学位論文要旨



No 121237
著者(漢字) 應本,真
著者(英字)
著者(カナ) オウモト,マコト
標題(和) 味覚情報伝達機構の解析 : 味蕾細胞の遺伝子発現プロファイリングと味覚神経回路の可視化を基盤として
標題(洋)
報告番号 121237
報告番号 甲21237
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2950号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 教授 佐藤,隆一郎
 理化学研究所 チームリーダー 吉原,良浩
 東京大学 講師 三坂,巧
内容要旨 要旨を表示する

序章

食品の味は、食品中の呈味物質が主に舌上皮に分布する味蕾中の味細胞により受容され、その情報が神経系へと伝えられ、脳に達して認識される。味蕾細胞は上皮系の細胞系譜に属し、1個の味蕾を構成する約100個の細胞は10〜14日の周期でターンオーバーしているため、多様な細胞齢の細胞が存在する。また、近年の味覚レセプターの研究から、哺乳類では甘味・旨味・苦味を受容する細胞が異なることが明らかにされ、機能的側面においても味蕾細胞の多様性が明確となった。しかし、味蕾を構成するこれら多様な細胞について、味細胞以外の細胞の役割は何なのか、どのようにして細胞の多様性が生じるのかなど不明な事柄が多い。また、味蕾細胞がターンオーバーを繰り返すことから、味蕾細胞と味神経との間ではシナプスの形成と消失が繰り返されていると想定されるが、この末梢の回路が再現的に構築されるのか、無秩序に形成されるのかなど、味情報を中枢へと伝達していく回路の形成過程も不明である。

本研究は、味細胞により受容された情報がどのように神経系へと伝達されるのか、また、それらの情報は神経伝達経路においてどのように分離・統合されるのかを明らかにしようと試みたものである。第1章では、味蕾細胞の遺伝子発現情報から味細胞の再分極を担う細胞内シグナル伝達因子を同定し、シグナル伝達系の構築を細胞齢と関連づけて解析した。第2章では、味細胞での発現に関与するような遺伝子発現制御領域を解析した。第3章では、経シナプストレーサーを用いた発生工学的手法により味の情報伝達経路を解析した。

第1章

当研究室では味蕾を含む有郭乳頭上皮(Cvp-whole)のDNAマイクロアレイ解析を行い、乳頭を含まない上皮(Np-Epi)と比較することにより味蕾特異的発現を示す遺伝子の探索を行ってきた。Cvp-wholeでの発現がNp-Epiよりも顕著に大きい約40遺伝子の発現をin situ hybridization (ISH)で解析した結果、約7割の遺伝子は有郭乳頭の味蕾以外の上皮(Cvp-Epi)に発現していた。この結果は、舌上皮では、Np-Epi, Cvp-Epi, 味蕾という3つの組織において遺伝子発現が異なることを示唆しており、味蕾特異的遺伝子を同定するためには味蕾自身の遺伝子発現情報を取得し、他の2組織との比較解析を行うことが必要であると考えられた。そこで、DNAマイクロアレイを用い、有郭乳頭から単離した味蕾(TB)、Cvp-Epi, Np-Epiについてそれぞれ遺伝子発現情報を取得した(各n=6)。遺伝子発現像全体を対象にした組織間のピアソン相関係数は、Cvp-EpiとNp-Epiで0.966であるのに対し、これら2者とTBとでは0.86未満であり、TBは味蕾以外の上皮組織とは大きく遺伝子発現パターンが異なることが確かめられた。統計学的にTBでの発現量が有意に高い遺伝子は5,729個あり、既知の味蕾特異的遺伝子の殆どがこの中に含まれていた。したがって、これらの解析データは味蕾の特性を規定する因子に関するデータベースになり得ると考えられた。

次に、こうして得られた遺伝子発現情報に基づき、味蕾に発現する新規遺伝子の探索を行った。味細胞は呈味物質を受容後、膜電位変化(脱分極)を起こすと考えられている。この過程に関わる遺伝子の多くは同定されているが、味細胞の脱分極を解消(再分極)させる分子の存在は不明である。そこで、TBの遺伝子発現データベースに含まれる電位依存性カリウム(Kv)チャネルのうち、発現量が大きいものから3種(KCNQ1, KCNH2, KCNH3)を選択し、ISHにより味蕾での発現様式を解析した。その結果、これらの遺伝子はいずれも有郭乳頭の舌上皮層においては味蕾にのみ発現していることが明らかとなった。既知の味細胞特異的遺伝子との発現相関を調べたところ、味細胞にはこれら3種のKvチャネル全てを発現する細胞とKCNQ1のみを発現する細胞の2種が存在すること、また、この発現様式は受容する味質の特性とは相関性がないことが明らかとなった。そこで、味細胞の一部でのみ発現が観察されたKCNH2および苦味受容細胞に発現するgustducinについて、ブロモデオキシウリジン(BrdU)を用いた発現時期の解析を行った。これら両遺伝子は、BrdU投与後3日目までいずれも発現細胞数は増加していたが、味蕾あたりの発現頻度は同程度であるにも関わらず、gustducinに比べKCNH2の方が発現細胞数は多かった。また、gustducinの発現細胞数はBrdU投与後4日目以降も増加するが、KCNH2は3日から4日を境に陽性細胞数は減少した。これらのことから、KCNH2, KCNH3を発現する味細胞は比較的若い細胞であり、細胞齢が高くなると味細胞はKCNH2, KCNH3の発現を停止し、KCNQ1のみを発現することが示唆された。

第2章

味蕾中の約30% の細胞はホスホリパーゼC-β2 (PLC-β2)を発現している。近年同定された7回膜貫通型の味覚レセプター(T1Rs, T2Rs)は、いずれもPLC-β2発現細胞に発現しており、PLC-β2はこれらレセプターの下流因子として必要不可欠な分子であることが明らかにされた。組織や細胞種特異的な遺伝子のエンハンサー/プロモーターは、遺伝子工学的解析に非常に有効かつ重要であるが、本研究開始当初は味覚レセプターの一部が同定されていたに過ぎず、味細胞での発現に関与するような遺伝子発現制御領域を取得する対象としては、PLC-β2が最適であると考えられた。そこでPLC-β2遺伝子の味細胞での発現に関与するような転写御領域の解析を行った。マウスとヒトのPLC-β2遺伝子の5'上流域を比較したところ、マウスPLC-β2遺伝子の5'上流5.5 kbまでに相同性の高い領域が計7カ所(開始メチオニンに近い側からH1からH7と命名)存在した。H7と上流13.5 kb付近に存在する相同性の高い領域H8との間には他の転写産物が2つ存在することから、H7までの領域にPLC-β2のエンハンサー/プロモーター領域が存在すると予想し、当研究室で確立した味蕾の初代培養細胞への発現系を用いてGFPをレポーターとしたエンハンサー/プロモーターアッセイを行った。その結果、H1からH5を含む4 kbの範囲に味細胞特異的発現を誘導する転写制御領域があること、H1からH3を含む上流1.8 kbまでを用いると味細胞特異的発現の頻度が低下することが判明し、開始メチオニンから上流約4 kbが外来遺伝子の味細胞特異的な発現誘導に有効であると判断した。

第3章 経シナプストレーサーを用いた味覚神経回路の可視化

味蕾が受容した呈味物質の情報は末梢感覚神経を経て、延髄弧束核(NST)、橋結合腕傍核(PBN)などを経由し、大脳皮質へと伝達される。味蕾内では甘味物質と苦味物質は異なる細胞で受容され、PBNにおいてもこれらの情報を中継する神経細胞は異なることが示唆されている。しかし、味蕾からPBNへ至る途上、およびPBNより上流の中枢神経核において、末梢で分離されていた味情報が分離したまま伝達されるのか、あるいはどこかで統合されるのかは不明である。そこで、本章では味細胞特異的発現を誘導するエンハンサー/プロモーターおよび経シナプストレーサー(小麦胚芽レクチン、WGA)を用い、味覚情報の神経伝達経路の可視化を試みた。第2章で同定した転写制御領域を含むPLC-β2および本研究途上に報告された甘味・旨味レセプターT1R3の5'上流域をそれぞれ約7 kbおよび12 kbに、WGAとGFPをbicistronicに発現させるような遺伝子を連結した遺伝子(それぞれPLCβ2-WiG, T1R3-WiGとする)をもつようなトランスジェニックマウスを作製した。トランスジーンをヘテロに有するトランスジェニックマウスとして、PLCβ2-WiGは2系統(M3およびM4)、T1R3-WiGは1系統(M1)を獲得することができた。免疫組織化学的解析の結果、PLCβ2-WiG M3系マウスではPLC-β2タンパク質のシグナルが観察された一部の細胞でのみGFP蛍光が観察されたが、もう一方のM4系マウスではGFP蛍光とPLC-β2タンパク質のシグナルが、T1R3-WiG M1系マウスではGFP蛍光とT1R3タンパク質のシグナルがほぼ一致していた。しかし、いずれの系統のトランスジェニックマウスにおいても、味蕾においてはWGAタンパク質のシグナルは見られるものの、味神経細胞を含む神経節ではWGAタンパク質の明確なシグナルは検出されなかった。

次に、外来遺伝子がbicistronicであることによるmRNAの不安定化や蛍光タンパク質によるWGAタンパク質発現への負の制御の可能性などを考慮し、T1R3遺伝子の発現制御領域にWGAのみが発現するような遺伝子を導入したトランスジェニックマウスを作製した。現在までにトランスジーンをヘテロに有するマウス3系統を確立し、これら全ての系統の味蕾においてT1R3 mRNAとWGA mRNAの発現がほぼ一致することを確認した。WGAタンパク質に対する免疫組織染色を行った結果、味蕾においてはISHによるmRNAのシグナルよりも高頻度でシグナルが観察され、味神経細胞体が存在する神経節において、各神経節中の一部の細胞でWGAタンパク質のシグナルが検出された。これらのことから、T1R3発現細胞から味神経への神経伝導路が可視化できたことが示され、味蕾中のWGAタンパク質の分布頻度の高さは、味蕾細胞に投射している末梢感覚神経繊維終末におけるシグナルが含まれているためと考えられた。WGAタンパク質のシグナルは味神経と連絡するNSTでも検出されたが、NSTの次の中継核であるPBNやそれより上流の神経核では検出されなかった。以上のように、WGAを用いて呈味物質受容細胞から中枢神経系中継核までの甘味・旨味情報伝導路を可視化することに成功した。

まとめ

食品の「味」の情報の受容伝達機構の一端を明らかにしようとした本研究では、まず、味蕾の遺伝子発現プロフィールの解析を行い、味蕾の特性と密接に関わる遺伝子の発現情報データベースを作製した。ここには、味蕾を構成する様々な細胞の分化や死・成熟期の機能に関する分子知見などが含まれており、新たな研究の端緒を与えるものとなりうる。また、WGAを用いて、中枢神経系までの味覚情報伝導路を可視化できるトランスジェニックマウスを作製した。味蕾において神経繊維とシナプスを形成している細胞はPLC-β2を発現する味細胞ではないという報告や味細胞以外の細胞による神経伝達物質の放出などが報告されており、味細胞から味神経への情報の伝達がシナプスを介した直接的なものなのか、また味蕾中の他の細胞も関与するのかなど、見解が分かれている。本研究で作製したマウスを用いてWGAの輸送経路を精査することで、末梢部における味覚情報伝達回路を明らかにできると期待される。

審査要旨 要旨を表示する

我々は様々な味を感覚として認識しており、この感覚を味覚と呼ぶ。味覚が生じる過程は、末梢感覚組織である味蕾中の味細胞による呈味物質の受容から始まり、その情報が末梢感覚神経である味神経、さらに中枢へと伝達され、大脳辺縁系へと到達して認識されるまで、様々な細胞間の情報伝達の過程である。近年、味細胞の味覚レセプターや細胞内シグナリング系の解明など、味の受容機構の解明には著しい発展がみられている反面、味蕾を構成する多様な細胞について、味細胞以外の細胞の役割は何なのか、どのようにして細胞の多様性が生じるのかなど、不明な事柄が多い。また、味の情報がどのように神経系へ伝達され、神経伝達経路においてどのように分離・統合されるのかなど、味の情報伝達に関してはほとんど何も分かっていない。本論文は、味蕾と味神経に関する分子知見を取得すること、そのために未だ同定されていない味神経細胞を同定すること、そして味のコーディング機構を解明することを目指して行われたものであり、3章から構成される。

第1章では、味蕾細胞の遺伝子発現プロファイリングを行った結果が述べられている。まず、味蕾に発現する分子知見を得るため、味蕾細胞のDNAマイクロアレイ解析を行った。有郭乳頭上皮および非乳頭舌上皮のDNAマイクロアレイデータと味蕾細胞のそれと比較することにより、味蕾における発現量が上皮組織と統計学的有意に異なる遺伝子群を抽出した。こうして得られた味蕾細胞の遺伝子発現データは、その中に既知の味蕾特異的遺伝子の大多数が含まれていることから、味蕾特異的遺伝子を検索する際の基盤となるデータベースとして非常に有効であることが示唆された。さらに、このデータベースを基に、味細胞の再分極を担う候補分子である電位依存性カリウム(Kv)チャネルをコードする3遺伝子を同定した。また、その過程において、味細胞が発現するKvチャネルの種類が細胞齢と相関して異なることを明らかにした。

第2章では、味蕾の初代培養細胞を用いて、味細胞特異的発現に関与するPLC-β2遺伝子の5'上流域を解析した結果が述べられている。PLC-β2は味覚レセプターT1Rs発現細胞およびT2Rs発現細胞に発現しており、PLC-β2遺伝子の転写制御領域を取得することは、味細胞全体を対象とした遺伝子工学的解析を可能にすると期待される。ヒトおよびマウスのPLC-β2遺伝子の構造を比較し、開始メチオニンより5'上流約5 kbの範囲に保存性の高い領域が存在することを見出した。次いで、味蕾の初代培養細胞を用いたエンハンサー/プロモーターアッセイにより、マウスPLC-β2遺伝子の開始メチオニンより5'上流約5 kbは、味細胞特異的発現を誘導することを明らかにした。

第3章では、経シナプストレーサーとして機能する小麦胚芽レクチン(WGA)を用いた味覚神経回路の可視化を試みた結果が述べられている。味神経細胞の同定および味覚情報のコーディング機構解明の第一歩として行われたものである。始めに、甘味/旨味/苦味受容細胞すべてに発現するPLC-β2遺伝子およびすべての甘味/旨味受容細胞に発現するT1R3遺伝子の転写制御領域を用い、WGAにより味細胞からの味覚情報の伝達経路を標識するトランスジェニックマウスをそれぞれ作製することを試みた。味蕾内における外来遺伝子の発現を容易にするため、蛍光タンパク質GFPを共発現するトランスジーン(WGA-ires-GFP)が導入されたトランスジェニックマウスでは、味蕾においては内在遺伝子が発現する細胞にGFPおよびWGAが検出されたものの、神経系におけるWGAの存在を検出することはできなかった。そこで、共発現する蛍光タンパク質がWGAの発現を低減させている可能性を考慮し、甘味/旨味受容細胞にWGAのみを発現させるようなT1R3-WGAトランスジェニックマウスを作製した結果、味細胞におけるWGAの発現量がおよそ2桁増大した。これらのマウスでは、味神経が存在する感覚性脳神経節および最も末梢側に存在する中枢神経系味覚情報中継核である延髄孤束核までWGAが輸送されている様子が観察された。その結果、これまで全く実体が不明であった味神経細胞を同定することが可能となった。また、甘味/旨味受容細胞から延髄弧束核までの味覚伝達経路が可視化できたことにより、これらの組織における味覚情報の伝達機構解明の非常に有用な実験動物が得られたことになる。

以上、味蕾細胞の遺伝子発現プロファイリングと味覚神経回路の可視化を基盤とした本論文は、味覚研究に新たな展望を与えるものであり、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク