学位論文要旨



No 119183
著者(漢字) 友田,生織
著者(英字)
著者(カナ) ともだ,いおり
標題(和) 脱リグニン漂白試薬としてのアルカリ性過酸化水素の作用
標題(洋)
報告番号 119183
報告番号 甲19183
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2734号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物材料科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 飯塚,尭介
 東京大学 教授 鮫島,正浩
 東京大学 教授 磯貝,明
 東京大学 助教授 竹村,彰夫
 東京大学 助教授 松本,雄二
内容要旨 要旨を表示する

紙パルプ産業は、大量の水・エネルギーを消費する非常に環境負荷の大きい産業である。とくに、従来の製紙業界では、塩素系漂白試薬を使うことでパルプの漂白を行っていたため、漂白過程中でのダイオキシンやクロロホルムといった有害な有機塩素化合物の発生は免れなかった。しかし、近年の環境問題意識のめざましい高揚により、各産業が環境負荷の低減に取り組まざるを得なくなった。製紙業界も例外ではない。そこで、製紙業界は漂白行程を従来の塩素系漂白試薬を用いたものから、分子状塩素を使用しないECF漂白、さらには全く塩素系漂白試薬を使用しないTCF漂白へと転換している。ECF・TCF漂白では、塩素系漂白試薬の代わりに、酸素系漂白試薬として酸素・オゾンなどと並んで過酸化水素が用いられる。しかし、過酸化水素がどのようにリグニンを分解・除去するかという点については反応機構的に不明な点が多い。そこで本研究では、脱リグニン漂白試薬としてのアルカリ性過酸化水素の作用について検討を行った。

酸素系漂白試薬とリグニンとの反応性に大きく寄与する化学構造として、リグニン側鎖α−カルボニル基が挙げられる。リグニン側鎖α位にカルボニル基が存在すると、リグニン芳香核への酸素・オゾンの反応性は低下するが、過酸化水素とリグニン側鎖の反応は促進されると考えられている。また、酸素漂白中にリグニン側鎖α−カルボニル基量が増加することも示されている。このように、α−カルボニル基は酸素系漂白における反応性を左右する非常に重要な構造であるが、パルプから残存リグニンを単離することなく、その量を求める方法は存在していなかった。残存リグニンを単離したのちα−カルボニル基量を定量する場合、カルボニル基の反応性が高いために、単離過程での変質が避けらないこと、また、単離したリグニンは決して残存リグニン全体を代表しないことなど問題が多い。そこで、本論文ではまず、パルプから残存リグニンを単離することなく簡便にα−カルボニル基量を定量する方法を提案した。この方法はα−カルボニル基の重水素化ホウ素ナトリウム還元による重水素ラベルとアルカリ性ニトロベンゼン酸化を用いたものである(Fig.1)。重水素化ホウ素ナトリウム還元によって重水素ラベルをされたベンジルアルコール型構造のニトロベンゼン酸化では芳香族アルデヒドのフォルミル位に重水素が保持されたものが得られる。このフォルミル位に重水素を保持した芳香族アルデヒド量と、重水素を保持していない芳香族アルデヒド量を比較することで、残存リグニン中のα−カルボニル基量を定量することができる。本法では、芳香族アルデヒド量の比較法として、GC-MS分析で得られるマススペクトルのピーク高さの比から検量線を用いて同位体比を求めることによった。しかし、通常のニトロベンゼン酸化の反応条件(2M NaOHaq, 170oC, 120min)で得られた芳香族アルデヒドでは、フォルミル位の重水素−水素交換(D-H交換)が生じており、重水素の保持率は極めて低率であった。例えば、重水素を側鎖α位に保持したGuaiacylglycerol b-guaiacyl ether(GGD)を用いて実験を行った場合、ニトロベンゼン酸化で得られたバニリンのフォルミル位に保持されていた重水素は約20%であった。そこで、芳香族アルデヒドのフォルミル位の重水素保持率を上げるべく、ニトロベンゼン酸化反応条件の検討を行った。その結果、反応時間を短くすること(120minR60min)、アルカリ濃度を低くすること(2MR0.5M)で若干の保持率改善が見られたが、GGDを用いた実験の結果、重水素の保持率は約40%にとどまった。そこで、D-H交換は求電子置換反応(SE2 Reaction)に基づくとの仮説のもとに、用いるアルカリのカウンターカチオンの種類を変えて、求電子置換反応を抑制することで、重水素の保持率の向上を試みた。その結果、水酸化リチウムをアルカリとして用いることで高い重水素保持率と定量の簡便性を両立することに成功した。GGDを用いた場合、改良されたニトロベンゼン酸化条件(0.5M LiOHaq, 170oC, 60min)で得られたバニリンのフォルミル位の重水素保持率は約70%まで上昇した。

この反応条件を用いたスキームを実際のリグニンサンプルに適用してα−カルボニル期の定量が可能かどうか確認するために、MWL (milled wood lignin) を用いて一連の実験を行った。まずDDQ酸化によってα−カルボニル基量を増加させたDDQMWLを種々の条件でアルカリ過酸化水素処理に供し、α−カルボニル基量を変化させた。次いでこの変化が本定量法にて追跡可能かどうかを検証した。その結果(Fig.2)、イオン化した過酸化水素が積極的にα−カルボニル基を攻撃していることが示されたが、このことはカルボニル基と過酸化水素の反応の有機化学的な既往の知見に合致している。よって、この方法が実際のリグニンに対しても適用可能であると判断した。

次に、本定量法の利点がもっとも生かされる固体資料に対する適用として、酸素漂白クラフトパルプ(NOKP)の、アルカリ過酸化水素処理時におけるα−カルボニル基量の変化を追跡した (Fig.3)。その結果、イオン化した過酸化水素が存在する場合、パルプ残存リグニン中のα−カルボニル基量が減少することが示され(Fig.3b)、この方法が固体資料にも適用可能であると判断された。また、過酸化水素を加えずにアルカリ処理を行うと、NOKPのニトロベンゼン酸化によるバニリン収量が、未処理のNOKPに比べて大幅に増加することがわかった (Fig.3a)。NOKPがそれまでに蒸解・酸素漂白過程で受けたアルカリ処理より温和な条件でパルプ残存リグニンの構造が大きく変化したことを示しており、温和なアルカリ処理におけるリグニンの化学について検討を要することを示している。また、NOKPの温和なアルカリ処理によるバニリン収量の増加が過酸化水素を添加することによって抑制される (Fig.3b, c)ことは、過酸化水素の“隠れた役割”として注目された。

NOKPのアルカリ性過酸化水素処理による残存リグニンの量の変化をカッパー価によって追跡した。処理過程でパルプから除去されるリグニン量についても、処理液の過マンガン酸カリウム消費量に基づいて推定した。その結果、(1)過酸化水素が存在しないアルカリ処理ではpHが高い場合過マンガン酸カリウム消費物の新たな生成と、過マンガン酸カリウム消費物のパルプからの部分的な除去という2つの現象が見られる(Fig.4a)、(2)過酸化水素はイオン化の如何に関わらずパルプのカッパー価を下げる能力を持つが、その能力はイオン化した過酸化水素の方が大きい(Fig4b, 4c)、(3)過酸化水素は、(i)過マンガン酸カリウム消費物の破壊、(ii)過マンガン酸カリウム消費物の新たな生成の抑制、(iii)過マンガン酸カリウム消費物のパルプへの再吸着の防止 (Fig4c, 4d)という3つの作用を通じてパルプのカッパー価を下げる、(4)高pHでは(ii)(iii)の作用が顕著であり低pHでは(i)が顕著である、以上のことが示唆された。

ここで示唆された(iii)の作用が、リグニンの重合の防止によるのであれば、アルカリ処理による重合でリグニンの分子量は増加し、過酸化水素の添加によって分子量増加の抑制が見られるはずである。そこで、アルカリ単独で処理したMWLとアルカリ過酸化水素処理したMWLとの分子量分布の差をゲル濾過によって比較した結果、前者の方が分子量分布が高分子側にシフトしていることが認められた。

アルカリ性下でのリグニンの重合反応として、キノンメチドα位への反応が考えられる。また、それを競合的に抑制する過酸化水素の反応として、hydroperoxy anionの付加とそれに引き続くdakin like反応を考えることができる(Fig.5)。その場合、アルカリ過酸化水素処理に供したリグニンと過酸化水素無しでアルカリ処理をしたリグニンでは、処理後のリグニンの側鎖に違いが生じると考えられる。そこで、種々の条件下でアルカリ過酸化水素処理をしたMWLに対して、オゾン分解法を用いてリグニンの側鎖構造の分析を行った(Fig.6)。その結果、hydroperoxy anionの存在した場合の方がアルカリ単独処理の場合より、オゾン分解後のエリスロン酸・スレオン酸の合計収量が多くなっており、イオン化した過酸化水素はリグニン側鎖構造の保護機能を有し、重合を防止し得ることが示唆されるとともに、リグニンの分解に大きな寄与がないことが示された。一方、過酸化水素から活性酸素種の発生する条件下で処理されたMWLからのオゾン分解生成物(エリスロン酸・スレオン酸)の合計収量は、アルカリ単独処理と比べても小さくなっており、過酸化水素から発生する活性酸素種がリグニン分解に積極的に関わることが示された。

Determination method of α-carbonyl structure in solid lignin

Ration of D-vanillin to total vanillin produced by nitrobenzene oxi dati on of ce dar DDQMWL Treatment condition A: pH13 alkali with out H2O2 B: pH10 alkali with H2O2 C: pH13 alkali with H2O2

Yield of D-vanillin and H-Vanillin produced by nitrobebzene oxidation of NOKP a: pH13 without hydrogen peroxide b: pH13 with hydrogen peroxide c: pH10 with hydrogen peroxide

Increase and decrease of kappa mumber of NOKP and reaction lipuor treate by hydrogen peroxide Data points are 0, 10, 30, 60 min, reaction temperature 90℃ other reation condition a: pH13 without H2O2, b: pH11 with H2O2, C: pH11 with H2O2, d: pH13 with H2O2

Reaction of quinonemethide under alkali hydrogen peroxide

Total amount of erythronic acid and threonic acid after ozone treatment to hydrogen peroxide treatment MWL

審査要旨 要旨を表示する

紙パルプ産業は、大量の水・エネルギーを消費する非常に環境負荷の大きい産業である。とくに、従来の製紙業界では、塩素系漂白試薬を使うことでパルプの漂白を行っていたため、漂白過程でのダイオキシンやクロロホルムといった有害な有機塩素化合物の発生を免れ得なかった。しかし、当該産業の今後の発展のためには、産業の環境負荷の抜本的な低減を図ることが不可欠である。そのような観点から、紙パルプ産業では漂白工程を分子状塩素を使用しないECF漂白、さらには全く塩素系漂白試薬を使用しないTCF漂白へと転換している。ECFおよびTCF漂白では、漂白試薬として二酸化塩素、酸素およびオゾンとともに、過酸化水素が用いられる。しかし、過酸化水素がどのような反応機構によって、リグニンの分解、除去に寄与するかについては不明な点が多い。そこで本研究では、脱リグニン漂白試薬としてのアルカリ性過酸化水素の作用機構について詳細な検討を行った。

酸素系漂白試薬とリグニンとの反応性に大きく寄与する化学構造として、リグニン側鎖α−カルボニル基が挙げられる。リグニン側鎖α位にカルボニル基が存在することによって、リグニン芳香核への酸素およびオゾンの反応性は低下するが、過酸化水素とリグニン側鎖との反応は逆に促進されると考えられている。また、酸素漂白中にリグニン側鎖α−カルボニル基量が増加することも示されている。このように、α−カルボニル基は酸素系漂白における反応性を左右する非常に重要な構造であるが、パルプから残存リグニンを単離することなく、その量を求める方法はこれまで存在していない。残存リグニンを単離したのちα−カルボニル基量を定量する場合、カルボニル基の反応性が高いために、単離過程での変質が避けらないこと、また、単離したリグニンは決して残存リグニン全体を代表しないことなど問題が多い。そこで、本論文ではまず、パルプから残存リグニンを単離することなく簡便にα−カルボニル基量を定量する方法を提案した。この方法はα−カルボニル基の重水素化ホウ素ナトリウム還元による側鎖α−位の重水素ラベルとアルカリ性ニトロベンゼン酸化を用いたものである。これによって芳香族アルデヒドのフォルミル位に重水素が保持されたものが得られるが、この量と重水素を保持していない芳香族アルデヒド量とを比較することで、残存リグニン中のα−カルボニル基量を定量することができる。 定量はGC-MS分析で得られるマススペクトルのピーク高さの比から検量線を用いて同位体比を求めることによった。しかし、通常の反応条件(2M NaOHaq, 170oC, 120min)でのニトロベンゼン酸化においては、フォルミル位の重水素−水素交換(D-H交換)が顕著であり、この方法によるα−カルボニル基の定量値は信頼性に問題があった。重水素の保持率を高めるために反応条件を種々検討した結果、アルカリを水酸化リチウムに変えるとともに、濃度を下げた反応条件((0.5M LiOHaq, 170oC, 60min)において、重水素保持率が約70%となり、本法によるα−カルボニル基の定量が可能であると判断した。さらに、DDQ酸化によってα−カルボニル基量を増加させたDDQ・MWLを試料として、本法によりリグニン中のα−カルボニル基の推移を把握することが可能であることを確認した。

次いで、実際のパルプ試料中の残存リグニンに含まれるα−カルボニル基の定量の可能性について検討した。酸素漂白クラフトパルプ(NOKP)のアルカリ性過酸化水素処理時におけるα−カルボニル基量の変化を追跡した結果、イオン化した過酸化水素が存在する場合、パルプ残存リグニン中のα−カルボニル基量が減少することが示され、この方法が固体試料にも適用可能であると判断された。また、過酸化水素無添加でのアルカリ処理によって、NOKPのニトロベンゼン酸化によるバニリン収量が、未処理のNOKPに比べて大幅に増加することがわかった。NOKPがそれまでに蒸解・酸素漂白過程で受けたアルカリ処理に比較して、より温和な条件でパルプ残存リグニンの構造が大きく変化したことを示しており、温和なアルカリ処理におけるリグニンの化学について検討を要することを示している。また、NOKPの温和なアルカリ処理によるバニリン収量の増加が過酸化水素を添加することによって抑制され、上述のように逆に減少することは、過酸化水素の“隠れた役割”として注目される。

NOKPのアルカリ性過酸化水素処理による残存リグニン量の変化をカッパー価によって追跡した。処理過程でパルプから除去されるリグニン量についても、処理液の過マンガン酸カリウム消費量に基づいて推定した。その結果明らかとなったことは、以下のように要約される。(1)過酸化水素無添加でのアルカリ処理では、pHが高い場合過マンガン酸カリウム消費性の物質の新たな生成と、過マンガン酸カリウム消費性物質のパルプからの部分的な除去という2つの現象が認められた。(2)過酸化水素はイオン化の如何に関わらずパルプのカッパー価を下げる能力を持つが、その能力はイオン化した過酸化水素の方が大きい。(3)過酸化水素は、(i)過マンガン酸カリウム消費性物質生成の抑制、(ii) 同物質の分解、(iii)パルプへの再吸着の防止、の作用を通じてパルプのカッパー価を下げる。 (4)高pHでは(ii)(iii)の作用が顕著であり低pHでは(i)が顕著である。

アルカリ性過酸化水素処理におけるパルプ残存リグニンの構造変化を、MWLを試料とし、オゾン分解反応による側鎖由来の分解性生物であるエリスロン酸、スレオン酸の収量から検討したところ、イオン化した過酸化水素の存在によって収量が増加することが確認された。このことは過酸化水素のイオン化によって生成するヒドロパ-オキシアニオンのキノンメチドへの反応によって、キノンメチド構造を基点としたリグニンの縮合が抑制されることを示しており、パルプ試料で認められた現象と符号する結果であるといえる。

以上、要するに本論文は非塩素系パルプ漂白の進展の中で重要性を増しているアルカリ性過酸化水素漂白における過酸化水素の反応について詳細に検討したものであり、基礎的にも、応用学上も極めて重要な内容を含んでいる。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)に相当すると判断した。

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