学位論文要旨



No 117677
著者(漢字) 水野,幸民
著者(英字)
著者(カナ) ミズノ,ユキタミ
標題(和) 非平面キラルポルフィリンの超分子化学と応用に関する研究
標題(洋) Supramolecular Chemistry and Applications of Nonplanar Chiral Porphyrins
報告番号 117677
報告番号 甲17677
学位授与日 2003.01.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5359号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 相田,卓三
 東京大学 教授 西郷,和彦
 東京大学 助教授 橋本,幸彦
 東京大学 助教授 和田,猛
 東京大学 講師 金原,数
内容要旨 要旨を表示する

非共有結合を介して自在な形に分子を集合させる超分子化学は、しばしば共有結合の科学では実現できない意外性を生み出す。本研究では、当研究室で見出した『キラル分子の絶対配置に関する情報を水素結合を介して読みとる不斉全置換ポルフィリン』の性質の解明と集積化による新機能発現に関して検討を行った。

 メソ位、及びピロールβ位の全てに置換基を有する全置換ポルフィリンは、隣接する置換基間の立体反発のため、ピロール環が交互に上下に飛び出したサドル型の非平面構造をとる。このため、メソ位に異なる二種類以上の置換基を導入すると不斉が発現する場合がある(Fig.1 & Fig.2)。しかし、サドル構造の熱的反転のため、光学分割はできない。当研究室では、[1]不斉サドル型ポルフィリン2/2Eに光学活性なマンデル酸を混合すると、水素結合によりFig.3の錯体を形成し、その際、ポルフィリン骨格がその分子の絶対配置にフィットするように変化することを見いだしている。さらに、[2]相互作用しているマンデル酸を不斉を持たない酢酸に置換しても(→酢酸中への投入)、サドルの光学活性が消失しないことを報告している。

本研究では、上記分子の[1]溶液中、[2]固相中での分子認識挙動、[3]不斉サドルポルフィリン二量体の分子設計と不斉選択的相互作用、[4]ポルフィリン-マンデル酸錯体の自然分晶、および生成するキラル結晶の構造解析と応用に関して検討した。

【実験、結果、考察】

1.溶液中での分子認識挙動の考察

1-1.不斉認識機構

ポルフィリン-マンデル酸錯体のX線結晶構造解析を行ったところ、サドル型構造をとったポルフィリン環の上下に同じ絶対配置を持つマンデル酸のカルボキシル基が単座で窒素原子2つと水素結合していることがわかった(Fig.4,R=6%)。マンデル酸の最も大きな置換基であるフェニル基はポルフィリン側のメトキシ基とピロールβ位のメチル基を避けるように配向していた。次に、赤外線吸収スペクトル、及びNOESYの測定により、溶液中での錯体が結晶中での構造に極めて近いことを示す結果を得た。以上のことから、ポルフィリンの周辺置換基の立体障害が作り出す不斉ポケットがカルボン酸との不斉選択的相互作用を可能にしていることがわかった。

1-2.液相中でのキラリティーセンシング

 上記2/2EのD2-対称サドル型ポルフィリンとマンデル酸との相互作用を検討し、微量基質の検出試薬、光学純度の決定試薬としての有用性を確認した。この相互作用は広範囲の不斉有機酸でも観測され、特にモノカルボン酸では、ポルフィリンのCDバンドのコットン効果の符号とカルボン酸の絶対配置が完全に一致した(→不斉有機酸の絶対配置の決定が可能)。このことも、上記の不斉ポケットが相互作用に重要な役割を果たしていることを示唆している。そこで、マンデル酸との相互作用について、周辺置換基の異なるポルフィリン(1/3&3/1)も含めて〓H-NMR、及びCDスペクトル(Fig.5)で検討したところ、高い対称性の不斉ポケットを持つ2/2Eの場合に不斉選択性が最も高いことがわかった。

1-3.ポルフィリン周辺置換基とラセミ化挙動

 この錯体を酢酸に投入し、マンデル酸を不斉を持たないカルボン酸に置き換えたときのラセミ化挙動について検討した。その結果、1/3の場合に最もラセミ化速度が遅くなった。ラセミ化の経時変化から酢酸中でのサドルの反転に必要な活性化自由エネルギー(△G‡298kcal mol-l;1/3,2/2E,3/1:28.0,26.1,24.4)を算出した。ラセミ化はFig.6のように結合と解離を繰り返す過程において、カルボン酸が解離しているときに起こると予想される(Fig.6(c))。解離したカルボン酸の再結合が1/3,2/2E,3/1と置換基の増加に伴って抑制されることが、ラセミ化速度の増大の原因と考えられる。次に、嵩高さの異なる酢酸以外のカルボン酸で比較すると、n-酪酸(n=3)の場合にラセミ化が最も遅くなり、枝分かれのあるイソ酪酸(炭素数は酪酸と同じ)ではサドルが50倍以上も速くラセミ化した(Fig.7)。これは、n-酪酸の場合、柔軟な置遣換基がポルフィリン上のポケットにフィットするようにフォールディングし、結果的にファン・デア・ワールス引力を受けて錯体Fig.6(a)が安定化しているのに対し、イソ酪酸では立体反発を受けるために、Fig.6(c)の状態になっていると考えられる。一方、炭素数が同じでも酸性度の高いものほどラセミ化が遅くなることが分かった。これは、プロトン化した錯体Fig.6(b)の状態ではラセミ化が起きないことを意味している。

2.固相中での分子認識挙動

ポルフィリン2/2Eの結晶と基質の結晶を乳鉢中で粉砕混合し、酢酸に投入して円二色性スペクトルのコットン効果の有無を調べた。基質としてマンデル酸を用いたところ、溶液法の時と同様のスペクトルを与えた。さらに、溶液法では不斉選択的相互作用の起こらなかったアミノ酸(双性イオン)、酸としては極めて弱いアルコール、強酸のスルホン酸を基質とした場合にもサドルの吸収帯に円二色性スペクトルが現れた。一方、(S)-マンデル酸-ポルフィリン錯体の結晶に絶対配置が逆の(R)-マンデル酸の結晶をポルフィリンに対して約100倍の量になるまで粉砕混合したが、円二色性スペクトルに変化はなかった。これは、固体中では、一旦生成した水素結合を外部基質により切断することが極めて難しいことを示している。これらの事実は、固相状態での特異な分子認識の可能性を示すものである。

3.不斉ポルフィリン二量体とその分子認識挙動

上記の不斉選択的相互作用をするサドル型ポルフィリンをキシリレン鎖で架橋した環状二量体を合成した(Fig.8)。これに光学活性なマンデル酸を作用させたところ、ポルフィリンが一枚の場合と同様の円二色性のコットン効果が観測されたが、その強度は2倍以上で、その符号は逆であった。特に興味深い点は、このポルフィリン二量体に対してマンデル酸を1当量加えたところでCD強度が最高に達したことである(一枚のポルフィリンの場合は2当量で最高値)(Fig.9)。マンデル酸が結合していないポルフィリンの知見を得るために、一方のポルフィリンにニッケルを導入したところ、ニッケルポルフィリンに由来する吸収帯にもコットン効果は観測された。さらに、一方のポルフィリンをサドル型構造をとらないテトラフェニルポルフィリン(TPP)誘導体にし、ニッケルを導入したものにしても、サドル型ポルフィリンと同強度のコットン効果が観測された。この結果は、サドル型構造だけでは説明が付かず、剛直なスペーサーを通したポルフィリンの相対的ねじれが関係していることを示唆している。そこで、キシリレン鎖よりも柔軟で短いブチレン鎖にしたところ、マンデル酸2当量でCD強度が飽和した。これは、柔らかいブチレン鎖が二枚のポルフィリンの相対ねじれを規制することができない事を意味している。以上の結果から、剛直なキシリレン鎖で架橋されたサドルポルフィリン環状ダイマーは、外部基質によりそのポルフィリンの相対的ねじれを制御可能な新しい不斉モジュールであることが明らかとなった。

4.ポルフィリン-マンデル酸錯体の自然分晶

 ラセミ体のマンデル酸類似化合物とポルフィリン2/2Eを酢酸エチル中から再結晶したところ、両者の1:2錯体の単結晶が得られ、その結晶の一粒一粒が光学活性になる自然分晶の系を見いだした。マンデル酸とその誘導体、及び類縁体(a-f)のうち、a、及びbとの再結晶に関しては自然分晶する場合としない場合の二つのケースが観測されたが、fは全くしなかった。一方、c、及びd、eを用いた場合は常に自然分晶が起こり、光学純度100%の結晶を与えることがわかった。この中で、自然分晶した4-ブロモマンデル酸との錯体についてX線結晶構造解析を行ったところ、ポルフィリンが二重らせん状に配列した孔が擬似ハニカム状に集積した結晶であることがわかった(Fig.11 & Fig.12)。このキラルな孔には結晶溶媒の酢酸エチルの1部が存在しており、不斉エステルであるラセミ体の2-メチル酪酸メチルの蒸気にさらしたところ、結晶溶媒の酢酸エチルと1時間程度で交換した。この時、興味深いことに、片方のエナンチオマーが優先的に結晶内に取り込まれた(72:28)。この現象と関連して、再結晶の溶媒として、酢酸エチルの代わりにラセミ体の2-メチル酪酸エチルを用いたところ、同様に自然分晶が起き、結晶中の2-メチル酪酸エチルのエナンチオマー比は、上記と同じく72:28であった。不斉カルボン酸として4-ヨードマンデル酸を用いて作製した結晶についてはX線結晶構造解析に成功し、酢酸エチルを溶媒として得られた結晶と類似のパッキングであることがわかった。

このキラルな孔は、不斉識別反応だけでなく、不斉合成や立体選択的重合反応のフラスコとしてのポテンシャルを秘めていることが期待される。

【総括】

不斉全置換サドルポルフィリンが溶液、及び固相で不斉選択的相互作用をすることを明らかにした。また、サドル型ポルフィリン二量体を合成し、分子のねじれを制御可能な新しい超分子システムを構築することに成功した。さらに、ポルフィリン/マンデル酸錯体の系において、不斉の起源と関連して興味深い「自然分晶」が起こることを発見し、その結晶が、一次元のラセン状カラムの疑似ハニカム集積体でできていることを見いだした。

Fig.1 Chiral Fully-Substituted Porphyrins.

Fig.2 Enantiomers of Chiral Saddle-Shaped Porphvrin.

Fig.3 Porphyrin-Carboxylate H-Bonded Complex.

Fig.4 ORTEP View of the Porphyrin-Mandelate Complex.

Fig.5 Circular dichroism (CD) spectra in acetic acid at 23℃ of the protonated forms of 1/3 (A(R), A(s)), 2/2E(B(R), B(s)), and 3/1 (C(R), C(s)),derived from the (R)- and (S)-mandelate complexes obtained by recrystallization in ethyl acetate.

Fig.6 A Possible Equilibrium for a Saddle-Shaped Porphyrin in Carboxylic Acid.

Fig.7 Half-lives of the optical activity of the pro tonated form of 2/2E (derived from the (S)-mandelate complex obtained by recrystallization in ethyl acetate) in carboxylic acids H(CH2)nCO2H, (n=1-5) and (CH3)2CHCO2H at 57℃.

Fig.8 Saddle Porphyrin Dimer.

Fig.9 Circular Dichroism(CD) Responses of Porphyrins to Amount of Mandelic Acid.

Fig.10 Chiral Carboxylic Acids.

Fig.11 Crystal packing of 4-bromomandelate-porphyrin complex upon spontaneous optical resolution.

Fig.12 Double helical arrangement of a saddle-shaped porphyrin in the crystal formed upon spontaneous optical resolution with rac-4-bromomandelic acid.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、非平面のサドル型構造を有する不斉ポルフィリンの分子認識挙動と超分子化学に関する研究の成果について述べたものであり、以下の4章から構成されている。

第1章では、ポルフィリンがゲスト分子であるマンデル酸と水素結合を介して錯体を形成する際に、マンデル酸の絶対配置に応じてサドルの向き(円二色性の符号)が決定される機構は、ポルフィリン周辺置換基の配列によって形成される不斉なポケットで説明できることを、X線結晶構造解析や分光学的手法などを駆使すると共に、置換基の配列の異なるポルフィリンを合成することによって明らかにしている。さらに、マンデル酸以外の20種類以上の不斉なカルボン酸に関して、不斉炭素上のかさ高さの異なる置換基の位置と、サドルの向き(円二色性の符号)に一定の規則性があることを見出している。

一方、得られた錯体を不斉でない酢酸溶媒中に投入し、ゲスト分子を除去した後も、その絶対配置の情報をサドル型ポルフィリンが記憶する能力は、周辺置換基が作るポケットの形との親和性に大きく依存することを見出している。これは、酢酸以外のかさ高さの異なる不斉でないカルボン酸を溶媒に用いることでも立証している。本成果は、分子認識記憶素子の新たな設計指針を与える点で極めて意義深い。

第2章では、サドル型ポルフィリンが固相状態でも、溶液中と同様に不斉認識が起きることを述べている。さらに、固相状態という高い濃度条件下では、溶液状態では不斉認識の起こらなかったN-末端を保護していないアミノ酸(双性イオン)、酸としては極めて弱いアルコール、強酸のスルホン酸などの不斉化合物に関しても、不斉認識が起きることを明らかにしている。一方、溶液状態とは異なり、固相状態では一旦捕捉した分子とのゲスト交換が極めて起こりにくいことを見出している。これらの事実は、固相状態での特異な分子認識の可能性を示すものである。

第3章では、上記の不斉認識能を持つサドル型ポルフィリンを二量化したダイマーを合成し、マンデル酸の滴定実験により、ポルフィリンモノマーの場合と同様の分子認識挙動を示すことを見出している。さらに、ダイマーに対してマンデル酸を2当量加えたところ(ポルフィリン一枚に対してマンデル酸1当量)で円二色性スペクトルの強度が最高に達し(ポルフィリンモノマーの場合は2当量で最高値)、しかも、その強度はモノマーと比較して2倍ではなく、7倍程度にもなることを見出している。この理由として、ゲスト分子の不斉情報がポルフィリンのサドルの向きの情報に変換され、さらにサドルの向きがポルフィリンをつなぐリンカーを通したらせんを誘起していることを、ポルフィリンダイマーのモデルから考察している。以上の成果は、非線形的な不斉情報の増幅という新しい概念を提供しており、極めて意義深い。

 第4章では、ラセミ体のマンデル酸類似体とサドル型ポルフィリンとの錯体の自然分晶に関して述べている。しかも、その結晶中には、一方の絶対配置を有する光学的に純粋なサドルポルフィリンの二重ラセンカラム(キラルな穴には結晶溶媒として酢酸エチルが存在)が疑似ハニカム状に集積した超分子構造が存在していることをX線結晶構造解析により明らかにしている。極めて興味深いことに、結晶溶媒は不斉エステルと蒸気で交換し、片方のエナンチオマーが優先的に結晶内に取り込まれることも見出している(75:25)。この現象と関連して、再結晶の溶媒として不斉エステルを用いることで、錯体だけでなくエステルも光学活性になる3成分の自然分晶を初めて見出している。その結晶パッキングは、酢酸エチルを溶媒としたものに酷似することを明らかにしている。この結晶のキラルなラセン空孔は、分子認識だけでなく、不斉合成反応や立体選択的重合反応のフラスコとして応用が期待される。

 以上のように、サドル型ポルフィリンの不斉認識挙動に関して、基礎から応用にわたって幅広く研究している。その成果は、化学だけでなく、薬学や生物学、農学などの進展に寄与するところ大である。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク