学位論文要旨



No 117163
著者(漢字) 豊島,由香
著者(英字)
著者(カナ) トヨシマ,ユカ
標題(和) インスリン情報伝達経路に対するタンパク質栄養状態の影響
標題(洋)
報告番号 117163
報告番号 甲17163
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2359号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 加藤,久典
 東京大学 教授 上野川,修一
 東京大学 教授 福井,泰久
 東京大学 助教授 佐藤,隆一郎
 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
内容要旨 要旨を表示する

 インスリンは、細胞内への糖の取り込みや利用、グリコーゲン、脂肪、タンパク質合成の促進など動物において同化作用を持つ主要なホルモンであり、近年その細胞内情報伝達機構が急速に解明されてきた。インスリンレセプターは、インスリンが結合することによりチロシンキナーゼとして活性化され、insulin receptor substrate (IRS)をはじめとした細胞内基質がチロシンリン酸化される。ここに様々なアダプターや酵素が結合し、phosphatidylinositol 3-kinase (PI3K)カスケードやMAPキナーゼカスケードの活性化が起こり、生理作用発現に至る。II型糖尿病はこれらの情報伝達系の機能不全によりインスリン抵抗性を生ずる疾患であるが、インスリン抵抗に至る機構はなお不明である。IRS-1はチロシン以外のセリン/スレオニン残基もリン酸化されるが、このセリン/スレオニンリン酸化はIRS-1の活性低下や分解を誘導し、インスリン抵抗性の一因となり得ることが報告されている。他方、食餌から摂取される栄養素もインスリンなどのホルモンと同様に代謝制御のシグナルとして機能している。アミノ酸は、4E-BP1やp70S6Kなどの翻訳制御因子を調節するが、これはmammalian target of rapamycin (mTOR)と呼ばれるプロテインキナーゼを介している。インスリンによる翻訳制御もやはりmTORを介しているため、mTOR以下でインスリンとアミノ酸シグナルが相互作用していることは明らかであるが、インスリンシグナルの上流因子に対するアミノ酸シグナルの影響に関する研究報告は数少ない。培養細胞系においては培地中のアミノ酸がIRS等の活性を抑制するという報告がなされているが、これと一致しない結果も報告されている。生体での検討はさらに限られており、タンパク質栄養あるいは血中アミノ酸レベルによってインスリン情報伝達がどう影響を受けるかは未知の問題であった。

 そこで本研究では、ラットにタンパク質を含まない食餌を給餌することでタンパク質悪栄養条件を誘導し、肝臓や骨格筋などのインスリン標的組織でその情報伝達経路がどのような変化を生じているかを解析することにした。その結果、伝達系の上流のいくつかの因子の状態が大きく変化していることが明らかになったので、その機構について検討を加えると共に、それが生体においてどのような意味を持つかについても解析を行った。

 1:タンパク質栄養状態の悪化がインスリン情報伝達経路に及ぼす影響

 まず、タンパク質を含まない食餌として無タンパク質食(PF)を、対照として12%カゼイン食(12C)を摂取させたラットの肝臓と骨格筋を用いて、インスリンレセプター(IR)、IRS-1、IRS-2、Akt/protein kinase B(PKB)および古典的MAPKであるERK1/2のインスリン依存性リン酸化を指標にしてインスリン応答性を比較し、これらの因子が食餌タンパク質の影響を受けるかどうかを検討した。また、解剖当日1.5時間摂食させて摂食によるインスリン分泌が最大になっている状態と、16時間絶食させた状態において、インスリン非注入時における上記各因子のリン酸化状態を比較し、生理的濃度のインスリンの情報伝達応答へのタンパク質栄養の影響を解析した。

 1.5時間摂食または16時間絶食状態の5週齢Wistar系雄ラットを麻酔後開腹し、下行大静脈よりsaturation doseのインスリン(1.4U)を注入後、適時に肝臓および骨格筋を摘出し、上記各因子のおよびリン酸化をイムノブロット法で解析した。いずれの条件でも、肝臓では、PF摂取によってIR量、IRS-1量およびIRS-2量が増加し、インスリン注入によるIRS-1チロシンリン酸化量は増加傾向を示し、IRS-2チロシンリン酸化量は顕著に増加した。Akt/PKBとERK1/2には食餌タンパク質の影響は観察されなかった。IRに関しては、receptor binding assayも行いインスリンとの結合量を測定したが両群間で同程度であった。骨格筋では、PF摂取によってIRS-1量が減少する一方で、IRS-1セリンリン酸化量の減少およびインスリン注入によるIRS-1量あたりのチロシンリン酸化量が顕著に増加し、IRS-1のインスリン感受性の上昇が観察された。IRS-2に関して、その量はイムノブロット法では検出できなかったが、インスリン注入後のチロシンリン酸化量は肝臓の場合と同様にPFで顕著に増加した。さらに、IRS-1,-2の下流に位置するAkt/PKBのインスリン依存性Ser473リン酸化もPF摂取により増強していたが、ERK1/2への影響は観察できなかった。以上のことから、タンパク質栄養状態が悪化すると骨格筋でIRS-1,-2/PI3K/PKB経路のインスリン応答能の上昇が起こるであろうことが推察できた。

 一方インスリン注入をしない場合では、PF群の肝臓において、絶食状態のIRおよびIRS-1のチロシンリン酸化量が減少していた。1.5時間摂食状態では血中インスリン濃度が低下しているのにも関わらず、IRおよびIRS-1のチロシンリン酸化量は12Cと同程度であったことから、生理的濃度のインスリンに対するこれらの因子の応答能が上昇している可能性が考えられた。この場合の骨格筋では肝臓とは異なり、絶食状態でも1.5時間摂食時と同様にPF食摂取によってIRのチロシンリン酸化が減少していたので、生理的濃度のインスリンに対する応答能が変化するかどうか考察できなかった。先述した骨格筋におけるIRS-1のセリンリン酸化状態の変化は、SDS-PAGEにおけるバンドシフトと、Ser612(ヒトでは616位)のリン酸化を特異的に認識する抗体を用いた解析で観察できたが、この現象は肝臓では観察されず骨格筋に特異的であった。よって、血中アミノ酸濃度の上昇により組織特異的に何らかのセリン/スレオニンキナーゼの活性化が起こり、IRS-1セリンリン酸化の上昇を引き起こすというIRS-1セリンリン酸化経路が考えられた。

 2:タンパク質栄養状態の悪化により起こるインスリン情報伝達経路初期因子の量およびリン酸化状態の変化の機構についての検討

 これまでに観察されたタンパク質栄養状態の違いによる各因子の変化に対して、PF摂取により低下した摂食量および血中インスリン濃度の影響が関与しているかどうか検討するために、12C摂食量をPF摂食量に合わせて飼育したpair-feedingラットとstreptozotocin(STZ)を投与してインスリン分泌を抑制したラットを用いて解析を行った。pair-feedingでは、12CとPFの間で血中インスリン濃度が同程度であるが、自由摂取に比べて12Cの血中アミノ酸濃度が低めであり、アミノ酸の効果が小さくなる可能性が考えられた。STZ投与では、摂食量は12CとPFの間で差があるが、血中インスリン濃度は両群で同程度に低く保たれるため、両群間における血中アミノ酸濃度の差が大きく、pair-feedingよりもアミノ酸シグナルの影響が大きくなると考えられる。以上のことを考慮して得られた結果をまとめると、肝臓におけるIR量およびIRS-1,-2量の増加、骨格筋におけるIRS-1のセリンリン酸化およびインスリン依存性チロシンリン酸化には食餌タンパク質の影響が大きく、血中インスリン濃度の関与は少ないと結論された。それに対し、骨格筋におけるIRS-1量の変化は食餌タンパク質の効果より血中インスリン濃度の影響が大きく、IRS-2のインスリン依存性チロシンリン酸化も血中インスリン濃度への依存性が大きいことが示唆された。Pair-feedingでは一般的に食餌タンパク質の効果をやや弱める傾向が見られたことから、摂食量の減少による血中アミノ酸濃度の減少もIRS等に影響があると考えられた。

 次に、PF摂取による肝臓でのIRS-1,-2量の増加と、骨格筋でのIRS-1量の減少は、mRNAレベルでの変化を伴うかを検討した。その結果、肝臓、骨格筋共にIRS-1 mRNA量は両群間で差がなく、IRS-2 mRNA量はPF食摂取で増加していた。このIRS-2 mRNA量の増加は、血中インスリン濃度の変動に依存していた。このように、食餌タンパク質によるIRS-2量の制御はmRNAレベルの制御が関与していることが明らかになり、さらにイムノブロット法で検出できなかった骨格筋のIRS-2もタンパク質量として増加していることが示唆された。IRS-1については、翻訳もしくは分解による制御が重要であることが示された。

 さらに、IRS-1のセリンリン酸化に関与する因子としてPKCやTNFαが報告されているため、骨格筋でのPKC活性と脂肪組織におけるTNFα遺伝子発現について検討したが、食餌タンパク質の効果は顕著でなかった。

 3:タンパク質栄養状態がインスリン情報伝達経路の初期因子の遺伝子発現およびインスリンの生理作用に及ぼす影響

 タンパク質栄養状態の悪化によるIRSを介したインスリン情報伝達経路のup-regulationが実際にインスリン作用を調節し得るのかを検討するために、肝臓ではインスリンによりその発現が促進するphosphoenolpyruvate carboxykinase(PEPCK)、fatty acid synthase (FAS)の遺伝子発現について、骨格筋では糖取り込み量について検討した。肝臓でのPEPCK mRNA量はPF摂取により減少し、PF摂取による糖新生の抑制効果が考えられたが、FAS mRNA量もPF摂取により顕著に減少しており、脂肪酸合成促進効果は見られなかった。慢性タンパク質欠乏が原因のKwashiorkor病の特徴的な症状として脂肪肝があるので、短期間のタンパク質欠乏では肝臓での脂質合成促進は起こらず、インスリン情報伝達経路が活性化されている状態を長期間維持することで徐々に促進されるのかもしれない。骨格筋における糖の取り込み量はPF摂取で増加し、末梢組織での糖利用に対して食餌タンパク質の効果が観察できた。

 4:培養細胞系において培地中のアミノ酸がインスリン情報伝達経路に及ぼす影響

 これまでで明らかになった現象の分子メカニズムをより詳細に解析するために、その現象を培養細胞のモデル系で再現することを試みた。特に骨格筋でのIRS-1の現象に注目し、ラット由来の筋細胞であるL6 myotube細胞を用いて、18時間無血清DMEM培地で培養後、無血清のアミノ酸含有もしくは欠乏MEM培地で6時間培養した場合と、無血清のアミノ酸含有もしくは欠乏MEM培地で24時間培養した場合におけるIRS-1の量、セリンリン酸化、およびインスリン依存性チロシンリン酸化について検討した。24時間培養ではアミノ酸の影響は観察できず、アミノ酸濃度の増加によっても変化しなかったが、6時間培養でアミノ酸によるIRS-1のバンドシフトが観察された。このときIRS-1量およびインスリン依存性チロシンリン酸化に関しては変化が見られなかったので、さらなる培養条件の検討が必要であるが、この培養条件でのIRS-1のセリンリン酸化機構の解析が可能となった。

 総括

 以上のin vivoで明らかになったタンパク質栄養状態の悪化のインスリン情報伝達因子に対する効果を下の表にまとめた(Table 1)。本研究により、インスリン情報伝達経路の上流段階でのアミノ酸とインスリンのシグナルの相互作用をin vivoにおいて初めて明らかにした。また、アミノ酸による末梢組織での糖利用の阻害作用にはIRSを介した制御機構が関与しているとことも明らかにした。

Table 1 Summary of the effect of protein malnutrition on insulin signal transduction

審査要旨 要旨を表示する

 インスリンは同化作用を持つホルモンであり、その細胞内情報伝達機構が急速に解明されてきた。他方、アミノ酸もシグナル因子として、インスリンシグナルのmTOR以下の因子と相互作用していることは明らかである。しかし、インスリンシグナルの上流因子に対するアミノ酸の影響に関する報告は数少ない。そこで、ラットにタンパク質を含まない食餌を給餌することでタンパク質悪栄養条件を誘導し、インスリン情報伝達系がどのように変化するか検討した。さらに、そこで観察されたいくつかの上流因子の変化が、生体でどのような意味を持つかについても検討した。

 第一章では、タンパク質を含まない食餌として無タンパク質食(PF)を、対照として12%カゼイン食(12C)を給餌したラットの肝臓と骨格筋を用いて、主にインスリン受容体(IR)、インスリン受容体基質(IRS)の量やインスリン応答性について検討した。肝臓では、PF摂取によってIR量、IRS-1量およびIRS-2量が増加し、IRS-1のインスリン依存性チロシンリン酸化量は増加傾向を示し、IRS-2の場合は顕著に増加した。IRに関しては、receptor binding assayも行いインスリン結合量を測定したが、両群間で同程度であった。骨格筋では、PF摂取によりIRS-1量が減少する一方で、IRS-1セリンリン酸化量の減少およびIRS-1量あたりのインスリン依存性チロシンリン酸化量が顕著に増加し、インスリン感受性の上昇が観察された。また、IRS-1のセリンリン酸化状態の変化は、肝臓では観察されず骨格筋に特異的であった。IRS-2のインスリン依存性チロシンリン酸化量は肝臓と同様にPF摂取で顕著に増加した。

 第二章では、第一章で観察された各因子の変化に対して、PF摂取により低下した摂食量や血中インスリン濃度の影響が関与しているかどうかpair-feedingラットとstreptozotocin投与ラットを用いて検討した。その結果、肝臓のIR量およびIRS-1,-2量の増加、骨格筋のIRS-1のセリンリン酸化およびインスリン依存性チロシンリン酸化には食餌タンパク質の影響が大きく、血中インスリン濃度の関与は少ないと結論された。一方、骨格筋のIRS-1量の変化は食餌タンパク質の効果より血中インスリン濃度の影響が大きく、IRS-2のインスリン依存性チロシンリン酸化も血中インスリン濃度への依存度が大きいと考えられた。さらに、両組織のIRS-1 mRNA量は両食餌群間で差がなく、IRS-2 mRNA量はPF食摂取により増加した。このIRS-2 mRNA量の増加は、肝臓では血中インスリン濃度に依存し、骨格筋では食餌タンパク質の影響が大きいと考えられた。したがって、食餌タンパク質によるIRS-2量の制御にはmRNAレベルの制御の関与が明らかになり、IRS-1は翻訳や分解による制御が重要であることが示された。さらに、IRS-1のセリンリン酸化に関与する因子としてPKCやTNFαが報告されている。そこで、骨格筋でのPKC活性と脂肪組織でのTNFα遺伝子発現について検討したが、食餌タンパク質の効果は観察されなかった。

 第三章では、タンパク質栄養状態の悪化によるIRSを介したインスリン情報伝達経路のup-regulationに対応して、実際にインスリン感受性が上昇するか検討した。肝臓のphosphoenolpyruvate carboxykinase遺伝子発現はPF摂取で低下しており、IRSの変化の反映が考えられた。肝臓のfatty acid synthase遺伝子発現はPF摂取によって低下しており、インスリン作用の増強は観察されず、他経路の関与が考えられた。骨格筋では糖の取り込み量がPF摂取で増加し、IRSの変化に対応してインスリン感受性が上昇することが示された。

 第四章では、前章までに観察された現象の分子機構を詳細に解析するために、その現象を培養細胞系で再現することを試みた。その結果、L6筋管細胞を用いたアミノ酸によるIRS-1のセリンリン酸化機構の解析が可能となった。

 以上本論文では、インスリン情報伝達経路の上流段階でアミノ酸とインスリンのシグナルの相互作用をin vivoで明らかにし、末梢組織でのアミノ酸による糖利用阻害作用にIRSを介した制御機構の関与が示された。よって食餌タンパク質の巧みな制限が糖尿病コントロールに効果的である可能性が示された。このように本論文で得られた知見は、学術と応用の両面において重要である。よって審査委員一同は博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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