強度が減少し、n-π*遷移に由来する吸収強度が増大するという、trans→cis異性化挙動を示した。di-Rhtpy錯体においても類似したスペクトル変化が観測された。cis体の生成は1H-NMR, IR等の測定において確認した。trans→cis光異性化の反応量子収率は溶媒と対イオンに強く依存した(Table 1)。量子収率は有機分子と比べると著しく小さい値となり、また溶媒と対イオンによる強い影響を受けることが示された。溶媒の極性・粘性が高いほど量子収率が小さくなる傾向が見られた。これは、高極性溶媒分子は錯体カチオンヘの溶媒和が強く、異性化における回転体積が増大するためと考えられる。また、対イオンがBPh4-の場合、PF-6, BF4-よりも著しく量子収率が増大した。著しく大きなアニオンであるBPh4-類は錯体カチオンとの静電引力が弱く、錯体分子は対イオンによる束縛を受けにくいために異性化が促進されたと考えられる。また、単核錯体は複核錯体よりtrans→cis光異性化が起こりにくいことが示された。cis→trans異性化はアゾ基のn-π*遷移に相当する波長430nmの可視光照射によっては起こらず、加熱することによってのみ非常にゆっくりと観測され(6.7×10-7 s-1 at 50℃ in N,N-dimethylformamide for di-Rhtpy-6BPh4)、生じたcis体が常温では長寿命で存在することが示された。

【CoII・CoIII・FeII錯体】Ru錯体においては電気化学的に可逆であるが異性化挙動は抑制され、一方Rh錯体では異性化は起こるものの電気化学的に不可逆であり、必ずしも目的に見合う物質ではなかった。そこで新たな中心金属として、0Vvs. Ag/Ag+付近に可逆な酸化還元挙動を示すCo錯体について検討した。Co2価錯体は単核及び複核錯体のPF6-及びBPh4-塩を、3価錯体は単核錯体のPF6-塩を合成した。紫外光照射によるスペクトル変化をFig.2(a)(b)に示す。2価錯体においてはpropylene carbonate(PC)やDMSO溶液において、Rh錯体と同様の顕著なスペクトル変化が観測され、trans→cis光異性化が起きていることが示された。光異性化の反応量子収率は10-4程度であり、Rh錯体よりもさらに小さな値であった。また、溶媒や対イオンへの依存性、単核および複核錯体における違いは殆どみられなかった。cis→trans異性化はPC中BPh4-塩においてのみ、可視光照射、暗所加熱のいずれによっても観測され、60%程度のtrans体の回復が見られた。しかし、PC中のPF6-塩及びDMSO中では両方の塩においてcis体が長寿命で存在し、溶媒及び対イオンへの依存性があることが示された。一方、3価錯体においては溶媒のドナー数が低い1, 2-dichloroethane中においてのみ、trans→cis光異性化が観測された。しかし2価錯体よりも変化は小さく、また、cis→trans異性化は可視光照射、暗所加熱のいずれによっても起こらなかった。ドナー数の高いPCやDMSOなどの溶媒中では、3価から2価への還元挙動が起こった。上記の結果より、Co錯体においては価数を変化させることでtrans-cis異性化挙動を制御できることが示された。なお、Fe錯体においてはRu錯体と同様、アゾベンゼンからFe(tpy)2部位のMLCTへのエネルギー移動により、trans→cis光異性化は15%程度に抑制された(Fig.2(c))。

【PtII錯体】前述の錯体は全て八面体6配位錯体であったが、Pt-terpyridine錯体はd8配置・平面4配位錯体であり、配位子のπ-πstackingやMLCTなどに由来したさまざまな発光挙動を示すことが特徴的である。同様に発光挙動を示すRu錯体においてはtrans→cis光異性化が抑制されたが、Pt錯体は紫外光照射によりN,N-dimethylformamide(DMF),DMSO,PC等のいずれの溶媒中でも顕著な異性化挙動を示した(Fig.3(a))。Fig.3(b)は波長337nmの紫外光を励起光とした発光挙動の、cis体への異性化の進行に伴う変化である。450nm付近は配位子のπ-π*遷移、600nm付近はMLCTからの発光と帰属された。trans体においては発光が抑制され、cis体の存在比率が高まるにつれて、発光強度が増大することが示された。アゾ基は電子求引性であること、またアゾベンゼン自体が全く発光しないことから、π共役効果の大きいtrans体では発光が抑制されるが、cis体では分子のねじれによりπ共役効果が抑制され、Pt-terpyridine錯体部位特有の発光挙動が観測されたものと考えられる。また、cis→trans異性化は、いずれの溶媒中においても可視光照射及び暗所加熱により起こり、60-80%程度のtrans体の回復が見られた。trans→cis光異性化の量子収率は10-3程度であること、また、cis→trans異性化速度が大きい(1.2×10-4s-1 at 50℃ in DMF for mono-Pt(py)・2PF6)ことからも、同じく可逆な異性化を示すCo錯体と比較してより優れたスイッチングを示し、更に発光と異性化が連動したPt錯体は多重機能性分子であるといえる。

【結論】アゾベンゼン共役テルピリジンを配位子とした錯体における異性化挙動は、中心金属の種類や溶媒、対イオンに強く依存した。可逆な異性化挙動が起こるCo及びPt錯体ではアゾベンゼンの異性化と錯体部位の性質の連動により、多機能なスイッチングを示す分子としての応用が期待できる。

Fig. 1. UV-vis spectral change of mono-Rutpy-2PF6 in DMSO (1.1×10-4M) for I h (a), and mono-Rhtpy-3PF6 in DMSO (2.8×10-4M) for 5 min (b), upon irradiation at 366 nm.

Table 1 Quantum Yields of Dinuclear and Mononuclear Rh Complexes Dependent on Various Solvents and Counterions

Fig. 2. UV-vis spectral change of mono-CoIItpy・2PF6 in PC (2.2×10-5M) for 40 min (a), mono-CoIItpy-3PF6 in 1, 2-dichloroethane (2.7×10-5M)(b), and mono-Fetpy-2PF6 in acetonitrile (2.0×10-5M) for 20 min (c), upon irradiation with a 366-nm light.

Fig. 3. (a) UV-vis spectral change of mono-Pt(py)-2PF6 in N, N-dimethylformamide (4.2×10-4M) for 25min upon irradiation with 366-nm light. (b) Emission spectral change of mono-Pt (py)-2PF6 in EtOH-MtOH-DMF=5:5:1 (v/v) at 77 K upon irrdiation with 366-nm light. Excitation wavelenth was 377 nm.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文では、アゾベンゼン共役テルピリジンを配位子とした単核及び複核錯体の合成、及び光・電気化学的物性について述べられている。5章(序章、本論3章、及び結論)からなり、序章においては、研究の背景および本論文の研究目的、第1章はルテニウム(Ru)及びロジウム(Rh)錯体、第2章はコバルト(Co)及び鉄(Fe)錯体、第3章は白金(Pt)錯体、結論では、研究成果のまとめと展望について述べられている。以下それぞれの章の概要を述べる。

 序章では、本論文の研究の基盤となるこれまでの研究の概説として、アゾベンゼン類およびテルピリジン錯体の特徴をまとめ、本研究の目的として、アゾベンゼン共役テルピリジンの複合物性を明らかにすることを挙げている。

 第1章では、アゾベンゼン共役Ru錯体の溶液にアゾ基のπ-π*遷移に相当する紫外光を照射したときのトランス→シス光異性化に対応するUV-vis吸収スペクトル変化が、有機アゾベンゼン類と比較すると小さく、シス体の生成は20%程度にとどまることを示し、この理由として過渡吸収スペクトル測定結果などから、アゾベンゼンからRu(tpy)2部位のMLCTへのエネルギー移動が起こるためと考察している。一方、アゾベンゼン共役Rh単核及び複核錯体の溶液への紫外光照射時のスペクトル変化はトランス→シス異性化挙動を示すことを見出している。トランス→シス光異性化の反応量子収率は溶媒と対イオンに強く依存し、溶媒と対イオンによる強い影響を受け、溶媒の極性・粘性が高いほど量子収率が小さくなる傾向があること、対イオンがBPh4-の場合、PF6-,BF4-よりも著しく量子収率が増大すること、単核錯体は複核錯体よりトランス→シス光異性化が起こりにくいことを見出し、その理由を考察している。またシス→トランス異性化は可視光照射では起こらず、加熱によっても非常に遅く、シス体が長寿命で存在することを示している。

 第2章では、可逆な酸化還元挙動を示すCoを検討している。アゾベンゼン共役Co2価錯体の溶液においては、紫外光照射によりトランス→シス光異性化が起こり、シス→トランス異性化は可視光照射、暗所加熱のいずれによっても60%程度見られている。Co3価錯体においては1,2-ジクロロエタン中においてのみ、2価錯体よりも低収率のトランス→シス光異性化が観測されている。この結果より、Co錯体においては価数を変化させることでトランス−シス異性化挙動を制御できることを示している。なお、Co3価と等電子であるFe2価の錯体ではトランス→シス光異性化は15%程度に抑制されることも述べている。

 第3章では、白金−テルピリジン錯体が、配位子のπ-π相互作用やMLCTなどに由来した様々な発光挙動を示すことを踏まえて、アゾベンゼン共役Pt錯体の合成と物性について記述している。同錯体は紫外光照射により種々の溶媒中で顕著なトランス→シス光異性化を起こし、シス→トランス異性化は、いずれの溶媒中でも可視光照射及び暗所加熱により起こり、60%程度のトランス体の回復が見られることを示している。そして、アゾベンゼン共役錯体における発光は、シス体の存在比率が高まるにつれて強度が著しく増大することを見出し、この理由として、π共役効果の大きいトランス体ではアゾ基の孤立電子対から電子が流れ込み発光が抑制されるが、シス体では分子のねじれによりπ共役効果が抑制され、白金−テルピリジン錯体部位特有の発光挙動が観測されたと考察している。この系は、光の入力による構造変化で光出力を制御できる点で、興味深い成果である。

 結論では、上記結果を踏まえて、アゾベンゼン共役テルピリジンを配位子とした遷移金属錯体における異性化挙動は、中心金属の種類や溶媒、対イオンに強く依存すること、特に可逆な異性化挙動が起こるCo及びPt錯体ではアゾベンゼンの異性化と錯体部位の性質の連動により、有機アゾベンゼン類には見られない多機能なスイッチングを示す分子としての応用が期待できることを展望している。

 以上、本論文は、論文提出者が創製したアゾベンゼン共役テルピリジンを配位子とした遷移金属錯体の構造および外部刺激応答性について様々な手法で解析することにより興味深い挙動を見いだし、錯体化学、機能性分子の開発研究におおきなインパクトを与えたオリジナルな研究として評価できる。なお、本論文第1-3章は西原 寛、栗原正人、久保謙哉、水谷 淳、森 一郎、玉井尚登、松村和夫との共同研究であり、一部は既に学術雑誌として出版されたものであるが、論文提出者が主体となって実験および解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク