学位論文要旨



No 119955
著者(漢字) 中山,泰生
著者(英字)
著者(カナ) ナカヤマ,ヤスオ
標題(和) 走査トンネル顕微鏡とX線光電子分光法を用いた銅単結晶上の混合原子価サマリウムの幾何学的,および電子的構造の研究
標題(洋) Geometric and electronic structures of mixed valence Sm on Cu single crystals studied by scanning tunneling microscopy and x-ray photoelectron spectroscopy
報告番号 119955
報告番号 甲19955
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4684号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 岩沢,康裕
 東京大学 教授 西原,寛
 東京大学 教授 長谷川,哲也
 東京大学 教授 斉木,幸太朗
内容要旨 要旨を表示する

 Smは、価電子軌道に存在する電子数の異なる2つの電子状態のエネルギー差が非常に小さく、周囲の物理的・化学的環境のわずかな変化によって両状態間の遷移を起こすことが知られている。例えば、単体の固体状態においても、固体内部のSm 原子が"trivalent"([Xe]4f55p16s2)と呼ばれる電子状態にあるのに対し、表面に露出している原子は気相中と同じく"divalent"([Xe]4f66s2)の電子配置をとる。安定な電子配置が複数存在する元素は少なからず知られているが、単一元素からなる固体において異なる電子状態を示す原子が共存する性質はSm独特の非常に興味深いものである。異種金属表面に吸着したSmの示す電子状態に対してもこれまでに多くの研究がなされてきており、大部分の系において2つの電子配置をとるSmの共存が確認されている。また、これらの研究から、単独原子ではdivalentで存在するSmをtrivalentに遷移させる要因として「Sm同士の凝集(配位数の増加)に伴う価電子軌道の安定化」および「基板との相互作用(価電子供与)」が示唆されている。しかし、吸着Smの電子状態を吸着構造と対照させて論じた研究例は多くなく、しかも構造決定は回折法に拠るものが大部分であったため、どのような吸着状態にあるSm原子がどのような電子状態を示すか、ということに対する明確な知見は得られていなかった。

 本研究では、吸着した原子がどのような電子配置をとるのかということに対してこれまでに相矛盾する幾つかの報告がなされていた銅基板上のSm単原子層に対して、吸着Smの電子状態が幾何構造によってどのような変化を示すかを明らかにするために、STMを用いた実空間表面観察とX線光電子分光法(XPS)による電子状態測定とを組み合わせた実験をCu(111), (100), (110)それぞれの基板について行った。また、これにより明らかになった局所構造に由来するSm電子状態変化を直接観察するために、レーザー光照射下でSTM 測定を行うことにより局所仕事関数変調をマッピングする手法を導入し、この手法が1nm以下の空間分解能を有することを明らかにした。

 Cu(111)面上に室温でごく少量(0.06層)吸着したSmが全てdivalentの電子配置をとることから(図1)、Cu(111)面上に単原子で吸着したSmがdivalentの電子状態を示すことがXPSの結果より示された。その後、Smの吸着量を増やすにしたがってtrivalentのSmの割合が増えていくが、表面全体をSm層が覆い尽くす吸着量の半分(0.5層)で平均価電子数が2.65となった後は概ね一定値をとることが確認された。一方、STMでSm被覆層の成長を観察したところ、表面に高さ0.2〜0.3nm、幅5〜50nm程度の広さをもった2次元アイランド構造が観察されたが(図2)、これらアイランドの面積の和より求められる見掛けの被覆率と実際の被覆率とが、特に低被覆率で大きく食い違うことが判った。このことは、低被覆率においてSTMでは観察できないSm原子が存在することを示唆している。これは、横方向への配位を欠いているためにSTM探針のもたらす擾乱によって動かされやすくなっているSm(孤立吸着種)に対応すると考えられる。ここで、孤立吸着種の電子状態を低被覆率極限と同じくdivalent、アイランド内に含まれるSmは被覆層1層完成時と同じく2.65の平均価電子数を持つと仮定し、全体の平均価電子数を各被覆率における一連のSTM像から見積もると、図1のように、計算値は平均価電子数が0.5層程度の被覆率で飽和する傾向を定性的に再現することが判った。このことより、表面上に形成されたナノスケールの「島」内外に存在する吸着Sm原子が異なった電子配置をとることを、STMとXPSとを複合した本研究により識別することが出来た、と考えられる。

 Cu(100), (110)上のSm被覆層についても同様に被覆率の増大に伴う平均価電子数の変化(図3)と被覆層の成長様式(図4)とを調べた。平均価電子数の変化は、Sm/Cu(100), Sm/Cu(110)ともに明らかにSm/Cu(111)より低いことが判る。さらに全体的な傾向として、Cu(110)面上の方がCu(100)面上よりもSm被覆層の平均価電子数がより低くなる。一方、Sm被覆層の成長様式については、Cu(100), (110)面上ではCu(111)面上で見られたような大きなアイランドが生じない。より詳しく見ると、Cu(100)面上のSmは、ごく低被覆率ではステップエッジ上に、0.2層以上ではテラス上に小さなアイランドが生じるのに対し、Cu(110)面上ではこのような凝集構造は一貫して殆ど見られない。テラス上に生じたアイランドが密度・大きさとも増加して最終的に表面上を覆い尽くす、というSm/Cu(100)の成長様式はSm/Cu(111)と共通するものであるが、Cu(100)面上で生じるアイランドの幅はせいぜい数nmであり、Cu(111)面上のそれの1/10にも満たない。また、Cu(110)面上でこのようなアイランドが生じないのは、一次元方向に列構造を持つ基板格子がSmの二次元方向への凝集を阻害するためであると考えられる。

 吸着Smと基板原子との相互作用は表面がopenなCu(110)面上において最も大きくなりCu(111)面上で最小になると期待されるが、ごく低被覆率の領域を除けば平均価電子数は「Sm/Cu(111)>Sm/Cu(100)>Sm/Cu(110)」となり、これは「基板との相互作用がtrivalent のSmを誘起する」という過去に報告されている傾向と完全に反対になる。一方、Sm同士の凝集傾向はCu(111)上において最も大きく、Cu(110)上では殆ど観察されない。このことは、Sm/Cu系においてSm被覆層の電子状態を左右する主たる要因が「Sm配位数の増加に伴う価電子軌道の安定化」であることを示している。共にアイランドを形成するSm/Cu(111)およびSm/Cu(100)の平均価電子数が全く異なった挙動を示すことは、平均価電子数が生じるアイランドのサイズに依存することを示している。このことは、アイランドの縁に位置して内部よりも低い配位数をもつSm原子が、アイランドの内部のSm原子とは異なった電子状態にあることを強く示唆している。

3.光照射STM法による局所仕事関数の測定

 試料の仕事関数を超えるエネルギーの光をSTM測定時に照射すると、適当な測定バイアスが試料に印加されている状態では光電子が測定領域に発生し、この光電子の存在がトンネル電流を非線形的に増大させる現象が報告されている。この現象を利用することにより、試料表面の局所仕事関数の空間分布を、通常のSTM観察によって得られる形状像と同時にSTMに匹敵する空間分解能で測定できることが期待される。

 本研究では、この手法を窒素イオン注入によって数nm四方のCu3Nドメインを予め意図的に形成させておいたCu(100)面上にカリウムを吸着させて作成した試料に対して行った。得られた形状像は図5、同時に測定された局所仕事関数像は図6である。「局所仕事関数像」は、入射光を変調し、ロックイン検出した変調に同期したトンネル電流成分を各測定点ごとにプロットすることで得た。局所仕事関数の低いところでは光電子が多く生じるため、変調成分が大きくなる。よって、仕事関数像で高く(明るく)観察される部分が低仕事関数領域、低く(暗く)観察される部分が高仕事関数領域に対応する。形状像で周囲より若干暗く見える部分が、K被覆層の下にCu3Nドメインが存在する部分に対応すると考えられるが、仕事関数像でもこの部分が暗く観察されている。このことは、Cu3Nの上に吸着したKはCu上に吸着したそれよりも高い仕事関数を持つことを示している。さらに、ドメインを跨ぐ線分に沿った断面図(図7)より明らかなように、仕事関数像ではドメインの縁に当たる部分が内部より更に低く観察されていることから、Cu3NドメインとCuとの境界上に位置するKは、ドメイン内部に位置するK原子より更に高い仕事関数を持っていることが示唆される。縁において局所仕事関数が高く観察される部分の幅が約0.7nm程度であることから、1nm以下の局所仕事関数の空間変調が光照射STM法によって識別できることが明らかになった。

4.まとめ

 STMによる構造観察とXPSによる電子状態測定を系統的に組み合わせた本研究により、Cu表面上Sm被覆層の電子状態の空間分布が明らかになり、Smが周囲の配位状態に依存して電子状態を変えることを示す結果を得た。また、光照射STM法により1nm以下の空間分解能で局所仕事関数を測定できることが示された。この手法は、さらに短波長の光源を用いることにより、より一般的な系にも適用可能になると考えられる。これにより、上述したSm電子状態の配位数依存性を直接的に可視化することも可能になると期待される。

図1: それぞれの被覆率におけるSm被覆層の平均価電子数。◇印はSTM像より見積もった平均価電子数の計算値(詳細は本文参照)。

図2: それぞれの被覆率におけるSm/Cu(111)のSTM 像。観察範囲は全て50×50nm2。

図3:Cu(100), (110), (111)それぞれの上を被覆するSm層の平均価電子数の被覆率依存性。

図4:それぞれの被覆率におけるSm層のSTM像。上段がSm/Cu(100)、下段がSm/Cu(110)。観察範囲は全て50×50nm2。

図5: K/N/Cu(100)のSTM像(形状像)。観察範囲は10×15nm2。

図6:図5と同時に測定された局所仕事関数像。

図7:ドメインを跨ぐ線分(図中)にそった形状像(A―B)・局所仕事関数像(α―β)それぞれの断面図。

審査要旨 要旨を表示する

 サマリウムは、単体固体状態においても2価(divalent)・3価(trivalent)と呼ばれる2種類の電子状態が共存する"混合原子価"と呼ばれる興味深い性質を示すことが知られている。しかし、別種の金属表面上に吸着したサマリウム被覆層が示す混合原子価の本質は、実験的にも理論的にも未だ明らかになっていない。本研究では、銅単結晶表面上のサマリウム被覆層に対して、局所構造観察と電子状態測定との複合的研究および光照射での走査型トンネル顕微鏡(STM)観察により、サマリウム被覆層の示す混合原子価の本質を議論している。

 本論文は6章よりなる。第1章は序論であり、単体固体サマリウムの示す混合原子価の本質、および他の元素基板表面上でサマリウムが示す電子状態についての過去の研究についてまとめられている。また、光照射下でSTM観察を行う意義、過去の研究例についても述べられている。

 第2章は実験手法であり、STMおよびX線光電子分光法(XPS)の原理と実際の測定条件についてまとめている。また、比較的新規な応用的実験手法である光照射STM法の原理についても述べられている。

 第3章では、3種類の面指数の銅単結晶表面に室温で形成したサマリウム被覆層に対してSTM観察とXPS測定とを複合的に行うことで、被覆層の局所構造と、それがサマリウムの電子状態に及ぼす影響とについて議論されている。銅表面上に単原子で孤立して吸着したサマリウムが、基板面指数に依らずdivalentであることがXPSの結果より明らかになった。また,Cu(111)および(100)面上では、サマリウムは単原子高の二次元凝集体(island)を形成する。このislandの縁に位置するサマリウムがdivalentで、内部が平均2.7価である、とする仮定がSTM画像から見積もられる平均原子価の被覆率依存性と、XPSにより明らかになった実験値とをよく説明することが判った。この局所構造に依る電子状態の変化は、サマリウム同士の配位数によってそれぞれのサマリウム原子の電子状態が規定されることを示している。

 第4章では、Cu(111)面上のサマリウム被覆層の温度変化に伴う構造変化をSTM, XPSおよび電子線回折法による結果から議論している。試料温度を室温(300K)から上げていくと、500K程度で銅-サマリウム表層合金相が生じ、さらに高温(550K以上)でサマリウム原子が最密充填で整列した層が生じる。本論では、それぞれの温度領域で生じる表面から数層までの深さに及ぶ領域の構造について、光電子出射角度を変えたXPSの結果と、設定した構造モデルから予想される光電子強度の計算値との比較から、過去に報告されていた構造モデルを修正する描像が示されている。

 第5章では、レーザー光照射下でのSTM観察による観察結果が示されている。予めナノメートルスケールの表面窒化物ドメインを形成した銅基板上を被覆するアルカリ金属単原子層の上での光照射STM観察により、窒化物ドメインの部分が周囲と異なる仕事関数を持つことを明確に識別した。また、窒化物ドメイン内部にも、外周の部分が内部よりさらに高い仕事関数を示す、というように、仕事関数の空間分布があることを明らかにし、この手法により1nm以下のサイズの局所的な表面電子状態の空間変調を識別し得ることを示した。さらに、銅-サマリウム系試料に対して同様の研究を行った結果も示され、同時に、この手法による表面化学種のナノメートルスケールでの識別へ向けての展望も提示されている。

 第6章は結論と要約である。

 以上のように、本論文は、かねてより議論の対象であった1原子層内部に存在する混合原子価の本質に対して、サマリウム同士の配位数に依存した,異なる電子状態のサマリウム原子の空間分布としての描像を実験的に与えるもので、これは表面科学のみならず基礎科学的な観点からも興味深い。また、光照射STM法の結果に関しては、表面に存在する物質の空間分布をナノメートルスケールで識別する手法を開拓するものであり、表面科学の進展に大きな貢献を為すもので博士(理学)に十分値すると考えられる。

 なお、本研究は太田俊明、近藤寛との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験,解析,及び,考察を行ったものであり,論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって,博士〈理学〉の学位を授与できると認める。

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