学位論文要旨



No 118377
著者(漢字) 裴,文珠
著者(英字) BAE,MUN JOO
著者(カナ) ベ,ムンジュ
標題(和) バングラデシュにおける地下水由来の無機ヒ素曝露の評価
標題(洋) Assessment of exposure to groundwater-derived inorganic arsenic in a rural population of Bangladesh
報告番号 118377
報告番号 甲18377
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第2184号
研究科 医学系研究科
専攻 国際保健学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 武谷,雄二
 東京大学 教授 玉置,邦彦
 東京大学 助教授 石川,昌
 東京大学 助教授 黒岩,宙司
 東京大学 講師 渡邊,洋一
内容要旨 要旨を表示する

[緒言]

 ヒ素汚染は、台湾、チリ、アルゼンチン、アメリカ合衆国など多くの国で報告され、健康影響が懸念されている。中でも、バングラデシュでは1億2500万人の人口のほとんどが飲用・調理用を含む生活用水として井戸水を利用しているが、ヒ素濃度が飲用水としての許容上限値(WHO:0.01ppm、バングラデシュ政府(暫定値):0.05ppm)を超える井戸を使用している人口(リスク人口)は3500〜7500万人とも推定されている。

 無機ヒ素への慢性曝露は、皮膚症状、ガン(皮膚、膀胱、および腎臓)、循環器疾患、神経疾患などを引き起こすとされているが、量-反応関係や感受性要因など、明らかになっていない点が多い。

 ヒ素の毒性はその化学形態によって異なることが知られている。化学形態別の毒性の相対的な強弱については最近の研究により、再評価が加わりつつあるが、慢性砒素曝露の毒性評価や代謝の研究を行う上では、総ヒ素だけではなく、化学形態ごとの定量を行い、評価する必要がある。このような評価はこれまでにも試みられてはきたが、ヒ素の摂取レベルと無機ヒ素のメチル化割合の関連、性別、年齢などの個人要因とメチル化との関連などについて、明確な結論が得られていない。

 尿は、無機ヒ素への曝露の最も一般的な指標であり、尿中の無機のヒ素およびその代謝物質(MMAおよびDMA)の相対的な割合によりメチル化パターンを評価することができる。

 そこで本研究では、バングラデシュのヒ素汚染地域住民における尿中ヒ素の形態別分析を行なうことにより、メチル化代謝と無機ヒ素曝露レベルとの関係及び性別、年齢との関係を明らかにし、ヒ素毒性とメチル化代謝の関連について考察した。

[対象と方法]

 2001年2月,バングラデシュ北西部のヒ素汚染地域住民を対象に、住民の健康診断とともに皮膚症状の観察を行った。健康診断に参加した住民のうち皮膚症状がみられた住民148人(男性64人、女性84人)について、尿中ヒ素濃度の測定を行うともに、尿中のヒ素の形態別分析を行った。採取した尿試料は現地で冷凍保存し、冷凍を保ったまま日本に空輸し、日本では-80℃で分析まで保存した。

分析1(総ヒ素濃度測定)

 採取した試料を、硫酸、過塩素酸、硝酸の混酸中で強熱して湿式灰化後、水素化物発生・原子吸光法(HG-AAS)を用いて尿中総ヒ素濃度を定量した。測定の精度は標準試料を毎回同時に測定することによって確認した。

分析2(ヒ素の化学形態測定)

 分析1の結果を元に、尿中総ヒ素濃度110μg/L以上のHighグループと90μg/L以下のLowグループに分け、Highグループ(男性15人、女性11人)とLowグループ(男性15人、女性14人)をヒ素の化学形態測定のための対象者として選定した。年齢の影響を評価する際には、これらの対象者を3つの年齢階級(old≧40、20≦middle≦39、11≦young≦19)に分けて分析した。

 HPLCと誘導結合型プラズマ質量分析装置(HPLC-ICP-MS)を用いて、尿中ヒ素の形態別定量を行った。測定の精度には、形態別の保証値が示された標準試料を用いた。

[結果と考察]

1.尿中から検出したヒ素の化学形態は無機ヒ素(In-As)、モノメチルアルソン酸(MMA)、ジメチルアルシン酸(DMA)の3種類があり、これらのヒ素化合物について定量を行うこととした。トリメチル化ヒ素化合物、および海産物に由来する主要な有機ヒ素化合物であるアルセノベタインは検出されなかった。尿中総ヒ素(In-As、MMA、DMA)の平均濃度は男性のHighグループで388±203μg/L、Lowグループでは53±20μg/L、女性のHighグループは421±315μg/L、Lowグループは47±23μg/Lであった。

2.尿中総ヒ素濃度と、ヒ素の化学形態別濃度(MMA、DMA)を比較したところ(図1)、男性、女性ともに総ヒ素の濃度が高くなるにつれMMA、DMA濃度も増加し、MMAよりDMAの方が増加率が高かった。総ヒ素との相関係数は男性でMMA:0.91(p<0.001)、DMA:0.96(p<0.001)、女性でMMA:0.97(p<0.001)、DMA:0.99(p<0.001)であった。男性でやや相関が低くなったことから、男性でのみメチル化に何らかの撹乱要因が作用している可能性が考えられた。

3.尿中総ヒ素濃度および形態別濃度を男女別、曝露濃度別に比較した結果、Lowグループでは性差はほとんど見られなかったが、HighグループではIn-AsとMMAが男性で高く、逆にDMAは女性で高かった。

4.表の上部は、尿中ヒ素の化学形態別割合とメチル化率を男女別に比較した結果を示している。男性は女性より%MMA(総ヒ素に占めるMMAの割合、以下同様)が有意に高く、%DMAは有意に低く、その結果D/M(DMAとMMAとの比)は男性が4.9±2.4、女性は7.9±4.5で女性が有意に高かった(p<0.01)。これは2nd-methylation(MMA→DMA)の割合が、男性より女性で高いことを示唆している。

5.性別ごとに、化学形態別の割合について曝露グループ間の差を見る(表の下部)と、男性の場合、HighグループがLowグループより%In-As、%MMAが高く、%DMAは低かった。一方、女性ではLowグループがHighグループより%In-As、%MMAが高く、%DMAが低かった。したがって、性別による%In-As、%MMA、%DMAの分布パターンの違い(表上部)は、主にHighグループ間の男女差を反映したものであった。

6.(M+D)/IとD/Mについて、曝露グループごとに性差を見ると、それぞれの男女間で有意な差が見られた。Highグループの女性の(M+D) /I ((MMA+DMA)とIn-Asとの比)は男性より1.6倍高く、D/Mは2.8倍高かった。それに対しLowグループでは逆に男性の(M+D) /Iが女性より2.1倍高かった。化学形態別割合は、Highグループでは%MMAは女性より男性の方が2.6倍高かったのに対し、Lowグループで%In-Asが男性より女性の方が1.6倍高かった。

7.図2は、総ヒ素濃度と代謝物質の割合((M+D)/IおよびD/M)の関係を男女別に示している。男性の場合、総ヒ素濃度が上昇するにつれ、(M+D)/IとD/Mは減少する傾向を示したのに対し、女性は増加していた。

8.Lowグループの男性で(M+D)/Iについて年齢差が見られたが、ほかのヒ素代謝に関する指標で、年齢との関連を認めたものはなかった。

[結論]

 この研究の結果、男性の場合、曝露レベルが低い方がメチル化の割合が高かったのに対し、女性の場合、曝露レベルが高いグループでメチル化の割合が高かった。すなわち、メチル化の割合は曝露レベルに影響を受け、その影響は性別によって異なっていた。先行研究では、性別、曝露レベル別を同時に考慮して解析したものがほとんどなく、ヒ素毒性とメチル化代謝との関連を研究する際には、性別、曝露レベル別に考察する必要があることが示された。

図1.性別による尿中総ヒ素濃度と化学形態別濃度(MMA、DMA)

図2.性別による総ヒ素濃度と代謝物質比((M+D)/IおよびD/M)との関連

表.尿中ヒ素の化学形態別割合とメチル化比率に性・曝露レベルが及ぼす影響

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、バングラデシュのヒ素汚染地域住民における尿中ヒ素の形態別分析を行い、メチル化代謝と無機ヒ素曝露レベルとの関係、および性・年齢との関係を調べることで、ヒ素毒性とメチル化代謝の関連を明らかにすることを試みたものであり、下記の結果を得ている。

1.尿中から検出したヒ素の化学形態には無機ヒ素(In-As)、モノメチルアルソン酸(MMA)、ジメチルアルシン酸(DMA)の3種類があり、これらのヒ素化合物について定量を行った。なお、トリメチル化ヒ素化合物、および海産物に由来する主要な有機ヒ素化合物であるアルセノベタインは検出されなかった。

2.尿中総ヒ素濃度とヒ素の化学形態別濃度(MMA、DMA)を比較したところ、男性、女性ともに総ヒ素の濃度が高くなるにつれMMA、DMA濃度も増加したが、MMAよりDMAの方が増加率が高かった。総ヒ素濃度とMMAあるいはDMAとの相関をみると、男性でやや相関が低かったことから、男性ではメチル化に何らかの撹乱要因が作用している可能性が考えられた。

3.尿中総ヒ素濃度および形態別濃度を男女別、曝露レベル別に比較した結果、曝露レベルが低いグループでは性差はほとんど見られなかったが、それが高いグループではIn-AsとMMAについては男性の方が高く、逆にDMAは女性の方が高かった。

4.尿中ヒ素の化学形態別割合とメチル化率を男女別に比較した結果、男性は女性より%MMAが有意に高く、%DMAは有意に低く、その結果D/M(DMAとMMAとの比)は男性が4.9±2.4、女性は7.9±4.5で女性が有意に高かった(p<0.01)。これは2nd-methylation(MMA→DMA)の割合が、男性より女性で高いことを示唆している。

5.男性の場合、曝露レベルが高いグループが低いグループより%In-As、%MMAが高く、%DMAは低かった。一方、女性では低いグループが高いグループより%In-As、%MMAが高く、%DMAが低かった。したがって、性別による%In-As、%MMA、%DMAの分布パターンの違いは、主に曝露レベルが高いグループにおける性差を反映したものであった。

6.化学形態別の割合、すなわち(M+D)/IとD/Mについて、曝露グループごとに有意な性差が見られた。曝露レベルが高いグループでは、(M+D)/I((MMA+DMA)とIn-Asとの比)が女性で男性より1.6倍高く、D/Mは2.8倍高かった。それに対し、曝露レベルが低いグループでは逆に(M+D)/Iが男性で女性より2.1倍高かった。また、曝露レベルが高いグループでは%MMAが女性より男性の方が2.6倍高かったのに対し、低いグループで%In-Asが男性より女性の方が1.6倍高かった。

7.メチル化の割合を総ヒ素濃度と代謝物質との比((MMA+DMA)/In-As)および代謝物質同士の比(DMA/MMA)で見ると、男性の場合は総ヒ素濃度が上昇するにつれ、いずれの比の値も減少する傾向を示したのに対し、女性では増加していた。

8.曝露レベルが低いグループの男性で(M+D)/Iについて年齢差が見られたが、ほかのヒ素代謝に関する指標で、年齢との関連を認めたものはなかった。

 以上、本論文は、バングラデシュのヒ素汚染地域の住民において、無機ヒ素のメチル化割合は曝露レベルに影響を受けること、その影響は性によって異なることを明らかにした。メチル化について性と曝露レベルの違いを同時に考慮して分析した先行研究がほとんどなく、本研究の成果はヒ素毒性とメチル化代謝の関連に関する重要な知見であると認められ、学位の授与に値するものと考えられる。

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