学位論文要旨



No 118994
著者(漢字) 福場,辰洋
著者(英字)
著者(カナ) フクバ,タツヒロ
標題(和) マイクロ加工技術を応用した現場型微生物遺伝子解析装置の開発
標題(洋)
報告番号 118994
報告番号 甲18994
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5726号
研究科 工学系研究科
専攻 環境海洋工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 藤井,輝夫
 東京大学 教授 浦,環
 東京大学 教授 鷲津,正夫
 東京大学 助教授 佐藤,徹
 東京大学 助教授 長沼,毅
 東京大学   許,正憲
内容要旨 要旨を表示する

本研究は,主に半導体製作などに用いられる,「マイクロ加工技術」を応用して,小型・自動の「現場型微生物遺伝子解析装置」を開発することを目的とするものである.

近年,深海・地底などの極限的な環境に形成される微生物相に関する研究は,その独特さや多様さ,地球規模の物質循環に及ぼす影響の大きさの解明,また特殊な環境に生きる微生物の機能を工業的に利用すること等を目的として,ますます盛んになってきている.そして,それら微生物(相)に関する詳細な情報を内包したDNAやRNAを対象とした分子生物学的解析及び,標的とした微生物(相)の検出等は,今や主要な研究手法となっている.現在の所,それらの研究を実際に行うためには,主に極限的な環境からのサンプル回収→設備の整った実験室での手作業による分析といったプロセスを経なければならないのが現状である.しかし,サンプル回収から分析操作までの間に外部環境からの微生物の混入・汚染や経時的な微生物相の変化等が起こる可能性があり,それは高感度な遺伝子解析においては特に致命的な問題である.そこで本研究において,それらの問題を解決し,環境微生物学の研究・分析手法に大きなブレークスルーをもたらすことを目的として,実際に現場で用いることのできる遺伝子解析装置の開発を目指すこととした.

実際に製作する装置は,近年深海の探査に盛んに用いられている,水中探査機や海中ロボットなどに搭載するなどして使用することを考慮すると,十分に小型・軽量で省電力のものである必要がある.そのため,本研究では装置の製作にマイクロ加工技術を応用することで,装置全体の小型・軽量・省電力化を目指した.

遺伝子解析装置を実現する為に必要な要素は,微生物を含んだサンプルの回収から増幅された遺伝子断片の解析に至るまで,図1に示すような一連の要素技術に分けることができる.本論文では特に,遺伝子解析において非常に重要かつ中心的な反応操作である,PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)法を用いた遺伝子断片の増幅を現場で行うための小型・自動装置の開発について述べる.

現場で遺伝子解析を行う場合,例えば微生物相の経時的な変化をとらえる場合など,その解析は「連続的」であることが求められる.そこで,連続的なPCRを行うためFlow-through (連続流動)PCR方式(図2)を採用した.PCRを行うチャンバやマイクロチューブの温度を直接上下させて温度サイクルを達成する「バッチ式PCR」と異なり,Flow-through PCR法ではPCRに必要となる3つの温度領域をあらかじめ定義し,それぞれの温度領域の上をPCR溶液が繰り返し通過することによって温度サイクルを行う方式である.この方法を用いることで,連続的なPCRが可能となるだけでなく,バッチ式の様に高速な温度制御が必要ないため,ヒータの制御が簡便化できる.また,送液も一定の流速を保つだけでPCRが可能であるため,非常に単純なもので十分である.現場で用いる機器は自動制御可能であることが求められるため,この様に制御を簡便化できることは非常に有用である.

本論文中では,主にウエットエッチングによって製作したヒータ及び温度センサを有するガラス製温度コントロール基板と,モールディング(型どり)法によって製作したシリコーンゴム(ポリジメチルシロキサン:PDMS)製微細流路チップに小型のポンプ・バルブからなる送液系及び制御装置等を組み合わせることによって「現場型Flow-through PCR装置」を製作した(図3).Flow-through PCRを行う部分の材質として光学的に透明であるガラスとPDMSを用いることによって,増幅された遺伝子断片の光学的検出などにも適用可能である.

PDMSはその光学特性及びモールディング法による精密な型どりが可能である,という点で微細流路の製作に非常に適しているが,その疎水的な表面は,未処理の場合タンパク質を不可逆的に吸着してしまうという問題があり,そのままでは酵素(DNAポリメラーゼ)を用いた反応であるPCRを行うことができない.そこで本論文中において,生体適合性ポリマーであるMPCポリマーを用いたPDMSの表面改質手法を新たに開発した.これにより,PDMS表面へのタンパク質吸着が有意に抑制されることを確認した.

本論文中において製作した装置を用いて実際にPCRを行うことで,その性能について評価を行った.その結果,モデルとして用いた大腸菌のゲノムDNAから,標的とした遺伝子断片(16S rRNA 遺伝子)を高効率かつ高速に増幅することできた.また,あらかじめDNA抽出を行わず,大腸菌の菌体から直接PCRによる遺伝子断片を行う方法(ダイレクトPCR)も,製作したFlow-through PCR装置を用いて行うことが可能であった.ダイレクトPCR法を応用して,実際に増殖中の大腸菌培養液をサンプルとして用いた連続的なPCRを行ったところ,大腸菌の増殖の様子を連続的にとらえることに成功した.また,その実験には約13時間を要したことから,長時間にわたって安定したPCRを行うことが可能であることも示された.

さらに,本論文中において,深海等に代表される様な高水圧環境下におけるPCRの可能性についても検討し,DNA変成温度等の反応条件を調節することで高圧条件下PCRは可能であることを述べた.そこで,高圧かつ低温の深海環境を模擬するシステム,「高圧実験水槽システム」を構築し,それとFlow-through PCR装置を用いて高圧条件下PCRを行った.10MPa,30MPa(それぞれ水深約1000m及び3000mに相当)条件下で装置を稼働させ,PCRを行った結果,それぞれの条件下において標的とした遺伝子断片の増幅を確認できた.また,高圧力によるPCRへの阻害効果などはほとんど見られなかった(図4).

以上の様に,本論文中で製作した現場型Flow-through PCR装置を用いることで,連続的なPCRによる活動的な微生物相の経時的な変化をとらえることが可能であることが実証され,また,その装置は深海などの高圧環境下で使用することも可能であった.この現場型Flow-through PCR装置にさらに細菌などの菌体からDNAを抽出する機能や,増幅した遺伝子断片の解析機能を集積化することで,最終的な目的である「現場型遺伝子解析装置」を実現することができる. また,本論文で取り扱ったPCRは,溶液の混合,正確な温度制御,送液等,他の生化学反応に必要なほとんどの要素技術を含んでおり,この現場型Flow-through PCR装置の開発によって得られた知見は,今後様々な現場で用いるための生化学分析装置を開発するにあたって,非常に有用なものであると確信する.

本論文の構成を以下にまとめる.本論文は全9章から成る.

第1章では本研究の目的と概要,及びその背景,特に環境微生物を対象とした遺伝子解析の重要性と研究の現状について概説し,現場型遺伝子解析装置の重要性について論じた.

第2章では遺伝子解析において重要な要素である PCRについて説明し,mTAS等の研究分野において,主にマイクロ加工技術によって製作された装置について,主にPCRを目的としたものを例示しながら概観する.また,連続的なPCRを行うための方法としてFlow-through (連続流動)PCR法を挙げ,そのためのマイクロデバイスについてもその特徴と開発の現状などについて述べた.

第3章では,現場型遺伝子解析装置の設計要件について,主に海洋環境で用いることを想定して論ずる.また,実際に活用されている海中探査機への搭載を仮想し,さらに詳細な設計要件と,それを満たすために必要な要素技術についての課題抽出を行う.

第4章では高圧環境下におけるPCRの可能性を議論するため,PCRに不可欠な酵素であるDNAポリメラーゼ及びDNAに対する圧力の影響について考察し,高圧条件下で起こり得る問題とその解決法等について論じた.

第5章では主に第3章で論じる設計要件に基づいて,マイクロ加工技術を応用した現場型Flow-through PCR装置の製作のための具体的な設計を,主に温度コントロール基盤,微細流路チップ,ポンプ・バルブ等の送液系に分けて述べた.

第6章では,第5章で設計を行ったFlow-through PCR装置の製作,主に薄膜材料(ITO及び白金)のウエットエッチングによるパターニングとシリコンウエハ上に形成された反転型(モールドマスタ)を用いたPDMSのモールディング(型取り)による微細流路チップの製作と,MPCポリマーを用いた表面処理プロセスについて述べる.また,送液系の選択及び装置制御に必要なアンプ基盤等の製作についても述べた.

第7章では本論文で製作した現場型Flow-through PCR装置を用いて,基礎的な評価実験及び連続的解析に関する評価を行い,その結果について論じた.また,高圧実験を行うためのシステム(高圧実験水槽システム)の構築についても述べ,それを用いた高圧条件下でのPCRについてその結果と考察を論じた.

第8章では本論文中において製作し,評価を行ったFlow-through PCR装置について,現場型遺伝子解析装置の一部としての要件を満たしているかについて,主に第3章で挙げた要件と対比しながら考察を行った.

最後に,第9章において本論文の内容をまとめ,現場型遺伝子解析装置実現の為の今後の展開等について述べた.

遺伝子解析の要素技術

Flow-through PCRの概念図

Flow-through PCR 装置

高圧条件下におけるPCRの結果(左10MPa ,右30MPa)

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,主にマイクロ加工技術を応用して小型・自動の現場型遺伝子解析装置を実現するための基礎技術の研究に関するものである.深海・地底などの極限的な環境において、遺伝子を用いた分子生物学的解析及び,標的とした微生物(相)の検出等を目的として,実際に現場で用いることのできる遺伝子解析装置について検討を行っている。遺伝子解析装置を実現する為に必要な要素は,サンプルの回収から解析に至るまで,一連の要素技術に分けることができるが、本論文では特に,遺伝子解析において非常に重要な反応操作である,PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)法を用いた遺伝子断片の増幅を現場で行うための小型・自動装置を対象としている.

具体的には、連続的なPCRを行うためにFlow-through PCR方式を採用し,マイクロ加工によって製作したガラス製温度コントロール基板及びシリコーンゴム(ポリジメチルシロキサン:PDMS)製微細流路チップに小型の送液系及び制御装置を組み合わせることによって「現場型Flow-through PCR装置」を製作し、その性能評価を行うことを通して、当該装置の設計要件について論じると同時に必要な技術要素の解決をはかったものである。

製作した装置を用いた性能評価として、まず、モデルとして用いた大腸菌ゲノムDNAから,標的とした遺伝子断片を高効率かつ高速に増幅することできることを示し、さらに,深海に代表される様な高圧環境下におけるPCRの可能性についても検討を行うために,高圧かつ低温の深海環境を模擬するシステム,「高圧実験水槽システム」を構築し,それを用いた高圧条件下PCRを試みている.10MPa,30MPa(それぞれ水深約1000m及び3000mに相当)条件下で装置を稼働させ,PCRを行った結果,それぞれの条件下において標的とした遺伝子断片の増幅が確認され、高圧力によるPCRへの阻害効果などはほとんど見られないことが明らかになった.

本論文の第1章では研究の目的と概要,及びその背景,特に環境微生物を対象とした遺伝子解析についての概説と,現場型遺伝子解析装置の重要性が論じられている.

第2章では遺伝子解析において重要な要素である PCRについての説明がなされ,マイクロ加工技術によって制作されたマイクロデバイスについて,主にPCRを目的としたものを概観している.また,連続的なPCRを行うための方法としてFlow-through (連続流動)PCR法を挙げ,そのためのマイクロデバイスの特徴などについて述べている.

第3章では,現場型遺伝子解析装置の設計要件について,主に海洋環境で用いることを想定した議論を行っている。また,実際に稼働している海中探査機への搭載を想定した上で,さらに詳細な設計要件と,それを満たすために必要な技術課題の抽出を行っている.

第4章では高圧環境下におけるPCRの可能性を議論するため,PCRに不可欠な酵素であるDNAポリメラーゼ及びDNAに対する圧力の影響について考察し,起こり得る問題とその解決法等について論じている.

第5章では主に第3章で論じた設計要件に基づき,マイクロ加工技術を応用したFlow-through PCR装置の製作のための具体的な設計について述べている.

第6章では,第5章で設計を行ったFlow-through PCR装置の製作,主に薄膜材料のウエットエッチングによるパターニングとPDMSのモールディング(型取り)による微細流路構造の製作過程と表面処理プロセスについて述べている.また,送液系の選択,制御系の製作についても合わせて論じている.

第7章では本論文で製作した現場型Flow-through PCR装置を用いた基礎的な評価実験の結果を示している.また,高圧実験を行うためのシステムの構築についても述べ,それを用いた高圧条件下でのPCRについてその結果と考察が述べられている.

第8章では本論文中において製作し,評価を行ったFlow-through PCR装置について,現場型遺伝子解析装置の一部としての要件を満たしているかについての考察を行っている。

最後に,第9章において論文のまとめと,現場型遺伝子解析装置実現のための今後の展開について述べている.

以上のように、本論文はこれまでほとんど議論されてこなかったマイクロ流体デバイスの極限環境での応用に着目し、その可能性と実現への道筋について世界で初めて議論を行ったものである。本論文によって研究、開発された技術は、今後の深海等の極限環境における現場遺伝子解析への道を拓くものであり、環境海洋工学に資するところがきわめて大きい。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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