学位論文要旨



No 120637
著者(漢字) 齊藤,歩
著者(英字)
著者(カナ) サイトウ,アユミ
標題(和) 『増鏡』とその時代
標題(洋)
報告番号 120637
報告番号 甲20637
学位授与日 2005.09.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第490号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 助教授 渡部,泰明
 東京大学 助教授 安藤,宏
 東京大学 助教授 肥爪,周二
内容要旨 要旨を表示する

『増鏡』研究は、諸先学によって綿々と継承されてきた。その間、戦前の「公武抗争史」的受容から離れ、作者・成立年代・本文系統が三つの主題として検討され、稿者もその末端に位置して考察を進めてきたが、課題が山積していることは、三主題の何れにも決着が見られていないことに明らかであろう。諸注釈を除いては、『増鏡』を専一に扱ったものに、西沢正二氏の『『増鏡』研究序説』(昭和五十七年)、伊藤敬氏の『増鏡考説―流布本考―』(平成四年)があり、総説・研究史・各論からなる『歴史物語講座』(平成九年)も編まれた。永い研究史を有するとしても、右の年次から見ると『増鏡』の考究は、未だ遥かな前途を持つと言って大過ない。その状況下で本論が目指したものは、やはり全巻を流れとした読解である。且つ「『増鏡』とその時代」と題したように、言わば『増鏡』に窺知される、中世前期がいかなる時代であったかという歴史認識を模索することであった。

その作業に当たって、本論では『増鏡』を「帝紀」として見た。第一章冒頭で述べたように、各巻の首尾は殆ど誕生・践祚・即位、譲位・崩御など、諸帝の去就に基づいている。作者の興味の赴くところに随い、巻の長短・記事の密度の高低は様々であるが、それだけに作者が「御世」を枠組みとする設定から離れ難かったことを示しているのではないか。そして、その枠の中で何に重点を置いて語るのか、いかなる発言を残しているのかを微細に検討する以外に作品理解の道は求め得ないだろう。

第一章では上記の「帝紀」としての観点から全体の流れの解釈を試みた。従来『増鏡』は後鳥羽院・後醍醐帝、その間の鎌倉中期の三部構成として検討されてきたが、稿者はこれを四部と捉え、概ねそれに対応させて五節を立てた。

物語の始発として、後鳥羽院物語を取り上げた。『増鏡』が後鳥羽院・後醍醐帝をその対象とする時代に対称的に配置、というよりも対称性を起動力として叙述されたことは広く共有された前提であろう。しかしながら、その描写のあり方は大きく異なっている。院の姿は、承久の乱以前の「おどろのした」、乱の時期に相当する「新島守」、そして「藤衣」の隠岐配流の叙述に三分される。古くは武家政権への憤懣がデフォルメされ、やや近くは院の風流がクローズ・アップされるとされた物語であるが、その理解は妥当なのか。院の存在はもとより大きいのであるが、武家政権に立ち向かう帝王像は物語には存在せず、また歌壇・水無瀬離宮での韻事もまた、院自身を描写するのみの叙述と理解すべきではないと考える。「帝紀」「鏡」の始発点において、偶像化された「理想の帝王」を形象するのが後鳥羽院物語である。その機能を担うのは、古の伝統・倫理を示した「小史」であり、伝説化された逸話である。

第二節では、結果的に中継ぎとなった後高倉院二代について『沙石集』を端緒として言及した。後高倉院は弟・後鳥羽院の陰に沈潜していた存在であり、『沙石集』の他、『五代帝王物語』においても、その扱いは重いものではない。この認識は結果的には後鳥羽院と後嵯峨院時代との隙、という位置によるものに見えるが、院崩御直後からそうした感覚が発生していることを見た。後高倉院にのみ注目した結果となったが、後堀河・四条二代にあたる二巻「藤衣」「三神山」の叙述は、前半が後鳥羽院の隠岐配流記事、後半が後嵯峨院登極の前兆を語るために用いられており、作者の意図もそこにあると思われるが、後醍醐帝物語の「春の別れ」に似て、旧世代、後鳥羽院物語との別れの時期として意味付けられていると見るのが妥当であろう。

第三節では、後鳥羽院・後醍醐帝の狭間にあって公家・武家ともに安定した「後嵯峨院時代」について述べた。院の時代に生まれた「公武協調」は、歴史上初めての事態である。往時の人々にとって、それは承久の乱からの快復ではあったろうが、厳密な意味での王朝時代の復活とは映らなかったに相違ない。しかし、『増鏡』作者の視線からはどうであろうか。武家に依存しながら儀礼も復活し再出発を遂げたこの時代は、新たな実現可能な理想形態となったはずである。『増鏡』はこの時期を殊更に「儀礼の時代」として記述した。幕府権力に支えられるという古からすれば屈辱的な後嵯峨院時代ではあったが、この時期の鎌倉政権に対しては後代の『神皇正統記』『太平記』も斉しく賞賛するところであった。『増鏡』の認識も決してその例外ではない。西園寺家の栄華を謳歌する叙述と相俟って、夙に加納重文氏が指摘されたように、全巻において最も平穏且つ明朗な空気を湛えているのはこの後嵯峨院時代である。

第四節では、両統迭立期を第三部と規定し、考察した。この時代は従来、後嵯峨院時代と併せて「第二部」とされていた。しかし、「あすか川」で後嵯峨院が崩じて後、後深草・亀山の確執が生まれ、やがては持明院統・大覚寺統の対立に至る。こうした政治状況は禁中の大事件をも惹起した。のみならず恋愛物語においてさえ、後嵯峨院時代とは様相を大きく異にする。『源氏物語』風の叙述によってはいるが、既に現実社会の醜聞に近づきつつあることも作者は隠してはいない。

この巻々、殊に「草枕」「老いのなみ」二巻は『とはずがたり』の強い影響下にある。『とはずがたり』に接したことは作者の執筆への大きな起動力になったであろう。しかし、もとより一上臈女房の視点と歴史物語作者の視線には距離がある。両者の相違についても私見を示した。

「さしぐし」に入ると両統迭立期第二世代に移る。ここに至って対立は顕在化した。もとより後醍醐帝物語とは、別して把握すべきであろう。しかし、前兆は確かに存在する。その意味でこの第三部は、後嵯峨院時代の名残と後醍醐帝物語の兆しとが同居する過渡期であったと言い得よう。

第五節は、後醍醐帝物語の検討である。先行研究と比較して、帝の世を動乱に至る以前から暗い空気漂うものと解釈した。その不穏な空気は、断片的な時評にも顕われ始めている。また、後醍醐帝は持明院統の他に大覚寺統後二条流とも緊張関係にあった。この確執においては、作者が帝の強圧的性格を意識しているとし、それを暗示する構成を指摘した。

正中の変・元弘の乱においては、『増鏡』は自らの語りの均衡を保ちつつ事変の経緯を簡潔に記述している。この形態は、承久の乱における後鳥羽院の希薄とは大きく異なり、帝の意志と強かな精神を明らかにするものである。また、要を得た叙述は時に軍記物語以上のスピード感を与える効果をもたらした。擱筆については、後醍醐帝の還御で完結する形態にこそ、「帝紀」「鏡」終焉の意味が濃厚に顕われると考える。『増鏡』は、後鳥羽院物語に示された古の形態が凋落していった流れを示した「鏡」であり、完全に喪失した情況には「鏡」は存在し得ないのである。また、その終焉は独り「鏡」に留まらかった。

第二章は、所収和歌についての考察である。第一節は、第一章に探った歴史認識を支え、補完する機能を持つものとして和歌を位置づけた。『増鏡』に多い祝言の歌については、往時の得意が歴史物語読者においては慨嘆を増幅する機能を果たし、巻を重ねるにつれて作者がそれを意図していることが明確になってくることを述べた。

また、後鳥羽院・後醍醐帝の敗残・流離の歌は、同趣でありながら空気は全く異なっている。後鳥羽院のそれは風雅の世界へ復帰した証しであり、後醍醐帝の道行・歌は再起へ向かう物語における帝の肉声に替わるものである。

第二節は、所収和歌の作者群について考察した。題材とした場面に付随しての結果に過ぎないとも考えられようが、その配置は誠に精妙である。作者の関心を探る端緒として更に成立期の歌書等も照合しつつ追究すべき課題と考える。

第三節では、第一節の考察に際して浮上した、和歌による諸本間異同について考察した。

第三章は、作者論に宛てた。作者論と成立年代論は、虚心に各々独立してあるべきものと考える。堅固な外部徴証のない現況において、内部徴証は状況証拠であることを免れないが、本論では、二条良基説に拠った私見と小川剛生氏の反論に基づき方向性を模索した。北朝廷臣という氏の提唱には全面的に同意である。偏頗に陥ることなく解明へ進みたい。氏は、成立を「暦応―延文三年」の早い時期、としたが、最終記事から近過ぎるように思われる。稿者は暦応二年(一三三九)から貞和四年(一三四九)の十年間を想定した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、中世の前半期を対象として描き出した歴史物語『増鏡』が、いかなる構想を持ってその時代を把握し、表現しようとしたのかを微細に検討し、明らかにしようとするものである。そのために論者が取った方法は、三つに分かれ、それぞれに一章を当てて論じている。

第一章では、『増鏡』の物語を構想する枠組みを捉えようとする。各巻の首尾がおおむね天皇の誕生・践祚・即位・譲位・崩御などの帝の去就に基づく「帝紀」として構成されていることと、各巻の記事構成を対比することにより、従来『増鏡』を後鳥羽院・後醍醐帝とその間の鎌倉中期の三部構成として捉えてきたが、後鳥羽院の時代・後嵯峨院時代・両統迭立期・後醍醐天皇時代の四部構成と捉えるべきであるとする。これに基づき、それらの四部がそれぞれいかなる時代認識により描出されているかを検討する。後鳥羽院は、従来理解されてきた、武家政権への憤懣を持ち、武力で立ち向かう帝王像としては描かれておらず、また近年、それに代わって提唱されるようになった、風流の帝王という理解もまた退けられる。論者は、「後鳥羽院物語」が描き出したものは、王朝的な古き「理想の帝王像」であり、貴族世界の伝統・文化への自負であったとする。「後嵯峨院時代」は「儀礼の時代」として描かれ、実体は鎌倉武家政権によって支えられる屈辱的な時代であるにもかかわらず、新たな「聖代」として描出されているとする。第三部の両統迭立期は、「老の波」の章における後嵯峨院時代の余韻を残す膨大な儀礼描写から、徐々に政治状況の混迷や血腥い事件の発生などの叙述を通して、第四部の後醍醐天皇物語の前兆が語られ、転換期として描かれているとする。第四部の後醍醐天皇の物語では、帝の強い意志と性格を簡潔な記述の中に表現し、後鳥羽院物語で示した古の理想の王朝の形態が後醍醐天皇に至って完全に喪失した情況を描き、歴史を映す「鏡」としての物語の終焉をも迎えたと説く。

第二章は、物語中に挿入されている和歌を物語叙述の位相と対照検討する。『増鏡』には祝言の歌が多く収録されるが、歴史は歌の祝福する方向へは動かず、むしろ時代は暗転して行く。これは往時の栄華を歌うことが却って喪われたことへの慨嘆を増幅するものとして機能していると述べ、第一章で探った歴史認識を支え、補完する機能を持つものとして、配置さていることを明らかにする。

第三章は、近年、膠着状態にある作者論の再検討を行っており、古い説として忘れられがちな二条良基作者説に、なお成立の可能性があることを述べる。論者は、暦応二年(1339)から貞和四年(1348)の間に、『増鏡』の成立時期を想定する。

本論文は作品の表現するところを丁寧に読解し、その主題を明らかにしようとする方法で一貫しており、歴史物語の解釈に多くの新見を加えた。著者の示した新説には更に慎重な検討が必要なものもあるが、本審査委員会はその研究史的意義を認め、本論文が博士(文学)に値するとの結論に至った。

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