学位論文要旨



No 120650
著者(漢字) 斉藤,都美
著者(英字)
著者(カナ) サイトウ,クニヨシ
標題(和) 自動車保険市場において情報の非対称性が果たす役割についてのエッセイ
標題(洋) Essays on the Roles of Asymmetric Information Played in the Automobile Insurance Market
報告番号 120650
報告番号 甲20650
学位授与日 2005.09.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第193号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 企業・市場専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三輪,芳朗
 東京大学 教授 伊藤,元重
 東京大学 教授 神取,道宏
 東京大学 助教授 柳川,範之
 東京大学 助教授 大橋,弘
内容要旨 要旨を表示する

過去数十年間にわたる情報の経済学あるいは契約理論の進展は,情報の非対称性の存在が効率的な資源配分を妨げる可能性があることを示すとともに,現実に存在する様々な制度が,こうした非効率性を緩和する手段として機能していることを説明するのに大きな貢献をしてきた.確かに現実に,ほとんどあらゆる場面において,情報は非対称であるし,保険金詐欺の例のように,それが重要な問題を引き起こしていることも事実である.しかしながら一方で,情報の非対称性が市場の効率性を阻害するとされる典型的な市場でさえ,そうではない通常の市場と同様に多くの取引が行われ,市場が存在し続けている.問題は,情報の非対称性によってもたらされるとされる非効率性がどの程度か,という点にあり,これは実証的に検討されるべき課題である.

これまでの情報の非対称性に関わる議論の大半は,一部の例外的な分野を除くと,理論的可能性の指摘や説明に留まり,それが現実経済において果たす役割や,その影響の大きさについての定量的な評価を目的とした実証研究はほとんど行われてこなかった.その結果,理論モデルの設定の妥当性が吟味されることもなかったし,情報の非対称性が重要な役割を果たす市場の具体例すら挙げられないのが現状である.

こうした研究の現状を踏まえ,この論文では情報の非対称性が重要な役割を果たす典型的な市場の一つとして例示されてきた保険市場の中から,特に自動車保険市場を取り上げて,この市場において情報の非対称性が果たす役割を検討した.論文はChapter lからChapter3までの,互いに関連する3つの章から成っている.以下,各章の内容を順に説明していく.

Chapter1では,国内大手損害保険会社に依頼し,提供いただいた合計3万件の自動車保険の契約データを用いて,逆選択あるいはモラルハザードの仮説が統計的に支持されるか,どうかをテストした.この章の貢献は以下の2点にある.第一に,料率規制が情報の非対称性に与える影響に焦点を当てた.これまで自動車保険市場を対象とした先行研究はすべて,保険会社が料率を自由に設定できる競争的な市場を対象としてきた.しかしながら多くの国や地域において,自動車保険料率には社会的,経済的理由から料率規制がかけられている.例えば米国の多くの州では,人種,性別,宗教,皮膚の色といった要素について料率を差別することを禁じているし,地域や年齢,職業といった要素に関しても料率差別が禁止,あるいは制限されているケースが少なくない.こうした料率規制は,それが無ければ高い保険料を提示され,保険を購入できない契約者に対して保険を提供し,無保険者を減少させるという点で一定の成果を挙げてきたものの,その代償として深刻な逆選択やモラルハザードをもたらす可能性がある.何故ならば,料率差別は保険会社にとってそれらを緩和するための主要な手段の一つとして理解,説明されてきたからである.このように,料率規制が情報の非対称性から生じる非効率性にどのような影響を与えるのかを評価したことが,第一の貢献である.第二の貢献は,自動車保険の複数の側面についてそれぞれ情報の非対称性のテストを行ったことにある.自動車に関連する事故には様々なタイプの事故が存在し,それに対応して様々な補償が存在する.したがって例えば,対人事故を補償する対人賠償保険については逆選択の問題が生じにくいものの,盗難をカバーする車両保険ではそれが深刻であるという可能性が存在する.そこで複数の種目についてそれぞれ分析を行い,結論を導いた.

結論は以下のようにまとめられる.第一に,逆選択,モラルハザードが存在するという仮説は棄却された.逆選択あるいはモラルハザードのもとでは,リスクと補償範囲の間に正の(条件付)相関が認められるはずであるが,両者の間に一貫した関係は認められないという意味で,逆選択あるいはモラルハザードの仮説が棄却されることを確認した.第二に,この結論は,複数のリスクあるいは補償範囲の定義について成立するとともに,パラメトリック,ノンパラメトリックいずれの手法を用いた場合にも成立するという意味で,ロバストな結論であることを示した.

Chapterlにおける分析は,1期間(1年間)のデータに基づいているが,次のような論点については分析が困難である.例えば情報の非対称性がもたらす非効率性の程度は,保険会社がオファーする契約や,時期によって異なるかもしれないが,1時点のデータではこうした点について検討できない.また,料率の引き上げのような外生的なショックを用いて逆選択やモラルハザードの動学的な側面を検討することも不可能である.そこでChapter2では,逆選択のよりダイナミックな側面に焦点を当てることを目的に,都道府県レベルのパネルデータを用いて,再度逆選択のテストを試みた.

ここでの分析対象は,1960年代後半から1970年代前半にかけての任意対人賠償保険である.この時期,自家用乗用車が急速に普及した結果,交通事故が急増し,1970年には死者数が1万6千人を超えた.それに伴い,それまで車両保険がその中心だった自動車保険は,次第にその役割の中心を対人,対物の各賠償保険に移し,1965年度末に21.0%だった任意対人賠償保険の普及率は,1970年度末に41.8%,1975年度末には48.1%にまで上昇した.契約者の急速な増加にも関わらず,この時期,保険会社の成績は極めて悪化し,そうした状況を改善するため,保険会社は数度にわたって大幅な料率の引き上げを行った.またこの時期の保険契約は,現在のそれと比較して,契約者の属性や事故歴に応じた料率差別がほとんど行われていなかったことも併せて考慮すると,これらの観察事実は,この時期に逆選択の問題が顕在化していた可能性を示唆するとともに,実証研究上,料率引き上げのショックを利用した逆選択のテストを行うのに好都合な場を提供している.

具体的には次の2つの仮説をテストした:(HI)この時期,リスクの高い契約者ほど任意対人賠償保険を購入したか?(H2)保険会社による大幅な料率の引き上げは低リスクの消費者を締め出したか?

1966年から1975年までの都道府県レベルの任意対人賠償保険のパネルデータを用いて分析した結果,次の結論を得た.第一に,任意対人賠償自動車保険の需要を推計したところ,いずれの時期においても,事故確率の高い契約者あるいは大きな賠償金額に直面している契約者ほど保険を購入していたという仮説は棄却された.またこの結論は,複数の「事故確率」の定義のもとで成立することも併せて確認した.第二に,保険料率の上昇が低リスクの契約者を締め出したという仮説についても棄却された. 1970年に89%の料率引上げが行われ,それまで一貫して上昇傾向にあった普及率は,1969年の46.8%から1970年の41.8%, 1971年の40.1%にまで低下した.このショックが保険金請求率や損害率を上昇させたかどうかテストしたところ,いずれの証拠も見つからなかった.また追加的な分析として,主観的な事故確率と実際の事故確率とのズレを指摘するrisk misperceptionの仮説を検討したところ,道路面積当たりの人口が多いほど,保険の加入が増加するという点で,一定の支持が得られた.

Chapter3では,Chapter1と2の結論を説明する仮説の一つとして,次の仮説を検討した:消費者は異なるリスク回避度を持ち,リスク回避度の高い契約者はより多くの保険を購入し,かつ,リスク回避度の高い契約者ほど慎重な運転をする.この仮説のもとでは,リスクと補償範囲の関係は負となり,逆選択とは正反対の状況が発生する.

次の2つのステップにより仮説をテストした.まず,車両保険の免責金額の選択行動から,絶対的リスク回避度一定の仮定の下で,リスク回避度を計算した.次に,計算したリスク回避度と保険契約の選択行動,リスク回避度と事故確率の関係がどのようになっているかを,セミパラメトリックな手法を用いて分析した.

その結果,次のような結論が得られた.第一に,計算された絶対的リスク回避度は平均2.13*10-4,標準偏差0.000284となり,自動車保険以外の他のデータを用いた先行研究の推計結果よりも若干低い値であることを確認した.第二に,計算したリスク回避度と(免責金額以外の)いくつかの保険契約の選択行動の関係を調べた結果,リスク回避度の高い契約者ほど,補償範囲の広い保険契約を選択していることがわかった.最後に,リスク回避度と事故確率の関係については,悪い事故歴を持ったグループについてはリスク回避度の高い契約者ほど事故を起こしやすいという関係が見られたものの,その他のグループについてはリスク回避度と事故確率の間に負の関係が認められた.以上より,リスク回避度は,保険契約の選択行動においては極めて重要な役割を果たしているものの,交通事故のリスクとの関係は,グループの属`性によって大きく異なることがわかった.

以上が各章の具体的な内容である.

審査要旨 要旨を表示する

論文の主題と位置付け

斉藤都美氏の学位請求論文,"Essays on the Roles of Asymmetric Information Played in the Automobile Insurance Market"は,自動車保険市場を対象として,情報の非対称性が生み出す非効率性と保険契約者のリスク回避度が果たす役割について,自動車保険の個別契約データを用いて分析した実証研究である。

契約理論あるいは情報の経済学に関する研究には30年以上の蓄積があり,情報の非対称性が存在する場合に,市場で達成される資源配分の性質や,それを改善するための対応策について,すでに多くの知見が得られている。近年,この分野における実証研究の必要性,重要性が強く認識されるようになり,多様な市場で様々な理論的predictionをテストする試みが行なわれるようになっている。その結果,現実経済において情報の非対称性が果たす役割に関する理解が深まり,理論的研究との相互作用も生まれつつあると同時に,実証研究上の新たな論点,課題が浮き彫りになってきた。本論文の研究テーマは,こうした研究背景の中から生まれたものであり,既存文献の問題意識に依拠しつつ,まだ分析されていないテーマに取り組んだ,新規性,独創性のある内容になっている。

精緻な分析を行なうため,斉藤氏は国内の大手損害保険会社に自らの研究の方向性を説明した上で自動車保険データの提供を依頼し,個別契約データの提供を受けた。Chapter 1とChapter 3の分析は,そうして得たデータを用いて行われている。またChapter 2では,個別データでは分析できないテーマを扱うため,公表されている都道府県レベルのパネルデータを用いている。本論文は,これら3つの章から構成されており,それぞれが相互に関連し,補完する内容となっている。

以下では各章の内容と主な貢献,残された課題について述べる。

各章の概要と評価

Chapter 1. Testing for Asymmetric Information in the Automobile Insurance Market under Rate Regulation

本章は情報の非対称性の実証研究として先駆的な文献であるP. A. Chiappori and B. Salanie (2000) "Testing for Asymmetric Information in Insurance Markets," Journal of Political Economy 108(1) pp.56-78で提示された分析手法に基づき,自動車保険市場における逆選択あるいはモラルハザードをテストしている。

とりわけ以下の2点に焦点を合わせた分析である点が重要である。第一に,料率規制が情報の非対称性に与える影響に焦点を当てている。これまで自動車保険市場を対象とした先行研究はすべて,保険会社が料率を自由に設定できる競争的な市場を対象としてきた。しかしながら現実には,多くの国や地域において,自動車保険料率には社会的,経済的理由から料率規制がかけられており,日本でも1998年の部分的自由化までは,強い料率規制が存在していた。経済理論によれば,料率差別は保険会社にとって逆選択を緩和するための主要な手段の一つであるから,規制は逆選択あるいはモラルハザードを引き起こす可能性がある。こうした規制のコスト面に注目して分析を行なっている。第二に,自動車保険の複数の側面についてそれぞれ情報の非対称性のテストを行っている。自動車に関連する事故には様々なタイプの事故が存在し,それに対応して様々な補償が存在する。従って,例えば対人事故を補償する対人賠償保険については逆選択の問題が生じにくいものの,盗難をカバーする車両保険ではそれが顕著であるという可能性が存在する。そこで複数の種目についてそれぞれ分析を行い,結論を導いている。これにより分析は緻密さを増している。

分析は2万件強の自家用乗用車についての個別契約データに基づいて行なわれており,結論は以下のようにまとめられている。第一に,逆選択,モラルハザードが現実化しているという仮説は棄却される。逆選択あるいはモラルハザードが現実化すれば,リスクと補償範囲の間に正の(条件付)相関が認められるはずである。両者の間に一貫した関係が認められないという意味で,逆選択あるいはモラルハザードが現実化しているとする仮説が棄却されることを確認している。第二に,この結論は複数のリスクあるいは補償範囲の定義についても,同様に成立するとしている。さらにパラメトリック,ノンパラメトリックのいずれの手法を用いた場合にも成立するという意味で,ロバストな結論であることを示している。

本章の貢献は,料率規制が非対称情報に起因する非効率性に与える影響を試みた点と,複数の種目についてそれぞれ分析を行なうことにより,精緻な分析を行なったという2点にあるが,これらの貢献は政策的な観点からも重要な貢献である。

分析は詳細かつ丁寧に行なわれているものの,いくつかの残された課題も指摘できる。例えば,本章の分析は基本的にChiappori and Salanieの手法を踏襲しており,逆選択,モラルハザードの評価を最終的に統計的な有意性の議論に落ち着かせている。しかし統計的に有意かどうかという以上に興味深いのは,非対称情報によってもたらされる非効率性が「どの程度か」という重要性のレベル,サイズである。何らかの指標を用いて,重要性のレベル,サイズについて議論を行なうことで,情報の非対称性の役割についてより詳細な議論が可能になる。また本章では,複数の統計的手法を用いて慎重な分析を行なっているものの,各統計手法で必要な仮定が満たされているかという点について,より立ち入った議論をする余地がある。例えば,bivariate probitモデルでは各probitモデルのlinearityの仮定や変数の外生性の問題が満たされているかどうかをチェックすることで,分析結果はより信頼性を増すはずである。

Chapter 2. Adverse Selection in the Early Automobile Insurance Market

Chapter 2では,逆選択のよりダイナミックな側面に焦点を当てることを目的に,都道府県レベルのパネルデータを用いて,改めて逆選択行動のテストを試みている。この章の目的はChapter 1と同様,情報の非対称性の重要性をテストすることにあるが,Chapter 1で用いたクロスセクションデータでは分析不可能な点に焦点を当てて,補完的な分析を行なっている。

本章では,分析対象を1960年代後半から1970年代前半の時期の任意対人賠償保険に限定している。この時期は交通事故が急増した結果,対人,対物の各賠償保険が急速に普及した時期である。1965年度末に21.0%だった任意対人賠償保険普及率は,1970年度末に41.8%,1975年度末には48.1%にまで上昇している。しかし契約者数の急速な増加にもかかわらず,この時期,保険会社の収益が大幅に悪化した。このため,収益改善のために保険会社は数度にわたって大幅な料率引き上げを行った。論文の基本的なアイデアは,この料率引き上げのショックを利用して契約者の逆選択行動をテストすることである。

1966年から1975年までの都道府県レベルの対人賠償保険データを用いて, (H1)リスクの高い契約者ほど任意対人賠償保険を購入したか,(H2)保険会社による大幅な料率の引き上げは低リスクの消費者を締め出したか,という2つの仮説をテストした。得られた結論は以下の通りである。第一に,任意対人賠償自動車保険の需要を推計した場合,いずれの時期においても,事故確率の高い契約者あるいは大きな賠償金額に直面している契約者ほど保険を購入していたという仮説は棄却される。この結論は,複数の「事故確率」の定義のもとで成立する。第二に,保険料率の上昇が低リスクの契約者を締め出したという仮説についても棄却される。1970年に89%の料率引上げが行われ,それまで一貫して上昇傾向にあった普及率は,1969年の46.8%から1970年の41.8%,1971年の40.1%にまで低下した。このショックが保険金請求率や損害率を上昇させたか否かをテストしたところ,いずれについても支持する証拠は見つからなかった。追加的な分析として,主観的な事故確率と実際の事故確率とのズレを指摘するrisk misperceptionの仮説を検討し,道路面積当たりの人口が多いほど,保険の加入が増加するという点で,一定の支持を与える結果を得ている。

本章の内容は,以下の点でも評価できる。第一に,保険料率が急激に引き上げられた外生的なショックをうまく利用して逆選択のテストをしている。外生的なショックを利用する手法は,クロスセクションデータでは解決し難いセレクションバイアスの問題に対処する方法として近年多くの研究で採用されている方法である。自動車保険市場の過去の事実の中にそうしたショックを見出して利用した点は,設計の巧みさという点で評価に値する。第二に,変数の内生性に対して操作変数法を用いて対処しているが,その際に操作変数が有効に機能する理由に関する直感的説明に加えて,外生性(exogeneity),有効性(relevance)に関する統計指標を示しながら分析結果を提示している。こうした操作変数の有効性に関する丁寧な議論により,分析結果が信頼あるものになっている。

ただし将来的に改善すべき点もいくつか認められる。例えば,料率引き上げが逆選択を通じて保険金請求率あるいは損害率に与える影響が,どの程度の期間を経て現れるのかという点について,慎重な検討を必要とする。とりわけ対人賠償保険の場合,事故の発生から損害額が確定し,保険金の支払いが完了するまでにはかなりの時間がかかるといわれるから,より詳細な分析が必要である。また2.5節では,人口密度と道路面積当たりの車両密度の変数が,自動車保険需要に有意に影響を与えている事実をもって,risk misperceptionの仮説を支持する証拠としている。しかし両変数がなぜrisk perceptionの指標として有効なのか,また,人口密度と車両密度の間には相関係数0.928という強い相関があるにもかかわらず,なぜ両者の変数の効き方が大きく異なっているのかという疑問に対して,何らかの説得力ある説明が必要である。

Chapter 3. The Roles of Risk Aversion in the Automobile Insurance Market: An Empirical Study

Chapter 3では,Chapter 1と2で得られた結論を説明する仮説の一つとして,次の仮説に注目して検討している:消費者は異なるリスク回避度を持ち,リスク回避度の高い契約者はより多くの保険を購入し,かつ,リスク回避度の高い契約者ほど慎重な運転をする。この仮説のもとでは,リスクと補償範囲の関係は負となり,逆選択とは正反対の状況が発生する。

この仮説をテストするため,本章では次の2つのステップを採用している:(1)車両保険の免責金額の選択行動から,絶対的リスク回避度一定(CARA)の仮定の下で,リスク回避度を計算する。(2)計算したリスク回避度と保険契約内容の選択行動,リスク回避度と事故確率の関係がどのようになっているかをセミパラメトリックな手法を用いてテストする。以上の2ステップを経て,次のような結論を得ている。第一に,計算された絶対的リスク回避度は平均 ,標準偏差0.000284となり,自動車保険以外の他のデータを用いた先行研究の推計結果よりも若干低い値であることを確認している。第二に,計算したリスク回避度と(免責金額以外の)いくつかの保険契約内容の選択行動の関係を調べた結果,リスク回避度の高い契約者ほど,補償範囲の広い保険契約を選択していることを明らかにしている。最後に,リスク回避度と事故確率の関係については,悪い事故歴を持ったグループについてはリスク回避度の高い契約者ほど事故を起こしにくいという関係が,その他のグループについてはリスク回避度と事故確率の間に負の関係が認められるとしている。

本章では,逆選択やモラルハザードの証拠が認められないという,自動車保険市場における近年の実証結果を説明する仮説の一つをテストするという明確な目的のもとに,保険の選択行動からリスク回避度を推定している。目的は明確かつ新規性があり,本章はオリジナリティーに富んだ内容となっている。また,partially linear regressionを採用するなど,プログラミングの面で込み入った分析も行なうことで,より信頼性のある結果を提示する工夫が認められる。

しかしながら,とりわけリスク回避度の推計方法に関して解決すべきいくつかの課題が存在する。まず,推定に当たって用いられた仮定の妥当性について立ち入った議論が必要である。例えば所得の効果を除去するためCARAの仮定を採用しているが,この仮定には先行研究で必ずしも実証的な支持が得られているわけではない。また保険会社のプライシング関数について,特定の関数形を仮定しているが,実際のプライシングは非常に複雑なものであるはずである。これらの仮定はデータの制約から容易には緩められないとしても,推計結果が仮定に依存する程度に関する議論を含めることで,分析結果の妥当性,頑健性を示すことはある程度可能であろう。また,推計されたリスク回避度と事故確率の間の関係についても推計上の問題点が存在する。リスク回避度は事故確率を用いて計算されているため,両者の間には1対1の関係が存在する。著者は事故確率の定義を変えることによりこの問題に対処しているが,対人,対物の事故率には強い相関があると考えられるから,根本的な解決にはなっていない可能性が大きい。

全体的な評価

以上のように本論文は,豊富なサンプル数のマイクロデータを用いて,ミクロ経済学の最新の実証研究分野において一定の研究成果を挙げている。各章とも経済理論から導かれる仮説を明確に提示し,必要なデータを収集し,最新の分析手法を含む適切な計量経済学的手法で分析した上で,所定の手続きに従って結果を学術論文の形式にまとめており,著者が研究者としての基本的な資質を身に着けていると判断するのに十分な内容である。

もちろん,各章の評価で述べたように,論文には未解決の問題や,改良が求められる点が残されている。しかしながらこれらの点は,論文の欠陥というよりはむしろ,今後の研究の深まりと広がりを期待させるものであり,論文全体のクォリティーから判断して,斉藤氏にはそれらの点を自ら解決する資質と能力を有するものと判断できる。

よって審査員一同は,論文審査と所定の審査委員会による口頭試問の結果から,斉藤都美氏に東京大学博士(経済学)の学位を授与することが適当であると判断する。

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