学位論文要旨



No 120479
著者(漢字) 田中,剛平
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,ゴウヘイ
標題(和) 結合カオス写像系における集団現象の解析と応用
標題(洋) Analyses and Applications of Collective Behaviors in Coupled Chaotic Maps
報告番号 120479
報告番号 甲20479
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第99号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 複雑理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 合原,一幸
 東京大学 教授 鳥海,光弘
 東京大学 助教授 村重,淳
 東京大学 助教授 江尻,晶
 東京大学 助教授 堀田,武彦
内容要旨 要旨を表示する

1. はじめに

 同等な機能を持つ複数の要素が相互作用することによって,集団として動的な機能を創発する例が生体系,物理系,工学系などには数多くみられる.これらのネットワークは,しばしば非線形力学系の結合系によってモデル化される.結合系のダイナミクスは,主に個々の要素のダイナミクス,結合様式,ネットワーク構造,外力などに依存する.特に個々の要素がカオスダイナミクスを内在する場合,そのネットワークは複雑な集団現象を示すことが多い.モデル解析を通じて複雑集団現象の安定性や相転移の機構を数理科学の手法を用いて理解することは,個別事例の理解だけでなく,新しい力学現象の発見や非線形科学の一般論構築にとって重要である.また,非線形性を持つ演算素子を組み合わせたネットワークは,人工ニューラルネットワークのように,新しい計算原理に基づく情報処理に応用できる可能性を持っている.

 本論文では,3種類の結合カオス写像系に関する研究結果をまとめる.1つ目の研究では,結合カオス写像系に普遍的に見られる集団現象の一つであるカオス的遍歴現象(Kaneko&Tsuda, 2003)の数学的理解を目指し,間欠遷移現象の解析を行う.2つ目の研究では,生体細胞集団におけるバースト発火活動の同期現象に注目し,バースト写像結合系における時空間パターンの形成機構と安定性を調べる.3つ目の研究では,結合カオス写像系を利用した2値連想記憶モデル(Lee&Farhat, 2001)を多値連想記憶モデルに拡張する.

2. 結合カオス写像系におけるクライシス誘導型間欠性

 カオスニューラルネットワークにおいて,複数の記憶パターンを次々と動的に想起する現象が知られている(Adachi&Aihara, 1997).この遍歴的想起ダイナミクスは,共存する複数のカオスアトラクタの崩壊直後に,解軌道が元のアトラクタ領域間を遷移する振る舞いに対応する.近年,この遷移現象の発生機構が大域的分岐現象の立場から研究された(Yoshinaga&Kawakami, 2001).これに類似した間欠現象は,結合カオス写像系において普遍的に見られる.そこで,最も簡単な場合として,2結合ロジスティック写像に見られるクライシス誘導型の間欠的遷移現象を解析した.2次元写像系を用いる利点は,幾何学的性質が理解しやすいこととベイスン構造変化を観察できることである.

 対称結合の場合,間欠的遷移現象は,対角線外に共存する互いに対称な2つのカオスアトラクタのクライシス直後に観察される(図1(a)).一般にクライシスはアトラクタとベイスン境界の接触によって起きるので,クライシスに至るシナリオは,パラメータ変化にともなうアトラクタおよびベイスン構造の変化によって理解することができる(Mira et al., 1996).クライシスが起きるまでの主要な変化は次のようにまとめられる.

(1) ベイスン境界のフラクタル化(図1(b))

(2) ベイスン境界と臨界曲線Lの接触による,単連結近接ベイスンから多連結近接ベイスンへの変化

(3) アトラクタと多連結近接ベイスン境界の接触によるクライシス

フラクタルベイスン境界発生後のパラメータ変化にともなうベイスン構造の変化は,ベイスン境界のフラクタル次元の変化で定量的に特徴づけることができる(図1(c)).また,間欠的遷移状態の開始は,スナップバックリペラーの発生によるものであると考えられる(図1(a)).クライシス直後は,軌道は過渡カオスによって元のアトラクタ領域に長時間滞在する.その平均滞在時間は分岐パラメータに対してスケーリング則を持つことが分かった.また,わずかに対称性が崩れた非対称結合系を調べた結果,ベイスン分岐のシナリオは変化するものの,間欠的遷移現象はロバストに見られることが分かった.

 より高次元の結合カオス写像系では,共存する複数のアトラクタのベイスンを分離するフラクタル境界が存在し,これとアトラクタとの接触はカオス的遍歴現象を誘導すると考えられる.

3. 結合バースト写像系における時空間ダイナミクス

 生体細胞の集団における情報伝達機構は,神経科学において主要な問題の一つである.近年,細胞の発火活動の同期が生物の情報処理に重要な役割を果たしているのではないかと言われている.神経細胞の中には連続的なスパイク発火からなるバースト発火という特徴的な発火パターンを示すものがあるが,これらの集団におけるバーストの同期は,単一スパイクの同期と比べて信頼性の高い情報伝達を行っている可能性がある.そのため,バースト細胞の集団における同期機構を理解することは重要である.

 バースト細胞の結合系において,結合係数を連続的に変化させると同位相的なバースト同期が逆位相的なバースト同期に遷移することが数多くの実験(Elson et al., 1998)およびモデル研究(Rulkov, 2002)で報告されている.この現象の本質的な機構を理解するため,バースト細胞モデルの環状結合系を解析した.ここで,個々のバースト細胞モデルとして,2次元写像モデル(Rulkov, 2001)を用いた.また,細胞間の相互作用として,電気的結合と抑制性シナプス結合を考慮した.

 同位相的なバースト同期パターン(図2)では,バースト内スパイクは非同期だが,バーストしていない状態での膜電位変化はほぼ一様である.この一様状態は,解軌道が不変部分空間(2次元平面)の付近を動くことに相当する.そこで,不変部分空間の横断安定性を解析的に調べた.その結果,結合係数を連続的に変化させると,臨界点で不変部分空間の局所的な横断安定性が大きく変化することが分かった.この臨界点で同位相的バースト同期から逆位相的バースト同期(図3)への遷移が起こる.

 細胞集団が,結合されていないときはバースト発火を示さないが,結合するとバースト発火を示すとき,これを結合によるバーストの創発(deVries, 2001)という.結合係数の関係によってはバーストが創発するが,そのようなパラメータ領域の大きさは,細胞間結合の強度と結合した細胞数に依存することを明らかにした.

 バーストが創発するパラメータ領域内で,同位相的なバースト同期が間欠的なバーストの伝播によって乱される遍歴的パターンを観測した(図4).このパターンは,最大リアプノフ指数の収束が遅いなどのカオス的遍歴現象の典型的な性質を持つことが分かった.このように,時間スケールの異なる部分システムを内包するシステムの結合系では,複数のアトラクタ痕跡(Kaneko&Tsuda, 2003)が潜在的に存在するので,slow-fastダイナミクスはカオス的遍歴現象を誘導する有力な機構の一つだと考えられる.

4. 結合サークル写像系による多値連想記憶モデル

 カオスダイナミクスを内在する離散時間系の人工ニューラルネットワークは,結合カオス写像系と見なせる.近年,個々のニューロンの振る舞いが分岐現象によって切り替わることにより,自律的なネットワークダイナミクスを実現する連想記憶モデルが提案された(Lee&Farhat, 2001).一方,個々のニューロンが多状態をとる多値ニューラルネットワークにカオスを応用した例は少ない.そこで本研究では,Leeらの提案した2種類の2値ネットワークの拡張として,同様のダイナミクスを有する2種類の多値ネットワーク(PCCMN-1, PCCMN-2)を提案する.

 PCCMN-1の演算ユニットとして,K個のカオスアトラクタが融合分岐(図5(a)上)を起こすサークル写像を設計した.解軌道は,分岐前は局所的な領域に制限されるが,分岐後は定義域全体をカオス的に動く(図5(a)下).いま,K個の区間をそれぞれ離散値に対応させると,軌道に対応する離散値は,分岐前は変化しないが分岐後は変化しうる.このサークル写像N個を,部分エラー関数を介して結合する.各ユニットは,部分エラー関数の大小に応じてダイナミクスを自律的に切り替える.部分エラー関数の総和はエネルギー関数に等しいので,すべてのユニットが分岐前の状態をとるときエネルギー関数値は最小化され,同時にネットワークは収束する.ゆえに,PCCMN-1の連想記憶ダイナミクス(図5(b))は自律的シミュレーテッドアニーリングだといえる.

 PCCMN-2の演算ユニットとして,階段状の分岐図(図6(a)上)を起こすサークル写像を設計した.解軌道は,分岐パラメータの変化に伴い周期状態とカオス状態(図6(a)下)を交互に示す.この階段状の分岐図は多状態の閾値関数としての役割を果たすと期待できる.そこで,このサークル写像N個を,重みつき入力和を通じて結合する.この結合様式はリアプノフ関数型のエネルギー関数を持つ複素ニューラルネットワーク(Jankowski et al., 1996)で用いられたものと同じである.カオスダイナミクスを導入したことで,PCCMN-2は記憶パターンの連想過程におけるエネルギー関数値の増加を許す(図6(b)).これは偽の記憶パターンからの脱出を可能にする効果をもつと考えられる.

 数値実験により,提案した2つの連想記憶モデルは,あるパラメータ範囲で,従来の複素ニューラルネットワークに比べて偽の記憶パターンを想起する確率が低いことが分かった.

図1:(a)間欠的遷移現象の相図(左上)と時系列(下),および対角線上の不安定固定点Pの不安定多様体(右上) (b)2つのアトラクタのベイスンを分離するフラクタルベイスン境界と臨界曲線L (c)パラメータ変化に対するベイスン境界の次元変化

図2: 同位相的バースト同期

図3:逆位相的バースト同期

図4:バーストの同期的なリズムが間欠的な伝播によって乱されるパターン

図5:(a) サークル写像(K=5)の分岐図(上)と分岐前後の力学(下); (b) PCCMN-1(N=64, K=5)を用いた記憶パターンの連想過程(上から離散値,状態変数,エネルギー関数値の時間発展)

図6:(a) サークル写像(K=5)の分岐図(上)と分岐前後の力学(下); (b) PCCMN-2(N=64, K=5)を用いた記憶パターンの連想過程(上から離散値,状態変数,エネルギー関数値の時間発展)

審査要旨 要旨を表示する

 同等な機能を持つ複数の要素が互いに相互作用することによって、集団として動的な機能を創発する現象の例が、生体系、物理系、工学系には多く見られる。これらの現象はしばしば非線形力学系の結合系モデルによって再現される。特に個々の要素がカオス力学を有するとき、集団は複雑な振る舞いを示すことが多いが、これらの発生要因や安定性の機構を数理科学的手法によって理解することは、個別現象の理解だけでなく新しい力学現象の発見や非線形理論の発展にとって重要である。また、非線形性を持つ演算素子の結合系は、人工ニューラルネットワークのように、新しい計算原理に基づく情報処理に応用できる可能性を持つ。本論文では、結合カオス写像系における集団現象の理解を目指すと共に、そのような集団現象を利用した情報処理システムの提案を目的とする。

 本論文は、"Analyses and Applications of Collective Behaviors in Coupled Chaotic Maps"(和文題目 結合カオス写像系における集団現象の解析と応用)と題し、全6章より成る。

 第1章では、結合写像系に関する一般的な研究背景や注目すべき集団現象の概要を説明している。また、本論文の構成を示し各章の位置付けを明確にしている。

 第2章では、カオス的遍歴現象と間欠カオスの関係について考察している。まずサブクリティカルタイプの分岐現象直後に現れる局所的なアトラクタ痕跡を分類し、それらの存在下では、大域的な条件に依存して間欠カオスまたはカオス的遍歴が出現すると述べている。特に、クライシスと呼ばれる大域的分岐現象とシステム内部に存在する時間スケール差は、従来あまり注目されていないカオス的遍歴現象の機構であると主張している。これらの2つの機構はそれぞれ続く2つの章の研究動機となっており、本章は本論文の根底にある問題意識を説明する役割を果たしている。

 第3章では、高次元力学系に見られるカオス的遍歴現象の発生機構の理解を目的として、2次元結合カオス写像系における間欠現象を解析している。この間欠現象はカオスアトラクタとベイスン境界の接触(クライシス)によってロバストに誘導されることを、カオスアトラクタの分岐、ベイスン構造の定性的及び定量的変化、不変多様体の解析を通じて明らかにしている。本章の結果は、従来高次元力学系に特有であると言われてきたカオス的遍歴現象の一般的な機構のひとつが低次元力学系を通じて理解できるという新しい観点を与えている。

 第4章では、生体細胞の情報伝達に関わるとされる集団的発火活動を理解するため、バースト写像の環状結合系における発火パターンについて調べている。2つの代表的なバーストの同期パターンは、一様解が埋め込まれている不変部分空間の局所的安定性よって切り替わり、それは結合パラメータ値に依存することを明らかにしている。また、発火活動が創発するパラメータ領域において、バーストの同期と伝播から構成される複雑なパターンを発見し、その機構をカオス的遍歴の概念を用いて説明している。これらの結果は、生体細胞の発火パターンを左右する本質的な要因の理解に貢献するものである。

 第5章では、多値連想記憶システムとして動作するサークル写像結合系を2種類提案している。カオスダイナミクスを含み特徴的な分岐現象を示す2種類のサークル写像を設計し、適切な結合様式でネットワークを構成すると全体として望ましい振る舞いが実現できることを示している。さらに数値実験により、提案した手法があるパラメータ範囲においては従来の多値連想記憶モデルより良い結果を与えることを示している。多値連想記憶システムはカラー画像の復元や認識に応用できる情報処理機構の一つであり、結合写像系を利用した新しい計算原理の可能性を示したと言える。

 第6章では、本論文で扱った3種類の結合カオス写像系に関して、得られた結果の新規性を整理し今後の課題についてまとめている。

 以上のように、本論文は結合カオス写像系の理論及び応用に関して大きな成果を上げ、複雑理工学上貢献するところが大きい。なお、本論文の第3章はMiguel A. F. Sanjuanおよび合原一幸、4章と5章は合原一幸との共同研究であるが、論文提出者が主体となって問題を提起しその結果の導出を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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