学位論文要旨



No 120793
著者(漢字) 喬,志航
著者(英字)
著者(カナ) キョウ,シコウ
標題(和) 「近代」、「新学」を王国維 : 「哲学」と「史学」の王国維における位置づけ
標題(洋)
報告番号 120793
報告番号 甲20793
学位授与日 2005.11.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第507号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,慎一
 東京大学 教授 佐藤,康邦
 東京大学 教授 尾崎,文昭
 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 助教授 中島,隆博
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、清朝末期から民国初年にかけての中国学術界で活躍した王国維(1877-1927)を取り上げ、王国維にとって「哲学」とは何であり、「歴史学」とは何であったのかという問いを軸に、彼の学術思想の意味と特徴を明らかにすることを課題としている。

本論文は2つの部から構成されている。第1部は、王国維の哲学に対する思考を明らかにすることを課題とし、4つの章に分けられている。まず第1章では、王国維における「哲学」という概念を考察し、倫理の問題こそが王国維の「哲学」への関心を支えていることを明らかにした。

第2章においては、王国維のショーペンハウアー哲学理解における倫理的関心を明らかにした。王国維の哲学思想に対しては、ショーペンハウアーの影響が最も大きく、かつ全面的である。倫理的問題への関心に導かれて、王国維はショーペンハウアー哲学における「欲望―解脱」という説に着目した。その説に依拠しつつ、彼は中国古典小説の『紅楼夢』を分析し、「解脱」の倫理的な価値を立証しようとした。しかし、結局そこに潜む矛盾を見つけ、「解脱」が倫理上の最高理想になりえないという結論を導くに至ったのである。

西洋哲学の紹介にとどまらず、王国維はさらに西洋哲学の概念に依拠しながら、中国哲学における「性」「理」「命」などの概念を再整理しようとした。いずれも倫理的問題関心はその背景に据えられている。第3章においては、王国維がどのように西洋思想の「reason」という概念を用いながら中国思想の「理」という概念を解釈したのか、という問題を検討した。特に、この「理」解釈の過程で、それまでの制度化・体制化された「理」の一義的理解を解体し、自由な思考の獲得を求めようとした王国維が、結局のところ西洋を基準にして中国思想に押し付けることになったのか否かについて検討を加え、そのうえで、「西洋哲学」の抱擁と相対化の間の緊張が、彼における倫理的関心といかなる葛藤関係にあるのか分析した。

第4章においては、異文化と如何にして接すべきかについての王国維の思考を考察した。王国維はやがて、西洋を基準にして中国思想に押し付けるというやり方による意味の探究の有効性を疑うようになった。この点は、辜鴻銘の英訳した『中庸』というテクストに対する王国維の批判的検討に最もよく窺える。王国維は、辜鴻銘が完全に西洋の形而上学をもって『中庸』を解釈し、古人の説を無理やりに統一させ、中国の前近代的な思想的資源を単純化したと指摘した。こうした批判は、王国維本人が非歴史的に「理」を分析して、中国文化に西洋文化の優位性を強引に押し付けたことへの自己反省、自己批判だと見てよい。このような反省的考察を踏まえ、王国維は「歴史的視点」を強く打ち出したのである。

第2部は5つの章からなっているが、筆者の究極的関心は、「新史学の開山」と呼ばれる王国維の「歴史学」そのものの中身、および彼の「歴史学」と同時代の他の「新史学」との関係性のあり方を明らかにすることにある。この問題の解明のために、王国維もその一部に位置づけられた「新史学」の内容と展開とを検討することが、不可欠の手続きとなる。そこで、第5章から第8章に至る4つの章では、近代中国のそれぞれの時期において「新史学」の代表的存在であった4人の歴史家、すなわち、梁啓超と胡適と顧頡剛と郭沫若をそれぞれ取り上げ、彼らの学問の特色を明らかにすることを通して「新史学」の流れを整理した。いうまでもなく、この作業の究極的目的は、各自の「歴史学」の特質を明らかにすることにあるのではなく、4人の「歴史学」との比較を通して王国維の「歴史学」の特質を明らかにすることにあるのである。

第5章は、「新史学」の首唱者である梁啓超に焦点をあて、「新史学」のオリエンテーションがいかに梁啓超において成り立っていたのかを検討した。近代の中国において、学問に求められた役割が「近代化」の推進役である。この点は歴史学の領域にもっとも鮮明に表現され、「新史学」として展開されてきた。梁啓超は、近代的な国民国家の産出を「新史学」の任務とした。この任務はその後の「新史学」家においても受け継がれ、2つの方面において実践された。即ち、1つは歴史的な手続きを尽くして「近代化」の正当性を擁護することであり、いま1つは国民の結束を高めることである。第6章においては、「熱烈に西洋の近代的な文明を称揚する」だけではなく、「近代」の他者たる中国の「伝統」の創造に努めることを通して、「近代化」に正当性のお墨付きを与えた胡適の「新史学」を考察した。第7章においては、この「伝統」の創造の重要な一部をなした顧頡剛の「疑古」史学を分析した。そして第8章では、郭沫若が如何にしてマルクス主義的立場から中国の歴史を定式化し表象することによって、中国のプロレタリア革命の正当性を立証しようとしたのかを論じた。

第9章においては、第5章から第8章にかけて考察した「新史学」の内容と展開を念頭に置きながら、王国維の歴史学を新たに考察し、これまでの研究が「新史学」の流れの中に閉じ込めてきた王国維の歴史学が、その本質的部分において「新史学」と明らかに異なっていることを明らかにした。王国維は、学問の主体性の観念に基づき、学問をイデオロギー的目的に奉仕する単なる手段とすることに疑問を抱き、そのことを通して、歴史の目的が国家にあるという、梁啓超が「新史学」に与えた規定に対して反発した。それゆえに、王国維は集団思考を優先させた言説と一線を画し、懐疑的な姿勢をつらぬく個人として不協和音をたて、私的解釈の復権をうたうことになった。固定した思考慣習から脱することを念頭におきながら、彼は近代西洋の諸科学を積極的に中国に導入しようとした。と同時に、近代西洋の言説を唯一の真理として何の疑いも持たずに確信し、それを再生産することに対して、彼は常に警戒していた。

これまでの王国維研究は、東洋/西洋の2項対立的枠組によって強く支配されていたがゆえに、後期の王国維を西洋から東洋へ回帰した者、もしくは保守・復古の道を辿った者とみなして、王国維像を構築してきた。実は、王国維は、西洋文化に対する敬意を最後まで捨てることはない。ゆえに彼は、中国の新しい知識人が西洋に理論的資源を求めることを評価しないわけではない。というのも、それは既存の中国の学問を根本から見直さなければならないという自覚を発生せしめるし、他ならぬ王国維自身も同じ試みを実践していたからである。王国維からすれば、却けるべきはただ西洋が作った「装置」(中国人がそれを真似して作った「装置」をも含む)である。そのため王国維は、一方では近代主義を絶対化して中国の学問に不毛な道を辿らせることに抵抗するとともに、他方では、中国人が西洋に背を向けることによって再び自閉的な言説空間を形成することにも抵抗したのである。

王国維は、「国史」という「われわれの伝統」を形作る作業に対して意図的に距離を取り、彼の主張にしても、強烈な民族意識を前面に出すようなネイティヴィズムとは無縁であった。彼の理解では、中国文化はきわめて異種混交的なものであって、それを1つの首尾一貫した語りへと還元することは非歴史的な企てなのである。彼の歴史学研究の重要な一部をなす中国の北方諸民族についての研究は、中国文化の複雑で異種混交的な性格を強調するような解釈を広めることに貢献した。中国における民族的アイデンティティの構築材料として最もよく使われている漢字についてさえ、時間的および空間的に多くの変化や不連続性が存在することを、彼は隠蔽しようとしなかった。

王国維は歴史の叙述に隠された真理の発見へと向かうのではなく、もろもろの出来事を歴史的コンテクストに位置づけなおし、その成立の諸条件を追跡することを通して、その歴史学を展開させている。それによって、近代にとっては不適切であるとか、十分に練り上げられていないという理由で、知識としての資格を剥奪されてきた前近代の中国の学問を救い出そうとした。それは王国維が、勝利者であったある種の言説を唯一の真理としながらさまざまな出来事を非歴史的に捉えるというやり方を、意図的に避けようとしたからにほかならない。そうであるがゆえに王国維は、排他的に差異のみを強調する民族主義に縛られる言説にも背を向けたのである。

結びに当たる終章では、王国維における「哲学」と「文学」と「史学」の関係を分析しながら、本研究を総括する。王国維の「哲学」への接近は、「人生の問題」に対する関心によって推進されていた。とすれば、王国維においては、「哲学」が単なる一種の理論的専門知にとどまり得ないことは明らかなのである。人生の問題は抽象的範疇において解消されうるのではなく、常に個別的であり、さまざまな具体的な状況へ差し戻して問い続けられるのでなければならない。人生の具体的な状況は、いうまでもなく、常に他者との関係に結び付けられている。他者との関係という問題は、すなわち倫理の問題である。つまり、人生の問題は倫理の問題と直結するのである。倫理の問題は、王国維が1学科としての哲学の研究から離れた後でも、彼の問題関心の重要部分をなして、その論考を貫いて存在しているのである。倫理を観念的なものとしてではなく、常にある具体的な「歴史」的な出来事として捉えなければならないという認識があるからこそ、王国維は、中国の思想史を観念論的に語ることや、歴史上に起きた出来事を歴史的必然性という名の「法則」のなかに組み入れることに対して常に違和感を抱いており、歴史的な視点を立てたのである。倫理の問題こそ、王国維の学問全体に一貫した問題設定であり、王国維は「哲学」/「文学」/「歴史学」の区別なしで人生の問題、そして倫理の問題を考えてきたのであると、本論文は主張している。

本研究は、「近代」との関連で王国維における倫理的なものに対する関心から、王国維の学問における内的な緊張関係と、それを巡る「新史学」、「哲学」といった外部の言説的関係を考察し、これまでの近代的な中国歴史叙述と観念論的西洋「哲学」の批判者としての王国維の学術思想の特徴を明らかにした。

審査要旨 要旨を表示する

近代中国における人文学の発展に巨大な足跡を残した王国維(1877-1927)は、1902年に日本に留学して哲学を学び、ドイツ哲学をはじめて中国に紹介し、次いで文学研究に転進して劇文学史研究の分野で開拓者的成果を収め、さらに歴史学研究に転じ、新発見の殷代甲骨資料を用いて中国上古史研究で画期的業績を挙げるなど、曲折に富む学的生涯を送った。喬志航「『近代』、『新学』と王国維−『哲学』と『史学』の王国維における位置づけ」(以下「本論文」という。)は、この王国維を研究対象に取り上げ、学術史と思想史の交差する地平で王国維の学問の意味を捉えようとした作品である。

本論文は2部からなる。第1部「王国維と『哲学』」では、1900年代に展開された哲学の領域における王国維の知的営為が分析される。「哲学」は明治期の日本で作られた翻訳語であり、伝統的教養を持つ中国知識人にとって決して自明の概念ではなかった。第1部の諸章では、日本留学して「哲学」に接した王国維が、いかなる動機と関心に基づいて西洋哲学(特にショーペンハウアー哲学)に接近したか、西洋哲学の諸概念を咀嚼した王国維がそれらの概念を用いつつどのようにして中国の伝統的学術・思想の体系を意味づけようとしたのか、そして王国維はなぜ哲学研究を放棄したのか等の諸問題が分析される。

第2部「『新史学』と王国維」では、中華民国期に展開された歴史学の領域における王国維の知的営為が分析される。20世紀の中国史学界では、「新史学」と総称される新潮流が主流となり、王国維も梁啓超、胡適、顧頡剛、郭沫若とともにその一員とみなされるが、著者は第2部の諸章において、梁啓超らの歴史学との比較を通じて王国維史学の特質の解明を試み、王国維のみが西洋中心主義的視座に対して批判的であったことを明らかにする。

本論文の主要な功績は、以下の2点に要約することができる。第1の功績は、哲学研究に没頭した初期の王国維を取り上げ、この時期の彼の思想と学術に本格的な分析のメスを加えたことである。従来の王国維研究は、文学研究ないし歴史学研究に従事した後期の王国維を専ら取り上げ、資料的制約もあって、初期王国維は研究上の空白となっていた。著者は、日本留学の成果を生かして初期王国維の分析を行い、初期王国維と後期王国維の間で何が連続し何が不連続であるかを明らかにした。

第2の功績は、王国維の歴史学研究に対して思想史的分析を加えたことである。王国維の中国上古史研究の大部分は緻密な実証的記述に費やされ、彼の著作数の膨大さも手伝って、これまでの王国維研究は、専らその中国史学史上の意義の説明にとどまっていた。著者は、王国維の方法を他の「新史学」の研究者の方法と、その思想枠組に遡って比較し、王国維の歴史学の思想史的意義を明らかにした。

もちろん、本論文に欠陥がないわけではない。哲学研究および歴史学研究と鼎立する王国維の文学研究について殆ど言及されていないこと、王国維の哲学的立場と20年代に登場する新儒家の哲学的立場との異同の吟味が十分でないこと等は、本論文の欠陥のうちでも特に顕著なものである。とはいえ、これらの欠陥は決して致命的なものではなく、本論文が単著として刊行されるまでには矯正可能なものである。膨大な王国維の著作に真摯に取り組み、前期王国維と後期王国維を一貫した問題意識のもとに捉え、王国維の学問の全体像の意味を明らかにした本論文の功績は、これらの欠陥を十分に補うものであり、本論文は、著者が自立して研究を行うのに十分な能力を有していることを立証していると判断される。よって、審査委員は一致して、本論文が博士(文学)を授与するのにふさわしい業績であると認めた。

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