学位論文要旨



No 120910
著者(漢字) 馬場,紀寿
著者(英字)
著者(カナ) ババ,ノリヒサ
標題(和) 三明説の伝承史的研究 : 部派仏教における仏伝の変容と修行論の成立
標題(洋)
報告番号 120910
報告番号 甲20910
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人第529号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 下田,正弘
 東京大学 教授 斉藤,明
 東京大学 教授 丘山,新
 花園大学 教授 佐々木,閑
 愛知学院大学 元教授 森,祖道
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的は、部派仏教の三明説を伝承史的に明らかにすることにある。インド仏教史の中でも初期仏教と大乗仏教をつなぐ要の位置にある部派仏教において、解脱に到る過程を示す三明説は最も重要な聖典伝承の一つだった。様々な部派の多くの文献に三明説が説かれており、部派仏教が三明説を初期仏教から継承し、その内容を独自に展開させたことがうかがわれる。

ところが、三明説に関する先行研究の多くは、(1)初期仏教資料、(2)部派仏伝、(3)部派の修行論に限定して研究するにとどまっており、初期仏教における三明説が部派の仏伝に組み込まれた過程・背景や、部派の修行論の核となって修行体系が構築されていく思想的展開について、充分に論じられてこなかった。

そこで、本論文は、部派仏教の三明説を調査し、その「伝承の系譜と変容」および「伝承の担い手」を分析した。その研究方法は次のようにまとめられる。

伝承の系譜と変容:各部派の文献を成立順序に沿って検討し、三明説の「伝承の系譜」を辿り、その変遷の思想的背景を分析する。

伝承の担い手:伝承の語句の変容に着目し、また、考古資料など、部派文献以外の資料も利用して、伝承の担い手を特定する。

この二つの方法によって、部派文献を批判的に検討した結果、これまで知られなかった次のような歴史が明らかになった。

三明説(及び三明説から発展した六通説)は初期仏教から部派仏教へ展開する過程で、「縁起」型と「四諦」型に分裂した。初期仏教時代の三明説は、菩薩も比丘も第三明(漏尽知)で「四諦」を認識して仏陀・阿羅漢となることを説く伝承であり、もともとは「四諦」型しか存在しなかった。ところが、部派仏教時代になると、菩薩が「縁起」を認識して仏陀となる様式と、比丘・瑜伽行者が「四諦」を認識して阿羅漢となる様式に、三明説が分かれたのである。

この「縁起の認識=仏陀」「四諦の認識=阿羅漢」という定式は、すでにアシュヴァゴーシャに確認できるから、遅くとも二世紀には、少なくとも北インドに存在していたことは確実である。この定式は複数の部派に広まり、説一切有部、大衆部、おそらく法蔵部にも伝播した。さらに、遅くとも五世紀前半にはスリランカに達して上座部大寺派に受容され、ブッダゴーサの作品に確認することができる。

仏陀の第三明を「四諦」の認識から「縁起」の認識へ転換したのは、仏塔の近辺で「仏伝」を唱導する者たちだったと考えられる。「縁起」型の三明説は仏伝に関する伝承に集中しており、また、その内容が仏塔のレリーフや縁起頌と合致するからである。仏伝の担い手たちは、仏塔信仰が遺骨崇拝から「縁起頌」崇拝へ転換したのに連動して、仏陀の第三明を縁起へ結びつけ、仏陀と「縁起頌」を重ね合わせることに成功した。彼らは、仏陀の言葉の超自然的な力を信じ、言葉(縁起)の力によって仏塔信仰に新たな息吹を吹き込むこととなった。

「縁起」型の三明説は、すでに説一切有部の『大毘婆沙論』に引用されている。広義の説一切有部に所属していたアシュヴァゴーシャのBuddhacaritaでも、仏陀の第三明は「縁起」の認識に転換されている。また、大衆部の律蔵から生まれた仏伝、MahAvastuでは仏陀の第三明に「縁起」が組み込まれている。さらに、上座部大寺派に属したブッダゴーサの四ニカーヤ註では、仏陀の第三明が「縁起」の認識へ転換され、同じく上座部大寺派のダンマパーラやブッダダッタの註釈書も同様の変化を受けている。

他方、「四諦」の認識は比丘の修行方法を説く伝承において修行体系の根幹に据えられているから、「四諦」型の三明説を継承したのは、修行論を形成した比丘たちだった。彼らは単に「比丘」と呼ばれる者、または、アビダルマに関わる者や「瑜伽行者」と呼ばれる者である。いずれにしても僧団内部で禅定を積極的に行う比丘だったと考えてよいだろう。彼らは仏陀の言葉をテクニカルに用いて修行マニュアルを作成する流れを形成した。諸部派の論書で展開された修行論は、いずれも「四諦」を核に修行体系を構築している。

説一切有部のアビダルマである『発智論』、その註釈書の『大毘婆沙論』では、四諦を中心に修行体系が組み立てられており、「四諦」に関する知的理解と、それに基づく執着の放棄が修習の核心と成っている。有部に所属していたが、アビダルマには批判的な学派の流れを汲むアシュヴァゴーシャは、Saundaranandaで四禅六通説を採用し、「四諦」を認識して解脱するという修行論を継承している。法蔵部のアビダルマ、『舎利弗阿毘曇論』でも「四諦」観察による四道への到達が重視され、定型的な説明が繰り返されている。さらに、上座部大寺派のブッダゴーサは、Visuddhimaggaを編纂する際に、『解脱道論』を「三種の完全知」に沿って取捨・改変・増広し、「三種の完全知」を「苦諦の完全知」として設定することによって、智慧修習の全体を四諦の修習に位置づけた。

仏伝の三明説では、認識対象の変化にともなって、四禅への言及が減り、魔物の軍勢を斥ける物語が前段に置かれ、「漏尽知」から「一切知」や「無上正等覚」が仏陀の智慧の名称として用いられるようになった。その結果、「禅定を経て四諦を認識し、漏尽知に到った阿羅漢」としての仏陀のイメージは大きく後退し、代わって「魔物を斥ける力をもち、輪廻世界の有様を見通す一切知者」としての仏陀のイメージが前面に出てくるようになった。

一方、比丘が阿羅漢になる修行論では、到達すべき境地は「漏尽知」または「漏尽」である。時代の変化と共に、修習の内容は大きく変化したにも関わらず、「漏尽(知)の到達=阿羅漢」という図式は遂に変わることはなかった。比丘が修行して目指す理想は、一貫して「禅定を経て四諦を観察し、漏尽知に到る阿羅漢」だったのである。

ここで特に留意すべきことは、仏伝の「縁起」型と修行論の「四諦」型との二系統はけっして対立していなかったことである。有部のアシュヴァゴーシャ(BuddhacaritaとSaundarananda)も、上座部大寺派のブッダゴーサ(四ニカーヤ註とVisuddhimagga)も、仏伝と修行論という両方の系統を継承しており、それを理論的矛盾だとは感じていない。両系統は相互排他的な関係ではなく、同一部派の同一人物の中に共存しうる関係にあったのである。

以上の結論は、パーリ文献の資料論からも補強することができる。ブッダゴーサが所属した上座部大寺派は本拠地をインド本土ではなくスリランカに置いた部派であり、現存するパーリ文献はこの部派の伝承であるが、本論文は、パーリ聖典の編纂順序が「(1)経蔵(四ニカーヤ)、律蔵(SuttavibhaGga, Khandhaka)⇒ (2)アビダンマ蔵⇒ (3)律蔵(ParivAra)⇒ (4)経蔵(KhuddakanikAya)」であること、(2)以降に編纂されたパーリ文献にも北伝阿含と共通の伝承が含まれていることを明らかにした。上座部大寺派が時代を下ってもスリランカに自閉せず、インド本土から伝承を受容していた以上、ブッダゴーサが「縁起」型三明と「四諦」型三明を継承したのは、大寺派が当時のインド仏教と三明説を共有していた結果であることが分かる。

また、諸部派における「縁起」型三明と「四諦」型三明の存在は、様々な点で内容が対応する大乗文献からも検証することができる。大乗文献の思想的立場はそれぞれ異なっているにも関わらず、部派の三明説の構造を見事に反映している。

『八千頌般若経』(道行般若経)は、「漏尽知=阿羅漢」と「縁起の認識=一切知=無上正等覚」の区別を継承して、「漏尽阿羅漢」の上に「縁起の認識=一切知=無上正等覚」を位置づけ、それを「般若波羅蜜」に置き換えた。この転換によって「仏陀の縁起の認識=仏塔の縁起頌=一切知=無上正等覚」が有していた魔物を斥ける超自然的な知力を、「般若波羅蜜」へ取り込むことに成功した。

『法華経』は、「四諦の認識=阿羅漢(修行論)」「縁起の認識=仏陀(仏伝)」という図式を批判的に継承している。ある箇所では、修行論や仏伝を伝持する比丘たちを一括して「声聞」と呼び、ある箇所では修行論に従って修行する比丘を「声聞」と呼びつつ、仏伝に現れる仏陀(buddha)観を「独覚(pratyekabuddha)」と呼んで批判した。『法華経』は部派の修行論と仏伝の仏陀観を念頭に置いて、自らの三乗説を形成している。

菩薩の修行過程を説く『十地経』は、比丘の修行論(四禅六通説)を第二地から第五地に取り入れ、比丘の「四諦」観察が菩薩の第五地に導入した。また、仏伝における「菩薩」の「縁起」観察を「菩薩」の第六地に挿入した。『十地経』は、部派の修行論も仏伝の仏陀観も「菩薩」の修習過程の一部として組み込んでいる。

大乗論書では、『中論』が「仏陀=縁起の認識」という定式を前提としつつ「縁起」を「空」に言い換えて議論を展開したのに対し、有部の修行論を踏まえて大乗菩薩の修行論を構築した『瑜伽師地論』「菩薩地」は、「比丘=四諦の認識」を「声聞=四諦の認識」と呼んで批判した。

初期経典には実に様々な修行方法が説かれているにも関わらず、これら大乗の文献が特に「縁起」と「四諦」に焦点を当てて言及するのは、三明説が「縁起」型と「四諦」型に分かれた部派仏教の状況を踏まえているからである。上に取り上げた大乗文献は、いずれも諸部派に共通する三明説の構造を前提とした上で、大乗的な脚色をしつつ、それぞれの言説を展開した。部派仏教の三明説を、当時のインド仏教の座標軸に据えることによって、一見、様々な思想を説き、統一性に欠ける大乗文献群が同じ歴史的文脈に立っていたことが分かるのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、ブッダの覚りの内容を示し、かつ、仏教修行論の中心的位置を占める「三明」tevijjAと称せられる概念が、いかなる変遷を経て相異なる二つの解釈――四諦を覚ってブッダとなったという「四諦型」と、縁起を観察してブッダとなったという「縁起型」――を共存させる現型にまでいたりついたのかを、パーリ経典とその膨大な分量の註釈書の解読と分析をとおして、明らかにしたものである。

相互関係の必ずしも明らかではない諸教義の集成である原始仏教時代の諸経典類の内容は、部派仏教と称される時代の仏教者たちの解釈の努力によって、諸教義の有機的、整合的な関係からなる一体系の仏教思想へともたらされた。アビダルマと称されるこの知的営為は、だが思想史を研究する研究者たちにとっても強固な枠組みとなり、現代の研究者たちは、一つの概念を取りあげるとき、部派仏教において体系化された理解においてのみ捉えてしまうことが少なくない。加えて、資料の稀少さも手伝って、伝承部派の系統の差異への配慮もなされないことが多いため、しばしば仏教の概念史は部派横断的な性格をも併せもったアマルガムに留まっている。「三明」という概念はその代表的なもののひとつであり、文献によって異なる内容を有した概念でありながら、その理由が問われることもないままに放置されてきた。

論者はこの問題に着目するとともに従来の研究方法を反省し、まずは研究対象を経典およびその註釈書ともに上座部大寺派という同一系統になるパーリ文献に限定した。ついでこの系統において教義体系を確立したブッダゴーサが、なかでも中心的教義となる「三明」をいかに体系づけようとしたかを、経典にたいする彼の註釈手法に着目することによって明らかにし、その結果、「四諦型の理解が原初であったものが縁起型に変化した」ことを解明した。こうして得られた上座部大寺派の「三明」解釈変容の歴史を、最後に系統の異なる北伝の文献に照らし合わせ、この変遷にはこれまで伝統仏教の教義確立とは無縁と見られていた「仏伝」が大きな影響を与えていること、この変化は大乗仏教の出現とも軌を一にする変化であることを論じた。

仏教教義の根幹をなす「三明」を、歴史的変遷を内包した概念として明確にした本論文は、同時にこの主題の解明に沿って、アビダルマ⇒経典という仏典の形成順序の一部逆転、北伝の「経典」とパーリ「註釈文献」のカテゴリーを超えた重なり、上座部における説一切有部と共通する縁起解釈(三世両重の縁起)の解明など、これまで知られていなかった重要な諸問題についてあらたな知見を提供している。論文の構成において、また細部の議論についてはさらに考察を要する課題を抱えてはいるものの、現在の学界における貢献は大きなものがあり、審査委員会は、博士(甲)に値する論文であると判断する。

UTokyo Repositoryリンク