学位論文要旨



No 120776
著者(漢字) 李,久美
著者(英字) Lee,Koo-Mi
著者(カナ) リ,クミ
標題(和) 失語症の言語モダリティー間の関係についての研究
標題(洋)
報告番号 120776
報告番号 甲20776
学位授与日 2005.10.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2579号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 江藤,文夫
 東京大学 教授 加我,君孝
 東京大学 教授 大友,邦
 東京大学 助教授 森田,明夫
 東京大学 助教授 高山,吉弘
内容要旨 要旨を表示する

緒言

言語モダリティ間の関係におけるSidmanの二つの説、「音に対する絵の指示(絵のポインティング)、音に対する単語の指示(字のポインティング)が可能であれば絵から字の指示(読解1)、字から絵の指示(読解2)の両方が可能になる」という説と、「絵のポインティング、字のポインティング、絵の呼称が可能であれば、音読が可能になる」という説(Sidman、1971)を失語症で検証した。これらの仮説の行動に関わる解剖学的基盤を明らかにするため、仮説が支持されない場合が存在する場合、その損傷部位を検討した。日本語の書字言語は日常約2000の文字が使われている漢字と基本文字が46個の仮名とから成ることから、漢字と仮名についてデータを別々に分析する必要があるのかどうかをまず検討した。

研究の目的

読解において漢字と仮名の成績に有意差が生じる場合のパターンとその頻度、損傷部位を調べる

Sidmanの読解と音読に関する二つの仮説を検証し仮説を可能にする行動を妨げる損傷部位を調べる

対象と方法

対象 6年以上の教育歴を有する、右利きの脳血管障害による失語症の患者30例を対象とした。これらは別の脳神経疾患、精神科疾患の既往を持つもの、認知症あるいはせん妄状態に該当しなかった。この30例(男性22人、女性8人)は、年齢が59.6±9.7歳(40-84歳)、発症から初回の検査までの期間は、24例が10ヶ月以内、残る6例が1年以上で、脳梗塞、脳出血、また開頭術の既往をするものを含み、失語症のタイプは運動性失語、感覚性失語、健忘失語から成った。この30例のうち損傷部位の分析は21例で行った。13例の軽度脳血管障害の患者をコントロール群とした。すべての例でインフォームドコンセントを得た。

方法 失語の評価には、WAB日本語版(Kertesz.、1982;杉下ら、1986)、WAB日本語版の短縮版(杉下ら、1989)、日本失語症研究会の標準失語症検査、のいずれか、またはいくつかを用いた。課題として、26単語について26問から成る10の課題を施行した。10の課題は、(1)絵の呼称、(2)漢字の音読、(3)仮名の音読、(4)絵のポインティング、(5)漢字のポインティング、(6)仮名のポインティング、(7)漢字の読解1、(8)仮名の読解1、(9)漢字の読解2、(10)仮名の読解2で、この順でおこなった。(1)、 (2)、 (3)では、26の絵もしくは文字単語を一枚ずつ提示し呼称もしくは音読させ、 (4)、 (5)、 (6)では、検者が26単語を一つずつ発音、6枚の絵カードもしくは文字単語カードから対応するものを指示させ、 (7)、(8)では、26単語に対応する絵を一枚ずつ提示、6枚の文字単語カードから対応するものを指示させ、 (9)、(10)では、26単語に対応する文字単語カードを一枚ずつ提示、6枚の絵カードから対応するものを指示させた。漢字単語は26単語に対応する小学3年生までに学ぶ漢字一字単語で、それに対応するものを仮名単語とした。損傷部位の評価については、参考書を用いて損傷部位を同定、各画像所見を対応するテンプレート上にトレースした。全部で41の領域について損傷の有無を評価した。損傷がその領域の三分の一に達しないものはその領域の損傷はないとした。

漢字と仮名問題について

データの分析

読解1(課題(7)、(8))、読解2 (課題(9)、(10))のデータを用いて分析した。読解が可とは読解1も読解2も可能な場合とした(二項検定でp<0.01)。漢字と仮名の成績の乖離、という状態とは、漢字のパフォーマンスと仮名のパフォーマンスに統計学的有意差が見られる場合とした(マックネマーの両側検定の1%水準で有意のもの)。漢字と仮名の成績の乖離の頻度をmodified Wald methodにより95%の信頼区域で算出した。

結果

読解において漢字と仮名の成績に乖離を認めた例は6例で、すべて漢字の成績の方が良好であった(P<0.01)。頻度は9.2-37.8%と推定した(95%の信頼区域)。読解において漢字の成績の方が仮名の成績より有意に良好であった症例6例と漢字と仮名の読解が可かつ漢字と仮名の読解の成績に差を認めなかった症例4例を比較したところ、前者で巻き込む頻度が優位であったのは左側頭頭頂葉領域であった。

考察

本研究の結果は失語症において漢字と仮名の読解の成績に乖離が生じる頻度は少なく、漢字の成績が仮名の成績よりも良好であることが多い、という説を支持しdoubleroutetheoryは支持しない結果であった。また、損傷部位に関しては、漢字の読みより仮名の読みを障害する部位が左下頭頂葉領域の損傷であるという従来の説を支持するものであったが、漢字・仮名の乖離パターンと損傷部位の関係において二重乖離は示せなかった。この結果より、Sidmanの仮説の検討において、漢字と仮名のデータをまとめて解析することが妥当であると考えた。

言語モダリティ間の仮説について

データの分析

仮説1、2ともに、前提条件が可能な症例について、前提条件から読解あるいは音読が成立する割合の分布を求めた。複数回検査した症例では、検査データのばらつきを検定することで再現性を評価した。仮説を支持するものと支持しないもので損傷部位の違いを検討した。2群の損傷部位を巻き込む頻度の比較はカイ二乗検定を用い5%水準で評価した。

結果

仮説1については前提条件が不可であった1例を除き29例で検討した。複数回検討したものは全て各回の成績の間に差はなかった(p<0.05、カイニ乗検定)。前提条件から読解が成立する割合の分布は二峰性を示した。仮説1を支持しない群と仮説1を支持する群で、失語症のタイプや他の言語モダリティの障害パターンに特定の傾向を認めなかった。損傷部位を比較したところ、前者で巻き込む頻度が有意に高かったのは前頭葉の傍脳室白質領域であった。仮説2については、前提条件が可能であった16例で検討した。複数回検討したもので各回の成績の間に有意差はなかった(P<0.05、カイ二乗検定)。前提条件から音読が成立する割合の分布ははっきりと二峰性は示さなかったが、明らかに仮説2を支持する群、明らかに支持しない群で損傷部位を比較したところ、後者で有意に巻き込む頻度が高かったのは、左前中側頭葉領域から左側頭頭頂葉に及ぶ領域であった。仮説2を支持する群と支持しない群で、失語症タイプや他の言語モダリティの障害パターンに特定の傾向を認めなかった。

考察

本研究の結果は、Sidmanの仮説が失語症で普遍的に成り立つものではないことを示した。その解剖学的基盤については、仮説1については左前頭葉傍脳室白質が重要であると考えた。仮説2については、左前中側頭葉から左側頭頭頂葉に及ぶ領域の白質が重要であると考えた。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、失語症の言語モダリティ間の関係を明らかにするため、言語モダリティ間の関係についての仮説(Sidmanの仮説)を検証することを主目的としたが、これに先立って、失語症における漢字と仮名の成績について以下の結果を得ている。

語症において差をきたす頻度は統計的に9.2-37.8%(modifiedWaldmethodで95%の信頼区 間)である。

差を認めた場合は全て漢字の読解のほうが仮名の読解よりも良好であり、仮名の読解のほ うが漢字の読解よりも良好であるものは認めなかった。このことは従来の失語症の単語の比較では漢字の読解のほうが仮名の読解よりも保たれやすいという説と一致していた。

漢字の読解に比べ仮名の読解が有意に障害したのは左の側頭頭頂〓領域の損傷であること が示唆された。この損傷部位は従来日本語で言われている仮名の読みを障害する領域と一致していた。しかし、漢字と仮名の障害パターンと損傷部位の関係において二重〓離は示 せなかった。

以上のことより、読みのメカニズムにおいて単純な漢字と仮名という区別は妥当ではないと結論し、漢字と仮名の両者をまとめて上に述べた仮説の検証を行い、以下の結果を得ている。

Sidmanの仮説1,2の両方の現象は失語症で障害されることがある。

仮説1の現象を妨げる責任病巣は、左前頭葉白質病変であることが示された。そのメカニズムは、左の前頭葉白質病変が仮説1における読解の前提条件である二つのモダリテイ、音を聞いてそれに対応する絵の指示、音を聞いてそれに対応する字の指示、の統合を妨げるからではないかと考える。

仮説2の現象を妨げる責任病巣は、左前中側頭葉から後側頭頭頂葉に及ぶ領域であることが示された。そのメカニズムはこの領域の損傷が仮説2における音読の前提条件である三つの言語モダリティ、音を聞いてそれに対応する絵の支持、音を聞いてそれに対応する字の指示、絵の呼称、の統合を妨げるからではないか、と考える。

以上、本論文は失語症の言語モダリティ間の関係において、読解と音読についてのSidmanの仮説が常には成立しないことと、Sidmanの仮説を成立させる現象が関わる脳の解剖学的基盤を明らかにした。本研究は、失語症についてはこれまでほとんど研究されてこなかった言語モダリティ間の関係について、その一部を明らかにすることで失語症のメカニズムの解明に重要な貢献をなすとともに機能訓練面にも重要な示唆を与えるものと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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