学位論文要旨



No 120964
著者(漢字) 林,久美子
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,クミコ
標題(和) 小さい非平衡系における新しい普遍的関係式
標題(洋) New universal relations in small nonequilibrium systems
報告番号 120964
報告番号 甲20964
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第667号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 佐々,真一
 東京大学 教授 清水,明
 東京大学 教授 佐野,雅己
 東京大学 助教授 加藤,雄介
 東京大学 助教授 福島,孝治
内容要旨 要旨を表示する

背景

粒子が外力によって駆動される系(多体系及び1体系)は、系に熱浴をつけることで定常状態を実現する。本論文は、熱力学・統計力学・輸送理論が確立していない線形応答領域を外れる非平衡定常状態(外力が大きい平衡状態から遠い状態)において、新しい普遍的関係式を見つけることを目指した試行錯誤のまとめである。

平衡状態とその周りの線形応答領域では、熱力学・統計力学・輸送理論の三位一体の精巧な絡み合いが多くの普遍的関係式で表現され、私たちの物理的な物の見方を豊かにしてきた。一方、線形応答理論が破綻する強い非平衡性を示す状態では、熱力学・統計力学・輸送理論が未発達であるために普遍的関係式はほとんど知られていない。そこで、著者はこのような平衡から遠い状態でも成立する新しい普遍的関係式を(在るならば)探したいと思う。(注釈:著者が本論文で、普遍的関係式を探すことに固執する理由は関係式自体を発見して喜びたいというよりむしろ、新しい関係式を見つける過程で新しい熱力学・統計力学・輸送理論の様子を垣間みるためである。)

新しい普遍的関係式探索に取り組むにあたって、非平衡系の実験(Figs. 1,2,3)には非常に刺激を受けた。著者が注目する典型的な実験系は、例えば、溶媒中を浮遊するビーズ(コロイド粒子)である。このような系は"小さい系(small systems)"と呼ばれ(長さのスケール〜10-6m、力のスケール〜10-12N、時間スケール〜10-3sec)、観察及び操作技術の向上により近年新しい実験対象として注目されている。ビーズは原子や分子よりもはるかに大きいため、溶媒中を浮遊するビーズの振る舞いはそれ自体が熱力学や統計力学の対象となる。一方、ビーズは原子や分子よりもはるかに大きいが溶媒中でブラウン運動をみせる程度には小さい。こういうサイズのビーズにはそれ自体に直接外力をかける事が可能であり、ブラウン運動(ゆらぎ)がこの非平衡性により大きく変化する。このようなビーズから成る多体系ももちろん非平衡効果が大きい。故に、平衡状態との定性的・定量的相違を"小さい非平衡系"で調べることが面白いのである。本論文ではこのような小さい非平衡系をモデル化し、数値計算実験や摂動計算などの理論解析によって、非平衡現象を調べていく。

内容

本論文で、試行錯誤により、著者は非平衡定常状態でありえるかもしれない世界観を作り上げてきた。その概要をFig. 4に記す。

本論文で著者は大きく分けて、確率過程モデルとハミルトン系(確率過程モデルよりミクロなモデル)という階層の違う二つの系を研究対象として意識している。非平衡確率過程モデルでは、粒子が外力により駆動されるモデルを扱い、外力に垂直な方向と外力に平行な方向についてそれぞれの統計性質を調べた。外力に垂直な方向では熱力学揺らぎの理論(Chapter III)と揺動散逸関係式の拡張(Chapter II)を新しい理論として提案し、拡張された揺らぎの理論と揺動散逸関係式の相互関係を理解するため、平衡状態とその線形応答領域の熱力学・統計力学・輸送理論を復習した(Chapter III)。

外力に平行な方向の統計性質については、小さい非平衡系の典型的モデルである非平衡ランジュバン系(1体系)を研究した(Chapter IVとChapter VI)。この系の研究で著者は非平衡定常状態で新しい概念である「有効温度」と「力の分解」を導入し、これらの有用性を多体系においても検討した(それぞれ、Chapter VとChapter VII)。最後に、Chapter l-VIIで発見された新しい非平衡現象を将来的に確率過程よりミクロなモデルであるハミルトン系で研究するために、その土台作りとして力学系特有の量を数値計算で測定するための新しい測定方法の開発に取り組んだ(Chapter VIII).

外力に垂直な方向の統計性質:具体的には、Chapter Iの研究では、二次元の非平衡確率過程モデルで、外力に垂直な方向に諸物理量を数値計算実験で測定し、これらの値が平衡状態のものと大きく異なるにも関わらず平衡状態と類似した形式で自由エネルギーを構成することに成功した。この章の大事な結果は、非平衡定常状態の化学ポテンシャルの新しい定義を与えたことと、自由エネルギーから得られる新しいゆらぎの式を発見したことである。Chapter IIでは、前章の新しいゆらぎの式の発見を手掛かりにして、同モデルにおいて輸送理論の拡張を議論している。線形応答領域を外れた状態においても(注:外力に平行な方向には線形応答関係式は成立していない状況で、という意味)、外力に垂直な方向に粗視化された密度に関して線形応答関係式(揺動散逸関係式)の成立を数値的に確認した。非平衡確率過程モデルの遷移確率は詳細釣り合いを満たさない。揺動散逸関係式の成立は詳細釣り合いと密接に関係するので、粗視化された密度に関する線形応答関係式の成立は、マクロなゆらぎの詳細釣り合いが存在することを示唆している。非平衡定常状態の外力に垂直な方向において、ミクロに詳細釣り合いという良い性質が破れていてもマクロな量のゆらぎに関しては良い性質が回復するのではないか。

外力に平行な方向の統計性質:外力に平行な方向の統計性質を調べるために、小さい非平衡系の典型的モデルである「外力に駆動されるブラウン粒子が周期ポテンシャル中を運動する」という系を対象に研究を行った。拡散係数と微分易動度の比が環境の温度に一致することが、 1体系のアインシュタイン関係式(揺動散逸関係式の一つ)であるが、外力が強くなるとこの比は環境の温度に一致しない。このように平衡から遠く離れた状態で、外力に平行な方向においては関係式が破れるのが特徴である。Chapter IVでは系のゆっくりした動きを摂動計算で取り出し、揺動散逸関係の破れを表す拡散係数と微分易動度の比が粗視化された粒子の位置の分布関数に現れる量であることを示した。つまり、拡散係数と微分易動度の比は粗視化された世界の温度の役割を果たす。故に、その比を有効温度と呼ぶ。ところで、この結果(ランジュバン系の粗視化)はフォツカー・プランク方程式の摂動計算によって得られたが、Chapter VIでは同じ系の粗視化を「周期ポテンシャルが粒子に及ぼす力の有限時間平均を分解する」という一風変わった視点から研究してみた。(注:ここで言う力の分解とは、典型的には、溶媒中を浮遊するコロイド粒子の溶媒分子たちから受ける力が、自由度消去や時間平均で散逸力+熱ノイズに分解されるような現象をさす。)ブラウン粒子は、周期ポテンシャルというデコボコと衝突しながら外力に駆動されて進む。非平衡定常状態では、この周期ポテンシャルの及ぼす力の有限時間平均は、新しく発見された力の分解条件によって「散逸力+ノイズ+駆動力」に分解されることが分かった。この分解を利用すれば、フォッカー・プランク方程式を利用した摂動法からでなくランジュバン方程式を直接粗視化することができる。Chapter VIの研究は新しい粗視化の方法を提案しただけではなく、新しい力の分解条件を利用して、拡散係数と易動度の新しい普遍的不等式[Phys. Rev.E71,020102(R)(2005)]及びランジュバン系のエネルギー散逸を揺動散逸関係の破れで表現するHarada-Sasa equiality[Phys.Rev.Lett.95,130602(2005)]の導出へと広がっていった。

展望:最後に今後の展望を含め、Chapter VIIのモチベーションについて触れる。著者は、非平衡定常状態の研究が他の分野に広がっていく事が重要だと思っている。複雑ではあるが、 「小さい非平衡系」には生体内の分子機械系が含まれる。分子機械系はビーズ(コロイド粒子)と違って非常に自由度が多いのが特徴である。平衡統計力学で磁性体が演習問題であったのと同様に非平衡統計力学においても分子機械系を演習問題として扱うことが出来れば面白いだろう。アクチンフィラメントの上を歩くミオシンは中川・小松[J. Phys.soc. Jpn. 74,1653(2005)]等によって多体ランジュバン系でモデル化されている。Chapter VIIで著者はシンプルな非平衡ランジュバン多体系で非平衡定常状態の自由度消去と有効相互作用ポテンシャルの構築の問題を研究した。分子機械系の粗視化モデルを作ること(注:ラチェット系より良いモデルを目指す)はまだまだ先の話だが、Chapter VIIの理論に改良を重ねて非平衡状態でもっと使える理論を作っていきたい。

FIG.1:光学ポテンシャルを利用しポンテンシャル場を作り、ビーズ(コロイド粒子)の一次元運動を制御する。時間に依存したポテンシャル場を作ることで非平衡状態が実現[T.Harada et al., Phys. Rev. E 69,031113(2004)]。

FIG.2:コロイド粒子の集団で多体系を作る。非平衡条件下における、相図を示す。縦軸(非平衡性の強さ)、横軸(密度)[P,Holmqvistet et al., cond-mat/0508693(2005)]。

FIG.3:反対の電荷を持つ二種類のコロイド粒子から成る多体系に電場をかけた様子。外場に駆動されるコロイド多体系の実験も始まっている[M,E,Leunissen et al., Nature437,235(2005)]。

FIG.4:本論文の各Chapterの相互関係。

審査要旨 要旨を表示する

近年のマイクロスケールでの制御技術の進展に伴って、コロイド粒子や生体高分子などの小さな系に関する実験結果が蓄積されつつある。ところが、このような系に対する理論的理解は未熟なままである。具体的には、時空局所的な統計分布を平衡分布から摂動的に構成できる多くの伝統的な非平衡系と異なり、統計的性質の議論は各論的になり、線形非平衡統計力学の成果である揺動散逸関係は大きく破れる。そこで、各論を超えた新しい理論的枠組みがあることを期待するなら、系の個別的性質に依存しない普遍的側面を抽出していくことが必要である。提出された林久美子氏の博士論文は、その課題に関する成果がまとめられている。

本論文は8章147ページからなる。まず、冒頭で、小さな非平衡系へ問題意識が述べられたあと、各章のまとめと章間の関係について説明される。解析されるモデルにしたがって章を分類すると、(i)外力駆動格子気体(1章、2章、3章、5章)、(ii)1粒子ランジュバンモデル(4章、6章)、(ii)その他(7章、8章)にわけることができる。

外力駆動格子気体は、外力で駆動されるコロイド粒子多体系に対応する数学モデルだと考えられている。このモデルに対して、1章では、外場に垂直な方向が着目される。適切に選ばれた摂動に対する応答から定義される化学ポテンシャルと系の大きさを変える仕事から操作的に決められた圧力の間にマクスエル関係式が成立することが数値実験により見出され、それにもとづいて非平衡定常状態に拡張された自由エネルギーが提案される。その自由エネルギーが外場に垂直な方向の密度揺らぎの強度をきめていることが数値実験で示される。さらに2章では、外場に垂直な方向に摂動外場を加えることにより、各種の線形応答関係式の成立が数値実験で示される。それに対し、外場に平行な方向については、様々な要因のために明確な結論をひきだせないことが5章で議論される。また、3章では、このモデルを題材にして線形応答理論が概説される。

1粒子ランジュバンモデルに対しては、4章において、有効温度が検討される。具体的には、系の特徴的な大きさよりも十分に長い摂動ポテンシャルを適切な速度で付加したときの分布の応答が、摂動ポテンシャルの形に依らず、ある温度のカノニカル分布の形になることが示される。その温度は一般には環境の温度と異なるので、有効温度とよばれる。その有効温度をもちいると、環境の温度を使ったときには破れているアインシュタイン関係式が回復することが示される。さらに、6章において、力の分割が議論される。一般的に、粒子の受ける力の有限時間平均は、散逸的な部分とノイズに分解されることが期待される。このとき、平衡条件下ではその分解は揺動散逸関係によって一意に決められるが、非平衡定常状態では揺動散逸関係の破れのために分解を決める規則が知られていなかった。6章の成果はその規則の発見である。有限時間平均によって新たに得られるノイズは熱的ノイズの有限時間平均と相関をもたない、という簡単な規則(直交条件)があることが理論的に示された。

以上のほかに、7章では、自由度を消去したときの有効ポテンシャル概念がコロイド粒子多体系で考察され、8章では、よりミクロな力学系にもとづく非平衡系研究の準備段階としてカオス系のエントロピーを計算する新しいアルゴリズムが提案される。

本論文は、一見すると、様々な論点が無節操に調べられているようにみえる。しかしながら、例えば、熱力学拡張の視点からは、1章と7章に関係があるし、有効温度の視点からは、4章と5章に関係がある。そのような関係だけでなく、論文全体を貫く意図がある。それは、平衡状態の周辺で有効だった「熱力学」と「揺動散逸関係」が非平衡条件下で成立しないとき、そこにまだ何かしらの法則が残るかどうかを徹底的に調べようとする意図である。本論文は、この一貫した動機にしたがって見出された結果のまとめだと考えられる。

それらの結果の中でもっとも重要な寄与は、6章で説明される力の分解に関する直交条件の発見であろう。その直接的な帰結として測定量間の新しい不等式の提案がなされているが、むしろ、理論的な意義が大きい。実際、この直交条件にもとづいて、ランジュバン方程式を解析する新しい数理的技術が開発され、その技術を使って揺動散逸関係の破れとエネルギー散逸の定量的な関係が見出された。まさに、大きな進展の拠点になった。しかも、力の分解に関する直交条件は、結果として数学的に証明されたが、その主張は発見論的であり、特別の感覚をもてるほどに論点や対象に馴染みがないと決して到達できない独創的なものである。

以上のように、林久美子氏はその論文において、小さい非平衡系の普遍的関係式を複数みつけた。これらの関係式が大きな理論的枠組みを生み出していくかどうか、については今後の発展をまたないといけない。とくに、力の分解に関する直交条件を微視的な立場から位置づけることはきわめて重要な課題であろう。8章で始められている力学系からのアプローチを踏まえながら、今後明らかにされるべきである。いずれにせよ、本論文は、非平衡系の一般的な研究に対して、新しい視点を明確な形で持ち込んだものであり、将来大きく発展する可能性を秘めた研究として位置付けることができる。

なお、本論文の内容は、1章、2章、4章、5章、6章が論文として出版されており、7章と8章が論文印刷中、3章が論文投稿中である。

以上の点から本論文は博士(学術)の学位を与えるのにふさわしい内容であると審査委員会は全員一致で判定した。

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