学位論文要旨



No 120981
著者(漢字) 金井,恒人
著者(英字)
著者(カナ) カナイ,ツネト
標題(和) 高次高調波発生を用いた分子軌道の超高速トモグラフィー
標題(洋) Ultrafast Tomography of Molecular Orbitals with High-Order Harmonic Generation
報告番号 120981
報告番号 甲20981
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4781号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 末元,徹
 東京大学 教授 山本,智
 東京大学 助教授 石川,顕一
 東京大学 教授 渡部,俊太郎
 東京大学 助教授 秋山,英文
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

気相の原子・分子中における高次高調波発生は,極端紫外から軟X線領域におけるコンパクトでコヒーレントな超短パルス光源としての有用性から約20年間にわたり盛んに研究されて来た。原子からの高次高調波発生は,原子が中心対称性を持つため多くの実験的研究がなされ,またその物理過程もよく理解されている。現在では原子を媒質とした高次高調波自身が光源としての実用段階に到達しており,Watanabe等やKrausz等によりアト秒(as=10-18秒)領域のパルスの発生とその測定がなされ,電子の運動制御に関する研究がなされ始めた。他方,分子からの高次高調波発生については,1994年にSakai等によるN2分子とAr原子からの高調波を比較した先駆的な研究があるものの,気相分子は通常ランダムに配向しているため,その様々な対称性に由来した分子に特有の高次高調波発生の物理を十分に研究・理解することが出来なかった。

一方,分子物理学の分野においてはSakai等によりレーザー光を用いた分子の配列及び配向技術が目覚ましい進展を見せており,分子中における様々な量子過程が分子の配列・配向に依存することが明らかになって来た。本研究では,配列した分子を媒質として高次高調波発生の実験を系統的に行い,分子中における高次高調波発生の物理を明らかにした。さらに,その応用として分子軌道の超高速トモグラフィーの手法を提案し,実験的及び理論的にその基礎的研究を行った。

配列分子中の高次高調波発生における量子干渉

高次高調波発生は2ステップモデルにより説明される。まず原子のポテンシャルが高強度レーザー電場によって歪められ,束縛電子の波動関数の一部がポテンシャル障壁をトンネルし,連続状態に現れる(第1ステップ:トンネルイオン化過程)。次にその電子波束はレーザー電場により駆動され,レーザー電場の反転後ある確率で親イオン近傍に戻り,束縛状態とのコヒーレントな相互作用により高いエネルギーを持つ光子(高次高調波)が放出される(第2ステップ:再結合過程)。高次高調波発生の第1ステップであるトンネルイオン化に関しては,最近の実験的及び理論的研究により実験と理論の両面でイオン化速度が分子の配向に依存することが明らかになっている。2ステップモデルによれば,イオン化が促進される配向状態の時,第2ステップがイオン化の効果を打ち消さない限り高次高調波発生も促進される。

ところが,第2ステップである再結合過程が高次高調波発生の過程に重要な役割を果たすならば,トンネルイオン化と高次高調波発生が相関するとは限らない。実際,配列した分子中で観測されると予測された最も顕著な現象の一つは,再結合過程における量子干渉である。私達は,配列したCO2分子を用い,再結合過程における量子干渉の明白な証拠を世界で初めて見出した。これは,同じ実験条件の下で高調波(第1ステップ×第2ステップ)とイオン(第1ステップ)を同時に観測するという独自の実験手法を用いることにより初めて可能となった。また,私達はLewensteinモデルを分子の場合に拡張し,観測された量子干渉を含む全ての実験結果を説明することに成功した。さらに,Leinらによって元々2原子分子に対して提案された2-point-emitterモデルを3原子分子に適用することでその物理的な解釈を得た。

Ti:sapphire再生増幅システムからの出力(パルス幅〜50 fs,中心波長〜800 nm)を2つのパルスに分けポンプ-プローブ型の実験を行った。最初のパルスは,分子の回転波束を形成して,非断熱的な分子配列を起こすポンプ光として用いた。2つ目のパルスは並進ステージにより時間的な遅延をつけ,高次高調波発生のためのプローブ光とした。2つのパルスはレンズ(f=300 mm)で集光し,真空チェンバーの超音速分子線に照射した。ポンプ光の強度は〜6 × 1013 W/cm2,プローブ光の強度は〜2×1014 W/cm2であった。ポンプ光とプローブ光の間の遅延時間を変えながら,発生した高調波を斜入射分光器と電子増倍管を用いて分光・検出し,分子イオンは筒状のイオンコレクターにより検出した。

Fig. 1にN2分子からの(a)イオン強度と(b)23次高調波強度のポンプ光とプローブ光間の遅延時間(τ)依存性を示す。ここで,ポンプ光の偏光とプローブ光の偏光は互いに平行である。イオン強度と高調波強度に〜2 ps毎の変調があることが分かる。中性N2分子の回転周期がT=8.4 psであることを考えると,これは四分の一周期に対応する。また変調の大きさはτ=T/2, 3T/4では小さく,τ =T/2, Tでは大きい。これは,N2分子中の核スピンI=1をもつ2つの14N原子がボース・アインシュタイン統計に従うこと,及びトンネルイオン化や高次高調波発生の性質を決める価電子軌道が3σgの対称性を持つことの帰結である。Fig. 1で明確に見られる様に,イオン強度と高調波強度が同位相で変調していることが分かる。この同位相の変調は,O2分子を媒質として用いた場合にも観測され,トンネルイオン化が促進される配列状態の時,高次高調波発生も促進されることを意味している。変調の大きさを別にして,この結果はトンネルイオン化過程が高次高調波発生の第1ステップであることを考えると直観的に理解出来る。

ところが,媒質がCO2分子の場合には事情が大きく異なる。Fig. 2にCO2分子からの(a)イオン強度,及び(b)23次高調波強度の遅延時間依存性を示す。実験条件はFig. 1と同じである。直線的な中性CO2分子の回転周期T=42.7 psを考えると,価電子軌道が1πgの対称性を持つ分子に特有のT/8(〜5.4 ps)毎に変調が現れている。ところが,Fig. 2が明確に示すように,イオン強度と高調波強度は逆位相の変調を示す。この反直観的な結果は,第1ステップであるトンネルイオン化が促進される配列状態の時に高次高調波発生が抑制されていることに対応する。すなわち,第2ステップの再結合過程で第1ステップの効果を打ち消す現象が起きていることを示す。Fig. 2の(a)と(b)で観測された逆相関は量子干渉の世界初の明白な証拠である。

この反直観的な観測結果は,CO2分子中における電子のド・ブロイ波の量子干渉によるものと理解することが出来る。Fig. 2(c)にCO2分子と再結合直前の電子のド・ブロイ波を示す。1πgの価電子軌道をもつ二原子分子に対して量子干渉が起こる条件は次の式で与えられる。

λcosθ=nλ,(destructive) (1)

λcosθ=(.n-1/2)λ,(constructive) (2)

ここで,λは電子のド・ブロイ波長,Rは分子の原子核間距離,nは正の整数である。量子力学的な計算によると,CO2のイオン化速度はθ〜30°で最大になるが,destructiveな干渉によって同じくθ〜30°で再結合確率が著しく抑制される。実際,式(1)により23次高調波においてはdestructiveな干渉がθ〜30°で起こると予測される。CO2分子は2-point-emitter(この場合,2つのO原子)の間の距離が適切に伸びた系となっており,そのような強い量子干渉を起こすと考えることが出来る。他方,O2分子の場合には,価電子軌道がCO2分子と同じ対称性を持つにも拘らず,量子干渉は観測されなかった。O2分子の核間距離はCO2分子に比べて短いため,量子干渉はより短い電子波長,すなわち今回観測できた次数より高次の高調波で起こると予測される。

今回観測された量子干渉の著しい特徴は,1分子中で光の1周期以内で起こることである。この量子干渉効果を利用することにより,分子の瞬間的な構造(直線分子の場合には核間距離)を1フェムト秒の極限的短時間精度で調べるための全く新しい手法となりうる。私達はイオンと高次高調波の同時測定による分子構造の超高速トモグラフィーの手法を提案した。

配列分子中の高次高調波強度の楕円率依存性

次に,分子軌道の対称性や形状が高調波強度の楕円率依存性に与える影響を系統的に検討した。一般に,原子からの高調波強度は基本波の楕円率に強く依存する。楕円偏光した基本波中ではトンネルイオン化後の電子が親イオン近傍に戻って来ることが出来ないためである。媒質に分子を用いた場合には,この原子の場合と同様の効果に加え,分子軌道の対称性や形状の影響が高調波強度の楕円率依存性に現れると期待される。本研究では,非断熱的に配列した分子を用いることにより,分子軸と楕円偏光の主軸の向きが平行の時と垂直の時で楕円率依存性に顕著な差が現れることを世界で初めて明らかにした。

Fig. 3にCO2分子中の高調波強度の楕円率依存性を示す。Ti:sapphireレーザー光(ピーク強度 2×1014 W/cm2は一定)の楕円率を変えながら高調波の強度変化を測定した。分子軸と楕円偏光の主軸が垂直の場合(Fig. 3. perpendicular)よりも平行の場合(Fig. 3. parallel)の方が,楕円率の増大に伴って高調波の発生効率が急速に減少することが分かった。これは分子軌道が分子軸方向に伸びた形状をしていることの帰結である。N2,O2分子についても同様の結果が得られた。さらに,Lewensteinモデルを分子の場合に拡張することにより,実験結果を再現することに成功した。偏光ゲート法を用いた短パルス化や高次高調波の偏光状態の制御等への新しい応用が期待される。

まとめ

私達は配列した分子中における高次高調波発生を系統的に研究し,その物理を明らかにした。特に,配列したCO2分子を試料として用いることにより,高次高調波発生の再結合過程における量子干渉の明白な証拠を得ることに世界で初めて成功した。また,Lewensteinモデルを分子の場合に拡張し,観測された量子干渉を含む全ての実験結果を再現することに成功した。さらに,2原子分子に対して提案された2-point-emitterモデルを3原子分子に適用することにより,その物理的な解釈を得た。配列あるいは配向させた分子を試料とし,高次高調波とイオンを同時に観測するという独自の実験手法は,今後の当該分野の標準的手法になると期待される。また,分子軌道の対称性や形状が楕円率依存性にも影響を与えることを明らかにした。楕円率依存性の観測により分子軌道の情報を得ることが出来るばかりでなく,偏光ゲート法を用いた短パルス化や高次高調波の偏光状態の制御等への新しい応用が期待される。

Fig. 1. Time evolution of (a) the ion yield dominated by N2+ and (b) the 23rd harmonics from N2 molecules as a function of pump-probe delay. The polarizations of the pump and the probe pulses are parallel to each other. Note that the rotational period T of a N2 molecule is 8.4 ps. The results of theoretical calculations are shown by grey curves.

Fig. 2. Time evolution of(a) the ion yield dominated by CO2+ and (b) the 23rd harmonics from CO2 molecules as a function of pump-probe delay. Note that the rotational period T of a CO2 molecule is 42.7 ps. The results of theoretical calculations are shown by grey curves.(c) An illustration of the model of two point emitters. A CO2 molecule can be regarded as an appropriately elongated diatomic molecule. Two point emitters are located in two O nuclei. λ is the de Broglie wavelength of a free electron. θ is the orientation angle, that is, the angle between the molecular axis and the polarization direction of the probe pulse. R and R cosθare the distance between two O atoms and its projection, respectively. In the recombination process, the destructive or constructive interference takes place depending on the conditions (equations (1) and (2)) given in the text.

Fig. 3.(a)The 25th harmonic intensity from aligned CO2 molecules in parallel (squares) and perpendicular (circles) cases as a function of ellipticity ε of the fundamental pulse. Harmonic intensities are normalized to those at ε=0 (linear polarization). The results of theoretical calculations are shown by a broken curve for parallel case and a grey curve for perpendicular case, respectively. (b) An illustration of the two configurations used in the experiment. The ellipticity dependence depends on the angle between the molecular axis and the direction of the major axis of elliptical polarization.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,高次高調波発生過程における量子干渉現象を利用して,分子軌道の対称性や幾何学的形状の情報を得られることを,実験と理論の両面から検証したものであり,6章から構成されている.

第1章では高強度超短パルス光による高調波の発生と,そのメカニズムである3ステップモデル,それとは独立に発達してきた分子の配列(alignment)配向(orientation)の技術についてレヴューしている.第2,3章では,本研究の基礎となるレーザー電場による分子の配列,配向技術の原理について,理論的な考察を加えている.まず第2章では定常静電場と周波数が2倍異なる2つのレーザー電場を組み合わせた場合について一般的な取り扱いを示し,時間依存性のあるシュレディンガー方程式を解いて,断熱近似の範囲で,分子の感じるポテンシャルの角度依存性を求め,1から8Kの低温において,現実的なレーザー電場の元で,FCN分子の配列,配向が実現できることを定量的に示した.この部分は申請者の筆頭論文として公表されている.次に短パルス励起下における非断熱的な場合を考察し,一般的な表式を与えている.第3章では,分子トモグラフィー(断層撮影)という観点から,イオン化と高調波の発生について理論的に詳しく考察している.イオン化,電子の周回飛行,再結合という高調波発生過程の3ステップモデルの量子力学的な取り扱いとして広く受け入れられているLewensteinモデルに,分子軌道の対称性と波動関数の形状を正しく反映し,更に再結合直前に電子が親イオンのポテンシャルによって加速される効果も取り入れた改良型のモデルを提案している.

第4章では,N2,O2,CO2分子について実際に行った実験と,その結果について記述している.光源は再生増幅された波長800nm,時間幅50fsのパルスである.真空中にパルス的に放出された分子ガスに,第1のレーザー光パルス(ポンプ光)を照射すると,各分子は回転モーメントのインパルスを受け,初期の配列角度に応じて様々の角速度で回転運動を開始めるが,角速度が量子化されているために,集団としての分子の配列が,周期的に回復(revival)する.第2のパルス(プローブ光)によって発生する23次の高調波とイオンを観測することにより,分子の最低角速度に対応する回転周期(またはその1/4,1/8)に合わせて周期的に現れる信号を観測した.高調波とイオンの同時計測は,申請者の発案になる新しい実験手法であり,高く評価される.高調波とイオンの信号に同時刻にピークが現れることから,イオン化が高調波発生の第一ステップであることを直接的に証明した.さらに,イオンと高調波の増減の符号がCO2の場合のみ逆転しているという特異な現象を発見した.この事実から,再結合過程において,平面波で近似される電子波束と親原子に残っている束縛状態の分子軌道の波動関数が量子干渉を起こしており,符号が反転するのは分子軸が偏光方向に対してある特定の角度になったときに減算的干渉が起こり,遷移確率が下がるためであることを突き止めた.逆にこれを利用すれば,波動関数の対称性や核間距離を求めることができ,トモグラフィーの一つの手段となることが示された.この成果は,申請者筆頭の論文として公表済みである.第5章では,楕円偏光したプローブ光を用いて,波動関数の広がりの大きさを求める手法を提案している.直線偏光を用いる場合,電子はイオンを飛び出してからレーザー電場によって直線的に加速され,再び正確に親イオンの場所に戻って来て再結合するが,楕円偏光の場合は,ずれた位置に戻るので,再結合の確率が低くなることが原子の場合に知られている.N2分子についてこの効果を調べたところ,分子軸に平行方向と垂直方向で差があることを見出した.これを利用すれば,高調波強度の楕円偏光度依存性から波動関数の広がりの大きさを推定することが可能となる.このことをO2およびCO2についても実験的に示した.また,N2分子の場合は,分子軸に垂直方向で量子干渉により31次高調波の発生効率が下がることを見出し,減算的量子干渉の効果であると結論した.上記2つの例によって,電子波束の量子干渉効果を明確に示した成果は画期的であり,当該分野に於いて注目を浴びている.第6章は以上のまとめである.

本研究のテーマは,酒井研究室で継続的に行われてきた分子の配列配向技術を基盤として行われたものであり,複数の共同研究者が関与しているが、第2章の断熱的な場合の理論的取り扱いおよび第3章のLewensteinモデルの改良は,本人が中心になって行ったものである.また,第4章,5章に関しては,実験から解析までほとんど申請者自身の判断のもとで行われており,随所に本人の独創的な発想が盛り込まれている.

以上の理由により提出された論文は,博士(理学)の学位を授与するにふさわしいものであると,審査委員全員の一致によって判断した.

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