学位論文要旨



No 119507
著者(漢字) 篠原,直秀
著者(英字)
著者(カナ) シノハラ,ナオヒデ
標題(和) 化学物質過敏症患者それぞれに過敏症状を発現させる化学物質の特定方法の確立とその応用
標題(洋) A new methodology to identify chemical compounds responsible for inducing hypersensitivity in individual multiple chemical sensitivity patient
報告番号 119507
報告番号 甲19507
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(環境学)
学位記番号 博創域第55号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 柳沢,幸雄
 東京大学 教授 影本,浩
 東京大学 助教授 吉永,淳
 東京大学 助教授 新井,充
 東京大学 助教授 熊野,宏昭
内容要旨 要旨を表示する

緒言

近年、住宅の高気密化と新建材の使用によって室内空気質の汚染が引き起こされ、その結果として化学物質過敏症(MCS)やシックハウス症候群等の疾患を持つ人が増えているといわれている。化学物質過敏症の症状としては、頭痛や筋肉痛、倦怠感等を示すと報告されているが1) 2)、患者が過敏症状を示す化学物質の種類・濃度は明らかになっていない。

MCS発症の引き金となった原因と、現在過敏症状を引き起こす化学物質・濃度や症状の種類との関係を明らかにする事を本研究の目的とした。

方法

開発した測定方法(AS-PS 法)の原理

過敏症発現時の化学物質の種類・濃度の特定のためには,平常時と過敏症状発現時の曝露物質及び濃度の違いを明らかにする必要がある。そのために、ポンプを用いて短時間での測定や断続的測定が可能なアクティブ法(Figure 1 (A))と、分子拡散の原理を用いた身軽で複雑な操作も要さないパッシブ法(Figure 1 (B))を併用した手法を考案した。

化学物質過敏症患者に、1 週間程度の間アクティブ法としてポンプにつないだサンプラーとパッシブ法のサンプラーを持って行動させ、症状を感じた時のみポンプのスイッチを入れてアクティブサンプリングを行う方法である。パッシブ法による測定値が通常生活時の濃度,アクティブ法による測定値が症状発現時の濃度を表す。そのアクティブ法の結果がパッシブ法の結果よりも高濃度であった場合、その化学物質及び濃度が症状を発現させて入る可能性があると考えられる。本測定方法を、AS-PS 法と呼ぶこととする。

この測定方法を,模式的な分析結果(Figure 2)を用いて説明する。アクティブ法とパッシブ法により,AとBの2種類の化学物質が検出したとする。物質Aは,症状を感じている時の濃度が,症状を感じない時の濃度(一週間の平均曝露濃度)よりも高いことから、過敏症状を引き起こしている可能性のある物質といえる。物質B は,症状を感じている時の濃度が,症状を感じない時の濃度より低いことから,その濃度では症状を発現させないことがわかる。

本研究では、以下の式CAS×(100-RSDAS)>CPS×(100+RSDPS) (1)(CAS [ppb]: アクティブ法から得られた濃度, RSDAS [%]: アクティブ法の精度, CPS [ppb]: パッシブ法から得られた濃度, RSDPS [%]: パッシブ法の精度) を満たしている時に、アクティブ法の結果がパッシブ法の結果より高いとした。

測定方法

上記の方法を用いて、カルボニル類とVOC 類への曝露濃度を測定した。カルボニル類は、DNPH カートリッジ (XPoSure, Waters Ltd.)で捕集し、VOC 類は活性炭チューブ(柴田科学)で捕集した。

ポンプは、750〜3000mL/min まで引けるポンプ(AirCheck2000, SKC Inc.)を用いて、ニードルバルブ(224-26-02, SKC Inc.)により流路を二つに分け、カルボニル類用・VOC 類用それぞれのアクティブサンプラーに接続させた。VOC 類は捕集量を多く必要とするため、カルボニル類とVOC 類のサンプラーに流す流量は、約350L/minと約650L/min とした。この流量は測定前後に5回ずつ石鹸膜流量計を用いて測定し、その平均値を流量として計算した。その前後の平均流量が、10%以上であったサンプルに関しては、そのデータを棄却することとした3)。

分析方法

カルボニル類は、アセトニトリル(HPLC 用純度99.8 %, 和光純薬)10mLを用いてカートリッジから抽出をした。分析は、HPLC-ダイオードアレイ検出器(HP1100, Hewlett Packard)によって行った。

VOC類は、1mlの二硫化炭素(作業環境試験用,和光純薬)を用いて、約10分超音波抽出した。分析は、GC-MS (HP 6890 - HP 5973, Hewlett Packard)で行った。内部標準試薬として、トルエンd8 を用いた。

分析における定量限界、精度、回収率等の一部をTable 1 に示す。

対象の患者

対象は、北里大学研究所病院において、問診および眼球運動と瞳孔の対光反応検査によって化学物質過敏症と診断された患者のうち,本調査の目的,方法などについてじゅうぶん説明をした上で,調査への協力を口頭で同意してくれた38 人とした。38 人の患者とした4)。

患者の職業は、主婦(N=13)、学生(N=5)、会社員(自営業も含む)(N=11)、デザイナー/イラストレーター(N=2)、研究職(検査士を含む)(N=4)、その他(N=3)であった。男女比は、14 人が男性で24 人が女性であった。年齢は、10 代3 人、20 代3 人、30 代18人、40 代10 人、50 代3 人、60 代1 人であった。

過敏症の発症要因は、新築の家に入居(N=20)、研究所等での化学実験(N=4)、職場でのインク・有機溶剤等への曝露(N=6)、防虫・防蟻剤(N=3)、タバコ(N=2)、床暖房の使用(N=1)、不明(N=2)などであった。

行動記録表

調査に際しては、行動記録表を用いて対象の患者の症状及び症状出現時の行動や場所等についての記録をとった。

AS-PS 試験結果

AS-PS 試験結果

症状を引き起こしている可能性のある物質は、ホルムアルデヒド(N=19, 9.44-136ppb)、トルエン(N=14, 6.31-770μg/m3)、アセトアルデヒド(N=11,6.41-30.7ppb)、アセトン(N=8, 12.6-130ppb)、m/p-キシレン(N=8, 7.60-340 μg/m3)、エチルベンゼン(N=5, 19.3-218μg/m3)、デカン(N=8, 7.80-70.5μg/m3)、p-ジクロロベンゼン(N=6, 7.40-314μg/m3)等であった。

同じ物質・濃度でも、症状を起こす人と起こさない人がおり、症状を引き起こしている可能性のある濃度は人によって大きく異なる結果となった。患者が症状を引き起こしている可能性のある濃度のほとんどが、WHOや厚生省の室内濃度基準(ホルムアルデヒド:100μg/m3, トルエン: 260μg/m3)を大きく下回っていた。また、対応ある Wilcoxon の順位検定の結果,過敏症患者の一週間の曝露濃度は、同居している非過敏症患者の曝露濃度と比べて有意に低かった。

TVOCsへの曝露濃度は,症状発現時と平常時で共通した特異的な差は見られず,VOCs 全てによって症状が引き起こされているわけではなかった。

症状発現時の行動およびその症状

行動記録表を解析した結果、調査期間中の患者の主な症状は、頭痛(N=22)、喉の痛み/違和感(N=15)、吐き気(N=15)、目の違和感/痛み(N=13)、目眩(N=11)、息苦しさ(N=7)、筋肉痛/関節痛(N=7)、倦怠感、脱力感, 憂鬱感(N=5)、手足が痛い(N=3)、動悸(N=3)等であった。これらの症状は既往の研究で報告されているもの1),2)と一致していた。

調査期間中に上記の症状を引き起こしたと考えられる行動や原因としては、車の臭い/排気ガス(N=13)、閉めきった部屋にいた(N=12)、タバコの臭い(N=9)、印刷物を読んだ/インクの臭い(N=9)、物置/押入れ/たなを開けた(N=9)、整髪料,化粧品, 香料等の匂いがした(N=7)、店に行った(N=7)、暖房/ストーブをつけた/料理をした(N=5)、有機溶剤/塗料の使用/臭い(N=5) 、新築の家に行った(N=4)、農薬の臭い(N=2)等であった。この結果から、日常生活のごく一般的な行動でも症状が引き起こされていることが分かった。

これらの行動とAS-PS 試験から得られた原因物質の関係をカイ二乗検定で解析したところ,症状と原因物質の関係は患者ごとに異なることを示唆する結果となった。また,原因物質と行動との関係では,p-ジクロロベンゼンが症状の原因物質である群とない群の間で,物置/押入れ/たなを開けた際の症状の有無において有意な関係が得られた (Table 2, P=0.001)。

ブース試験

ブース試験とは

ブース試験とは、クリーンルームに入った患者に段階的に一定濃度の化学物質を曝露させ、その症状や身体反応の応答から原因濃度を特定しようとする方法である。本研究では、AS-PS 法の妥当性を確かめるために、ブース試験を行った。

方法

曝露させる化学物質としては、最も多くの患者で症状の原因物質として挙がったホルムアルデヒドとし、濃度は0, 8, 40 ppb とした。これらの濃度は、設定値が正確なことを実測によって確認した。

対象は、2回以上AS-PS法を行った患者の中で、ブース試験に同意した4人とした。AS-PS法の結果から得られたホルムアルデヒドへの反応は、患者jは19.0-71.4 ppb、患者qは16.5-23.6 ppbの範囲内で症状が引き起こされている可能性があり、患者rは、34.7ppbでも症状はみられず、患者sは曝露濃度が定量下限以下であったことから不明であった(Table 2)。

自覚症状は、関節痛、筋肉痛、目の刺激、動悸、吐き気、頭痛、目眩などの26 の項目に関して曝露直前および直後にスコアをつけてもらい、その状態変化を見ることとした。スコアの記入は、100mm の直線にプロットさせ、0 点からの距離(mm)として解析に用いる数値とした。また、各症状に関する直線の両端をずらすことで、患者が前後の症状との比較から点数化することを防止した。曝露前後でスコアの比較はWilcoxon の符号付検定によって解析を行った。

他覚的所見としては、作業テスト、脈拍数、血圧、体温、経皮的動脈酸素、呼吸機能検査、瞳孔対光反応、脳血流の変動等を観察した。全ての患者には本試験の目的及び方法を詳しく説明し、十分なinformed consent を得た後に試験を行った。

結果

患者j は8 ppb、40 ppbのどちらでも自覚症状が高くなっていたが、40 ppbの時は有意な差ではなかった。Patient qは、0 ppbでは有意な差はなかったが、8 ppbおよび40 ppbでは有意に自覚症状が高くなっていた。一方、患者rおよびsは、0 ppb, 8 ppb, 40 ppbのいずれの曝露においても自覚症状が有意に増加していた。作業テスト、体温、脈拍、血圧に関しては、4 人の患者ともに曝露前後で有意な差は見られなかった。

脳血流量の変動は、患者jでは40 ppbで、患者q では8 ppbで、患者rは8 ppbのみで、患者sは40ppb で波形の揺らぎが確認された。ただし、患者qの40 ppbの測定は、咳のために測定不能であった。

考察

患者j, qは、0 ppbでは自覚症状はなく、8 ppb以降の曝露で自覚症状を訴えていた。しかし、患者r, sは、ブース試験における自覚症状が、0 ppb(プラシーボ)でも誘発されていたことから、ブース内での試験自体が心理的な負荷となっていた可能性も考えられる。このことから、ブース試験における自覚症状は、個人によっては曝露そのものではない心理的影響が加味されて現れてくることから、他覚的診断法と比べて信頼性が低いと考えられる。

患者q, r, s はブース試験において、AS-PS法では症状の出なかった曝露濃度域で脳血流量の異常を示した。つまり、症状を引き起こすホルムアルデヒド濃度が、ブース試験結果はAS-PS試験結果よりも低い可能性があるということである。ブース試験時には、清浄環境下で一日以上生活しており、AS-PS試験を行った通常生活時と比べて敏感になっていたことが示唆される。

結言

本研究では、38 人の過敏症患者を対象として、AS-PS法により過敏症状の原因である可能性のある物質及び濃度を測定した。その結果,患者の症状を発現させる物質および濃度は,個人間で大きく異なっており,室内濃度指針値程度でも症状の発現がみられない患者もいることがわかった。また,患者の多くは,WHOや厚生労働省の室内濃度指針値より低濃度の化学物質への曝露によって症状が発現していた。過敏症患者の原因化学物質と症状の種類との関係も,個人間で大きく異なることが示唆された。過敏症患者の通常生活時の曝露濃度は,健常者のそれと比べて有意に低い濃度域に分布していた。

ブース試験により症状を引き起こす濃度を測定したところ、AS-PS法で得られる濃度より低い濃度で症状が誘発され、ブース試験時にはマスキングの影響のために,通常時より敏感になっていることが示唆された

Active and passive sampler

Conceptual results in this sampling methodology、A is responsible but B is not

Analytical performances for carbonyl compounds and VOCs

Two-by-two contingency table. The responsible chemicals for their symptoms and their activity when they felt symptoms

The results of AS-PS method and Booth test

Miller C.S., Mitzel H.C. Archive of EnvironmentalHealth 50:119-129. 1995.Davidoff A.L. Keyl P.M. Archives of EnvironmentalHealth 51 (3):201-213. 1996.U.S. EPA. Method TO-17 second edition. Washington, DC: U.S., 1999.Shirakawa S. and Rea WJ. Environmental Medicine 8:121-127, 1991.坂部貢、宮田幹夫、石川哲、日本医事新報、4047, 9-14, 2001.
審査要旨 要旨を表示する

本論文は,化学物質過敏症患者の症状発現に関わる化学物質と濃度についての論文であり,全五章からなっている。

第一章では、本研究の対象である化学物質過敏症に関する基本的な事柄について、現在までの研究で明らかになっている点などが整理されている。化学物質過敏症の発症のメカニズムや治療法,化学物質による室内汚染について,現在までに研究されている事柄について良く整理してまとめられている。また,測定方法に関しても,旧来のものから新規のものまで網羅されている。化学物質過敏症患者の症状を発現させる化学物質の同定及び定量を行うという目的に対して,十分な形で既往の研究がまとめられている。

第二章では、考案した測定法(AS-PS試験)の原理、及び対象とする化学物質のサンプリング方法と分析方法に関して述べられている。AS-PS試験とは、化学物質過敏症患者に、1週間程度の間アクティブ法としてポンプにつないだサンプラーとパッシブ法のサンプラーを持って行動させ、症状を感じた時のみポンプのスイッチを入れてアクティブサンプリングを行う方法である。そのアクティブ法の結果がパッシブ法の結果よりも高濃度であった場合、その化学物質及び濃度が症状を発現させている可能性があると考えられる。この方法は,これまで別個に用いられてきた二つの方法を,それぞれの特徴に合わせた形で組み合わせており,新規性,独創性において大変優れた手法の提案だといえる。また、それらの測定法に関する測定範囲や精度等に関しても綿密に測定,評価を行っている。それらの結果は,分析化学的側面から本手法の Quality を証明する結果である。

第三章では、第二章で確立した手法を用いて行った38人の患者に関する調査について述べられている。症状の原因物質となることの多かった物質およびその原因となる濃度は,ホルムアルデヒド(N=19,9.44-136 ppb),トルエン(N=14, 6.31 - 770μg/m3),アセトアルデヒド(N=11, 6.41 - 30.7 ppb),アセトン(N=7,12.7-130 ppb),メタ/パラ-キシレン(N=8,7.60-340μg/m3)等であった。この結果は過敏症の原因化学物質に関して,初めて定量的に明らかにしたものである。多くの患者にみられた症状は、頭痛,喉の痛み/違和感,吐き気,目の違和感/痛み,目眩,息苦しさ,筋肉痛/関節痛等であり,既往の症例報告に挙げられていたものとのよい一致がみられた。原因物質と症状の比較からは、症状と原因物質の関係が患者ごとに大きく異なったことを示している。これは,正確な分析と解析を通してはじめて明らかにされたものであり,化学物質過敏症の解明に非常に大きな貢献を与えるものであると考える。また,過敏症患者の通常生活時の曝露濃度が健常者のそれと比べて低い濃度域に分布していることを明らかにしており,患者が化学物質への曝露を避けて生活していることを初めて定量的に示唆する結果を得ている点も評価に値する。

第四章では,AS-PS法の妥当性を確かめるためにブース試験を行い,AS-PS 試験の結果と比較したことが記述されている。ブース試験とは、クリーンルームに入った患者に段階的に一定濃度の化学物質を曝露させ、その症状や身体反応の応答から原因濃度を特定しようとする方法である。その結果、ブース試験においてはAS-PS 法で得られる原因濃度より低い濃度で症状が誘発されることがわかった。ブース試験時にマスキングの影響のために,通常時より敏感になっているということは,これまで患者の証言からは示唆されていたが,実際に定量的に明らかになったのは,本研究の成果といえる。

そして第五章では、本論文の内容をまとめるとともに、今後は個人ごとに症状の発現と化学物質や曝露濃度の関係について検討をすべき等の課題について述べられている。パイオニア研究として,初めて定量的に過敏症患者の原因化学物質の解明に挑んだ本研究から分かった新たな研究への指摘,提案も非常に優れたものであると考えられる。

なお、本論文第二章の一部は、柳沢幸雄、藤井実、山崎章弘、熊谷一清、山本尚理との共同研究、もしくは柳沢幸雄との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十であると判断する。また、本論文第三章についても、一部は柳沢幸雄、水越厚史との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

以上のように,開発された化学物質過敏症患者の症状を発現させる化学物質の特定手法は独創的であり,その実用による結果として定量的に明らかになった過敏症患者の症状の原因物質,濃度に関する知見も,大変有意義なものである。全体として新規性のある高い水準の論文であり,環境学への貢献が大きいと判断される。したがって、博士(環境学)の学位を授与できると認める。

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