学位論文要旨



No 119968
著者(漢字) 島田,恵一
著者(英字)
著者(カナ) シマダ,ケイイチ
標題(和) 生体機能に関連する含カルコゲン高反応性化学種の合成モデル研究
標題(洋) Synthetic Model Studies of Chalcogen-Containing Reactive Species Related to Biological Functions
報告番号 119968
報告番号 甲19968
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4697号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川島,隆幸
 東京大学 教授 奈良坂,紘一
 東京大学 教授 橘,和夫
 東京大学 教授 中村,栄一
 東京大学 教授 塩谷,光彦
内容要旨 要旨を表示する

 酵素の活性部位の特徴の一つとして、官能基が空孔の内部に埋め込まれ他の活性な官能基から孤立した環境にあるために、通常多量化を起こしやすい高反応性化学種が安定に存在しうるという点が挙げられる。例えば、活性部位に存在する孤立したシステイン残基の酸化体(スルフェン酸,R-SOH)、ニトロソ化体(S-ニトロソチオール,R-SNO)、およびニトロ化体(チオニトラート,R-SNO2)が挙げられ、それらは生体内のレドックス制御および信号伝達において重要な役割を果たしている。また近年、セレノシステイン残基のニトロソ化体(Se-ニトロソセレノール,R-SeNO)が、活性窒素種によるグルタチオンペルオキシダーゼ(GPx)の失活過程の中間体として提唱されている。しかし、人工系では孤立した環境を構築することが難しく、これらの化学種は二量化や自己縮合などを経て容易に分解してしまうため、構造、物性、および反応性について直接的な情報を得ることが困難である場合が多い。

 当研究室では、酵素の活性部位の構造的特性を取り入れた新規な反応場として、種々のbowl型立体保護基を開発し、高反応性化学種の安定化に応用してきた。筆者は博士課程において、bowl型置換基をもつ安定な化合物を用いることにより、活性窒素種が関与する生体反応の機構として提唱されていながら従来検証が困難であった、いくつかの反応過程を直接的に示すことができた。また、生体内のレドックス制御における重要な中間体でありながら、不安定性のために構造や物性がほとんど知られていなかったスルフェナートアニオン種(R-SO-)を合成・単離し、その性質を明らかにした。

1.システインおよびセレノシステインのニトロソ化およびニトロ化に関する合成モデル研究

 S-ニトロソチオールなどの活性窒素種によるGPxの失活過程では、セレノシステイン残基のニトロソ化の後、酵素タンパク質の中でSe-S結合が不可逆的に形成され失活する機構が提唱されている(Figure1)。第1段階で生成するSe-ニトロソセレノールは、ジチオスレイトール(DTT)などにより還元可能と考えられている。しかし、これらの反応素過程に関する実験的な根拠は得られておらず、推測の域を出ていない。筆者は修士課程において、Bpq基を活用することにより初めての安定なSe-ニトロソセレノールの合成に成功している。Figure1の反応素過程を検証するため、セレノール1にS-ニトロソグルタチオン(GSNO)を作用させたところ、対応するSe-ニトロソセレノール2が生成した。この反応をUV/visスペクトルで追跡したところ、GSNOの減少に伴う2の増加が等吸収点を持つ変化として観測され、S-ニトロソチオールからセレノールへのニトロソ転移の進行が明らかになった。2に塩基存在下、過剰量のDTTを作用させたところ、1が定量的に生成した。一方、2に過剰量の1-ブタンチオールを作用させたところ、セレネニルスルフィド3を定量的に与えた。以上の検討により、Figure1に含まれるすべての反応素過程を直接的に示し、Se-ニトロソセレノールが生体内での信号伝達に関与している可能性を示唆することができた(Scheme1)。

Figure 1

Scieme 1

Figure 2

 ニトログリセリンをはじめとする硝酸エステルは、顕著な血管拡張作用を有するために狭心症などの特効薬として古くから用いられている。しかし、その作用機序は未だ明らかになっていない。一つの有力な仮説として、チオニトラートを経由してS-ニトロソチオールを生成する機構(Figure2)が古くから提唱されているものの、硝酸エステルからチオニトラートの生成反応およびチオニトラートからS-ニトロソチオールの生成反応いずれについても実験的に示した例はこれまでにない。今回、Bpq基およびTrm基を用いて、これらチオニトラートが関与する反応について検証した。Bpq基を有するチオール4に1当量のブチルリチウムを作用させてチオラートとし、過剰量の硝酸イソアミルを作用させることにより、チオニトラート5を主生成物として得た。続いて、チオニトラート5からTrm基を有するチオールTrmSH(6)へのニトロソ転移について検討した。チオニトラート5にチオール6を作用させたところ反応は進行しなかったが、チオール6に対して18-クラウン-6エーテル存在下水素化カリウムを作用させチオラート7とした後にチオニトラート5と反応させ、弱酸で処理したところ、Trm基を有するS-ニトロソチオール8とスルフェン酸9を得た。以上により、硝酸エステルからS-ニトロソチオールを生成する機構について、チオニトラートを中間体とする経路の反応素過程を実証することができた(Scheme 2)。

Scheme 2

2. 安定なスルフェナートアニオン種の合成、構造、および反応性

 スルフェン酸の共役塩基であるスルフェナートアニオン種は、NADHペルオキシターゼなどの活性中心に存在することが知られているが、人工系においてはスルフェン酸以上に不安定であり、その構造および物性についての知見はほとんど得られていない。生体内におけるスルフェナートアニオン種の挙動を理解するためにも、安定なモデル化合物の合成が必要とされていた。今回、bowl型置換基をもつスルフェン酸の脱プロトン化について検討した結果、最も立体保護効果の高いBpq基を用いた場合に安定なスルフェナートアニオン種を合成することができた。スルフェン酸9に対し18-クラウン-6またはクリプタンド[2.2.2]存在下、水素化カリウムを作用させたところ、スルフェナートアニオンのカリウム・18-クラウン-6塩10aおよびカリウム・クリプタンド[2.2.2]塩10bを安定な紫色固体として単離することに成功した(Scheme 3)。ベンゼンからの再結晶により得られた10aについてX線構造解析を行ったところ、主に酸素原子がカリウムに配位していることが明らかになった。また、10aのイオウ−酸素間の結合距離は1.558(6)Aであり、二重結合性を有することが明らかになった。一方、10bでは、スルフェナート部位とカリウムイオンとの間に相互作用は存在せず、スルフェナートアニオンはフリーな構造をとっていることが明らかになった。10bのイオウ-酸素間の結合距離は1.485(5)Aであり、10aよりもさらに大きい二重結合性を有することが明らかになった。このような構造的特徴を反映して、IRスペクトルにおけるS−O伸縮振動は10b(1166cm-1)の方が10a(1110cm-1)より高波数側に観測された。また、UV/visスペクトルにおいても、10bにおいて長波長シフトが見られた。この結果は、溶液中における構造が結晶中での構造を反映していることを示唆している。また、10aをTHF溶液から再結晶しX線構造解析を行ったところ、二分子のTHFがカリウムイオンに配位した10a・2THF、中心官能基はフリーになっていることが明らかになった(Figure 3)。このような配位子および溶媒の効果は、13CNMRにおいても観測された。

Figure 3

 ベンゼン溶液中、10aとヨウ化メチルとの反応ではスルホキシド11が主生成物として得られたが、THF中での反応では、主生成物はスルフェン酸メチル12となった。同じ条件でクリプタンド塩10bの反応を行うと、12の割合がさらに増加した(Scheme 4)。このように、10aおよび10bを用いることで、スルフェナートアニオン種の構造と物性および反応性との関連を直接的に示すことができた。

 また、スルフェナートアニオン種のセレン類縁体であるセレネナートアニオン種の合成についても検討し、その結晶中での構造をX線構造解析により明らかにすることができた。また、溶液中でのスペクトル的性質および反応性についての知見を得ることに成功した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は6章からなり、第1章は序論、第2章はグルタチオンペルオキシダーゼ(GPx)の不活性化プロセスのモデル反応、第3章はS-ニトロソチオールおよびチオニトラートの加水分解、第4章は硝酸エステルの代謝過程のモデル反応、第5章はスルフェナートアニオン種の合成、構造および反応、第6章はセレネナートアニオンの合成、構造および反応について述べている。

 第1章では、これまでに開発されたbowl型立体保護基とその応用について示している。さらに、Se-ニトロソセレノールの分解機構、硝酸エステルの推定代謝機構、スルフェナートアニオンおよびセレネナートアニオンの分解機構について述べられている。また、高反応性化学種をbowl型立体保護基を用いて単離し、構造、物性および反応性を明らかにし、生体反応のモデル反応に応用することでこれらの過程に実験的根拠を与えるという研究目的が述べられている。

 第2章では、GPxの活性窒素種による不活性化のプロセスについて、bowl型立体保護基であるBpq基を有する安定なSe-ニトロソセレノール11を用いることで、モデル研究を行っている。GPxの活性中心に存在するセレノールがS-ニトロソチオールにより失活する過程において提唱されている全ての反応素過程を、Bpq基を有する化合物を用いて実験的に示している。

 第3章では、Bpq基を有するS-ニトロソチオール14およびチオニトラート20の各種条件下における加水分解反応について述べている。14は酸性、中性およびアルカリ性条件下ではスルフェン酸が得られないという結果を得ている。一方で、20は酸性および中性条件下では加水分解を受けないものの、アルカリ性条件ではスルフェン酸が主生成物として得られることを明らかにし、重酸素水を用いた同位体ラベル実験により反応機構について考察している。

 第4章では、硝酸エステルの代謝過程のモデル反応について述べている。硝酸エステルの代謝過程では、硝酸エステルからチオールに対するトランスニトロ化と、続いて他のチオールに対するトランスニトロソ化によりS-ニトロソチオールが生成する機構が提唱されているが、実験的な証拠は得られていない。そこで、bowl型立体保護基であるBpq、Bmt基およびTrm基を用いて、各反応素過程について検討している。Bpq基を有するチオラート28と硝酸イソアミルを反応させることで、チオニトラート20を主生成物(ca.64%)として得ている。次に、20とTrm基を有するチオラートアニオンとの反応により、スルフェン酸22とS-ニトロソチオール39を得ている。これらの結果は、硝酸エステルからS-ニトロソチオールへの化学変換を実験的に示した初めての例として意義深い。また、Bmt基を有するセレノニトラートとチオールの反応により、セレネン酸とS-ニトロソチオールが生成することを見出している。

 第5章では、Bpq基を有するスルフェン酸の脱プロトン化によるスルフェナートアニオンの合成、構造および反応について述べている。スルフェン酸を18-クラウン-6またはクリプタンド[2.2.2]存在下、水素化カリウムを作用させることでスルフェナートカリウム塩を安定な固体として得ている。X線構造解析によりS-O結合は二重結合性を有することを見出し、再結晶溶媒および補助配位子により官能基部位の構造が変化することを見出している。また、スルフェナートアニオンの各種スペクトルを測定し、中心官能基と対カチオンとの相互作用が小さくなると、スルフィン型の共鳴構造の寄与が相対的に大きくなることを見出している。次に各種求電子剤との反応について検討している。その結果、スルフェナートアニオンは、ソフトな求電子剤とはよりソフトな硫黄上で反応し、ハードな求電子剤とはよりハードな酸素上で反応することを明らかにしている。また、中心官能基と対カチオンとの相互作用が大きい場合は硫黄上で反応しやすくなることを見出している。以上の成果は、スルフェナートアニオンの構造、物性を初めて明らかにし、構造とスペクトル的性質および反応を対応させて説明することに成功したという点で意義深い。

 第6章では、Bpq基を有するセレネン酸の合成、セレネン酸の脱プロトン化によるセレネナートアニオンの合成、構造および反応について述べている。スルフェナートアニオンと同様に安定なセレネナートカリウム塩を合成し、構造をX線構造解析により明らかにしている。また、各種スペクトル的性質および反応性についても明らかにしている。

 なお、本論文第2章は川島隆幸・後藤敬・永瀬茂・高木望・崔隆基との共同研究であり、他の章は川島隆幸・後藤敬との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験および解析を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できるものと認める。

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