学位論文要旨



No 118012
著者(漢字) 島田,尚
著者(英字)
著者(カナ) シマダ,タカシ
標題(和) 多様性の統計力学的研究
標題(洋) Statistical-Mechanics Study on Diversity
報告番号 118012
報告番号 甲18012
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5470号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 伊藤,伸泰
 東京大学 教授 宮下,精二
 東京大学 教授 吉田,善章
 東京大学 教授 合原,一幸
 東京大学 助教授 マトゥティス,ハンス ゲオルグ
内容要旨 要旨を表示する

1概観

 "多様性"と言う言葉は、統計物理学においては確立された言葉とは言い難い。しかしながら、系の運動方程式からは非自明なパターンや秩序変数が現われることが知られており、多くの興味を集めて来た。これらの秩序の現われかたが単純である場合にはその系はあまり多様だとはみなされないだろうことを考えると、生成された秩序の多様さを持って系の多様性の一つの指標とみなすことは妥当であろう。一方、生態学においては一般にその系に共存する種の数を指すことが多い。種の数というのは系がもともと持っている自由度の数ではなく、個体間の複雑な相互作用から自己組織的に生じたパターンのようなものであることを考えると、この"多様性"の定義は物理学における"多様性"の概念と共通するものがあると言える。本研究ではこのような視点のもとに多様性の起源と維持のメカニズムに迫るため非平衡力学系及び生態系、さらには脳についての統計力学的に研究を行った。

 力学系の部においては、最も簡単な非平衡現象である熱伝導についての研究から非平衡状態では系の加法性が崩れることが一般的であるという知見を得、そのような非加法的系に対して提案されている拡張された統計力学の適用について考察した。

 生態系においては、系にスケールレスな振舞いを許すことで多様性の高い相互作用系を生成する簡単なモデルを初めて構築した。また、このモデルにより自己組織的に生成された系の示す性質について観測データとの比較を行い良い一致を得た。

 脳へのアプローチではまず同期現象に注目したシミュレーションを行った。この結果ニューロン間の結合の様子が分かれば高度なモデル生物の脳のサイズでも解析可能であることが実証できたので、キイロショウジョウバエの脳神経回路の解析にも着手し、統計力学的手法を応用した画像修復法により細胞数の数え挙げについて一定の成果を得た。

2非平衡力学系

2.1力学系における熱伝導

 熱伝導現象は非平衡現象の中でももっとも基本的なものでありながら、力学系を用いた研究から熱伝導率が発散する結果が得られるなど、系のハミルトニアンのレベルからの理解には課題が残されていた。本部分では非線型格子において分子動力学シミュレーションを行い、熱伝導の次元依存性を調べた。その結果、一及び二次元系では熱伝導率が熱力学極限で発散するのに対し、三次元系では正常な拡散型熱伝導が再現されるという一致した結果が得られた。さらに、この非線型格子系のシミュレーション及び村上の行ったハードコア系の結果との統一的解析を行い、運動量が保存するような自然な力学系においては系の振舞いにグローバルな相関が残り、次元に応じて熱力学量の異常として現われるという明解な理解を得た。

2.2HMFモデルにおける非加法的統計力学

 前部分で見たように、最も馴染みのある力学系においてさえも非平衡状態では系内に大きなスケールの相関が残りうる。近年、このような状態を扱うために非相加的エントロピーに基づいて統計力学を拡張することがTsallisによって提案され、成果を挙げて来た。しかしながらこれまでのところ主に統計分布のレベルでしか検証がなされておらず、対象系のハミルトニアンのレベルからの適用による検証が待たれている。

 一方、Hamiltonian Mean-Field(HMF)Modelは、系のエネルギーが形式的に示量的になっているが長距離相互作用系であるので相加的ではなく、Tsallis統計理論の適用先として有望である。実際、V.Latore達のミクロカノニカルシミュレーションによって相転移点より低温の領域で熱平衡状態とは異なる長寿命な準安定状態が存在し、その準安定状態における一粒子運動量分布がシステムサイズの増加とともにq>1のTsallis分布に漸近することが示されている。本研究ではこの系にTsallisのCanonical分布を適用した結果について考察し、力学系へのTsallis統計の実際の適用の可能性について議論した。

3生態系

3.1大規模な生態系のシンプルなモデル

 生態系の性質については、その安定性や過去の大絶滅、食物連鎖網や系統樹の構造など、多くの観測、議論がなされてきた。一方で生態系はナイーブにはダーウィン的な生存競争によって自己組織的に構成された相互作用系であると考えられる。本研究ではこのストーリーを再現するモデルを提案した。

 一般化されたLotka-Volterraモデル(普通には、Xiは種iの個体数または個体数密度、Aijは種i-j間の相互作用を表す定数である。)に代表されるポピュレーションダイナミクスモデルは、特に少数自由度生態系の研究において主要な役割を担って来た。しかしながら、ポピュレーションダイナミクスモデルを用いて"作り込まずに"多種が共存する状態を実現することは一般的に難しかった。

 本研究での我々の提案は、相互作用項の形を別のシンプルな形に変更するというものである。具体的には、種間の相互作用項を〓と、系のサイズに依存しない型に変更する。これは、Lotka-Volterra方程式系における単位捕食者当りの捕食率AijXiを種同士の比の簡単な凸関数Aij(Xi/Xj)λへと変更することに対応している(但し、Xi:披食者Xj:捕食者)。捕食相互作用を種同士の比で表すことは数理生態学でも議論されており、必ずしも非現実的なものではない。λが(0,1/2)の範囲内であれば捕食率の凸性は維持されるので、相互作用毎に異なるλを割り当ててもいいのであるが、今は単純化のためにλを一様にとる。消費者たちの代謝率にあたるCiも一様な値(-1)とすれば、この代謝率と生産者の成長スピードとの比のみをパラメーターに持つ次のシンプルな時間発展方程式を得る。(0<λij<1/2,αij+aji<0)この方程式系は生産者のロジスティック増殖項を除いて種のエネルギーの一様な変換Xi→αXiに対して同じ発展を与えるので、我々は変更された相互作用項〓をSize-Freeと呼ぶ。

 上の時間発展方程式に加えて、方程式の変更前と同様のシンプルな絶滅と変異のルールを導入するのであるが、その詳細は次のようである。

 絶滅:ある種の持つエネルギーXiが0になったら、その種は取り除かれ、対応する自由度が系から削除される。これに加えて、他の種から完全に孤立した種が出来た場合はその種は即座に取り除かれる。

 ランダム変異(侵入):新しい種が時間的にランダムに導入される。新しい種のエネルギーの初期値は非常に小さく(〜10-8)、先住の種との相互作用の総数及び係数はそれぞれ(1,2m),(-1,1)の範囲からランダムに決定される。

 このモデルのもたらす結果のうちLotka-Volterraタイプのモデルとの最大の違いは、系が豊かな相互作用構造を持つ状態へと発展出来ることである(図1)。このSize-Freeなモデルにおいてもほとんどの新種は定着に失敗し、侵入に成功したとしても同時にそれまでにいた種が(時には複数)代わりに絶滅することもあるので、系の自由度は一様に増えるわけではないが、揺らぎながらも少しずつ増加していく。種数が増えるだけでなく、実際に構造が複雑になっていることは系内に存在する栄養段階の数を見ることで確認できる。ここで栄養段階は最短ルートを辿って生産者にたどり着くまでの相互作用の数で定義される。現実の生態系では栄養段階の数は系によって異な観2〜5程度であるようである。我々のモデルではこれに負けない6〜7段の栄養段階を時間的に安定に持つような系も観測できるので、この点では現実の生態系の記述に足るということが出来る。このような多様性の高い系の成長を許す簡単なモデルは今まで他に無かったが、Size-Freeな相互作用項の導入によって種の生存していく可能性がスケールレスに許されている我々のモデルではそれが実現できる。

 本研究ではさらにこのモデルの示す統計的性質を実際の化石データのものと比較した。その結果、表に示した様に種の寿命や絶滅のサイズなど、異なる複数の観測量について化石データと一致する分布が得られることが分かった。この結果は以下の理由から重要な知見である。第一に、化石データは観測の都合上種ではなく科単位での推定なのでその統計量はその科の下に分類される種のランダムな振舞いとして説明されるのではという議論があった。これに対し、我々のモデルのように種を単位とした競争系から現実と一致する分布が得られたことは意味のあることである。第二に、絶滅のサイズ分布や種の寿命の分布などについては個々にそのプロファイルを再現する簡単なモデルはいくつか提案されているが、我々のモデルのように多種の共存、絶滅のサイズ及び種の寿命分布という複数の側面に同時に応えるモデルは今まで無かった。このモデルがこれらの側面に同時に対応できたことは、生態系の持つこれらの性質が独立ではない由来を持っていることを示唆していると思われる。一方、現実の系の粗い近似である我々のモデルが絶滅のサイズ分布や寿命分布について一致したプロファイルを示すことは、この性質がポピュレーションダイナミクスの詳細に依らないより単純なモデルに帰着して理解される可能性を示唆している。

3.2エイジングの簡単なモデルにおける社会的行動の効果

 D.Staufferによって提案された遺伝的な寿命を持った個体群の簡単なモデルに社会的行動の効果を平均場的に導入し、数値シミュレーションによって解析した。その結果、幼い個体が標準のモデルより高い死亡率を持つような時に観測データに見られる死亡率の指数関数的増加則をより良く再現することが示された。

4脳

4.1大規模結合ニューロン系のシミュレーション

 二次元正方格子上に配置した結合ホジキンーハクスレイニュ一口ン系のシミュレーションを行い、同期の有無を調べた。(100×100)程度の大きな系の振舞いについて全系を可視化して調べることにより、これまで(10×10)程度の大きさの系についての研究から同期すると期待されていた領域についても、完全な同期は見られないこと等が分かった。

4.2統計力学的画像修復法によるキイロショウジョウバエ脳の回路情報の抽出

 キイロショウジョウバエの脳はその高度な機能にも関わらず本体の神経細胞が4〜5万個と比較的少なく、結合の構造が分かれば詳細なシミュレーションが可能である。また、高度な分子遺伝学的技法により多様な細胞を染め分ける技術が発達しているため脳全体の神経細胞網の網羅的同定が可能なレベルにあり、実際に染め分けられた神経細胞の三次元画像データが蓄積されつつある。しかしながら得られる画像データはノイズや個体差等を不可避的に含むため、ここから回路情報として意味のあるトポロジカルな構造情報を抽出することは容易ではない。

 本研究ではこのような三次元構造情報の抽出の最も簡単な例として、Ising系を用いた画像修復アルゴリズムによって神経細胞体の三次元画像データから細胞体の位置分布情報を抽出することを試みた。その結果、各細胞体を独立した塊として認識するためには修復画像を参照画像として再度修復すると効果的であることなどが分かった。

図1:(上図)Size-Freeなモデルによって自己組織的に生成された複雑な相互作用構造の一例

○は各々の種を、矢印は種間のエネルギーの流れを表す。ここでは3つの栄養段階が存在するが、これは例えば大陸棚での生態系のものと同じ数である。

図2:(下図)シミュレーションにおける種の寿命分布(実線)と、化石データ(The Fossil Record 2)からの算出値(■)との比較。

指数則でもベキ則でもない特徴的なプロファイルがよく再現されている。

表1:化石データと我々のモデル、その他のモデルの示す種々の統計的性質の比較

審査要旨 要旨を表示する

 現実の世界の多様性に比べ、今日の物理理論が威力を発揮する問題は、スピングラス系を除いて、単純である。これは現象の中の不変性に立脚する物理学の特徴といえよう。物理学に限らずとも多様な現象の個々の研究は古来続いているが、多様性そのものの科学的な研究は少ない。一方、今日、環境問題、生物資源問題などからも伺えるように、多様性そのもののより深い理解が求められている。そもそも「多様」とは、異質なものがたくさんある状態のことであるが、相互に独立でないような多種が、多様性を維持しつつ共存する機構は未知である。また単純な状態から出発して多様な状態に至る道筋も不詳といわざるをえない。こうした問題に答えるためには多様性の起源とダイナミクスとが問題となる。

 「多様性の統計力学的研究」と題した本論文は、この問題に対して具体的で現実的な解答を提示した。未だ解析の行き届かない部分も多いとはいえ、注目すべき成果である。

 本論文では生態系の多様性に注目し、生物種が多様に進化するのはなぜかを、被食捕食のネットワークである食物連鎖網中のエネルギーの流れに注目して研究した。こうした研究はロトカ・ヴォルテラ方程式以来、活発に続けられてきたが、多様化する生態系を記述するこれまでの模型には、暗に構造が仮定されているなどの問題がある。本研究では、これまでの研究で生物種間の相互作用が2次の非線形項として扱われてきたことに問題があることを指摘し、全体としては1次だが各種にとっては非線形な相互作用をもつ模型を提案して「サイズフリー模型」と名付けた。そしてサイズフリー模型は生物生態系の多様性に比肩する多様性を自発的に生み出してゆく模型であることを示した。特に、生物種の寿命の分布関数を再現していることが、この模型が単なる数理模型ではなく地球上の生物進化と関わったものであることを示唆する。さらにこの分布関数がq指数関数であることを発見した。

 本論文はハミルトン力学系を出発点とする現代理論物理学、特に現代統計物理学から多様性へ接近する試み(第I部、第II部)を序部とし、第III部で主要な成果である上述のサイズフリー模型を扱う。続く第IV部では、現象の多様さを特徴とする生態系に対し、機能の多様さを特徴とする脳神経系の解明を目指した研究を扱う。最後の第V部で全体をまとめ、今後の展開を望んでいる。

 本論文は、これまで不可能に近かった多様性の科学的研究という難題に対し、理論的な出発点を与えた研究として高く評価できる。

 よって本論文は、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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