学位論文要旨



No 119840
著者(漢字) 新谷,淳一
著者(英字)
著者(カナ) アラヤ,ジュンイチ
標題(和) 芸術の身分規定の変化との関係における文学概念の歴史性 : ジャック・ランシエールによる文学
標題(洋)
報告番号 119840
報告番号 甲19840
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第478号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塩川,徹也
 東京大学 教授 田村,毅
 東京大学 教授 月村,辰雄
 東京大学 助教授 小田部,胤久
 東京大学 助教授 塚本,昌則
内容要旨 要旨を表示する

"文学とは何か"という問いは、発するべきではない愚かな問いとしばしば目される。本質論的な見かけを持つこの問いは、そこに秘められた歴史性が隠蔽される限りにおいて愚かと見えるに過ぎない。フランスの場合、文学概念の歴史性の問題は、"文芸"[belles-lettres]から"文学"[litterature]への移行と関連するが、この背後には、名辞の移行と内実の変化が絡み合う複雑な経緯がある。本稿は、文学概念の歴史性をフランスに則して吟味する。"文学とは何か"の問いは、フランスという国の固有性と二重写しにされるときに格別の意味合いを帯びる。この意味で本稿の問いは、"文学概念の歴史性とフランスの歴史性の関係"に係るとする方が正確である。

 "文学概念の歴史性とフランスの歴史性"は、近年のフランスでしばしば問われてきた事柄だが、この問いを立てるのはおもに、"文学"と"フランスの歴史性"の結託に批判的な眼差しを注ぐ者であった。この問題意識は、近年のフランスの"エステティック・ブーム"と呼ばれる現象の主要部分と重なる。"エステティック・ブーム"の基軸は、広義のロマン主義を、フランス革命以後の二百年の政治体制と相関し、現在の社会をも規定し続ける性向と捉えて反省的に考察することにあるが、その際、ロマン主義の根源はしばしば"文学"にあると想定される。この背景により、"文学概念"は、"研究テーマ"の一つである以前に、大革命後のフランスの歴史性と絡み合い、文学研究の領域を超える問題系を構成する。この茫漠とした課題に取り組むうえで本稿は、ジャック・ランシエール[Jacques Ranciere 1940-]の論考を手掛かりとする。哲学者の肩書を持つ彼の思索の軌跡が文学の歴史性という課題と深く絡み合うのは、ある意味で、彼の関心の核心が文学そのものにはないからである。言葉を弄ぶ抽象的な操作としての"文学"を、トクヴィルはフランス革命の源泉と認知したが、大革命によって到来した民主主義社会に対する批判的な視座の綿々たる系譜は、こうした意味での"文学"を糾弾し続けてきた。文学研究者ではないランシエールの関心の核心は、民主主義と文学との必然的な結びつき、アルケーを欠く体制と、固有性を欠く浮遊する言葉のアートとの表裏一体の関係にある。この結合を"錯乱"として切り捨てることなく肯定的に捉え、理解可能性を与える作業が彼の仕事の核心である。

 民主主義は、言葉の操作によって物語=歴史を紡ぎ、意味を産出し続けることで自らを支える。既定の意味を持たない大革命後の社会に意味を付与する作業は、社会科学と文学という二つの形態を取る。社会科学の本質的な務めは、抽象物と化した社会に"実体=実証性"を補填することにある。文学は、社会科学と表裏一体に、その実証性の狭間に成長してきたのである。ランシエールは自分の仕事全般を、"イデオロギーの再評価"と総括するが、イデオロギーとは、社会科学が告発する"言葉ともののあいだの距離"である。ランシエールはこの"距離"を告発するどころか、まさしく文学と民主主義の第一の条件と認知する。彼の文学論の原点にあるのは、"もの"と合致することなく、"もの"からの距離を糧とする言葉の空虚さである。

文芸と文学は、連続性よりも断絶の関係にある。この両立不可能性の背後には、それぞれを構成する言葉の地位の違いがある。たとえ"書かれて"いても、理念的には"語られた言葉"を指向する"生きた言葉"のアートたる文芸に対し、文学を構成するのは、"死んだ言葉"たるエクリチュールである。誰かに差し向けられた言葉の温もりを欠き、任意の読解者のもとへと彷徨するこの言葉は、しかしながら、垂直的な深さを秘めた言葉として、別種の雄弁さへと開かれる。この"雄弁"は、文芸の背後にある修辞学的な"雄弁"と両立しない。文芸に文学が包摂され得ないことは、巨大な石の塊を主役に据えて石を雄弁に語らしめる、ヴィクトル・ユゴの『ノットル・ダム・ドゥ・パリ』に対する当時の批評家の非難が典型的に開示している。目覚ましい"文学的才能"が詰め込まれたこの作品は、文芸の規範に照らして容認されなかったのである。

 文芸と文学の対比は、芸術全般を対象とするランシエールの論考では、〈表象の体制〉[regime representatif]と〈美感的体制〉[regime esthetique]という枠組みで捉え直される。二つの体制はそれぞれ、古典主義およびロマン主義と中核部分では重なるが、完全に同一ではない。〈表象の体制〉は、古典主義からの脱却の相において捉えられることの多い十八世紀後半の芸術傾向をも概ね包含し、〈美感的体制〉は、狭義のロマン主義のあとに到来した写実主義や象徴主義をも含む。文芸を支えるのが、アリストテレスの『詩学』の系譜上に整備された"フィクション"の概念であるなら、文学を生み出すのは、"媒体としての言語"である。〈表象の体制〉において、言語という媒体は、"筋=行動の配置"としてのフィクションに奉仕して自らは"透明"と化すべきものであった。逆に、〈美感的体制〉においては、作品の媒体がそれ自身の存在を主張する。〈表象の体制〉におけるフィクションの産出は、"ジャンル性"と"適合性"[convenance]の規範に支えられる。"行動する人間"を軸とする主題の序列があり、それぞれに"相応しい"語り口や文体が想定されるのである。逆に、文学においては、ギュスターヴ・フロベールが喝破したように、主題に貴賤はなく、この一事により"ジャンル性"と"適合性"の規範は失われる。文芸から文学へのこうした移行において放擲されるものは、"修辞学の豊かさ"に他ならない。この伝統の核心は、文彩の分類にあるのではない。文体をつねに主題に奉仕せしめ、"適合性"を確保するための実践的な教えをこの伝統は集積し、文芸に注入してきた。この伝統を愚弄し、石に語らしめる『ノットル・ダム・ドゥ・パリ』の言葉は、文芸がそれと認知する類の"主題"に奉仕することなく、言葉それ自身としての栄光を求める。

 文芸の枠組みにおいては"生命を持たない"と見做され、"模倣"の対象とならない事物の詩性、およびそれを描写する、誰にも差し向けられていない言葉の詩性が、文学の原動力になるとしても、詩性を横溢させるだけでは、作品となるための必然性が欠けている。文芸を支える"フィクション"とは別個の、文学固有の作品の論理はどこにあるのか。芸術が"模倣"の軛を脱したなら、芸術家は"独創性"という絶対的な力を行使して作品を生むと通常は想定されるが、〈美感的体制〉の性格づけは、これと力点を異にする。〈表象の体制〉においては、アリストテレスの教えのとおり、"詩"すなわち文芸は、一つのテクネーであった。テクネーである限り、それを生み出すのは作者という個人である。〈美感的体制〉において、芸術家の"天才"は、個人の絶対性を指示しながらも、民族や時代の匿名的な集団性を反映する核ともなり、作家は能動性をいくばくか失う。と同時に、作品の成立が、言葉という媒体に掛かるのならば、文学には、"個人"対"集団的匿名性"とは別の意味でも、受動性の契機がもたらされる。主題の次元において失われた、作品としての必然性は、言語という媒体の"有縁性"の側に求められなくてはならない。"模倣"から脱し、絶対的な自由を得たかに見える作家は、作品に必然性をもたらす言語を、自由に選択できず、むしろ"被る"という受動的なあり方で手にする。任意の主題を据える文学に、言語の"有縁性"によって必然性を与えるため、作家は受動性という代償を支払う。

 ランシエールの著作のうち、本稿の考察の中心に据えられる『沈黙する言葉』は、文学の作品を、〈矛盾の作品化〉と捉える。能動性と受動性、必然性と偶然性の矛盾に晒される作家は、二つの極の狭間で作品の論理を見出さなくてはならない。"行動=筋"の内的構成という枠から解放され、任意の主題を選択する文学は、空虚な文字の集積に堕す危険に晒され続ける。文学の原動力となる新しい"詩性"は、こうした逸脱の源泉であると同時に、空虚な言葉の氾濫に"受肉"や"充溢"をもって対処しようとする者をも誘導する。だが、言葉の空虚さを充溢によって補填し、言葉の空虚さを排する営為は、文学から存立の条件を奪う。こうした魅惑に文学は抵抗し、文学としての必然性を確保し続けなくてはならない。矛盾をあらかじめ回避したり、一貫性の導入によって解消するのではなく、矛盾との戦いの軌跡を封じ込め、言葉の空虚さの効用を検証し続けることが、文学に可能な所作なのである。

 文芸を支えていた、"主題"と"文体"、"着想"[inventio]と"措辞"[elocutio]の従属関係という修辞学的な原理は、突き詰めれば、"原因"と"効果"の秩序、"知的なもの"と"可感的なもの"の序列であり、一つの世界観そのものである。こうした世界観から抜け出した〈美感的体制〉において特権視されるのは、通常考えられるように、芸術家の地位や作品そのものではない。この体制の芸術を支えるのは、作品の"可感的な地位"である。"知的なもの"たる"形式"を受け取ることで"可感的なもの"が何かを意味するのではなく、"可感的なもの"それ自身が"形象"と化すのである。この布置の自在さゆえに、たとえばある種の現代芸術は、物質の可感的な豊かさに過度に依存し、"作品の可感的な地位"という"強み"をしばしば欠陥として露出する。"可感的な豊かさ"に恵まれていない言葉のアートは、貧しさゆえに、作品の必然性を検証し続けるよう強制される。文学の強みは"懐疑的な芸術"であることに存すると『沈黙する言葉』は結論づける。

 文芸の原理たる"模倣"は、写実的な描写ではなく、内的な完結性を持つ"フィクション"として"行動する人間の模倣"を行なう。"行動する人間の模倣"を軸とする文芸の理想は、歴史画を最高位に置く絵画の秩序とも整合しつつ、"生命を持たない事物"の描写を、"非-模倣"的な逸脱として排斥する。逆に、文学においては、歴史画至上主義を脱した絵画と同様、"生命を持たない事物"の多彩なイメージが横溢する。この新たな布置において、もはや"美しい自然"の枠組みに収まらない物質の多様性は、そのままに"精神化"され、"存在"そのものが"意味"と化す。"表象"の詩学を押し退けるこの原理は、"模倣の諸芸術"において"生命を持たない"と見做され地位を剥奪されていたものたちに可視性を与える。この意味で、芸術の身分規定の変化は、芸術を包み込む社会そのものの変容の関数である。文芸の理念を支える"civilite"や"politesse"の概念には、語源に遡れば明らかなように、"古典"的な文芸と"古典"的な政治思想の表裏一体の関係が刻まれている。双方の"自然"な関係の崩壊を受けて成立する文学は、"civilisation"と"politique"の"歴史"を生み出す、新たな布置の表現なのである。

審査要旨 要旨を表示する

 「文学とは何か」という問いは、しばしば時代と地域を越えた文学の本質に関する問いとして発せられる。しかし本論文は、フランスにおいて「文学litterature」という語が歴史的に大きな意味の変遷を経てきたばかりでなく、そもそも今日、「文学」の名で呼ばれる文筆活動を人間の知的活動の一領域ないしカテゴリーとして包括的に示すタームが、18世紀半ば以前は存在せず、辛うじて「文芸belles-lettres」という用語が、「文学」に近似する領域と活動を意味していたことに着目する。伝統的な一国文学史は、19世紀以降に成立した文学の概念を過去に投影して、国の文化的威信の証拠・証言としての作家と作品の連なりを叙述する傾向がある。それに対して本論文が探究の対象として取り上げるのは、「文芸」から区別され、フランス大革命を主要な契機として成立した「文学」であり、一方では、その成立基盤を歴史的に解明すること、他方では、19世紀以降の文化状況において「文学」が占める場所と果たす役割、隣接する他の精神活動(芸術、歴史、政治、社会科学)と取り結ぶ関係を検討することを通じて「文学」の意味と価値を画定することが、論文の課題となる。この課題に取り組むにあたって、本論文は、類似の問題意識に基づいて独自の文学論、美学論、政治論を展開してきた哲学者ジャック・ランシエール(1940- )の仕事、特に『沈黙する言葉』(1998)の主張とそれを背後から支える理論的前提、とりわけ文芸と文学の対比をより広い立場から捉えなおした「表象の体制」と「美感的体制」という枠組みをつぶさに検証することを通じて問題に迫っていく。この意味で本論文は、テクストの緻密で執拗な読解に支えられた作家研究の側面も備えている。

 全体は、論文の問題意識と問題設定を提示し説明する「序」および「序章」、本論四部二七章、結論、文献表からなる。第一部「表象からの脱却」は、「表象の体制」がいかなる体制であったかを説明するとともに、それがどのような変化を蒙り、やがて「美感的体制」に転換するかを、ドイツ初期ロマン派とフランスロマン派の親近性に着目して跡付ける。第二部「自然・アート・歴史」は、「美感的体制」の成立を可能にするエピステーメーのあり方が、標題に登場するターム=概念の歴史的変遷を追及することを通じて探索される。そして表象の体制からの転換は、たんに文学あるいは芸術の分野における転換にとどまらず、「一」と「多」あるいは「可知的なもの」と「可感的なもの」の関係をめぐる政治哲学上のパラダイムの変換に連動していることが示唆される。第三部「エクリチュールの戦い」は、フランス革命を契機として形成された近代社会、すなわち民主主義を指導理念とする社会において、文筆活動が文化的使命にとどまらず、政治的課題さらには宗教的欲求まで抱え込むことによって、近代的な意味での文学と歴史および社会科学の形態を取ったという見方を打ち出す。そして表象の体制の崩壊とともに語るべき高貴な主題を失った文学に対して、歴史と社会学が、一方は自然ないし現実への密着、他方は実証性を梃子にして、社会に意味を与える作業に乗り出し、「もの」と一致しない空虚な言葉を発する文学を排除しようとする戦いが描かれる。第四部「文学の矛盾の作品化」は、一方では現実、他方では社会科学の狭間にあって、自らの働きを現実にも実証性にも基礎づけられない文学が、作品として成立したときに抱える矛盾をむしろ積極的に評価し、言葉の「空虚さ」の効用を、「文学の絶対化を象徴する」三人の作家、フロベール、マラルメ、プルーストに則して検証する。作品の媒体の物質性に大きく依存することのできる美術や音楽と異なり、文学はその媒体の貧しさのゆえに、絶えず作品の必然性を検証するように強制されるが、それこそ文学の強みであるとするランシエールの立場を論者自身が引き受けることで論文は終結する。

 本論文は、根源的で射程の大きな問題意識に導かれ、人文科学に関する幅広い博識を駆使して、近代的な意味における「文学」の成立基盤、意味、価値について清新で興味深い主張を打ち出している。ランシエールの仕事の注解という体裁を取るために、細部の議論が増殖して全体の見通しが悪くなっている点、あまりにも論点が多岐にわたるために、そのすべてを統御しきれない印象を与える点等、いくつかの問題点は残されているが、たんにフランス文学の領域を越えて、広い意味での文学の基盤を問い直す野心的かつ独創的な論文に仕上がっていることは確かである。以上から、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当するものと判断する。

UTokyo Repositoryリンク