学位論文要旨



No 119481
著者(漢字) 宮村,亜位子
著者(英字)
著者(カナ) ミヤムラ,アイコ
標題(和) 遅れ時間を持つネットワークの安定性および構造的可同定性の理論解析
標題(洋) Theoretical Analysis of Stability and Structural Identifiability on Delayed Networks
報告番号 119481
報告番号 甲19481
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第29号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 複雑理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 合原,一幸
 東京大学 教授 木村,英紀
 東京大学 教授 高瀬,雄一
 東京大学 教授 室田,一雄
 東京大学 助教授 伊庭,斉志
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

現実の物理現象の挙動をモデル化する際に時間遅れ要素の扱いは常につきまとう問題の一つであり、その扱いによっては構成したモデルの本質的な性質を決定することもある。無限次元システムの一つのクラスを表す遅れ時間システムは伝搬や輸送現象や人口動学を表現するものとして広く利用されてきており、経済システムにおいても意思決定とその効果の出現に時間的なずれが存在することからも時間遅れシステムと捕らえることが出来る。また、別の見方をすれば時間遅れをモデルの中に入れることによってモデルの記述を簡単化をしていることになる。一方でシステムの安定性に及ぼす遅れ時間要素の影響は、少しの遅れ時間の存在によって系の挙動が非常に複雑になるということから多くの研究者の興味を惹いてきた。つまり小さな遅れ時間が安定なシステムを不安定化する一方で大きな時間遅れが不安的なシステムを安定化することもあるからである。こういつた遅れ時間を含むシステムの性質から、非常に複雑なシステムを単に遅れ時間を挿入することで簡単な記述で精度のいい近似が出来たり、巨大な次元をもつシステムを時間遅れを用いることで低次元のシステムで記述されたりもする。

遅れ時間を内在するようなネットワークの例として遺伝子ネットワークが挙げられる。mRNAの転写や伸展過程、mRNAの核外への輸送、たんぱく質の核内への輸送、翻訳過程など様々な遺伝子ネットワーク中の過程において無視できないサイズの時間遅れの存在が示唆されており、時間の遅れの存在によって遺伝子ネットワークの挙動が複雑化され、サーカディアンリズムのような振動現象の根本的な機構に関わっているのではないかという意見も少なくない。しかし、実際は時間遅れの影響を明確に考慮に入れた研究は非常に少なく、ほとんどの遺伝子ネットワークの設計や推定などに関する研究は時間遅れがない理想化されたモデルを用いた形で進められているのが現状である。

本研究では、このような遅れ時間を内在するようなネットワークの安定性及び構造的可同定性について理論的な解析を一般的な枠組みで行うことを目的としている。

遅れ時間システムの安定性解析:LMIによる手法

遅れ時間システムの安定性を解析する多くの手法が現在までに提案されている。本論文では時間空間での安定性解析の手法であるリャプノフ第二関数を用いた解析手法の中でも、リャプノフ・クラソフスキー関数を用いた安定性解析を線形不等式 (LMI) の形で表現することによって計算機で効率的に解くことができる手法の提案を行っている。遅れ時間システムの安定性に関しては遅れ時間の大きさに依存するタイプの安定性かもしくは依存しないタイプ、つまり無限大の遅れ時間も考慮に入れたような安定性の両方について議論されるが、本論文では遅れ時間の大きさの変化によって安定な状態から不安定な状態へと変化するところに興味があるので遅れ時間の大きさに依存タイプの安定性について扱う。

ロバスト安定性解析

実システムの数理モデルの記述に用いられたパラメータ値が全く正値であると断定できる場合は極めで稀である。なぜならば実システムに含まれるパラメータ値は多くの実験を経て決められた平均的な値である場合が多く、また環境の微妙な変化によってそのパラメータ値にも多少の変動が起きるからである。このようなにシステムのパラメータに不確かな要素が内在しているという状況に我々はよく遭遇する。対象となるシステムに不確かさ要素が含まれている場合、不確かさを含めた領域全てに対してシステムの安定性を保証したいという要望は自然なものであり、そういった安定性をロバスト安定性と呼ぶ。但し大抵の場合その不確かさは有限であり、その上限はある値によって抑えられる。そこで本論文では不確かさを含んだ遅れ時間線形システムとして次のものを考える:〓ここでx(t)∈Rnはシステムの状態変数で遅れ時間hは既知と仮定する。行列A、Adはn次元の正方行列でΔA(・)、ΔAd(・)は時変な変数上の不確かさを表す実行列関数である。ここで想定する不確かさは次のような有限なノルムを持つ。〓ここで、F(t)は‖Fi(t)‖〓1を満たすルベーグ可測な要素を持つ未知の時変行列関数であり、E1、E2、Lはどのように不確かさ変数Fが行列AおよびAdにかかっているかを表す既知の実行列とする。このような遅れ時間線形システムがロバスト安定であるための条件をLMIを用いた形で与え、実際に他の手法よりもより精度が高いことを数値計算を用いて示すと供に、3つの遺伝子が側抑制しあっている遺伝子ネットワークモデルのロバスト安定性解析を行い本手法の有用性を示した。

また、遅れ時間非線形システムとして〓のようなシステムを考える。ここで、各変数に関しては線形システムの場合と同様で、f(x(t))は有界かつ十分なめらかな関数であると仮定する。このような遅れ時間非線形システムに対しても同様にLMIを用いた形でロバスト安定であるための条件を導出した。

また、上の結果を遅れ時間をもつ確率微分方程式のロバスト安定解析へと拡張するため〓のようなシステムを考える。ここで、x(t)〓Rnはシステムの状態変数で遅れ時間h>0は既知であると仮定する。w(t)を確率空間上で定義されたブラウン運動とし、行列A、Ad、B、Bdは定数行列でΔA(・)、ΔAd(・)、ΔB(・)、ΔBd(・)は実行列関数で時変な変数上の不確かさを表している。ここでは、不確かさとして〓を考える。このような遅れ時間をもつ線形確率微分方程式や同様に(2)を確率微分方程式に拡張した非線形確率微分方程式に対してもLMIを用いてロバスト安定であるための条件を導出した。

連続遅れ時間付きシステムの安定性解析

これまでは離散的な遅れ時間を持つシステムのみについて考えてきたが離散的な遅れ時間は連続的な遅れ時間の近時であると考えられる。実際のシステムにおいても連続的な遅れ時間を考えなければならないケースもある。したがって、ここでは離散的な遅れ時間と連続的な遅れ時間の両方を持つようなシステムを考える。〓ここで、関数B(s),Bd(s)は連続遅れ時間の分布を表している。このような離散・連続時間を持つシステムがhとγに依存した安定性をLMIを用いた形で提案し、数値計算をもちいてその有効性を示した。特に化学・生物システムに多く見られる連続遅れ時間の分布が指数分布やガウス分布の場合については適当な変数変換を施すことによって離散的な遅れ時間のみのシステムに変換できることを示した。

遅れ時間システムの構造的可同定性について

未知のネットワークの構造を入力信号と可観測な状態の情報を用いて推定・同定したいという要望はさまざまな場面で出てくる。特に対象となるネットワークに未知の遅れ時間が内在している場合、問題は更に複雑になる。こういつた場合、対象となるネットワークの取りうる構造が同定可能である構造上の最低条件を満たしているか事前に知ることは、実際に同定を計画する際の入力位置の特定に有効である。

ここでは、未知の遅れ時間を持つ線形遅れ時間システムの可同定性について通常システムと特異システムに対して議論する。

通常システムの構造的可同定性

遅れ時間をもつシステムとして〓を考える。x(・)∈Rnは状態、input u(・)∈Rpは入力を表しており、状態と入力に含まれる遅れ時間は0=γ0<γ1<γ2<…<γr, 0=h0<h1<h2<…<hlと係数行列Ai,i=0,1,2,…,γとBi、i=0,1,2,…,lは同定対象である.初期関数ψ(・)は区間[-γr,0]において十分滑らかであると仮定する。この仮定により局所可積分な入力によってシステム(5)が一意な解をもつことが知られている。システム(5)が任意の初期状態で可同定であるということは、ある制御入力u(t)が存在して適当なモデルシステムに対して(5)とモデルシステムの状態の等値が(5)とモデルシステムのシステムパラメータ及び遅れ時間の等値と等価であることと定義する。このとき遅れ時間システム(5)の可同定性はシステムの弱可制御性で示されることを紹介し、システムのパラメータの値が零かそれ以外かは分かっても正確な値は未知である場合に対して未知パラメータが取りうる集合が分かっている場合に可同定であるネットワーク構造上の最低条件を対応する有向グラフの条件として与えた。

特異システムの構造的可同定性

次により一般的な線形遅れ時間システムのクラスとしての遅れ時間記述子システム〓がある。特にFが特異行列の場合は特異システムとよび、具体的には微分方程式と代数方程式が混合したシステムを表しており、インパルス的挙動に代表される特徴を持っている。まずは特異システム(6)で遅れ時間が入力信号にのみ存在するようなも〓を考え、あるsが存在してdet(sF-A)〓0を満たすとする。その時、(7)を標準形に変換する変換が存在し、その上で超関数定理を用いることによって特異的な挙動と通常の挙動を分離するといった手法で特異システム(7)の可同定性が(7)の弱S可制御性で示されることを導出し、通常システムの場合と同様にシステムのパラメータの値が零かそれ以外かは分かっても正確な値は未知である場合に対して未知パラメータが取りうる集合が分かっている場合に可同定であるネットワーク構造上の最低条件を対応する二部グラフの条件として与えた。与えられる条件は遅れ時間を含む巨大ネットワークの可同定性を計算機で多項式時間内に検査できるものであるため実システムへの応用に適しているといえる。また同様にしてより一般的なシステムである(6)に対してもいくつかの場合に分けその可同定性についての条件を与えた。

審査要旨 要旨を表示する

自然現象を数理モデル化する際に遅れ時間要素は不可避であるばかりでなくシステムの挙動に大きく影響を及ぼすため、その扱いが対象としている現象の根本原理を真に理解する為の鍵となることがしばしばある。遅れ時間システムは無限次元システムを表すクラスの一つであり、生命情報システムや経済システムなどのモデルとして広く利用されている。本論文ではこのような遅れ時間システムの安定性と構造的可同定性という二つの性質に関して理論的な解析を行い、実用面も考慮して計算機での実装が容易である形式での各性質に関する判定手法を提案することを目的としている。この問題は制御器設計などの工学的に重要な多くの応用の基礎となるばかりでなく、生物学や経済学といった他分野への応用も期待されるものである。

本論文は,"Theoretical Analysis of Stability and Structural Identifiability on Delayed Networks" (和文題目 遅れ時間を持つネットワークの安定性および構造的可同定性の理論解析) と題し,全9章より成る.

第1章では、問題の背景となる遅れ時間システムの性質や従来の研究との関連などを述べ、本研究の位置付けを明確にしている。

第2章では、本論文で扱う問題の基礎的な数理知識を整理している。これによって各章での問題の提起が煩雑になることを避け、円滑に本題に入ることが可能となっている。

第3章では、複数の離散遅れ時間を有する線形及び非線形システムのシステムパラメータにノルム有界な不確かさが加算的に存在するとき、そのシステムのロバスト安定性を線形不等式(LMI)を用いた手法によって判定する手法をリャプノフ・クラソフスキー汎関数を用いて提案した。また、数値例により従来の手法より効果的であることを示すとともに、人工遺伝子ネットワークへの適応例を示し、他分野への応用について示唆した。

第4章では、第3章で扱ったシステムに確率要素が加わった遅れ時間を含む線形および非線形確率微分方程式にノルム有界な不確かさが加算的に存在する時のロバスト安定性を判定する手法を、LMIを用いた形で提案した。

第5章では、離散的な遅れ時間のみならず連続的な遅れ時間をも含む線形システムの安定性を判定する手法を、同じくLMIを用いた形で提案した。さらに連続的な遅れ時間が指数分布やガンマ分布などの特定の密度分布を持つ場合に対しては、新しい変数の導入により離散的な遅れ時間のみのシステムに還元できることを示した。

第6章では、遅れ時間システムの構造的可同定性という問題を定義し、線形通常状態空間システムに対しての可同定性問題を紹介したのち、その結果を構造的可同定性問題へと拡張するとともに、グラフ理論、特に有向グラフを用いてその条件を示した。

第7章では、第6章と同様の問題を遅れ時間を持つ特異システムに対して定義し、超関数の手法を用いて可同定であるための条件を導出し、さらに構造的可同定性へとその結果を拡張するとともに、グラフ理論、特に二部グラフを用いてその条件を示した。この結果は計算機での実装が容易かつ多項式時間内で解くことができることが示されており、電力供給網システムや脳といった未知な巨大システムの構造的可同定性を判定するのに適している。

第8章では、第6章と第7章での結果を生体システムや遺伝子ネットワーク、更には神経回路システムといった具体的なシステムへ適用することにより、提案手法の有効性を示している。

第9章では、本論文での結果が遅れ時間システムの安定性解析に関しては不確かさ要素や確率的要素や連続的遅れ時間といった実際問題で直面する問題点を考慮に入れた形で更に従来の手法よりも効果的な手法を提案していること、一方構造的可同定性に関してはこの種の問題の遅れ時間システムに対しての研究はほとんどないばかりでなく、遅れ時間を持つ特異システムといった更に難しい対象を本論文では扱っていることからも、世界的にも新しい問題に取り組んでいると結論付けている。

以上のように、本論文は遅れ時間を持つネットワークの理論及び応用に関して大きな成果を上げ、複雑理工学上貢献するところが大きい。なお、本論文第3章、4章、5章、6章、7章、8章は合原一幸との共同研究であるが、論文提出者が主体となって問題を提起しその解の導出を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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